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自由とは何か ~内心の自由の本質について~

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自由とは何か ~内心の自由の本質について~

和田徹也

目次

1.問題提起  2.行動の自由と納得の論理  3.主体性とは何か  4.無限と限定  

5.内心の対象とその無制約性  6.外界の対象の被拘束性と他者への拡がりの確証  

7.内心の自由と絶対者

参考文献

 

1.問題提起

自由とは何か、多くの人が考える問題です。自由は現実社会で誰もが気にする問題なのです。権力による不当な拘束や束縛からの自由、これは長い歴史を有する政治的スローガンです。多くの国で、自由権を守るため人権宣言がなされています。人身の自由、居住・移転の自由、表現の自由、その他多くの自由権が日本国憲法でも保障されています。

また、自由には身体の物理的な自由という意味だけではなく、内心の自由という意味もあります。よく意思決定の自由ということが言われますが、何を考えるかは自由なのです。日本国憲法19条は思想及び良心の自由を保障していますが、これは内心の自由を保障したものであり(宮沢俊義「憲法Ⅱ」)、内心の自由は人間が生きて行く上で根本かつ不可欠のものだと考えられるのです。

ところが、私達の普段の生活を見ると、ある意味、そのほとんどが不自由な行動に支配されているとも言えるのではないでしょうか。様々な義務、強制によって毎日働き、暮らしているのが現実の人間です。強制的に定められた行動であるにもかかわらず、自分は自由に生きていると思い込もうとしているのが日常生活を送っている私達なのです。

さらには、人間の行動や思考は因果必然の法則に支配されているのであり、自由などというものは虚構であるとの考えもあります。そこまで極端ではないにしても、一見自由に見える人間の心を、因果の法則として理解しようとする科学が現実に存在しています。ある条件の下では必然的に人間はこう考え、こういう行動をとる、自由に行為しているように見えても実は一定の法則に従って行動している、このような主張がなされているのです。

しかしながら、私には、自由は人間にとって、やはり、生きて行く上で必要不可欠な理念に思えるのです。それは、自由とは人の行為を説明するためだけの言葉ではないということです。人の行為を説明するため自由な心を探究するにしても、自由という言葉は過去の行為の検証のために用いるだけではないのです。自由という言葉は、自分の将来への希望、未来への人生の拡がりを意味するのではないか、こういうことです。様々な義務や強制に囲まれながら生活しているにもかかわらず自由に生きていたい、この、誰もが感じている希望に自由の本質が含まれているのではないか、このように私は考えたのです。「自由」は人間の「生」の根幹を形成する概念だと思うのです。

そこで、今回は、自由とは何か、自由の本質を理論的に明らかにしていくことにより、自由が人間の「生」にとって不可欠のものであることを明らかにしていきたいと思います。

 

2.行動の自由と納得の論理

仕事で会社に行けば普通8時間程度拘束され、指揮命令系統の下に仕事が強制されますが、この強制された状態だけを見ると自由であるとは言えないでしょう。また、勉強しなさいと言われた子供が親に家から出ないように監視させられているときも自由とは言えないでしょう。このように強制によってその人の行動が制限されることが自由の制限であることは間違いありません。逆に言えば、自由とは行動の自由、すなわち物理的な身体の活動の自由であるということになります。

しかしながら、強制的に仕事をするにしても、その行動のすべてが不自由だということは有り得ないでしょう。働くことはやりがいがあることも事実ですから、その人が自発的に同意して厳しい職務に励むこともあるわけです。仕事における創意工夫、これはその人が自由な発想で考えて初めて実現できることです。仕事にやりがいを感じるには、自由な意思が必要なのです。

また、母親に家から出るなと言われた子供が外に遊びに行きたいのを我慢して家で勉強する時も、母親の言葉がもっともだと納得した上で家に閉じこもって勉強する場合は、自由が侵害されているわけではないでしょう。今我慢して勉強することが将来より大きな幸福をもたらすと心の中で考えて自発的に勉強するのは、自由な意思に基づくと言えるのです。

要するに、自由には行動の自由とは違うもう一つ別の意味があるのです。冒頭でも申し上げた内心の自由です。これは、主観的自由あるいは理念的自由とも表現できます。たとえ現実生活で外観上強制されて行動しているように見えても、心の中では自ら進んで行動している、同意あるいは納得している場合は自由が侵害されているとは言えないのです。

では、納得していれば不自由ではない、これはどういうことなのでしょうか。

それは自分の意思が行動に合致しているということです。納得しているとは自分の行動を自分の意思で決めたということです。言い換えれば、自ら主体的に行動したということです。全ての人間には主体性があるのです。そして、この人間の主体性にとって、自由は不可欠の概念であると言えるのです。

 

3.主体性とは何か

以上申し上げたとおり、主体性にとって自由が不可欠であることは確かですが、そもそも主体性とは何でしょうか。

以前にも論じましたが、誰もが主体性を感じていますが、主体性それ自体を表現することは意外と困難です。表現された時点で客体になってしまうからです。そこで私は“拡がり”を考察の原点として主体性を表現しようと考えました。

まず、誰もが感じる主体性を「拡がり」と表現しました。これは言い換えれば、意識以前の状態を「拡がり」と表現したわけです。この外界への拡がり、それは外部の対象と出会うことによって意識され、意志意欲といったものが出現してきます。そして、拡がりの対象の一つである身体を通じて個々の主体、すなわち自我として意識されるのです。私は、これを「拡がる自我」と表現しました(「拡がる自我」参照)。

拡がる自我は、外部の対象に意味を見出すことにより拡がりを確証しようとします。例えば外界の対象を食べ物として食することにより物質代謝を行うのを始めとし、生きるための手段としての意味を外界の対象に与え、さらには生きる目的としての意味を外界の対象に見出すことにより、生きている証を得ようとする、すなわち、拡がりを確証しようとするのです。個々の拡がる自我にとって、この外部の対象は無限であり、付与する意味も無限です。この無限性に主体性の本質があるのです。

第三者の立場から観れば、個々の拡がる自我は、それぞれ個々の環境の中にいるのであり、その外部の対象に対する拡がりの確証のため付与する意味は、その置かれた環境により制約されていて無限とは言えないかもしれません。しかしながら、個々の主体、言い換えれば個々の拡がる自我から観れば、拡がりの対象は無限でなければならないのです。なぜなら、外界への拡がりそれ自体は元来限定、制限されるものではなく、この非制限性すなわち無限性こそが「拡がり」であり、主体性の本質だからです。

 

4.無限と限定

さて、この拡がりの対象の無限性ですが、私はまさにここに自由の源があると思うのです。無限であるということは限定されないということであり、限定されないということは、「自由」という言葉の意味の一部であることは間違いないからです。

それでは、拡がりの対象の無限性をさらに検討していくことにしましょう。

以前「存在とは何だろう」で申し上げたのは、外界の対象は与えられるものでありその全てが自由に服すものではない、ということでした。これはある意味、外界の対象は限定されているということです。しかしながら、拡がりそれ自体は限定されていません。この両者はどういう関係にあるのでしょうか。

拡がりそれ自体が限定されていないということは、外界は与えられ限定されていてその全てが自由に服するものではありませんが、その与えられたもののどれに注目するか、どれを選択するかは限定されていないということです。

そして、拡がる自我は外界の対象に注目し、意味を与えることにより拡がりを確証します。ここに意味とは言葉に対する主体の把握の仕方のことです。この時点で外界の対象は限定されたのです。意味を与えることにより限定されていないものを限定する、これが拡がりの確証です。

限定されていないもの、言い換えれば無限定の中から一定の対象を限定する、ここに自由の源の一つがあります。自らに由って外界の対象を限定したからです。したがって、無限定は自由の前提となる概念であると言えるのです。

拡がりの対象を自由に選択するとは、主体性が限定されていないということです。限定されない意思・意欲、主体性の本質はここにあるわけです。

 

5.内心の対象とその無制約性

さて、今までは外界の拡がりの対象を論じてきました。言い換えれば意識の対象を外界の対象に限っていたわけです。しかしながら、意識の対象には内心の対象もあります。冒頭で申し上げた内心の自由に基づく意識の対象です。

4で申し上げたとおり、外界の対象は与えられるものであり、限定されていて、その全てが自由に服すものではありません。自由となるのは選択の自由に過ぎません。これに対し、内心の自由はその内容の全てが自由となります。現実にはまったく存在しないことを考えることも自由にできるのです。

このことは何を意味しているのでしょうか。

私は、この内心の一切制約されない自由は、他者に対する拡がりの確証を求めるために必要とされてくる概念ではないかと考えるのです。ここでは、現実に有り得る・有り得ないは問題とはなりません。内心の対象が自分独自の意味を有する、何かに制約されるのではなくその全てが自分独自のものであるということが重要となってくるのです。

拡がる自我の他者への拡がりの確証、それは他者と意味を共有することでした。先程も申し上げたように、意味とは言葉に対する主体の把握の仕方のことです。自分が把握した言葉の意味内容を他者と共有する、これが他者への拡がりの確証です。この場合に、内心の自由は極めて大きな働きをするわけです。制約されない自由は、拡がりそれ自体であり、自我そのものなのです。

制約されない自由、この純粋の自由のキャンバスに、個々の拡がる自我がそれこそ自由に書き込むのです。この自由のキャンバスに書き込んだ意味、すなわち言葉に対する主体の把握の仕方を他者と共有するのです。それが他者に対する拡がりの確証です。

 

6.外界の対象の被拘束性と他者への拡がりの確証

これに対し、外界の物に対する拡がりの確証は、外部への拡がりの時点での選択の無限性は自由であると一応は言えます。ただ、それは自由意思に基づく意味を対象に見出すというようなものではなく、意味そのものが外部の存在者に拘束されるという性格が強いのです。

実は、拡がりの対象たる物に対する拡がりの確証は、原理的には、先程申し上げた内心の自由のキャンバス、すなわち、意味を形成する自由は必要とはならないのです。なぜなら、道具あるいは手段としての意味を見出すのは、自由ではなく法則性・必然性に基づくと言い得るからです。

対象たる物が有する性質の法則性、必然性、これは拡がる自我を拘束するものです。なぜなら外界の対象を利用する際は、その対象たる物の有する法則に従うしかないからです。

それでは、外界の拡がりの対象である物への拡がりの確証を得る場合、内心の無制約の自由が入り込むことは無いのでしょうか。

実は、外界の物に対する拡がりの確証でこの内心のキャンバスの中の自由が入り込むのは、外界の対象に、他者への拡がりの確証のための論理を形成する論拠を求める場合、すなわち、対象たる物に生きる目的を見出そうとする認識の場合なのです。人間の生きる目的は他者を意識せざるを得ないものです(「認識について」参照)。他者への拡がりの確証のための外界の認識は、やはり自由のキャンバスが必要とされてくるわけです。

他者への拡がりの確証のための論理においては、外界の物すなわち存在はその全てが自由にならないがゆえに拡がりの確証の論理となり、必然性の発見がその論拠となります。これに対し、内心の自由はその全てが自由であるため、世界で唯一の自分独自の論理となるわけです。外界の物の必然性に基づく認識を前提とした上で、この自分独自の論理を他者が受け入れることは、拡がる自我の拡がりの確証となること間違いありません。

このように物に対する拡がりの確証と他者に対する拡がりの確証は大きく異なります。物、すなわち拡がる自我の外部の、人以外の存在者は、その存在に着目する選択の時点では自由が関係しますが、その後は物の存在の否定できない被拘束性、すなわちその法則性・必然性に従わざるを得ないのです。それに対し、他者に対する拡がりの確証は、拡がりの確証のための論理を投げかける際、自由の存在が絶対的な条件となり、外界の存在の被拘束性は、あくまでもその論理の手段、論拠となるに過ぎなくなるわけです。

 

7.内心の自由と絶対者

今申し上げたとおり、他者への拡がりの確証には、内心の自由が不可欠であり、それは無制約な自由である必要があります。なぜなら、拡がりの確証のために他者と共有する意味は、拡がる自我の内心の、無制約な自由を根拠とする必要があるからです。

さて、哲学は、絶対者を求める学問と言われることがあります。また、宗教も、絶対者に帰依することが求められていると考えることができるでしょう。

全ては、全知全能の神すなわち絶対者から生ずる、この発想、すなわち、神あるいは絶対者とは、全てのものの根拠となるものを意味しています。では、このような、全てを導くことができる絶対的なもの、この絶対者を求める心情、論理、これらは何から生じるのでしょうか。

私は、ここにこそ、内心の自由の無制約性の結果がある、内心の自由の無制約性から絶対者が生じてくると思うのです。拡がりの確証を求めようとする生の衝動、これは絶対者を求めざるを得ないものなのです。

どういうことかと言うと、無制約的な内心の自由と、外界の対象が有する被拘束性、この二つが絶対性をもたらすのではないかと思ったのです。無制約な拡がりである内心の自由が外界の否定できない存在者、この存在の被拘束性と結びつくことにより、絶対性が生まれてくるのではないか、無制約とは制約されないという意味では絶対的であり、それが外界の被拘束性と結びつくことによって絶対者が生まれるのではないか、こう考えたのです。

この絶対者を前提とすれば、あらゆる他者との意味の共有による拡がりの確証を得ることができます。他者への拡がりの確証のための論理は、究極的には、この絶対者にたどり着きます。誰もが否定できないもの、これこそが絶対性、すなわち絶対者です。

出発点はあくまでも「拡がり」です。そして、拡がりから拡がる自我が生じてきます。拡がる自我は、その根底にある無制約な内心の自由が、他者への拡がりの確証のため常にこの絶対者を求めているのです。

 

参考文献

宮沢俊義「憲法Ⅱ(新版)」有斐閣

加藤新平「法哲学概論」有斐閣

岩崎武雄「カント」勁草書房

岩崎武雄「倫理学」有斐閣

岩崎武雄「西洋哲学史(再訂版)」有斐閣

岩崎武雄「カントとドイツ観念論」新地書房

岩田靖夫「倫理の復権」岩波書店

時枝誠記「国語学原論」岩波書店

I.カント(宇都宮芳明他訳)「純粋理性批判」以文社

I.カント(宇都宮芳明訳)「道徳形而上学の基礎づけ」以文社

フィヒテ(木村素衛訳)「全知識学の基礎」岩波書店

G.W.F.ヘーゲル(金子武蔵訳)「精神の現象学」岩波書店

エトムント・フッサール(渡辺二郎訳)「イデーンⅠ—ⅰ・ⅱ」みすず書房

マルティン・ハイデッガー(細谷貞雄訳)「存在と時間」理想社

ルドルフ・シュタイナー(高橋巖訳)「自由の哲学」筑摩書房

 

(2021年5月公表)

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