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価値と反価値 ~人間の差異と秩序~

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価値と反価値 ~人間の差異と秩序~

和田徹也

目次

1.問題提起

2.既存の価値の論理はどのように形成されるか

①拡がりの確証と目的社会  ②組織の目的と全体の価値

3.既存の価値の論理はどのように維持されるか

①人間の自由と社会の強制力の根拠  ②拡がりの確証の目標としての「物」   ③「物」による支配

4.人間の差異と価値

①拡がりの確証と人間の差異  ②分割の論理と人間の身分的差異  ③創造の論理と人間の自然的差異

5.既存社会における新たな価値の論理の定立

①価値の置き換えと価値の転倒  ②価値の置き換えと物による支配  ③反価値の典型としての価値の転倒

6.価値と反価値及び分割の論理と創造の論理の調和

参考文献

 

1.問題提起

人間はある目的を達成するために集団・社会を自発的に形成します。人間の歴史は、この、ある目的を達成するための社会、すなわち目的社会が次から次へと生まれてきた過程であると表現することができるのです。

この目的社会は、多くの制度・規範からなり、人々はその制度や規範に自主的に従い、目的社会は維持されています。組織化され、効率的に分業が行われ、目的社会の目的を実現しているのです。営利企業、国家、地方自治体、町内会、趣味のサークル、スポーツクラブ、その他様々な目的社会、組織が存在しています。

これらの社会・組織の構成員は、皆一定の方向に価値を置いています。以前論じたように、「価値」とは、誰もが求めるものであって、比較がその本質を成すものです(「価値とは何か」参照)。組織の目的に大きな価値を置き、そのより大きな価値を皆が目指すことによって秩序を乱す誘惑や衝動を打ち破り、皆の行為が一定の方向にまとまっていくのです。

ところが、この目的社会で皆が一定の方向に向くとき、必ずそれに逆行するような論理を立てる人が常に出てきます。それが実際の組織の現実です。例えば、ある企業のある事業部で皆が朝早く来て頑張っているのに、全員が朝早く来ても時間の無駄だからやめるべきだとか言う人が出てくるのです。また、目標を設定して皆が努力している時に、元々そんな目標を実現するのは無理だから別の目標を立てるべきとか言う人間が必ず出てくるのです。

社会や組織の中で、皆が一定の方向を向いているときに、皆が求める価値を否定あるいは無意味とする主張、すなわち「反価値」の論理の主張は、組織を構成する人達のやる気を阻害し、目的社会の目標達成に対し大きな障害となります。したがって、それを排除しなければなりません。しかしながら、これを、権力をもって行うだけでは不十分なのです。何故なら、このような反価値の論理・思想は、社会や組織の内部の、人と人とのコミュニケーションの根底で、潜行しながらじわじわと既存の価値観を侵食していく思考形態だからです。

このような反価値の論理を是正させることは、組織論での大きな課題です。反価値の論理は既存の秩序を破壊するのであって、組織は秩序を維持しなければ成り立たないからです。リーダーシップ論、マネジメント論、これらの議論の根底には、この反価値の論理をいかに是正するかという問題意識が常にあるのです。

さて、以上申し上げたことは、組織の目的達成を阻害する反価値の論理の悪い側面ですが、反価値の論理は組織を結果的に良い方向へ導くこともあります。例えば、いわゆるイノベーションというものも、その根元は反価値の論理なのではないでしょうか。既存の価値の論理を否定し、新たな論理を形成するのがイノベーションなのではないでしょうか。ただ結果的に良い方向へ向けている点が、最初の悪い例と異なるだけなのです。

そこで今回は、まず、社会の中で既存の価値はどのような仕組みで形成されどのように維持されているのかを検討したいと思います。それを踏まえた上で、このような既存の価値を否定する反価値の思考形態がどのように生ずるのか、反価値の論理の形成の構造について考えてみたいと思います。そして、個々の人間の集合である社会の秩序はどのように維持されているのか、その構造を明らかにしたいと思います。

 

2.既存の価値の論理はどのように形成されるか

①拡がりの確証と目的社会

人間は他者に言葉を投げかけ続けるものです。人間にとって、言葉を他者に投げかけることそれ自体が生きる目的なのです。もちろん、言葉は人間が生きるための手段としての機能もあります。例えば、お腹が空いたのでお店でパンをくださいと店員さんに言葉を発する、これは生きるための手段と言えるでしょう。しかしそれだけではないのです。私たちの日常の雑多な会話を思い出すまでもなく、他者に言葉をかけることそれ自体が生きる目的である、これが人間の言語行為の本質なのです(「言葉とは何だろう」参照)。

他者に言葉を投げかけ続ける主体としての人間、より多くの他者に言葉を投げかけようとする主体としての人間、これを私は「拡がる自我」と表現しました(「拡がる自我」参照)。拡がる自我はより広くより多くの他者に言葉を投げかけ、注目を浴びたいので言葉の意味はその間口を広くするため曖昧となり、一般的かつ象徴的となります。この言葉の曖昧さを整理し道筋を立てるのが論理です(「論理とは何か」参照)。

拡がる自我は、他者に言葉と論理を投げかけて他者に拡がる存在であって、投げかけた言葉と論理の意味を共有することによって生きていることを実感しようとするのです。ここに意味とは言葉に対する主体の把握の仕方です(時枝誠記「国語学原論」)。そして、この拡がる自我が言葉と論理の意味を他者と共有して、生きているということを実感することを「拡がりの確証」と表現したわけです(「拡がりの確証と組織文化の本質」参照)。

さて、個々の拡がる自我が、他者に出会う度ごとに、新たに拡がりの確証の論理を設定していくことは、実は、困難です。他者が必ずその論理に注目するという確信を持てないからです。他者から注目される論理は、予め存在する他者との何らかの関係をもとにして打ち立てる方が数段容易であり、新たな関係を作るあるいは見出すのは意外と手間がかかるのです。現実社会を見れば明らかなとおり、人は生まれてから何らかの社会・組織に必ず所属します。実は、この既存の社会・組織こそ、他者への拡がりの確証を得るための、既存の論理体系となっているのです(「拡がりの確証と組織文化の本質」参照)。

この既存の社会・組織を検討するにあたっては、人の集まりである「社会」を類型化すると考えやすくなります。この論文では、人間の社会を全体社会と目的社会に分類して考えて行こうと思ったわけです。

「全体社会」とは、一定の地域をもって限られ自ら一集団をなすと意識し、内部にほとんど一切の社会的結合関係を包括するような社会のことです。この全体社会の中で、人間は歴史上次から次へと目的社会を作り上げてきたわけです。

「目的社会」とは、冒頭でも申しあげたとおり、ある一定の目的を達成するために形成された社会であり、目標を設定することにより個々の構成員がその目標を根拠にして、他者に向かって言葉と論理を投げかけ、他者とその意味を共有することを実現する場となる集団です。

個々の人間、言い換えれば個々の拡がる自我は、拡がりの確証の論理を、この目的社会の論理に合致させることを基本に置いて、他者への拡がりの確証を実現してきたと言えるのです。目的社会に参加することによって、人間は既存の価値を利用して他者に言葉と論理を投げかけ、様々な意味を共有して拡がりの確証を得ながら生き続けることができるのです。

さて、このような目的社会は、その動的な性質と、その社会の内部に注目した場合、組織と言い換えることができます。「組織」とは二人以上の人々の意識的に調整された活動や諸力の体系です(バーナード「経営者の役割」)。組織は次の3つの要素があるとき、すなわち、①相互に意思を伝達できる人々がおり、②それらの人々が行為を貢献しようとする意欲を持って、③共通目的の達成を目指す時に、成立します(「拡がりの確証と組織文化の本質」参照)。

 

②組織の目的と全体の価値

さて、以前私は、組織を維持するためには「全体の価値」が必要だと申し上げました。全体の価値は組織を逸脱しようとする誘惑や衝動を打ち消すより高い価値を持つものでした。組織を構成する個々の人間の組織での立ち位置を明確にするもので、これから始まる個々の行為の出発点となる性格を持つものでした。したがって、組織の構成員は全体の価値を求めざるを得ないのです(「価値とは何か」参照)。

冒頭でも申し上げたとおり、社会組織の構成員は皆一定の方向に価値を置いています。言い換えれば、全体の価値は必ずある一定の方向に向く性質をもつのです。なぜなら、組織自体が一定の共通目的を持つからです。全体の価値はこの目的と切っても切れない関係にあります。一定の方向を向くからこそ全体の価値が形成されるのです。

では、この一定の方向はどのように定まるのでしょうか。

既存の目的社会も必ず目的があり、その社会ができた当時は、その目的を達成するために個々の拡がる自我が集合してできたと考えられます。お互い共通の目的があるからこそ、それを達成しようと個々の人間が集合して目的社会ができ、組織ができたわけです。新しい商売を始める、新しい製品を製造する、同じ趣味の者同士が意見を交わす等々、様々な目的が考えられるでしょう。

ここで重要なことは、先ほど申し上げたとおり、個々の拡がる自我は、他者と出会うたびごとに新たな拡がりの確証の論理を作るのが大変なので、既存の拡がりの確証の論理を利用しようとすることです。すなわち、個々の拡がる自我が、他者と出会うたびごとに独自に拡がりの確証のための論理を新たに形成するのではなく、既存の目的社会の論理を利用しようとするのです。ここに組織の全体の価値の成立基盤の一つがあるのです。

そこで、このようにできた目的社会はそれに参加する人が増えて大きくなります。特に生産活動にかかわる経済主体としての目的社会は、生きていくためには誰もが生産活動をしなければならない以上、既存の組織の全体の価値を利用して拡がりの確証のための論理を構築しつつ生産活動を行う参加者が増え、全体社会の中で確固たる地位を確立します。全体社会の中の集団すなわち目的社会は、その多くが生産活動に関係するものとなってくるのです。ただ、その本質は、あくまで、集団を構成する個々の拡がる自我が、拡がりの確証を得るための目的社会であると私は考えたいのです。

 

3.既存の価値の論理はどのように維持されるか

①人間の自由と社会の強制力の根拠

さて、このように大きくなった目的社会は、多数の人間から構成され、冒頭で申し上げたとおり、皆が一定の方向を向くことが困難になってきます。既存の目的社会の論理を利用しようとして人が集まったのにもかかわらず、既存の論理から逸脱しようとする、反価値を主張しようとする、このような事態がなぜ生じてしまうのか、この論文ではこの問題を考えていきたいと思います。

そこでその前提として、まずこの目的社会の組織を一定の方向に向けるための全体の価値がどのように維持されていくのかを考えてみましょう。

人数が少ない場合は、単に組織の直接的な目標を掲げればよいでしょう。しかし人数が多くなるとそうはいかなくなります。また、組織の外部との接触も増えていくでしょう。その場合組織を乱す誘惑も増えていきます。

世の中には無数の目的社会があり、その目的社会は様々な制度や決まりで維持されています。そのような規範、組織の秩序を維持する規範は、組織の構成員がほとんど自主的に従っているものです。ではどのような仕組みで皆自主的に従うのでしょうか。

まず、議論の前提として、自主性という概念の基礎となる自由という概念について考えてみましょう。私は、「自由」とは、拡がる自我が拡がりの確証のための論理を他者から強制されずに自ら設定することだと考えます。もちろん、常に自由に拡がりの確証の論理を打ち立てることはできません。他者も拡がりの確証のための論理を自由に設定するのであり、この論理同士がぶつかり合って自由でなくなる場合が生じてしまうとも考えられるからです。

それでは、そもそも論理同士のぶつかり合いとは何でしょうか。論理とは、曖昧かつ象徴的な言葉で他者の注目を集めた後、自分の言いたい特定の事を導く考え方の筋道でした。あくまで他者との意味の共有を目指すものだったわけです。したがって、意味の共有である以上、本来は、論理をめぐる拡がる自我同士のぶつかり合いは有り得ないということになるはずです。

しかし、論理はぶつかり合い、争いが生じるのが現実なのです。その理由は、論理の共有の他者に対する期待にあります。言葉は曖昧多義的なので、他者も拡がりの確証の言葉を求めている以上、同じ方向を向いている他者にすぐ注目されます。その時点では争いは無いでしょう。しかしその言葉に他の言葉が結びつき論理が生じると、自分の構築した、より具体的な意味の共有を他者に期待することになるのです。その期待に反したときにぶつかり合いが生じるのです。

拡がる自我同士がぶつかり合い、争いが生じると、秩序が維持されません。「秩序」とは、何らかの事象を構成する諸々の要素の関係に一定の型、規則性があり、要素の一部のあり方を知れば他の諸要素のあり方について可測性が存在する関係ないし事態のことです(加藤新平「法哲学概論」307頁)。可測性があるからこそ、個々の人間、すなわち拡がる自我は、他者に対し拡がりの確証のための論理を投げかけることができるのです。すなわち、秩序が維持されないと、自由意思を前提とする拡がりの確証を実現することができなくなるわけです。そこで、個々の拡がる自我相互を調整する必要が出てきます。自由を制限する強制力をどのように説明するかがここで問題となってくるわけです。

私はこの強制力の根拠に関する問題を、個々の拡がる自我が、自ら打ち立てた拡がりの確証の論理に従わざるを得ないということを出発点として説明したいと考えています。

まず、一旦は自由に拡がりの確証のための論理を打ち立てるわけですが、このことが意味するのは、論理を打ち立てた以上、自分自身がその論理に束縛されるということを意味するということです。なぜなら、他者とその論理の意味を共有する必要があるからです。他者と意味を共有するには他者と論理を合わせる必要があります。この、他者に合わせる必要性、これが重要なのです。他者と合わせるために自分も自ら打ち立てた論理に拘束されるということなのです。

拡がる自我は他者と意味を共有して拡がりを確証するため、常に他者に言葉と論理を投げかけています。この投げかけた論理は、他者と意味を共有することが最終目的なので、自分自身もその論理に拘束されるわけです。そして、既存の論理を利用して拡がりの確証を得ようとする場合も、出発点としては、当然その論理に自分も拘束されるのです。既存の論理を、拡がりの確証のために自ら選択したわけなので、当然に拘束されるのです。社会の強制力はこれを根拠に成立するわけです。

 

②拡がりの確証の目標としての「物」

打ち立てた論理に自らが拘束される、ここで重要になってくるのが、物神性とか物象化とか言われるところの「物」なのです。物は物理的存在として客観的に存在するものです。ここに、客観的とは、誰もがその存在とその意味を認めることができるという性質です。

ここで言う「物」は拡がりの確証のための論理の可視化であると言えます。目に見えるからこそ、一定の方向の価値が明確になるのです。物化した論理は、誰もがその存在、すなわち規範を認め、秩序が維持されるのです。このことは、拡がる自我が拡がりの確証を得るためには不可欠であると言えるのです。

誰もがその存在を認める、客観的な存在があれば、それを根拠にして安心して拡がりの確証の論理を他者に投げかけることができるのです。したがって、その物の論理に自発的に従うようになります。拡がりの確証を得るための灯台としての機能をその物が果たすわけです。

この客観的な物の代表は、貨幣でしょう。貨幣、言い換えれば、物的存在である硬貨や紙幣等の金銭を根拠にして新たな拡がりの確証を打ち立てるのが拡がる自我、すなわち人間なのです。自分の仕事の成果としての商品の価格、自分の組織内での地位を表現する賃金の額、自分の社会的地位の表現としての住宅等の資産の価格、貨幣に対しては誰もが平等です。客観的な価値があり、安心して拡がりの確証のための論拠とすることができるのです。

物に各個人は様々な論理を読み取り、投影します。拡がりの確証のための論理自体は主観的なものであり、善を目指すことにより他者と論理を共有し、拡がりの確証を得るのですが、他者と善を共有するために客観的な存在である物を媒介として論理を構築しようとするのが拡がる自我なのです。拡がる自我は誰もが拡がりの確証を得るために「物」を求め続けているのです。

 

③「物」による支配

②で論じた「物」は、さらに、他者からの支配を自発的な、自由に基づくものに転換する機能があります。支配とは、優越的な地位にある者が下位者に対して、特定の行為の実行を要求し、下位者は自分の好むと好まざるとにかかわらず実行せざるを得ない持続的な関係である、と定義できます。以前申し上げたとおり、支配という言葉は、被支配者の反発を前提とした言葉なのです(「管理と支配の間にあるもの」参照)。

自発的なものとは、他者の支配の下に置かれないということです。自らが認めた客観的に存在する物に従って行為する、それが第三者から見て支配被支配の関係であっても、本人にとってはそうではない、これが「物による支配」です。強制的に他者の拡がりの確証のための論理に従わされることは、他者に支配されるという意識を生みますが、自ら認めた客観的存在である物が意味する論理に従うということは、他者の支配の下にあるとは言えないのです。

このことは組織での目標達成のために多大な効果を生みます。組織では指揮命令系統の形成が不可欠ですが、それを直接人間と人間の間で行うのではなく、物を媒介として行うのです。他者の指揮命令に従うのではなく、物に従うことによって、一定の目標に向かうようにするのです。実は、実務でよく言われる、“組織を作る”とは、この、「物」を作ることだと言えるのです。

 

4.人間の差異と価値

①拡がりの確証と人間の差異

目的社会の既存の価値の中で、構成員である拡がる自我は、拡がりの確証を得ようとします。そして他者に拡がりの確証のための論理を投げかけるのであり、その論理は一定の方向の価値を持つものなのです。拡がる自我が集合した目的社会は価値があるからこそ維持されているのです。

何度も申し上げるとおり、価値とは誰もが求めるものであって、比較がその本質にあるものです。比較がその本質にあることは、誰もが同じ方向に向いて活動し、その行為と成果を意識し、互いに優劣を争う、結局こういうことになるわけです。争う、すなわち競争することは、結果の差を意識し、人間の差異を明確にすることになります。価値とは元々こういう性質があるのです。

以前論じたとおり、目的社会における拡がりの確証のための論理では、分割の論理と創造の論理が支配します。分割の論理は出発点の人間の差異、簡単に言えば身分を明らかにすることによって他者の注目を集めるものであり、創造の論理は人間の行為における差異、すなわち能力差を明らかにすることによって他者の注目を集めるものであると言えるのです。以下この二つを分けて論じましょう。

 

②分割の論理と人間の身分的差異

分割の論理が正当化されている根拠は何でしょうか。

そもそも分割の論理は、その拡がる自我すなわち個々の人間が所属する社会で占める地位を根拠にして他者の注目を得るものです。地位の格差すなわち人間の差異を前提としているのです。差異があるからこそ他者に注目されるという性格があるのです。

では、この分割の論理における人間の差異の特質は何でしょうか。それは身分という言葉に代表されますが、人間それ自体としては均一であるにもかかわらず、その組織内での上下の秩序で差があったり、社会制度である財産によって差が維持されてたりしていることです。人間そのものではなく、外部の制度によって身分的差異が形成されていることがその特徴です。

ではこのような個人間の差異はどうして維持されているのでしょうか。それはその集団がまとまるための全体の価値があるからです。全体の価値に維持されている集団は必ず役割分担があり、その役割は互いの役割期待に応える義務から成り立っています。各人が役割を果たして初めて集団の秩序が維持されるのであり、そこで初めて各人の拡がりの確証が満たされるのです。先に述べたとおり(3①)、拡がりの確証を目指している個々の拡がる自我は、自ら打ち立てた拡がりの確証の論理に従わざるを得ず、大抵は既存の社会の秩序を利用せざるを得ない以上、参加した既存社会での出発点の人間の身分的差異を認めざるを得ないのです。

ただ、この出発点の人間の差異は、常に反発そして崩壊の危機にさらされています。なぜなら拡がる自我は常に他者に対して拡がりの確証を求めるものであり、拡がりの確証は他者との意味の共有であり、意味とは言葉に対する主体の把握の仕方であって主体の自由を前提とするからです。出発点の差異は、主体の自由な拡がりの確証の論理の設定を制約するものであり、このような拡がりの確証に対する制約の撤廃を、拡がる自我は常に求めているからです。後で③で申し上げるとおり、特に創造の論理に対し身分的差異は大きな制約となります。拡がりの確証の論理を設定するために、出発点の自由と平等を主張するのが個々の拡がる自我なのです。

したがって、この差異を正当化する全体の価値が、各自の拡がりの確証の論理の設定の自由の価値よりも高くなければならないことになります。全体の価値があるからこそ、個々の拡がる自我は、自由を制約する不平等を納得しているのです。

ところが、全体の価値が低くなると、個々の拡がる自我は反発し始めます。不平等が前面に出てくるのです。上下の指揮命令関係は、被支配者の反発を意味する支配関係に変化してしまうのです。

支配関係に変化すると、分割の論理の前提としての全体の価値は、ますます減少していきます。そして、個々の拡がる自我は、新たな拡がりの確証のための論理をその外部に求めていくことになるのです。

 

③創造の論理と人間の自然的差異

次に創造の論理を検討しましょう。

創造の論理は、行為の内容・成果を主張することによって他者からの注目を浴びるものです。ここでは当然個々の拡がる自我の行為、活動の成果、端的に言えばその拡がる自我の自然的存在としての能力が評価されるのです。そして、実は、それは個々の拡がる自我の出発点における分割の論理の典型である身分的差異を撤廃することを前提にするものです。出発点における社会や秩序での人為的な人間の差異を前提とすると、その人の能力を正当に評価することはできません。なぜなら創造の論理は、その拡がる自我の“行為”の意味を他者と共有することにより拡がりの確証を得るものだからです。出発点が平等でないとその行為それ自体の価値を評価できないのです。

したがって、創造の論理は、②で論じた分割の論理を否定する側面があるのです。分割の論理を否定することによって見いだされる自由かつ平等の自然的人間が前提とされるのです。そこで、初めて、創造の論理が正当に評価されます。

ところがここで新たな問題が生じます。自由かつ平等の人間を前提とした創造の論理は、別の意味で個々の拡がる自我の差異を明確にする性格があるのです。すなわち身分的差異ではなく、人間の自然的差異である人間の器量、能力の差が明確にされるのです。

以前、「価値とは何か」で申し上げましたが、創造の論理の典型としての商品の価値は、個々の拡がる自我が本来有している能力を正当に評価する機能があり、能力を発揮するための労働、すなわち努力の結晶である商品の価値は、抽象的人間労働という概念を通じて、個々の人間の能力の差異を顕在化させる機能があるのです。

では、ここで能力差が明らかになった場合、能力が低いとされた人はどうなるのでしょうか。自分が目指した拡がりの確証の論理が、期待どおり実現できなかった人はどうするのでしょうか。生きている限り、拡がる自我は拡がりの確証を求めていくものです。したがってこの拡がりの確証を実現することは至上命令なのです。今回挫折した拡がりの確証を、新たな拡がりの確証の論理の設定を通じて、何とか実現しなければならなくなるのです。

 

5.既存社会における新たな価値の論理の定立

①価値の置き換えと価値の転倒

さて、先ほど申し上げたとおり、分割の論理を維持する全体の価値は、自由な創造の論理の設定を制約する性質があり、拡がる自我はこれを正当化しなければなりません。全体の価値が大きいときは正当化されていますが、全体の価値が低くなると、不平等ということが意識されてくるのです。

また、これも先ほど申し上げたとおり、創造の論理は個々の拡がる自我の能力差を明らかにするものです。それでは、ここで能力が低いとされた人はどうなるのでしょうか。挫折した拡がる自我は、新たな拡がりの確証の論理をどのように形成していくのでしょうか。

これら二つの問題に共通して言えるのは、新たな価値を打ち立てるということでしょう。新たな価値を打ち立ててそれを根拠に拡がりの確証のための論理を他者に投げかけるわけです。しかしながら、2①で申し上げたとおり、新たな価値を全く最初から打ち立てるのは困難を伴います。そこで、人は誰もが既存の価値を根拠に拡がりの確証の論理を打ち立てようとするのです。

さて、既存の価値を利用して新たな価値の形成として行う場合、価値の置き換えと価値の転倒の二つのやり方が考えられると私は考えます。

まず価値の置き換えから考えていきましょう。「価値の置き換え」とは、既存の拡がりの確証のための論理の価値を無価値とし、同じ方向を向く別の対象に新たな拡がりの確証のための価値を付与することです。この否定される部分的価値については反価値であると言えるわけです。当初の目的の方向に自分は行きたいが、それが結果として挫折した、あるいは不可能であるときに、同じ方向ですが別のルートで行くといったものです。同じ方向なのでその基本とする価値を根拠とした論理を構築することができ、同時に別の対象である新たな価値を基に自分独自の論理を構築し、他者と意味を共有することもできるわけです。

もともと人間すなわち拡がる自我は、自分自ら打ち立てた論理に反することは極めて大きな失望感を味わう存在なのです。したがって、何とか当初自分が打ち立てた拡がりの確証の論理を活用しようとします。そこで大筋は既存の価値を認めて他者の注目を得ながら、その方向をずらし、部分的な反価値の論理を打ち立てて他者との意味の共有を目指すのが価値の置き換えです。

次に、「価値の転倒」とは、既存の価値とは逆の方向の価値を打ち立てて、注目を得るということです。既存の価値全てを否定する論理、この論理は、既存の価値の序列の中で、拡がりの確証を得ることができなかった人間にとって、実は極めて魅力的な論理となってしまうのです。なぜなら、既存の全価値を否定する反価値の論理は、それが既存の価値の全否定であるにもかかわらずより多くの他者に注目されてしまうのがその特徴だからです。

反価値の論理が多くの他者に注目されるというは、既存の価値では拡がりの確証を満足させることができない人間が潜在的に大勢いるということです。その潜在的に多数いる人達の注目を得るのが反価値の論理なのです。拡がりの確証を得るための他者をより多く得ることだけが目的となり、当初自分が目指した価値の方向性が逆転する、こういった事態が生じてしまうわけです。

 

②価値の置き換えと物による支配

先程申し上げたとおり、価値の置き換えとは、同じ方向を向く価値でありながら、別の種類に区分される価値を形成することにより他者の注目を得ることです。そして、価値の置き換えは、当初の拡がりの確証の論理を部分的に修正することでもあるのです。

既存の目的社会に参加した個々の拡がる自我は、身分的差異や能力の差異によって、全体の価値に対する信頼が揺らぐことも多々あるでしょう。この場合、全体の価値を即座に否定するわけにはいきません。この時に、拡がる自我が崩壊せず、継続していくためには、身分や能力の差異を合理的に説明し、新たな価値に置き換えることにより基礎づけなければならないのです。

この価値の置き換えで最も重要なのは、3③で申し上げた物による支配です。人による支配を物による支配に置き換えたわけです。通常、組織の構成員は、組織の目標を達成することは否定することができません。したがって、どんなに身分的差異に対して反発を持っていたとしても、組織内の指揮命令系統を維持するための身分の基礎となる全体の価値を否定することはできません。そこで身分的秩序に対して反発する者は、身分という既存の価値に対する反価値を打ち立て、身分を対等な人間同士の関係ではなく、物、すなわち人為的な制度の所産である物による支配に置き換えて納得するのです。

そもそも身分に反発するのは対等な人間同士と意識するからであり、それは創造の論理を根拠とする拡がりの確証の論理を打ち立てると必然的に生じるものでした。したがって、4③で申し上げたとおり、創造の論理は常に身分的差異を否定する側面を持つものでした。しかし目的社会の組織は維持されなければならず、そこは身分的秩序が不可欠です。それを正当化するのが物による支配なのです。

 

③反価値の論理の典型としての価値の転倒

価値の転倒は、先ほど申し上げたとおり、既存の価値に基づく拡がりの確証の論理では、拡がりの確証を実現できない人々が潜在的に多く存在することを前提として、既存の価値を否定あるいは反対の価値を掲げることによって、その多くの人に注目されるものです。潜在的な不満を抱いている人たちが常に大勢いて、それらの人々は常に価値の転倒を求めているのです。反価値の論理の典型が価値の転倒です。

まず、分割の論理に関して言えば、身分をめぐる価値の転倒があります。既存の身分制度は、新たな創造の論理を制約するものであり、それを解消する必要が常に認められるので、身分という価値に対する反価値の論理が成り立つのです。

代表的な例が、経営者に対抗する労働者です。経営者の指揮命令権の法的根拠は所有権ですが、この所有権は身分的性質をもちます。制度としての所有権が人間の身分的上下関係を保障しているからです。これに対する反価値の思想が、非所有者である労働者にも経営権を与えるべきとの思考です。所有権を根拠とした資本を有する経営者ではなく、実際に労働する者こそ経営を行うべきとの発想が成立するのです。ここには価値の転倒が認められます。実際、労働者は団結して労働組合を結成し、経営に介入してきたのが歴史的事実なのです。

では創造の論理における価値の転倒はどのようなものがあるのでしょう。

創造の論理は人間の自然的差異である器量、能力の差を明確にするものです。そこではこの能力差を打ち消す論理が必要とされるのです。したがってその代表的な論理は、実は、分割の論理の典型である身分なのです。身分を固定することにより、創造の論理である個人の能力を隠蔽してしまうのです。

身分を正当化する論理としてまず考えられるのが血縁です。親と子の関係は確固たるものがあり、その事実を否定することはできません。子は親がいなければ生きていくことができず、そこには絶対的な身分が存在します。この身分的差異を目的社会の組織に類推適用させ、身分を固定してしまうのが創造の論理を否定する価値の転倒です。身分的差異を前提にすれば、創造の論理を打ち立てるのが困難になるわけです。

さらに、創造の論理の価値の転倒としてよく見られるのが、冒頭でも申し上げた、組織の目標を価値無きものにする反価値の思想です。本来、組織の参加者である個々の拡がる自我が、拡がりの確証のために目標を共有したにもかかわらず、創造の論理に基づく成果が出せず拡がりの確証が得られないがために、その目標を否定してしまうのです。

このようなことが起きてしまうのは、成果を出せずに同様の不満を持つ人間が潜在的に多くいるからです。この人々は不満の解消のために価値の転倒を求めているのです。拡がりの確証は、より多くの他者に注目されることにより成し遂げられるため、当初自分が目指した価値であっても、他者に注目されたいがためにあえてそれを否定してしまう、こういう事態が生じてしまうのです。

 

6.価値と反価値及び分割の論理と創造の論理の調和

以上、価値の置き換えと価値の転倒を通じて価値と反価値の論理を論じてきました。現実の社会は常にこの対立の側面があるのです。これを直視すべきだと私は思います。目的社会を構成する個々の拡がる自我は、拡がりの確証を求めるのが至上命令なので、既存の価値では確証が得られない場合は反価値の論理を形成せざるを得ない側面があるのです。

さて、今までの検討で明らかになったことは、組織の価値の論理には分割と創造の二つの対立する方向があるということです。秩序を維持するため出発点にはどうしても分割の論理、すなわち身分が必要ですが、その身分は創造の論理を妨害する側面があり、創造の論理の観点からは否定されるべき性質でもあります。一方創造の論理は個人の能力の差異を明確にする性質があり、成果が上げられなかった者は、能力の差を打ち消すための分割の論理、すなわち身分による制約を必要とせざるを得ないわけです。

人間社会はこの分割と創造の二つの相反する方向の論理によって、価値と反価値が形成されているのです。社会の構成員である拡がる自我は、拡がりの確証を求めて、分割と創造の二つの方向へ論理を構築し、拡がりの確証を求め合う関係にあり、構築した価値の論理で拡がりの確証が得られない時は、反価値の論理を再度反対の創造と分割の二つの論理の方向へ形成していくことにより社会は継続しているのです。

ここで重要となってくるのが、価値と反価値の定立において、この分割と創造の二つの方向をどのように組み合わせていくかということでしょう。

まず価値の置き換えを活用していくことが重要です。既存の部分的価値が否定されるべきであっても、全体の価値はそのままにしながら、古い部分の価値のみ否定し、そこに新しい価値を置き換えて、それを根拠に拡がりの確証のための論理を打ち立てるのです。

新たなものとものとの結合であるイノベーションこそその典型でしょう。置き換えの対象を探すことがイノベーションなのではないでしょうか。新たな価値の置き換えの対象は、それを根拠とする新たな拡がりの確証の論理を形成することができるのです。それこそ経済発展の原動力となるものではないでしょうか。

次に、労働と身分の結合が考えられます。目的社会の組織の中の地位を業績に応じたものにするのです。すなわち身分を個々の人間の能力に応じたものにするのです。本来対立する分割の論理と創造の論理、それぞれの代表である身分と労働を結び付けるということです。

実は、現実の組織はこれを常に行っているはずです。例えば、労働の対価である経済的価値が集積して成立する資本です。資本を有する者が組織で指導的地位に就くわけです。また、企業の組織内の地位をめぐる昇任昇格も、原則としては人事評価によって各人の能力によってなされているはずです。

ただ、以前「管理と支配の間にあるもの」で論じたとおり、そこでは必然的に個人間の争いが生じ、価値と反価値のせめぎあいが伴うので、それをうまくまとめる必要があるのです。そのためには、価値と反価値の本質的な性格を認識し、分割の論理と創造の論理の二つの方向を調和させていく必要があるのです。

そのためには、今回詳細に論じてきたように、価値と反価値の対立がなぜ生じるのか、そして分割の論理と創造の論理はどのように対立しているのか、この事実を直視しなければならないのではないでしょうか。

これら価値と反価値の調整の具体的手法は、今後別論文で詳細に検討していくつもりですので、どうぞご期待ください。

 

参考文献

アリストテレス(高田三郎訳)(加藤信明訳)「ニコマコス倫理学」岩波書店

T.パーソンス・E.A.シルス(作田啓一他訳)「行為の総合理論をめざして」日本評論社

A.フロイド(外林大作訳)「自我と防衛」誠信書房

加藤新平「法哲学概論」有斐閣

廣松渉「物象化論の構図」岩波書店

時枝誠記「国語学原論」岩波書店

岩田靖夫「倫理の復権」岩波書店

高山岩男「哲学的人間学」玉川大学出版部

J.ロールズ(川本隆史他訳)「正義論」紀伊国屋書店

C・I・バーナード(山本安次郎他訳)「新訳経営者の役割」ダイヤモンド社

カール・マルクス(岡崎次郎訳)「資本論」大月書店

シュムペーター(塩野谷祐一他訳)「経済発展の理論」岩波書店

オイゲン・フィンク(吉澤傳三郎訳)「ニーチェの哲学」理想社

ルカーチ(城塚登訳)「歴史と階級意識」白水社

 

(2020年1月公表)

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