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自分本来の生き方 ~人生の意味を構築する必要性について~

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自分本来の生き方 ~人生の意味を構築する必要性について~

和田徹也

目次

1.問題提起  2.飯を食う(生計を維持する)ということ  3.主体的な人間と生産活動の本質  

4.生産活動における他者への拡がりの確証の困難性  5.組織と自己との同一視と全体の価値  

6.分割の論理と創造の論理  7.生き方の本来性と非本来性  

8.本来の生き方と人生の意味の構築   参考文献

 

1.問題提起

本当は、自分はこう生きたかったのだ、時々こう思うことがあります。本来私がやりたかったのは別のことだった、誰もがこういう思いをしたことがあるかもしれません。特に社会人として働き始めた後はそう思うことが多いでしょう。少なくとも私はそう思ったことがありました。

こういうことを聞くと、そんなのは甘ったれた根性だとか、人生の修行が足りないんだとか言って怒りを露にする人もいるかもしれません。しかしながら、そのような怒りを他人にぶつける人こそ、明らかに何かに我慢して生きているのであり、本当にやりたいことができない人間であり、その不満を他人にぶつけているに過ぎないのではないかと思ってしまうのです。

もちろん、職場の仲間の前で「私の本来の生き方はこうではない」などと言ってるのを聞くと、回りの誰もが気分を害することも当然だと思います。そういうことは心の中で思えば良いのです。実際、自分の長年の社会人経験を思い返してみても、こういうことを口にする人間は皆から嫌われていたのは間違いない、このように思うのです。

しかしながら、私は、自分本来の生き方を追求することは重要なことであるとも思うのです。なぜ重要かと言えば、それこそが人間の本質ではないかと思うからです。本来の自分の生き方を求めるのが人間である、こういうことです。

そこで今回は、自分本来の生き方とは何か、そして、そもそも人生とは何か、自分の人生の意味を構築する必要はあるのか、こういった人生論的なことを皆さんと一緒に少し考えてみたいと思います。

 

2.飯を食う(生計を維持する)ということ

さて、生きていくには当然のことながら、外界の物質を摂取し、利用していかなければなりません。人間は誰もが衣服を着て、生命を維持する物質代謝すなわち食事をして、住居に住んで、日々生活しているわけです。そして、ここで重要なことは、これら衣食住に必要な物質を誰もが生産しなければならないということです。

現代社会においては、これら物質の生産は様々な職業として分業がなされて行われています。人間は、成長したらこの生産活動に参加して分業としての役割を担う、言い換えれば、就職して諸々の仕事を行うことになるわけです。これが、俗に言う、飯を食うということです。要は、生計を維持するということです。

子供は親の庇護の下、生産活動をしなくても構いません。しかし成人すると誰もが自分で飯を食っていかなければならなくなるわけです。生産活動すなわち労働の対価として報酬を得る、これで初めて飯を食うことができます。

では、この生産活動とはどのような構造になっているのでしょうか。

人間は一人で生きているのではありません。社会を構成して生きています。生産活動も社会で行われます。このような物の生産を目的とするような社会、何らかの目的を達成するために形成された社会、これは目的社会と呼ぶことができると思います。

これに対し、ある一定の地域を基礎とする社会でその中に様々な目的社会を包摂するのが全体社会と呼ばれるものです。この場合、個々の目的社会は、生産活動を行うものだけに限られません。趣味のサークル等もあるでしょう。しかし、全体社会に存在するその多くの目的社会は、生産活動を行う目的社会となっているのが現実です。

生産活動を行う目的社会は、その目的を達成させるために組織化されます。組織とは二人以上の人々の意識的に調整された活動や諸力の体系です(バーナード「経営者の役割」)。そして、組織は地位役割の体系であると表現することもできます。

実は、飯を食うためにこの目的社会の組織の中で働く時、どうしても本来の生き方といったものが各人に求められてきてしまうのではないかと私は思うのです。なぜなら、他者と協働して目的を達成させなければならないからです。

では、他者と協働するとなぜ本来性といったものが求められてくるのでしょうか。なぜ本来の生き方が問題となってきてしまうのでしょうか。そこで次に、他者との協働といったことについて詳しく分析してみたいと思います。

 

3.主体的な人間と生産活動の本質

言うまでもなく、人間は主体的な存在です。この湧き上がってくる生の奔流としての主体性、より多くの他者に言葉と論理を投げかけ続ける主体としての存在、これが人間です。社会は個々の主体的な人間が作り上げるものです。この主体的な人間が集合したのが社会というものです。

私はこの主体的な個々の人間を「拡がる自我」と表現しました。実は、主体性それ自体を表現することは極めて困難なのです。表現した途端に客体になってしまうからです。そこで私は「拡がり」といった概念を出発点として主体的な個人を表現したわけです(「拡がる自我」参照)。

拡がる自我は、他者に言葉と論理を投げかけて他者に拡がる存在であって、投げかけた言葉と論理の意味を他者と共有することによって生きていることを実感・確認しようとします。ここに意味とは言葉に対する主体の把握の仕方のことです。そして、この拡がる自我が言葉と論理の意味を他者と共有して、生きているということを実感・確認することを、私は「拡がりの確証」と表現しました(「拡がりの確証と組織文化の本質」参照)。

実は、人間の生産活動における他者との協働も、個々の拡がる自我が他者へ拡がりの確証を求めることである、このように言えるのです。他者と協働することによって、互いに他者と言葉と論理の意味を共有し、互いに拡がりの確証を得ているわけです。当然のことながら、他者との協働は互いに言葉の意味を共有しなければ成立しないからです。

しかしながら、生産活動においては他者と単に言葉の意味を共有しただけではだめなのです。単なる言葉の意味の共有は、もちろんそれ自体拡がりの確証でもありますが、生産という目的にとっては出発点に過ぎません。生産活動においては生産物といった価値あるものを創造しなければならないからです。ここに価値とは、誰もが求めるものであって高低あるいは大小といった比較がその本質にあるものを言います。

生産活動における他者への拡がりの確証は、価値の創造であり、それは結果的に自己と他者との比較を帰結することになります。生産活動の結果が比較されてくるわけです。この場合、一定の価値基準を基にして、他者への拡がりの確証がどの程度実現したかが明らかになってきます。現代社会では、その基準は商品の価値であり、売れた商品の価格が他者への拡がりの確証の尺度となるわけです(「価値とは何か」参照)。

 

4.生産活動における他者への拡がりの確証の困難性

拡がる自我は他者へ言葉と論理を投げかけて他者とその意味を共有して拡がりを確証します。先程申し上げたとおり、生産活動はそのもっとも重要なものの一つです。

しかしながら、価値といった上下の格差があると、他者への拡がりの確証は期待通りにいかなくなってきます。投げかけた論理に上下の価値の差異があると、その価値を相手が認めるか否かが問題となってくるからです。

上下の価値の差異を客観的に把握するために、人間すなわち個々の拡がる自我は様々な論理の体系を打ち立てます。その既存の価値基準に当てはまれば誰もが価値の実現を認めることになる、こういった尺度となる論理を求めるのです。その一つが先程申し上げた商品の価値です。売れた商品の価格は客観的な尺度となるわけです。

売れた商品の価格を基に、個々の拡がる自我は他者への拡がりを確証します。このことは、個人事業主はもとより、企業で働く場合も基本は同じです。

さて、実は、この生産活動における商品の価値の実現で、他者への拡がりの確証の困難性が露呈してくるのです。その困難性は大きく二つの問題に分かれると私は考えます。

第一に、果たして商品が売れるのかという問題があります。現代社会は商品の流通によって成り立っています。商品が売れたことをもって、社会的分業を実現したことが確認されるのです。商品を売るために多大な努力をするのが人間、言い換えれば個々の拡がる自我です。

この場合、特に、新たな商品を創造して売ることは大きな困難を伴います。既存の売れている商品とは異なり、新たな商品の使用価値は買い手の需要の推測に過ぎず、売れるか否かは基本的に未知だからです。その様々な困難を乗り越えて商品を創造する労働、努力の結晶、これこそが商品の価値の本質です。

第二に、商品が売れたとして、組織の中の個々の拡がる自我はそれに応じた拡がりの確証を得られるのか、こういう問題があります。組織は様々な職務から成り立つ、分業の体系なのです。その中で、個々の職務を担う個々の拡がる自我は、商品が売れたことにより拡がりをどのように確証できるのかということです。

現代社会では、多くの人が組織に所属して生産活動を行っており、それに比較して個人事業主の数は僅かです。したがって、第二の問題がより大きな問題となってきます。もちろん第一の問題は大きな組織にも当然当てはまる困難性です。しかしその大部分は第二の問題に吸収されてしまうでしょう。なぜなら商品が売れたというのは、組織の中の多くの人達の協働の成果であり、個々の人間の成果はそれに吸収されてしまうからです。

そこで、第二の問題の困難性を乗り越えることが大きな課題になってくるわけです。組織の中で、如何に個々の拡がる自我は他者に対する拡がりの確証を実現するのか、これが乗り越えるべき大きな問題になってくるわけです。

 

5.組織と自己との同一視と全体の価値

第二の問題の困難性を乗り越えるには、まずは、組織全体と自分との同一視が重要になってきます。例えば、会社の成長を自分の成長と同一視するのです。

どういうことかと言うと、企業が外部の他者に対して商品を売ることにより企業自体が拡がりの確証を得る、ここで企業と自分を同一視すれば、自分が他者に対して拡がりの確証を得たことになる、こういうことです。

自分の他者への拡がりの確証を、自分が所属する組織の拡がりと同一視する、これは、直接的な他者への拡がりの確証ではありません。間接的な他者への拡がりの確証になるわけです。

実は、このように個々の拡がる自我の他者への拡がりの確証が間接的なものになると、どうしても本来性といったものが求められてくるのではないかと私は思うのです。なぜなら、他者への拡がりの確証は本来直接他者と言葉と論理の意味を共有するものだったからです。直接他者に対して商品の価値を実現することだったからです。

以上のことをさらに詳細に考えて行きましょう。

組織と自分との同一視、このことは組織に大きな価値を置くことを意味します。誰もが自分自身に大きな価値を置いていることは否定できないからです。これは、組織の「全体の価値」と表現することができます。組織と自分との同一視は、組織の全体の価値の形成を意味しているのです。

そして、全体の価値は、組織の中の役割関係を正当化する機能があります。組織での分業に伴い生じる、組織を逸脱しようとする様々な誘惑や衝動を乗り越えるより高い価値、これこそが全体の価値です。

組織を離れるよりも組織に所属する価値の方が高いからこそ、様々な困難を乗り越えて組織は維持されているのです。これが組織の全体の価値の機能です。

そこで、この組織の全体の価値の中で、個々の拡がる自我は如何に他者に対する拡がりの確証を実現するのか、こういうことが問題となってくるわけです。

 

6.分割の論理と創造の論理

同一視と正当化、この二つの要因から全体の価値はますます大きな価値を獲得し、組織もますます発展して大きくなっていくでしょう。ところが、個々の拡がる自我の他者への拡がりの確証は、組織が大きくなるに従い、組織が生み出す商品の価値からますます遠ざかっていきます。

そこで、個々の拡がる自我は、組織の身近な人間関係の中で、拡がりの確証を求めようとすることになります。この場合、組織の全体の価値が大きな働きをせざるを得ません。全体の価値の中での自分の位置付け、組織という上下の地位役割関係の中での自分の地位、こういったことが重要となってくるのです。

この全体の価値を前提とした他者への拡がりの確証の論理を、私は「分割の論理」と名付けました。組織の中では分割の論理によって他者への拡がりの確証を求めざるを得なくなってくるのです。

これに対し商品の価値を基にした他者への拡がりの確証の論理を「創造の論理」と呼びました。商品の価値は創造の論理の典型なのです。生産活動は本来何かを生産する、創造することを意味するわけです。この生産活動を基に他者への拡がりの確証のために投げかける論理が創造の論理なのです。

 

7.生き方の本来性と非本来性

生産活動の組織の中では、組織全体の価値を前提とした分割の論理と、商品の価値の実現である創造の論理が存在します。組織が大きくなると分割の論理が優勢となってくること今申し上げたとおりです。

ここで、私達、すなわち個々の拡がる自我は、生き方の選択を迫られます。一つは分割の論理を重視する方向で、もう一つはあくまで創造の論理を求めていく生き方です。

分割の論理を重視する生き方は、端的に言えば、組織の上下関係の中での上位の地位を目指すものです。身分的な上位の地位を得ることにより、他者への拡がりを確証する生き方です。

創造の論理をあくまで求める生き方は、商品の価値の実現を前提とするもので、仕事の行為、成果を基に他者への拡がりを確証するものです。しかしながら、組織の中では、創造した商品の価値を直接実現することは不可能です。なぜなら、商品の価値を共有するのはその商品の購入者、すなわち組織の外部の者だからです。商品の生産で創造の論理を貫徹させるのは不可能とならざるを得ません。

実は、私は、自分本来の生き方とは創造の論理を意味するのではないかと思うのです。すなわち、創造の論理に基づく直接的な他者への拡がりの確証、これこそが本来性ではないか、このように私は思うのです。

逆に、分割の論理は出発点だからこそ非本来性を有せざるを得ないのではないか、このように思うのです。なぜなら、拡がる自我が本来性へ向けて拡がるのであれば、出発点はどうしても非本来的位置にならざるを得ないからです。本来性へ向けた拡がりの確証の論理、これこそが創造の論理であると言えるのです。

ただ、創造の論理を実現する出発点としての組織の秩序を構成する理念が全体の価値だったわけで、全体の価値があるからこそ個々の拡がる自我は創造の論理を実現できるのです。この全体の価値を根拠にした自分の地位を根拠に、他者への拡がりの確証の論理を投げかける、これこそ分割の論理だったわけです。

したがって、非本来的であっても分割の論理は私達にとって不可欠です。分割の論理の出発点としての機能を前提にしなければ、創造の論理の認識が不可能だからです。

 

8.本来の生き方と人生の意味の構築

創造の論理の実現が、自分本来の生き方である、このことをさらに深く考えて行きましょう。

現代社会における生産活動においては、創造の論理が切り離されています。実は、賃労働が、ますます創造の論理から個々の拡がる自我を切り離したことは明らかだと私は思うのです。賃労働とは、自分の労働力を売って、その対価である賃金を得ることです。賃労働とは労働力の商品化を前提とするものです。

以前にも論じましたが、賃労働は「物による支配」の典型です(「労働者保護立法の本質」参照)。組織は上下関係が避けられません。指揮命令系統が不可欠だからです。そして、組織の上下関係は、下位の者が反感を持つと支配関係に転化します。この、支配関係を隠ぺいするのが物による支配です。人に支配されるのではなく物に支配される、このように正当化するのです(「価値と反価値」参照)。

したがって、物による支配は組織の存続にとっては不可欠であり、賃労働も不可欠となります。結局、組織における生産活動では、自分が創造した商品の価値の直接的な実現が個々の拡がる自我にとっては不可能となってしまうのです。

言うまでもなく、創造の論理の典型が商品の価値であったわけです。それでは商品の創造の他に創造の論理は存在しないのでしょうか。商品の他に創造の論理には何があるのでしょうか。

ここで重要なことは、創造の論理の構築は、有形物の創造に限られないということです。様々な理論、理念、これらの創造も他者に向けての拡がりの確証の根拠となるのです。

例えば、非本来的な既存の論理を基に、新たな拡がりの確証のための論理を打ち立てることこそ創造の論理と言えるのではないでしょうか。新しい経営理論、新しい科学理論、新しい哲学理論、これらは即座に商品とはなりませんが、創造の論理の設定であることは間違いないと思うのです。

人生の意味の構築の本質はここにあるのです。

分割の論理の前提となる既存の論理体系、これは誰もが必要とし、その中に埋没せざるを得ない論理です。いわゆる世間というものであり、常識といったものです。これを論拠に新たな理念を打ち立てる、これこそが創造の論理の設定なのです。

既存の世間の論理に従属して生きていくのはもちろん悪いことではありません。それが意味するのは、分割の論理の中への安住です。そこに所属すれば何らかの形で飯を食っていけるのです。我慢していれば生きていけるのです。その典型が賃労働であり、労働力を売るという発想です。創造の論理の意気込みに欠ける労働です。

しかしながら、拡がる自我はどうしても創造の論理から逃れることができません。したがって、人生の意味を構築せざるを得ません。自分で構築した人生の意味を仕事に活かすのも自分次第なのです。

さらに言えることは、歴史を振り返れば明らかなとおり、この個々の拡がる自我が構築する人生の意味こそ、社会を変化させ、歴史を動かしていく動因となるものなのです。

このように、人生の意味の構築は、自分自身にとっても、人間社会にとっても、極めて重要な意味をもっているのです。

 

 

参考文献

M.ハイデッガー(細谷貞雄訳)「存在と時間」理想社

アリストテレス(出隆他訳)「自然学」岩波書店

カール・マルクス(岡崎次郎訳)「資本論」大月書店

C.I.バーナード(山本安次郎他訳)「経営者の役割」ダイヤモンド社

久留間鮫造「価値形態論と交換過程論」岩波書店

加藤新平「法哲学概論」有斐閣

渡辺二郎「ハイデッガーの実存思想」勁草書房

和辻哲郎「倫理学」岩波書店

時枝誠記「国語学原論」岩波書店

 

(2022年7月公表)

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