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国家の意志形成とその論理構造 ~自由の実現と対立する意志の発現~

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国家の意志形成とその論理構造 ~自由の実現と対立する意志の発現~

和田徹也

目次

1. 問題提起  2.人間の自由と主体性  3.他者への拡がりの確証のための論理体系  4.全体社会を維持する論理体系  5.実質的正義の論理構造  6.公共性における分割の論理と創造の論理  7.意志の対立の根源と国家意志の基盤  8.国家の意志形成における論理的循環

 

1. 問題提起

前回の論文「国家の本質」では、目的社会である国家の意志を形成する際には、国家の権力行使といった特別の機能が、人々の間に熾烈な争いを引き起こすため、深刻な問題を引き起こすと申し上げました。どういうことかと言うと、国家は、本来、全体社会を構成する個々の人間が必要とする様々な施策を行うために設立された公共機関であるところ、それが逆に、人々を支配し抑圧する機関だと認識される危険が生じるということです。

実際、歴史を振り返ってみると、例えば、日本の戦前の軍国主義、ナチスドイツの全体主義、等々、人々を支配し抑圧する国家であったと認定可能な歴史的事実はいくらでも存在します。

実は、国家が人々を支配抑圧していると考えられるのは、人々の間に対立する意志があるからだと思うのです。対立する意志の一方が国家の権力を握って他方を弾圧する、こういうことではないかと思うのです。

また、国家は、一部の支配階級が人々を支配するために存在する、このように理論構成する立場も生じてしまうとも申し上げました。

例えば、古代社会で奴隷制度を維持するのが国家であるといった考え、更には現代社会でも、生産活動を行う企業の経営者である資本家が、労働者を支配し搾取するための制度を維持しているのが国家であるといった理論です。

ここでも二つの対立する意志が認められます。市民と奴隷、資本家と労働者、この両者に意志の対立があることは否定できません。

国家は、本来、自由の実現といった個々の人間の希望を吸収することにより、絶大な権威を有するに至った、特別な目的社会だったわけです。ところが、国家の意志の形成の過程において意志の対立が生じ、国家が人々を支配抑圧する機関に転化したと認識されてしまうわけです。なぜそのような事態になってしまうのでしょうか。

そこで今回は、国家の意志はどのように決まるのか、さらには国家を成立させている共同意志とは何か、この事を考えてみたいと思います。そして、なぜ人々の意志は対立するのか、対立する意志の論理の構造はどうなっているのか、国家における意志形成の論理の根源に遡って考えてみたいと思います。

 

2.人間の自由と主体性

生きている人間は誰もが自由を望んでいます。自分が生きるとは主体性を意味するのであり、主体性は自由に生きる事を意味しているのです。

では、自由に生きるとは、具体的にどのように生きる事なのでしょうか。

自由に身体を動かす、自由に行動する、当然、これは自由の内容でしょう。私達は、自由に食べ物を食べて生き、自由に歩き、自由に寝て生きているわけです。個々の人間に注目すれば、まずはこういうことになるでしょう。

しかし、人間は他者と共に生きているのであり、他者と様々な関係を結んで生きているわけです。例えば、今申し上げた、何かを食べるということも、他者から食べ物を購入することがほとんどでしょう。また、他者と仕事の取引があれば自由に寝ているわけにはいきません。要するに、他者と共に生きている以上、主体的な個人にとって、完全な自由はあり得ないのです。

そこで、完全な自由があり得ない以上、そもそも主体性とは何か、このことが問題になってくるのです。人間各個人の主体性こそ自由の源だからです。

実は、誰もが主体性を感じていますが、主体性それ自体を表現することは困難です。表現された時点で客体になってしまうからです。そこで私は“拡がり”を考察の原点として主体性を表現しようと考えました。

まず、誰もが感じる主体性、意識以前の湧き上がる「生」の発現を「拡がり」と表現しました。この外界への拡がり、それは外部の対象と出会うことによって意識され、対象に注目して意志意欲が出現し、対象の一つである身体を通じて個々の主体、「拡がる自我」として意識されてくるのです(「拡がる自我」参照)。

そして、拡がる自我は、外部の対象に何らかの意味を見出すことにより拡がりを確認しようとします。例えば、外界の対象を食することにより物質代謝を行う、生きるための道具として外界の物を利用する、これを私は「拡がりの確証」と表現しました(「拡がりの確証と組織文化の本質」参照)。今申し上げた例は、物に対する拡がりの確証となります。

そして、重要なのは、他者に対する拡がりの確証です。他者に対する拡がりの確証は、他者に発した言葉の意味を他者と共有することにより実現します。ここに意味とは、言葉に対する主体の把握の仕方のことです(時枝誠記「国語学原論」)。実は、物に対する拡がりの確証は、他者に対する拡がりの確証のための手段・論拠となる傾向が強いのです。

以上まとめるに、主体性とは、個々の拡がる自我が他者に対する拡がりの確証を得ることである、このように考えることができるのです。

さて、他者に対する拡がりの確証は、自由といったものが極めて重要な意味を持ってきます。なぜなら、他者と自分の発した言葉の意味を共有するとは、自分の内心の自由により形成した言葉の意味を他者と共有することになるからです。他者への拡がりの確証は、他者に自分自身を見出すことを意味しているのです。

この場合、内心の自由は、無制約でなければなりません。形成する言葉の意味は自分独自のものでなければならないのです。他者への拡がりの確証は、自分独自の意味を他者と共有することなのです(「自由とは何か」参照)。

この内心の自由の無制約性こそ主体性の本質だと私は思います。他者への拡がりの確証は、自由の実現でもあるのです。

 

3.他者への拡がりの確証のための論理体系

拡がる自我は、他者に対して拡がりを確証しようとします。他者への拡がりの確証は、他者と言葉の意味を共有すること、複数の言葉から成る論理の意味を共有することによって実現します。

ところが、個々の拡がる自我が他者と出会う度毎に拡がりを確証するための論理を設定していくことは、実は、困難です。偶然出会った他者がどのようなことに興味があるのかがわからないからです。そこで人々は社会を築こうとするのです。社会は他者への拡がりの確証のための、既存の論理体系となるのです。

さて、何らかの目的を実現するための社会、これを私は目的社会と呼びました。世の中には様々な目的社会があります。例えば、企業、学校、家族、その他様々な目的社会が無数に存在しています。

目的社会を形成することは、社会の目的を他者と共有することであり、それは他者と言葉と論理の意味を共有することを意味しています。個々の拡がる自我は、目的社会を形成し、あるいは既存の目的社会に参加することにより、他者に言葉と論理を投げかけ、他者とその意味を共有して、他者に対する拡がりを確証していると考えられるわけです。

目的社会は、目的を達成させるため組織化されます。ここに組織とは、二人以上の人々の意識的に調整された活動や諸力の体系のことです(バーナード「経営者の役割」)。組織には、組織を構成する個々の拡がる自我の、他者への拡がりの確証のための既存の論理体系が存在しているわけです。

一方、この目的社会が活動する一定範囲の地域を基盤とした、諸々の個人及び様々な目的社会を包摂する社会、これを私は「全体社会」と呼びました(「国家の本質」参照)。

個々の拡がる自我は、この全体社会の中で、他者に対して言葉と論理を投げかけ、他者とその意味を共有することによって拡がりを確証しています。個々の拡がる自我は、全体社会の中で、目的社会を新たに設立し、あるいは既存の目的社会に参加することによって、他者に対する拡がりを確証しているのです。

実は、この全体社会にも、既存の論理体系があるのです。個人あるいは目的社会といった個々の主体が活動するには一定の秩序が必要であり、秩序は一定の論理の体系から成っていると考えられるのです。

秩序とは、事象を構成する諸々の要素の関係に一定の型、規則性があり、要素の一部のあり方を知れば他の諸要素のあり方の可測性が存在する事態を意味します(加藤新平「法哲学概論」307頁)。この可測性は、個々の主体が一定の論理の体系に従うことにより維持されているのです。

 

4.全体社会を維持する論理体系

では、全体社会を維持する既存の論理体系とはどのようなものなのでしょうか。

実は、ここで最も重要な働きをするのが「正義」という概念です。個々の拡がる自我が、拡がりの確証を求めて論理を設定して他者に投げかけ、他者とその意味を共有しようとする、この過程では必然的に争い、すなわち論理が対立して衝突が生じます(「管理と支配の間にあるもの」参照)。この争いを調整、修復するのが正義なのです(「善と正義」参照)。

この正義は客観的でなければなりません。なぜなら争いを調整する原理である以上、当事者双方が納得する客観性が求められるからです。客観的な正義があるからこそ、全体社会の秩序は維持されているのです。

以前「善と正義」でも論じましたが、正義は三つに分類されます(加藤新平「法哲学概論」442頁)。

まず、実定法の遵守が挙げられます。アリストテレスが言うところの広義の正義、すなわち「法的正義」がこれです。調整の原理を制定された法律として客観的存在にしたものです。法として制定された以上、法は正義であり、遵守しなければならないわけです。

次に形式的な平等の原理、すなわち「各人に彼のものを」といった正義です。この「形式的正義」は、その形式性ゆえに客観的なものと認められるのです。

アリストテレスは、この正義を狭義の正義とし、さらに配分的正義と匡正的正義に分類しています。「配分的正義」は、名誉であれ、財であれ、他のものであれ、およそ国家の公民に分かたれるところのものの配分において、それぞれの人の価値に相応して比例的に配分を均等化すること、等しいものには等しいものを等しからざる者には等しからざるものを配分することです(前掲書442頁)。

「匡正的正義」は、並列的な個人間の相互交渉において、当事者の価値・人柄等の人的差異にかかわらず、彼らを全て等しい者と見なした上で、利害の得喪に過不足の無いように調整し、あるいは被害の救正の役目を果たすものです。この場合はさらに二つに分かれ、一つは売買や貸借などの随意的交渉におけるものであり、もう一つは不法行為や犯罪など不随意的交渉に基づくものです(前掲書443頁)。

そして、三つ目が、「実質的正義」と言われるものです(前掲書439頁)。複雑な現実社会に実定法と形式的正義が適用される際にその基準となるのが実質的正義です。法律の解釈でも、法律の制定でも、何が正義であるかが激しく議論されることになるでしょう。

実は、実質的正義の確立は、他者への拡がりの確証のための論理の設定そのものだと言えるのです。現実社会でこれが正義であると主張する際は、拡がる自我の他者への拡がりの確証の論理の設定になるわけです。これが正義だという自分の主張を他者に認めさせ、正義の意味を他者と共有することは、まさに他者に対する拡がりの確証を意味しているのです。

 

5.実質的正義の論理構造

実質的正義を構成する拡がりの確証のための論理はどのような内容となるのでしょうか。正義は対立する論理を調整する原理であると言えます。では、そもそも、どのような論理が対立しているのでしょうか。

まず、拡がりの確証の論理の性格から考えていきたいと思います。

個々の拡がる自我の他者に対する拡がりの確証の論理は、大きく二つの論理に分類できると私は考えます。分割の論理と創造の論理です(「分割の論理と創造の論理」参照)。

「分割の論理」とは、自分が所属する社会あるいは組織全体から出発する論理です。出発点である社会の全体それ自体に大きな価値を置き、その社会全体の価値の序列の中での自分の地位の価値の高さによって他者の注目を得る論理です。

これに対し、「創造の論理」とは、個から出発する論理で、何を行ったか、何を作り上げたかによって他者の注目を得る論理です。個々の行為に大きな価値を置き、その行為の成果である作り上げたものを評価する立場です。行為の出発点の価値はゼロです。いかに努力したか、どのような成果を上げたかを他者の注目を得るための価値の評価基準とします。

価値とは、誰もが求めるものであって、高低あるいは大小が生じた可測的で比較可能な意味のことです。分割の論理と創造の論理は、この価値の配分の方法に大きな違いがあるわけです。前者は、出発点の社会・組織全体に絶対的な価値を置き、その全体の価値を分割した自分の地位の価値を他者に主張する論理であるのに対し、後者は個々人の行為とその結果に価値を置き、自分が創造した事実それ自体の価値を主張する論理です。

以上申しあげたとおり、現実の社会は、分割の論理と創造の論理に分類される、様々な無数の拡がりの確証の論理が交錯して成立しているのです。

このことを、経済活動を例に考えてみましょう。

現代社会は商品交換経済で成り立っています。全体社会における個々の経済主体の商品交換は、個々の拡がる自我の他者に対する拡がりの確証の実現における創造の論理の典型です。商品は創造するものであり、まさに各人の創造の論理の構築であるわけです。

一方、商品は一人で生産するだけではありません。経済主体である企業という目的社会が創造する場合がほとんどです。この企業という目的社会は分割の論理によって維持されています。企業という組織全体に大きな価値を置き、その全体の価値が組織を構成する地位により分割されることにより組織の上下関係が維持されているのです。

このように、商品交換社会の実質的正義は、交換の場では創造の論理、個々の主体の内部では分割の論理によって特徴づけられています。

ところが、これが重大なことなのですが、この分割の論理と創造の論理は鋭く対立する論理でもあるのです。

分割の論理は個々の人間の格差を前提とする論理であり、身分といった格差を前提に他者の注目を集める論理です。

一方、創造の論理は個々の人間の均一性を前提とする論理です。創造した成果の価値を正確に測定するには、出発点の価値がゼロである必要があり、それは人間の均一を前提とすることになるからです。

以上申し上げたとおり、実質的正義は、分割の論理と創造の論理の対立の上に成立し、存在しているのです。

 

6.公共性における分割の論理と創造の論理

公共性は、人々の日常の不平不満を受容する論理的主体としての性格にその本質がありました。国家は、この人々の不平不満を解消する責務を負う、公共性を有する目的社会なのです(「公共性の本質」参照)。

では、人々の不平不満はどのように国家に主張されるのでしょうか。実は、人々の不平不満は、分割の論理と創造の論理を基盤として主張されると私は考えたわけです。

ここでも経済活動を例に考えてみましょう。

まず、創造の論理を構築する場である、商品交換の世界から考えてみます。

商品交換の世界では誰もが平等の取引主体です。この商品交換で争いが生じた場合、それは当事者の不平不満となり、第三者的立場から解決を図る必要が生じます。この場合、お互い対等な立場から超越した権威が必要となります。この権威こそが公共性であり、それを担うのが国家です。

この権威ある国家は、理念的には、当事者から手が届かない超越的立場になければなりません。なぜなら、超越して当事者双方から中立的でなければ、双方が納得しないからであり、紛争の解決ができないからです。

ではどのように超越するのでしょうか。この場合、身分的超越と合意による超越の二つに分かれるのではないかと考えられるのです。実は、前者は分割の論理がその根底にあり、後者は創造の論理がその根底にあるわけです。

身分的超越は、当事者である団体の組織が身分的上下関係にある場合に認められるもので、紛争を解決する公共機関も同様の身分的価値を纏わざるを得ず、個々の団体を超越した身分的権威が公共性を構成するというものです。この団体の外部の身分的な公共性というより大きな全体の価値を分割する論理なわけです。

一方、合意による超越は、基本的には対等な個人と個人が対立する場合に生じるものですが、団体が対等の個人によって構成されている場合にも認められます。例えば、団体が成立間もない場合、対等な個人同士の契約によって成立している場合、等々です。個々の人間が互いに合意して公共性といった自分たちを超越する論理を創造する、まさに創造の論理なのです。

それでは次に、分割の論理が支配する、商品交換を行う個々の主体の内部に着目して考えてみたいと思います。

商品交換の主体は、そのほとんどが企業という団体、言い換えれば目的社会です。商品交換の主体の内部、個々の目的社会の組織は、全体の価値を前提とする分割の論理によって維持されています。組織は指揮命令系統が不可欠であり、個々の人間の上下関係が不可避だからです。

この団体の組織内における不平不満は、身分的上下関係を前提とした、団体内部の他者との関係から生じます。組織では上下の指揮命令系統が存在する以上、誰もが同じように組織の中で他者への拡がりの確証を実現できるわけではありません。ここに大きな不平不満が発生する根源があります。その不平不満は組織の中だけで全てを解消させることが困難なのです。

そこで人々は組織の外部に不平不満を向ける対象を求め、その外部の対象の有する性質が公共性になると考えられるのです。なぜなら、公共性とは、誰にでも開かれている理念であるからです(「公共性の本質」参照)。

この場合、最初に考えられるのは、既存の上下関係に対する不平不満を吸収するための、対等な人間を前提とする公共性という理念です。なぜなら、上下関係の不平不満は、対等な個人を前提とする思考からこそ生じるのであって、その不平不満の裏には、対等な個人の理念が存在しているからです。組織の中では実現できない対等な個人と個人の関係、それを組織の外に求めるわけです。

これは創造の論理につながる理念であり、公論の形成でもあります。公論とは、公共性を有する意見、すなわち全体社会の多数の者が納得している意見であり、国家の意志を左右するものでもあります。公論の形成は、個々の拡がる自我の他者に対する拡がりの確証の創造の論理の設定であるわけです。

具体例でいうならば、国家に対する労働基本権の主張が考えられます。経営者と労働者が対等な関係に立つべきといった公論の形成です。

しかしながら、組織の外部に求めるのは、このような対等な人間といった理念だけではありません。身近な人間関係における身分的な上下関係を超越する、より大きな身分的権威を求める場合もあるのです。これは、先程論じた商品交換の場と同様、組織の外部により大きな権威、身分に基づく上下関係を見出すこととなるのです。

これは、分割の論理に基づく理論です。団体の全体の価値を超越するさらなる全体の価値を外部に求めることであり、その全体の価値に基づく分割の論理を求める理念です。

その全体の価値を担うのが国家です。国家といったより大きな権威によって、身近な人間関係の修正を図ろうとするわけです。具体例でいうならば、企業を超越する権威を有する国家による、企業で働く労働者の労働基本権の強制的実現がまさにこれです。

以上申し上げたとおり、商品経済の日常の不平不満を吸収する公共性は、その商品交換の場と個々の主体内部といった二つの側面で、それぞれが分割の論理と創造の論理の二つの対立する理念によって形成されているのです。

 

7.意志の対立の根源と国家意志の基盤

先程申し上げたとおり、分割の論理と創造の論理は大きく対立する論理です。一方は人間の格差を前提とし、他方は人間の均一性を前提とするからです。

ちなみに、先程論じた正義の概念ですが、各人に彼のものをという形式的正義の内、配分的正義は人間の格差を前提とするものであり、一方の匡正的正義は人間の均一を前提とするものだと思います。

ところで、人間の格差を否定し均一な人間を前提とするのが創造の論理です。均一な人間を前提に、各人がどのような価値を創造したかをはっきりさせるのが創造の論理だったわけです。

ところが、価値の創造は、必然的に、個々の人間が創造した価値の格差を明らかにするものであり、創造の論理は、結果としての人間の器量・能力の格差を明白にする側面があることは否定できません。

このように考えると、分割の論理と創造の論理は、人間の格差を最初に認めるのか、あるいは、結果に人間の格差を認めるか、この違いがあるに過ぎないことになってきます。

実は、ここに対立する意志の根源があるのではないかと私は思うのです。人々の不平不満は様々ですが、人間の格差がどこにあるのか、最初か最後か、ここに対立の分岐点があると思うのです。

国家は、個々の人間の自由の実現に不可欠の存在です。その国家の意志形成は、この分割の論理と創造の論理に大きく影響されているわけです。ここに対立する意志の発現の根源があるのです。

そこで、まず、大前提として認識すべきことを確認しておきたいと思います。

それは、拡がりの確証が絶対命令である以上、拡がりの確証のための基盤自体は、絶対的に存在しなければならないということです。ここには意志の対立はありません。

この基盤は、全体社会の秩序を意味するのであり、それを維持するのが国家です。前提として、国家の意志それ自体は絶対的に存在しなければならないわけです。

この国家の意志の基盤をどのように理論構築するかは大きく二つに分かれると私は考えます。一つは個々人を出発点とする社会契約説であり、一つは全体を出発点とする客観精神の理論です。前者は個々の人間の同意を基礎とするものであるのに対し、後者は全体の意志が予め存在するとし、構成員の意志は国家の全体の意志を構成する一部分だと考えるものです。

社会契約は、現実的に考えれば、架空の契約だと誰もが思うかもしれませんが、拡がりの確証の論理の基盤の共有が不可欠である以上、この基盤を構成する個人個人の結合も不可欠であり、これこそルソーの言う社会契約だと私は思うのです(ルソー「社会契約論」242頁)。

これに対し、客観精神を唱えるヘーゲルは、論理の基盤は同意以前に存在していると考えたのだと思います(ヘーゲル「法の哲学」427頁)。拡がりの確証が絶対命令である以上、拡がりの確証のための論理の基盤は、個々の拡がる自我の同意以前に存在しているわけです。私はそれこそが客観精神だと思うのです。

実は、社会契約説は創造の論理に基づくものであり、客観精神は分割の論理に基づくものだと私は考えているのです。社会契約は均一な人間が新たに論理を創造するものです。一方、客観精神は、既存の論理の全体の価値を分割するものなのです。

 

8.国家の意志形成における論理的循環

それでは国家に対する具体的要望を検討してみましょう。

国家の絶対的な論理的基盤を前提としてなされる、諸々の、国家への具体的な不平不満の解消の要望も、分割の論理と創造の論理とに大きく分かれると考えられます。

分割の論理に関する不平不満とは、他者との身分的格差に対する不平不満です。

例えば、企業で働く者の報酬に着目すると、経営者と労働者では極めて大きな差があります。働いていること自体はそこまで大きな差は無いのに、報酬にこのような大きな格差があるのは納得できないとの主張です。この報酬の格差は、企業の全体の価値の分割の論理に基づくものです。要するに、これは、価値の分割方法を是正しろという要望なわけです。

この要望が否定されると、国家は、一部の支配階級が人々を支配するために存在する、このように理論構成する立場が生じてきてしまうわけです。例えば、生産活動を行う企業の経営者である資本家が、労働者を支配し搾取するための制度を維持しているのが国家であるといった理論です。

その一方で、創造の論理に関する不平不満もあります。

例えば、裕福な家の出身者と貧乏な家の者との格差です。創造の論理は均一な個人を前提とするものであり、それに反する財産的不平等を是正しようとするわけです。出発点に身分的立場の格差があるのはおかしいということです。身分的格差を解消して機会の平等を実現し、個々人が創造の論理を自由に実現することを目指す要望となるわけです。

この要望が否定された場合でも、国家は、一部の支配階級が人々を支配するために存在すると理論構成する立場が生じます。例えば、一般庶民の貧困をもたらす私有財産制度を維持しているのが国家であるといった理論です。

分割の論理と創造の論理それぞれに関する不平不満が、国家における支配被支配の対立を生みだしているわけです。それが歴史的事実だと思うのです。

しかしながら、先程申し上げたとおり、分割の論理と創造の論理は、人間の格差を、最初に認めるのか、あるいは結果に認めるのか、この違いがあるに過ぎません。一旦分割の論理に基づく人間の格差を解消しても、結果として創造の論理に基づく格差が形成されてくるわけです。

創造の論理により構築した成果物は、各人には彼のものをといった形式的正義が適用され、成果物はその者に帰属します。この、ある者に帰属した成果物を他の者が勝手に分割して他者に分け与えることは正義に反すること明らかです。人間の器量の差異は社会制度によってますます助長されます。人々の創造の論理の実現の結果、財産の格差、身分の格差が生じてしまうことは歴史的事実として明らかだと私は思うのです。

ここで重要なことは、この創造の論理の結果としての格差を前提として、新たな分割の論理が成立するということなのです。この身分や財産の格差は、それを正当化する全体の価値により維持され、その全体の価値に基づく分割の論理として上下の秩序が維持されることになるわけです。

実は、ここで再び、分割の論理を否定する要望が生まれてくる振出しに戻るわけです。既存の分割の論理が否定されて創造の論理が生成し、その創造の論理の成果としての全体の価値から新たな分割の論理が確立される、ここには分割の論理と創造の論理の循環があります。

このように、人間の自由を実現する国家の意志は、分割の論理と創造の論理の相反する二つの論理の対立の上に形成され、その論理の否定の循環の内に生成存続しているわけです。

 

参考文献

ルソー「社会契約論」(井上幸治訳)中央公論社 (桑原武夫他訳)岩波書店 「人間不平等起原論」(本田喜代治他訳)岩波書店

ヘーゲル「法の哲学」(上妻精他訳)岩波書店

アリストテレス「ニコマコス倫理学」(加藤信明訳)岩波書店

マッキーヴァー「コミュニティ」(中九郎他訳)ミネルヴァ書房

J.ハーバーマス「公共性の構造転換」(細谷貞雄訳)未来社

K.マルクス「資本論」(岡崎次郎訳)大月書店

M.ハイデッガー「存在と時間」(細谷貞雄訳)理想社

C・I・バーナード「新訳経営者の役割」(山本安次郎他訳)ダイヤモンド社

加藤新平「法哲学概論」有斐閣「法思想史」勁草書房

岩田靖夫「アリストテレスの倫理思想」岩波書店

恒藤武二「ルソーの社会契約説と一般意志の理論」(「ルソー研究」所収)岩波書店

尾高朝雄「国家構造論」岩波書店

高田保馬「社会と国家」「社会学概論」岩波書店

南原繁「政治理論史」東京大学出版会

時枝誠記「国語学原論」岩波書店

(2023年6月公表)

 

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