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快楽と論理 ~拡がりの確証の分析~

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快楽と論理 ~拡がりの確証の分析~

和田徹也

目次

1. 問題提起  2.物質代謝と快楽  3.言葉と論理  4.論理の意味の共有と快楽  5.他者への拡がりの確証と理性  6.理性と義務論  7.功利主義と義務論  文献紹介:J.S.ミル「功利主義論」

 

1. 問題提起

私達人間は主体的に生きています。この主体性それ自体を表現することは表現された時点で客体になってしまうため困難です。そこで私はこの主体的に生きる人間を拡がる自我と表現しました。生の奔流である拡がりという概念を出発点として主体性を表現したわけです。

この拡がる自我は拡がりを確証しようとします。拡がりの確証は、生きること、生きていることを確認することです。個々の人間は誰もが生きる証を求めていると考えられるわけです。

では、生きる証はどのように獲得することができるのでしょうか。

私は、個々の人間が生きる証を見出す場合、大きく二つの方向に分けて考えることができると思うのです。

一つは、自分が快楽を得る事が生きる証だという発想です。例えば、美味しい物を食べると誰もが満足し、生きていることを実感するのではないかと思います。また、誰でも、よく寝て元気に働いて心地よい汗をかけば気分が良いわけで、生きることを実感するでしょう。これらは、快楽こそが生きる証であると認定できる例だと思うのです。

もう一つは、他者に対して自分の生きる証を求めるといった発想です。例えば、学校で皆の前で発表して先生に褒められれた時、また、会社で自分が担当するプロジェクトが成功し皆から称賛を浴びた時、誰もが生きている事を実感すると思うのです。これらの場合、自分が他者に対して論理を設定し他者がそれを認めるということが、生きる喜び、生きる証となっていると理解できると思うのです。投げかけた自分の論理を他者が認め、他者とその論理の意味を共有したということです。

以上申しあげたとおり、生きることの証は、自分が快楽を得ること、自分が設定した論理の意味を他者と共有すること、要するに、快楽と論理の二つに大きく分かれるのではないかと思うのです。

では、生きる証にとって、快楽と論理はどのような関係にあるのでしょうか。どちらが人間にとって本質的なものなのでしょうか。

今回は、生きる証、言い換えれば、拡がりの確証について、詳細に分析してみたいと思います。

 

2.物質代謝と快楽

人間は生物体として物を食べて物質代謝を行います。これは物に対する拡がりの確証と表現できるでしょう。このことを主観的に言えば、食欲を満たすということであり、食欲を満たすことは快楽であると言うことができます。したがって、物に対する拡がりの確証は、快楽が尺度になるとまずは考えられるわけです。

もちろん、これを客観的に見れば、物質代謝により生命体を維持している、こういう事実になります。しかし、主観的には快楽となるのです。美味しいものを食べて快感を覚えない人はいないでしょう。人間は誰もが快楽を求め、不快、苦痛を避けます。それは本能と言ってもいいでしょう。本能は生命を維持するためには不可欠であり、快楽も生きていくには不可欠だと言えるわけです。

したがって、人間が生きている以上、快楽の存在は絶対に否定することができません。なぜなら物質代謝と快楽は不可分だと考えられるからです。

このように考えれば、快楽は生きる証であり、快楽を得ることが、拡がる自我の拡がりの確証であることは否定することができないと思います。

誰もが快楽を求めています。したがって、快楽を経験することが人生の目標であり、それの実現が幸福だといった発想が生じます。ここに、思想史上、功利主義と呼ばれる理論が成立する根拠があるのではないかと私は思うのです。

 

3.言葉と論理

人間は他者に言葉を投げかけ続けています。以前論じたとおり、言葉を発する理由は大きく二つの側面に分かれます。すなわち、言葉は、人間が生きていくための手段だと考えられる一方、同時に、そもそも言葉を発すること自体が生きる目的であると考えられるのです。

人間は一人で生きているのではありません。物質代謝のため食べ物を得るにも他人との協働が不可欠で、他人と交渉しなければ生命を維持できません。交渉には言葉が必要ですから、言葉は人間が生きていくための手段であるとまずは考えられるのです。

しかしながら、人間が生きるとは、個々の生命体として物質代謝を行うだけではありません。生きるとは、様々な活動を行っている主体性を表現する包括的な概念だと思うのです。言葉を発すること自体が、生きるということに含まれているのであって、言葉を発することは単なる手段ではなく生きる目的でもあるわけです(「言葉とは何だろう」参照)。他者に言葉を発することが生きる目的であるということは、それはまさに個々の拡がる自我の他者に対する拡がりの確証ということになってくるのです。

ところで、人々は言葉に各人の思いを自由に付与します。したがって言葉の意味は曖昧なものとならざるを得ません。意味とは言葉に対する主体の把握の仕方のことです。一つの言葉に人々が群がって自由に意味を付与し、勝手なことを言い合う、これが言葉の真実です。

実は、それを是正するのが論理なのです。論理によって、曖昧だった言葉の意味がはっきりし、他者との意味の共有が可能になり、他者に対する拡がりを確証することができるのです(「論理とは何か」参照)。私達人間、個々の拡がる自我は、常に他者に対して言葉と論理を投げかけて、その意味を共有しようとしているのです。

 

4.論理の意味の共有と快楽

では、論理によって他者と言葉の意味を共有できた時、快楽を感じるのでしょうか。さらに言うならば、快楽を得るために、論理によって言葉の意味を他者と共有しようとしているのでしょうか。

なるほど、他者との言葉の意味の共有の実現は、気分が良いことは間違いないですし、これを快楽と表現することも可能だとは思います。しかし、言葉の意味の共有は、先程論じた物質代謝における快楽とは異なるのではないかと私は思うのです。快楽を味わうために言葉を発するだけではないと思うのです。

快楽は過去の実感、経験に基づきます。過去の否定できない生物的、身体的な満足に基づくのです。先程申し上げたとおり、生物としての人間は快楽を経験し、不快の経験を避けながら生きてきたわけです。このことは否定することができません。

これに対し、論理は未来へ向けてのものだと思うのです。他者に言葉と論理を投げかけ続けるのが人間なのです。未来へ向けての行為は単なる快楽ではありません。不確かな、実感できない希望をその本質とするものだからです。

希望は快楽とは異なると私は思います。希望は、あくまで未来へ向けてのものであるのに対し、快楽はあくまで経験なのです。

もちろん、快楽を希望するという表現もなされるでしょう。ただ、それが意味するのは、経験としての快楽を将来味わいたい、こういうことだと思うのです。

また、精神的な快楽といった、論理に基づく快楽も存在するでしょう。そもそも快と言う字は、心の痞えを取り除くといった意味があるそうです(学研漢和大字典)。ただそれはあくまで経験としての精神的な快楽なのです。

この点、論理の共有の希望は、快楽とは異なります。他者との論理の意味の共有は快楽を得るかどうかではなく、あくまで論理の意味を他者と共有することそれ自体の希望なのです。結果として快楽を得るかどうかはここでは直接的には関係ないと思うのです。

 

5.他者への拡がりの確証と理性

希望は生きる意欲であり、個々の人間すなわち拡がる自我は、生きる証を求め続ける存在です。別の表現をするならば、希望とは拡がりであり、未来へ向けたものです。他者への拡がりの確証は、他者と言葉と論理の意味を共有することによって確認されます。しかしながら、意味の共有は快楽の根拠となった物質代謝のような生物的な事実とは大きく異なると思うのです。

他者に対して言葉と論理を投げかけ、その意味を共有することは、様々な側面がありますが、基本となるのは、自分の内心の自由に基づき構成した言葉の意味を他者と共有することです。内心の自由に基づく意味を他者と共有することは、自分自身を他者に見出すことであり、これにより他者への拡がりの確証が実現することになるのです(「自由とは何か」参照)。

そこで、この他者への拡がりの確証をさらに分析し探究していきたいと思います。

まず言えることは、3で申し上げたとおり、そもそも言葉が曖昧なものである以上、確実、完璧な意味の共有はあり得ないということです。意味の共有は推測であり自己満足でしかないのです。

この推測・自己満足を確実なものとするために、人間すなわち拡がる自我は、昔から様々な工夫を凝らしてきました。例えば、存在といった概念があります。何かがあるといった否定できない事実を論拠に言葉の意味を他者と共有しようとするわけです(「存在とは何だろう」参照)。

実は、確実な意味の共有を実現するための概念として、極めて重要な働きをするのが、理性といった概念だと私は思うのです。理性があるからこそ相手と同じ論理の意味を共有できるということです。

例えば、理性によって認識可能な神の摂理に則るからこそ相手と同じ判断が可能になるといった思考です。また、自然には合理的秩序があり法則性を持つとの思考を理性により共有することにより、自然科学が成り立っているという発想です。

 

6.理性と義務論

人間の理性、実は、ここから義務論が生じてくると私は思うのです。義務論とは、道徳を義務の側面から考えていく立場です。思想史的には、カントの道徳理論がその代表です。

理性とは、論理を理解する能力、真偽・善悪を判断する能力です。理性があるからこそ他者と言葉と論理の意味を共有することができると考えるわけです。

私流にいうならば、理性は個々の拡がる自我共通の思考方法であり、拡がりの確証の論理の意味を他者と共有するための共通の基盤であり、意味の共有を担保するものなのです。よって、ここでは論理が重要なのです。感性ではなく論理です。論理は曖昧な言葉と言葉をつなげるものでした。論理は、法則・規則なのです。

まず、理性は正義を認識できなくてはなりません。正義は拡がる自我同士の衝突を調整する原理です。正義の論理により人間社会の秩序は維持されているわけです。秩序は拡がる自我の拡がりの確証にとって不可欠です。したがって、正義すなわち法を遵守しなくてはなりません。法的な義務がここに生じてくるわけです。

では、道徳的な義務はどのように生じるのでしょうか。そこで、正義と善の関係を考えてみましょう。

誰もが求める究極の理念が善です。善いことは誰もが求めるものであり、求めていなければ善いことではないのです。善それ自体を別の言葉に置き換えて表現することはできません。善は定義不能の概念なのです。ただ、他者に投げかける論理は、互いに善を求めているからこそ他者に注目され、他者とその論理の意味を共有できるのではないかと考えられるのです(「善と正義」参照)。

理性は、他者への拡がりの確証のために存在するものでした。この理性を前提として正義が設定され、人間社会の秩序が維持されているわけです。そして、正義により行為の是非が判断され、他者への拡がりの確証が実現されているのです。

このことが意味しているのは、正義に則るか否かで、善であるか否かが決まってくるということです。ここに道徳的な義務論が生じるのです。それは他者への拡がりの確証が絶対命令であることを前提としているのです。拡がりの確証が絶対命令だからこそ、善と正義が融合し、義務が生じるのです。

 

7.功利主義と義務論

ここで思うのが、他者への拡がりの確証が絶対命令であるのは、物質代謝における物への拡がりの確証と同じことではないかということです。したがって、道徳的義務論も、先程検討した快楽を根拠とする功利主義と同じことになってくるのではないか、このように私は考えるのです。

義務と快楽はある一つの同じ性質を含んでいます。どういうことかと言うと、否定できないという性格を両者とも持っているのです。それは、他者への拡がりの確証の論理の設定において否定できないこと、言い換えれば、論理の前提をなすということなのです。

功利主義と義務論の対立の本質はここにあるのです。これは快楽と論理の対立でもあるのです。

他者への拡がりの確証の論拠は、他者が否定できない性質が不可欠であり、その一つが快楽という概念であり、もう一つが理性を前提とした論理です。生きていく上で快楽は否定することができず、拡がりの確証が絶対命令である以上、論理も否定することができないのです。

実は、快楽は、様々な要素が考えられ、その概念は意外と複雑・曖昧なのです。快楽については、量的概念だけではなく質的概念も取り入れるべきといった議論が昔から存在しています。また、物質代謝は快楽の典型ですが、それに限られるわけではなく、精神的な快楽も存在することは否定できません。そのため功利主義は幸福という包括的な概念を用いたのではないかと思うのです。

一方、論理も、当然のことながら、様々な内容を持つ概念です。先程申し上げた、自然科学の前提である自然の合理的秩序も論理です。また、人々の利害を調整する正義も論理であり、例えば、社会契約説がその代表です。世の中には無数の論理が溢れています。誰もが認める仮説を根拠とする論理はいくらでも構築できるのです。

哲学史上の観点から言えば、快楽を重視する発想は経験論を基盤とし、論理を重視する発想は合理論を根拠としているのではないかと私は思います。快・不快といった心情を共感することから相手と同じ意味を共有することができると考えるのが経験論であり、理性があるから相手と同じ意味を共有できると考えるのが合理論だと思うのです。

以上申し上げたとおり、拡がる自我の拡がりの確証は、快楽と論理の二つの側面から分析することが可能です。そして、それは経験論と合理論のそれぞれを根拠としていると考えられるのです。そうなると、快楽と論理のどちらか一方が、人間すなわち拡がる自我にとってより本質的なものであると断言することは、極めて困難になってくるのです。

今回はここまでとし、経験論と合理論の対立については、改めて詳細に論じたいと思います。

 

文献紹介:J.S.ミル「功利主義論」

この本は、1861年に発表された論文です。今回は功利主義を主題の一つとしているので取り上げることにしました。

この論文を全部通読したのは、前回の論文「正義の本質」を執筆する際で、ベンサムの最大幸福の原理が論じられている「道徳及び立法の諸原理序説」と一緒に読みました。

私は、若い頃は、功利主義は少し浅はかな感じがしてあまり好きではなかったのですが、もちろん現在は全く違います。前回の講座でも論じたとおり、現在の公共政策理論や正義論では、功利主義が議論の中心となっているので、詳細な検討が不可欠となっています。前回紹介したロールズの「正義論」はまさにそれを実践している大変優れた書物だと思います。そして、実際ミルの論文を読むと、人間の本質を突く深い哲学が功利主義にはあるということを実感することになったわけです。

さて、この論文は、正邪の基準、すなわち道徳の基礎に関する論争は、二千年以上進歩が無いと断言するところから始まります。そしてミルは功利主義こそその回答であると考えているようで、その内容の詳細な検討を始めていくわけです。

まず功利とは最大幸福の原理であり、その信条に従えば、行為は幸福を増す程度に比例して正しく、幸福の逆を生む程度に比例して誤っているとします。幸福とは快楽を、そして苦痛の不在を意味し、不幸とは苦痛を、そして快楽の喪失を意味すると言うのです(467頁)。

また、ミルは快楽の質の差を認め、それは両方を経験した人が道徳的義務感と関係なく、決然と選ぶ方がより望ましい快楽だと言います(469頁)。

そして、ミルは、満足した豚であるよりも不満足な人間である方がよく、満足した馬鹿であるより不満足なソクラテスである方がよいという有名な主張をするわけです(470頁)。快楽には格差があり、人間にも格差があると言っているのです。高級な快楽を味わうのは高い能力を持っている者であるとしているのです(471頁)。

ただ、これは、快楽は低俗な概念といった意見に対する反論としての記述です。私なりに理解するならば、先程本論で論じた、食事等、物に対する拡がりの確証だけではなく、他者に対する拡がりの確証も快楽に含まれるとミルは考えたのだと思います。他者に対する拡がりの確証は投げかけた論理の意味を他者と共有することであり、その論理は高尚な文化を当然に含むことになるからです。

さらに、ミルは、功利主義の基準は、行為者自身の最大幸福ではなく、幸福の総計の最大量であるとします。高貴な人は、他人の幸福を増し、世間一般がそれからはかり知れない恩恵を受けていると言うのです(472頁)。

最大幸福の究極目的は、量・質ともにできるだけ苦痛を免れ、できるだけ享受が豊かな生存であるとし、質の判定基準は、経験する機会をもった時に、比較する手段をよく備えた人の選択であり、道徳の基準は、人間行為のための準則であり教訓であって、これに従えば最大幸福の生存が実現できるといったものなのです(472頁)。

ミルは、災害や窮乏等の人間の苦悩の主な根源はすべて人間の配慮と努力によって克服できるとします(476頁)。英雄なり殉教者なりは、他人に同じような犠牲を免れさせるために犠牲になったのであり(477頁)、功利主義が正しい行為の基準とするのは、行為者自身の幸福ではなく、関係者全部の幸福であると言うのです。そして功利主義の理想は、おのれの欲するところを人に施し、おのれのごとく隣人を愛せよ、といったイエスの黄金律にあるとします(478頁)。

一方、善い行為の大部分は世界の利益のためでなく、諸個人の利益のために行われているとも言うのです。例外的な場合のみ公共の功利を考えなければならないのであって、これ以外はすべて私的な利益を考えれば十分だとしているのです(480頁)。

ミルは、義務の内的強制力は、心中の感情であるとし、義務に反した時に感じる苦痛であるとします(489頁)。そして、この感情が利害を離れて純粋な義務観念と結び付くことにより良心が形作られ、この良心が功利主義の道徳の根源であり、義務といった強制力の根拠になるとします(490頁)。それは先験的な道徳を認めなくても十分認められるとし、人間を本当に動かす力はその人自身の主観的感情であると言うのです(491頁)。これはまさに、本論で申し上げた、理性に基づく論理を根拠とした義務論を否定する考えだと私は思います。

ミルは同胞との一体化といった人類の社会的感情の確固たる根底を認め、それは全ての人の利益が考慮される平等な人間の交わりであるとします(493頁)。快楽を原理とする功利の理論は、人間の不平等を取り除き、ここに他人の利益は自分の利益といった感情が生じて、あらゆる人との一体感が生まれるのです(494頁)。

さらにミルは、カントの「汝の格率(個人の行為の準則)が常に同時に普遍的立法として妥当することができるように行為せよ」といった第一原理では究極目的の証明は不可能だとし、幸福こそが究極目的だとします(496頁)。そして、何かが望ましいことを示す証拠は、人々が実際それを望んでいるということしかないと主張し、功利説が主張している幸福以外に究極目的はあり得ず、各人の幸福はその人にとって善であり、全体の幸福は全ての人の総体にとって善であるとするわけです(497頁)。

幸福とは抽象的な観念ではなく具体的な全一体であり、権力や名声を得ることも、音楽を愛好し、健康を望むことと同様に幸福の一部なのです(499頁)。徳は、快楽を増し苦痛を防ぐのに役立つという観念連合であるがゆえにそれ自体善いものに見えるのです(500頁)。幸福こそ人間の行為の唯一の目的であり、幸福の増進はあらゆる人間行動を判断する判断基準です(501頁)。

また、意志は能動的な現象であって、受動的な感受性の状態である欲望とは別物であるとし、元々欲望から枝分かれしたものですが、習慣の力によって別物になっているとミルは言っています(502頁)。

さらに、ミルは正義を検討します。功利・幸福といった概念が正邪の基準として認められてこなかった理由は正義の観念から来ているとし(503頁)、正義の観念には行動の準則とその準則を認める心情との二つの前提があるとします。行動の準則は人類全部に共通で人類の善を目指すようなものでなければならず、心情はこの準則を犯す者を処罰しようという欲求です(516頁)。ミルは、安全の利益こそ極めて重要であり誰もが渇望するものであるとし、ここに明確な正邪の感情が生まれると言うのです(517頁)。

これを私流に理解するならば、正義は拡がる自我相互の争いを調整する原理であり、それは誰もが認める客観的な準則と、それを実現する強制力から成る、こういうことだと思うのです。正義と言うと通常客観的準則が重視されますが、ミルは強制力の根拠となる処罰感情といった心情を重要視しているのではないかと思えるのです。

さらにミルは、功利を基礎としないような空想的な正義の基準を立てようとする主張を疑問視し、功利を基礎とする正義が一切の道徳の主要部分であり、比較を絶した最も神聖で拘束力の強い部分だとします。

道徳と便宜の区分は良心の呵責に期待するか否かであり(511頁)、正義とはある種の道徳律をあらわす呼び名であって、絶対的な拘束力を持つものです(523頁)。正義のあらゆる場合が、同時にまた便宜の場合であり、その相違は独特の心情が正義に付随する点で、ここに対照的な区別があるとするのです。正義は、あくまでもある絶対的、命令的な社会的功利を表す名称なのであり、人間の快楽・便宜を促進する観念に付随する、心情といったものによって保護されているのです。(528頁)。

以上のとおり、この論文は功利主義を重んじ、道徳的義務論を否定することを主眼としています。私は、個々の拡がる自我の他者に対する拡がりの確証を前提としている以上、道徳義務論を否定することはできません。ただ、ミルの主張は深い哲学的考察に基づいているということを強く感じました。

 

参考文献

J.S.ミル「功利主義論」(伊原吉之助訳)中央公論社世界の名著38

ベンサム「道徳および立法の諸原理序説」(山下重一訳)中央公論社世界の名著38

J.ロールズ「正義論」(川本隆他訳) 紀伊國屋書店

アリストテレス「ニコマコス倫理学」(加藤信明訳)岩波書店

I.カント「純粋理性批判」(宇都宮芳明他訳)以文社

I.カント「道徳形而上学の基礎づけ」(宇都宮芳明訳)以文社

ヘーゲル「法の哲学」(上妻精他訳)岩波書店

K.マルクス「資本論」(岡崎次郎訳) 大月書店

G.H.ミード「西欧近代思想史」(魚津郁夫他訳)講談社

M.ハイデッガー「存在と時間」(細谷貞雄訳)理想社

加藤新平「法哲学概論」有斐閣

岩崎武雄「倫理学」「カント」勁草書房

岩崎武雄「西洋哲学史」(有斐閣)

時枝誠記「国語学原論」岩波書店

関嘉彦「ベンサムとミルの社会思想」中央公論社世界の名著38

(2023年9月発表)

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