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真理とは何だろう ~生きる事と真理の本質について~

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真理とは何だろう ~生きる事と真理の本質について~

和田徹也

目次

1.問題提起  2.何かを見出すということ  3.生きるための真理  4.他者へ向けた真理  

5.矛盾の解決のための真理  6.真理の判断基準(対応説と整合説)  7.事実と論理  

8.真理の本質  参考文献

 

1.問題提起

前回の論文「弁証法とは何か」では、弁証法はあくまで真理追究のためにあるべきで、認識主観が用いてこそ、それを活用することができると申し上げました。物の認識の中で、ある命題とある命題が両立不可能な場合、それを矛盾と呼び、その矛盾を解決して真理を見出していく営み、これが弁証法である、このように申し上げたわけです。

そして、事実それ自体に矛盾が存在するわけではないのであって、真理を獲得するには、正しい認識に基づいた認識上の矛盾の解決が求められていると申し上げました。弁証法はこのような、真理を獲得するための手段として役立つ思考法なのです。

では、そもそも、真理とは何でしょうか。なぜ私達は真理を求めているのでしょうか。個々の人間が真理を追究する、この活動の根源はどこにあるのでしょうか。

さらには、真理であるか否かはどのように決定されるのでしょうか。例えば、人と議論になった場合、互いに真理を求めるという点についての対立は存在しないはずです。真理を求めているからこそ議論しているからです。では、この場合、真理を得たことはどのように認定されるのでしょうか。

人間はなぜ真理を求めるのか、そして真理はいかに認定されるべきか、こういったことが問題となってくるわけです。

今回は、真理とは何か、この問題を追究していきたいと思います。

 

2.何かを見出すということ

アリストテレスは「形而上学」の冒頭で、すべての人間は、生まれつき、知ることを欲すると言いました。これは、人間は真理を追求する存在である、このように理解することができるのではないかと私は思うのです。

ここでまず申し上げたいのは、真理といった言葉には、本当のこと、外観からは分からない本当のこと、こういった意味合いがあるということです。見出された本当のこと、こういう意味が真理という言葉にはあると私には思われるのです。

ハイデッガーは、「存在と時間」で、古代ギリシャ以来の哲学の探究の目的である真理とは何かについて、真であることないし真理性とは発見的であるということ、このように言います(上巻 359頁)。

このように、真理には、何かを見出すということ、発見的な性格があることは否定できないと思います。人は皆、常に何かを見出そうとしているのではないでしょうか。

では、以上のことは何を意味しているのでしょうか。人間はなぜ真理を見出そうとするのでしょうか。

人間は主体的な存在であり、こみ上げてくる「生」の存在です。ところが、この主体性それ自体を表現することは極めて困難です。表現された時点で客体となってしまうからです。そこで私は、「拡がり」を出発点に主体性を表現し、主体的な人間を「拡がる自我」と呼びました(「拡がる自我」参照)。

拡がる自我は、その外界で出会う対象に意味を見出そうとします。まずは、外界で出会う物に対し、生きる手段としての意味、すなわち、食べ物として、道具として、等々、様々な意味を見出そうとします。そして、外界で出会う他者、すなわち、他の拡がる自我に対しても同様です。この場合は他者と言葉の意味を共有することになります。私はこれら拡がる自我の外界への働きかけを「拡がりの確証」と表現しました(「拡がりの確証と組織文化の本質」)。

このような、常に何かを見出そうとする、これは、主体的な「生」というものを表現することでもあるのです。何かを見出して拡がりを確証しようとするのが生きている人間なのです。生きることこそ何かを見出すこと、すべての人間は知ることを欲するということ、こういうことだと私は思うのです。この何か、これこそが真理の意味するところではないか、このようにまず思ったのです。

 

3.生きるための真理

では、人間すなわち拡がる自我は、何を見出そうとするのでしょうか。

まずは、今申し上げたとおり、生きる手段を見出す、すなわち食べ物や道具を外界の対象に見出す、こういうことになると思います。人間は常に生きる手段を見出そうとしているのです。そして、見出したものが、実際に手段として機能した、これこそ真理を見出したということなのではないか、このように私は思うのです。外界の対象たるものは、それが役に立つかどうかは、まずは、未知なる存在として現れるのです。

真理とは認識と実在との一致である、このようによく言われます。これは、主観的な認識が実際の実在するものとその意味が一致したということなのではないでしょうか。今の例で言えば、役立つと見込んだものが実際に役立つものだった、こういうことです。その認識の対象たるものは、もともと役立つものとして実在していたわけです。ここに実在とは、決して否定することができない存在のことを意味すると考えられます。

人間、すなわち拡がる自我は、常に外界に対して、生きるための手段としての意味を見出しています。この生きる手段としての真理、これこそ、真理という言葉の意味の重要な側面なのです。

生きるための認識と実在との一致、これは、生きるための真理、このように表現できると思います。

 

4.他者へ向けた真理

さて、以前、言葉とは何だろうと考えた際、言葉を発することは生きる目的でもあると結論づけました。すなわち、生きるための手段として言葉を発するだけではない、生きる目的もあるのだ、このように考えたわけです。先程申し上げた、拡がる自我の他者に対する拡がりの確証は、まさに、この性格が強いのです。

言うまでもなく、言葉は他者に対し発せられます。他者とその言葉の意味を共有するために発せられるわけです。意味とは、言葉に対する主体の把握の仕方のことです。では、どのようにして他者と意味を共有するのでしょうか。

この場合、まずは、言葉を発する相手、自分が発する言葉を理解しようとする相手が必要となります。このことは、他者に注目される必要がある、こういうことになるわけです。こちらの発する言葉が他者に注目され、その意味を理解してもらって初めて他者に対する拡がりの確証が実現します。

実は、ここで必要となってくるのが「真理」ではないかと私は思うのです。

真理とは、誰もが求める性格を有するのです。先程申し上げたとおり、真理とは本当のことであり、本当のことは誰もが求めるのです。先程申し上げた、生きていく上で必要不可欠な手段を見出すこと、すなわち生きるための手段は間違いなく誰もが求める真理であるということになると思います。

このように誰もが求めるものを目指せば、誰もが注目するわけです。他者への拡がりの確証の論理は、誰もが求める、この真理を目指すからこそ他者に注目されるのです。これは他者に向けた真理と表現することができるでしょう。

では、他者に向けた真理は、生きるための手段としての事実といった発見的なものだけなのでしょうか。他に他者が注目することは無いのでしょうか。

実は、もう一つ、他者が注目する重要なことがあると私は思うのです。それは、矛盾の解決です。冒頭で申し上げたとおり、ある命題とある命題が両立不可能な場合、それを矛盾と呼び、その矛盾を解決していく営み、このことです。

この矛盾の解決は、論理的なものであり、何か実在するものを発見することとは、やはり異なると私は思うのです。しかしながら、矛盾の解決は、直接的な生きる手段ではないにしても、誰もが求めることなのです。なぜなら、以下のとおり、誰もが矛盾の解決を求めているからです。

矛盾とは何かについて、「同じものが同時に、そしてまた同じ事情の下で、同じものに属しかつ属しないということは不可能である」(「形而上学」101頁)、アリストテレスはこのように言いました。

この矛盾を解決することは誰もが求めていることは間違いありません。なぜなら、矛盾している言動は、そのことを理解することが不可能だからです。人に言葉を発するということは、投げかける相手にその意味を理解してもらうことを目的とするものです。矛盾している場合は、理解することが不可能であり、言葉を発することが無意味となるわけですから、誰もが矛盾を解決しようとするわけです。

したがって、矛盾の解決は誰もが求めることであり、矛盾の解決こそ真理であると言うことができるのです。

 

5.矛盾の解決のための真理

他者へ向けた真理における矛盾の解決はどのようになされるのでしょうか。この場合、二つの側面が考えられます。

一つは、矛盾を生じさせている事実とは異なった事実を発見するということです。現在の議論の前提となる事実とは別の事実が発見されれば、矛盾は解決する可能性があるのです。異なる事実が論拠となれば異なる命題が論理的に導かれるからです。

この発見される事実は、先程の生きるための真理と共通性があります。発見される新たな事実、すなわち認識と実在の一致とも言えるからです。

次に、もう一つの側面は、新たな論拠を見出すということです。現在の議論の共通の前提となっている論拠からさらにさかのぼり、そのさかのぼった新たな論拠から以前とは異なる新たな命題を導き矛盾を解決するのです。

こちらの側面は純粋に論理的なものであり、究極の論理的な根拠を求めることにつながります。いわゆる哲学上の根本理論と同様の性格を持つものです。

ではこの純粋に論理的な追及も真理としての性格が認められるのでしょうか。

私は、この究極の論拠も、真理としての性格が認められると思います。究極の論拠は、様々な思考上の試行錯誤、言葉の意味を深く掘り下げてはじめて獲得することができるものだからです。事実ではありませんが、論理を見出すということも、その発見的な性格の存在は否定できないからです。

 

6.真理の判断基準

 では、ここで視点を変えて、真理であるか否かはどのように決定されるのか、といった真理の判断基準を考えてみることにしましょう。

ここでまず申し上げたいことは、真理の判断基準というものは、4で論じた他者へ向けた真理の場合に問題となるということです。判断基準というのは、他者を意識した概念です。なぜなら、判断基準とは真理であるか否かを客観的に決定するものであり、客観性とは誰もが認めることを意味しているからです。要するに、他者への拡がりの確証のために真理の判断基準は必要となるのです。

もちろん、3で論じた生きるための真理の場合も、個々の拡がる自我は、それぞれ判断の基準を持っていて、生きるために真理を求めているでしょう。しかしそれは、その人の個人的な基準であって、他者から指摘されあるいは他者に主張する客観的な性格のものではありません。他者を意識して初めて真理の判断基準が問題となってくるわけです。

さて、真理が生きるための手段を見出す発見的なものであれば、真理か否かの判断は、先程申し上げた通り、理論と実在との一致ということになってくると思います。

この場合の実在とは、元来存在していたものそれ自体といった意味です。身近なものをその本来の効用に従って利用し生きる手段とする、これこそ発見的なものであり、真理の名に値することです。

では矛盾の解決はどうでしょうか。当然のことながら、この場合は論理的整合性が判断基準になると思います。この、論理的整合性、すなわち、論理上矛盾が存しないことが真理である、こういうことになるわけです。

 

7.対応説と整合説

ところで、真理であるか否かの判断基準としては、古くから、対応説と整合説の対立がありました。

対応説は、真理とは判断と実在の一致とするものです(岩崎「岩波講座哲学 真理論」282頁)。判断とは主語と述語からなる言語表現のことです。

アリストテレスは、「存在するものを存在しないと言い、存在しないものを存在すると言うのは偽であり、存在するものを存在すると言い、存在しないものを存在しないと言うのは真である」と言いました(「形而上学」126頁)。これは、対応説の根拠として考えられているものです。

対応説は、生きるための手段を見出す判断にまさに適応すると思われます。先程申し上げたとおり、役立つだろうと見込んだものが実際に役立つものだった、このことは、その認識の対象たるものは、もともと役立つものとして実在していたことになるからです。判断と実在の一致であるわけです。

一方、整合説とは、判断の真理性は一つ一つの判断について別々に確かめられるのではなく、判断相互の整合性によって判定されるとする考え方です(岩崎「岩波講座哲学 真理論」295頁)。

整合説は、矛盾の解決のための真理の判断基準となることは言うまでもないと思います。矛盾の解決はまさに、各判断が矛盾していないことを目指すものであり、判断相互の整合性がその基準となるからです。

 

8.事実と論理

さて、真理の判断基準の対応説と整合説ですが、少し考えてみると、話はそう単純ではないことに誰もがすぐ気付くはずです。

まず、対応説の言う実在とは何かが問題となってきます。なぜなら、この実在するものを明確化するのも判断だからです。

実在とは、通常外界の事実を意味すると思います。しかしながら事実は人によってそのとらえ方が異なります。そこで、誰もが納得する事実を実在と呼び、確固たる意味を与えるわけです。

ところが、この確固たる実在は判断によってはじめて分かるのであり、こう考えると、判断と実在の一致ということも判断と判断の一致ということになってくるわけです。そうなってくると真理も相対的なものとなってきてしまい、絶対的な真理というものはなくなってしまうでしょう。逆にある判断とある判断の整合性が真理という、整合説と同じことになってくるのではないかと思います。

一方、整合説は理論上のものであり、実在、すなわち外界の対象としての事実といった誰もが否定できない確固たる性質に欠けています。このことは、真理の発見的性格を弱めることになります。なぜなら発見されるものもすべて論理に基づくものとなってしまうからです。発見というのは、本来、確固たる事実・存在者があってこそ成立する概念です。したがって、論理だけに基づく整合説は確実性といった真理の究極の根拠としての性質に欠けてくることになるのです。

それでは、真理の判断基準はどのように考えられるべきなのでしょうか。

そこで考えられるのが、両者の長所を取り入れて真理の判断基準を形成するということでしょう。すなわち、実在としての事実・存在と、論理的整合性を組み合わせることにより真理の判断基準を構築するわけです。事実と論理、この二つをいかに結合させるか、これが真理の判断基準を確立させる上で問題となってくるわけです。

 

9.真理の本質

真理の判断基準としての事実と論理の組み合わせで、最も重要なのが、科学的認識だと思います。自然科学の発達は、誰もが否定できない人類の進歩でしょう。このことは、人類が真理を追求してきたその結果と考えることができると思うのです。

自然科学の認識は、矛盾を解決する仮説を立ててそれを事実で検証させ、さらに新たに生じた矛盾を解決していくための仮説を立て、それを事実によってさらに検証していく、この営みではないでしょうか。これこそ事実と論理の組み合わせでしょう。

ただ、私は、事実は重要であっても、最終的には究極の論理的根拠がより重要となってくるのではないかと思うのです。なぜなら、矛盾を解決するための仮説は、この究極の論拠と密接不可分の関係にあるのではないかと考えられるからです。

仮説はもちろん論理的整合性が無ければなりません。そしてその論理的整合性は、ある論拠に基づく演繹的性格を逃れることはできないように思うのです。したがって、論拠の論拠、すなわち究極の論拠が導かれてくるわけです。

例えば、リンゴがまっすぐに落ちるのはなぜかと考えて、全ての物は引力を有するという根本法則を考案することが挙げられます。万有引力の法則といった究極の論拠から様々な事象を説明するための仮説が導かれるわけです。

では、この究極の論拠とはどういう性格のものなのでしょうか。

私は究極の論拠の性格にこそ、真理の本質が見出されるのではないかと思うのです。どういうことかというと、人間、すなわち拡がる自我は、常に真理を求めている、何かを見出そうとしている、こういうことです。常に真理を見出そうとしているから究極の論拠を意識せざるを得ないのです。

究極の論拠は他者への拡がりの確証のためにあります。他者への拡がりの確証の論拠の必要性からますます真理は個々の人間すなわち拡がる自我にとって欠かせないものとなってくるのです。

このように考えてみると、真理とは、ある固定した対象ではなく、流動的な主体の運動であるように思われてきます。真理は、実は、具体性に欠ける抽象的な何かなのです。ただ、少なくとも、真理を見出そうとしていること自体は間違いありません。これこそ生きる事であり、私の主張する「拡がり」が意味するものなのです。

拡がる自我は常に拡がりの確証を求めています。言い換えれば、生、意欲の証を求め、そしてこの証を他者に見出そうとしています。この、求め、見出そうとすること、これこそが「真理」の本質であるわけです。

 

参考文献

アリストテレス(出隆訳)「形而上学」岩波書店

I.カント(宇都宮芳明他訳)「純粋理性批判」以文社

マルティン・ハイデッガー(細谷貞雄訳)「存在と時間」理想社

B.ラッセル(高村夏輝訳)「哲学入門」筑摩書房

岩崎武雄「真理論(岩波講座哲学8)」岩波書店

岩崎武雄「真理論」著作集第8巻 新地書房

近藤洋逸・好並英司「論理学概論」岩波書店

魚津郁夫「プラグマティズムの思想」筑摩書房

米盛裕二「パースの記号学」「アブダクション」勁草書房

田口茂「現象学という思考」筑摩書房

「パース・ジェイムス・デューイ(世界の名著59)」中央公論社

 

(2022年4月公表)

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