個々の人間にとって社会と組織はどのような意味を持つか。和田徹也のホームページです。

善と正義

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善と正義

和田徹也

目次

1.問題提起   2.善について  3.正義について  4.主張される正義  

5.客観的な仮説による正義  6.客観的な善の存否(イデオロギー概念・カントの思想)  

7.拡がりの確証の論理としての正義 ~善と正義の融合~

1. 問題提起

善という言葉は日常よく使う言葉です。倫理学では、善が探究の対象となるとされています。では善とは何でしょうか。

一方、正義という言葉も日常よく使われています。法学では、正義が探究の対象となります。では正義とは何でしょうか。

善も正義も、改めてそれが何かと聞かれても、簡単には答えは見つからないでしょう。それだけでなく、善と正義は同じ概念なのか、あるいはどのように異なる概念なのか、そこからしてはっきりしないと感じるのは私だけではないでしょう。

そこで、私は、「拡がる自我」を出発点としてこの疑問の解決に挑戦したいと思ったのです。拡がる自我は、主体としての個人を表現する言葉です。人間は誰もが他者に拡がる主体的な存在です。そして、他者に「拡がりの確証」を求めていくのが拡がる自我です。拡がりの確証は、他者と意味を共有することによって得ることができます。ここに意味とは、言葉に対する主体の把握の仕方です。

この拡がる自我と拡がりの確証の論理によって、善と正義の両者の内容や関係を理論的に整理できるのではないかと考えたわけです。この論文では、この大胆な試みを行っていきたいと思います。

ところで、私は、善と正義の探究は、人間の本質をとらえることになると思っています。ここに本質とは、普段具体的に考えている人間というものを、その根源から導くことを可能にする言葉と論理のことです。具体的な概念を演繹的に導くことを常に可能にする言葉がその対象たるものの本質です。言い換えれば、人間の本質とは、実は人間とはこういうものだったと、そこから納得できる言葉と論理、個々の人間の具体的な行為や具体的な意思決定が行われる際に、常にそのよりどころとなっている言葉と論理のことなのです。

社会と組織での実務の現場では、様々な意思決定、判断を行う際に、何が善なのか、何が正義なのかといったことが、実は、必然的かつ日常的に探究の対象になっているのではないかと思います。個々の人間の生きる目的、他者との関わりあい方等々、社会と組織の中では、これら日常接する事案すべてが善と正義という言葉に関わっているのです。

 

2.善について

まず善から考えていきましょう。

善とは、誰もが望むもの、誰もが求めるものです(アリストテレス「ニコマコス倫理学」)。誰もが求める究極の理念が善です。善いことは誰もが求めるものであり、求めていなければ善いことではないのです。

人間は様々な活動を行っています。建物を建築したり、医療を行ったり、教育したり、その他無数の活動をしていますが、その際は、善い建築、善い医療、善い教育を目指しているわけです。善いものは誰もが求めるものであり、善い活動は誰もが注目するものなのです。

さて、このような人間社会における個々の人間の様々な活動は、究極的には、他者に向けられたものであると言えるでしょう。このことは、言い換えれば、拡がる自我が拡がりの確証の論理を他者に向けて投げかけることでもあります。そこで私は、「善」を、個々の拡がる自我が他者に投げかける拡がりの確証の論理が追求するもの、拡がりの確証の論理が最終的に目標とするものであると、まず考えました。すなわち、個々の拡がる自我が拡がりの確証のため他者と意味を共有するための、投げかけた論理の意味の究極の根拠が「善」であると考えたのです。他者に投げかける論理は、善を求めているからこそ他者に注目され、他者とその論理の意味を共有できるのではないかと考えたわけです。

したがって、個々の拡がる自我の拡がりの確証の論理が目指す理念的なものが善であって、予め善それ自体が客観的に存在しているわけではありません。もちろん、これは善いことだと表現することは日常誰もが行っていることですが、善そのものを表現することは困難です。善とはこういうものだと、善の内容を万人共通の存在として、善それ自体を予め別の言葉に置き換えて表現することはできません。善は定義不能の概念なのです(ムア「倫理学原理」)。

そして、善とは本来的に主観的なものであり、その人の直観によって把握できるものです。その人にとって善は明らかですが、それが客観的に他者にとって同様の意味があることを保証する手段はあり得ないのではないか(岩崎武雄「現代英米の倫理学」55頁)、このようにまず考えたのです。

しかし、ここで極めて重要なことを忘れるわけにはいきません。それは、善が拡がりの確証の論理の目標である以上、善は他者への拡がりの確証のためにあるわけで、他者との意味の共有を目指す性格を持つということです。他者に拡がりの確証のための論理を投げかけ、その論理の意味を他者と共有しようとするのが拡がる自我です。善は他者も追求するものなので、他者との善の共有を目指すことにより、拡がりの確証を求めようとするのが主体的な人間、すなわち拡がる自我なのです。善は誰もが求めるものであり、善を最終目標とすれば誰もが拡がりの確証の論理に注目し、拡がる自我は拡がりを確証することができるのです。逆に言えば、最終的に善を共有したことが、投げかけた拡がりの確証の論理を相手と共有したことであり、その拡がる自我が拡がりを確証したのだとも言えるのです。

このように、互いに善を見出すことによって拡がりの確証のための論理の意味を共有する、これが重要なのです。善は意味を共有するための導きの糸なのです。

以前申し上げたとおり、拡がる自我は拡がりを確証したいがため言葉に勝手に思い思いの意味を付与する存在です。したがって言葉は極めて曖昧なものとならざるを得ません(「言葉とは何だろう」参照)。その点では、善という言葉は、曖昧な言葉の極みとも言える性格を有するのかもしれません。

その一方、拡がる自我は常に他者に対し、意味の共有を期待しています。この期待に反する場合は、強制的な意味の共有、強制的な拡がりの確証を目指すことになり、争いが生じてしまいます(「管理と支配の間にあるもの」参照)。投げかけた拡がりの確証の論理に善を認めることができたならば、この意味を共有するための争いを避けることができるのです。なぜなら善は誰もが求めるものだからです。

したがって、善が他者との意味の共有を導くものである以上、どこかに善という言葉の意味の普遍性が見いだされるのではないかと考えられるのです。この善に対するそれぞれの拡がる自我が抱く拡がりの確証への思い、拡がりの確証の論理を共有する必要性、そこに認識の対象としての善が成立するのではないかと思うのです。

拡がりの確証のための論理が要求する究極の論拠、そこに善が意味する何かがあります。善いことは誰もが注目するのです。ただその内容は極めて曖昧で、誰もが求めているものを吸収する機能があり、それぞれの拡がる自我が直観により認識するしかない主観的な概念、これこそが善という言葉の持つ特色なのです。

 

3.正義について

正義は、善と異なり、本来、客観的なものであって主観的なものではないと考えられます。なぜなら正義は個々の人間相互の、言い換えれば、拡がる自我相互の調整のための概念だと考えられるからです。個々の主体的な人間、すなわち拡がる自我が、拡がりの確証を求めて論理を設定し、他者に投げかけ、他者と意味を共有しようとする、この過程では必然的に争い、衝突が生じます。2でも申し上げましたが、意味の共有の期待に他者が反した場合、そこに意味を共有させようとする強制が発生し、争いが生じてしまうのです。この争いを調整、修復するのが正義なのです。

したがって、正義が、拡がる自我相互の調整の原理である以上、正義とはこういうものだといった、ある程度の明確さ、誰もが認める客観性が予め必要となるのです。与えられた正義の論理を根拠に自分の拡がりの確証の論理を修正することが求められてくるのです。そのためには複数の拡がる自我が、皆納得できる客観的な論理でなければなりません。ここが先に述べた善と大きく異なるところです。

では正義の客観性はどのように形成されるのでしょうか。正義の概念も多義的だと言われています。そこで、この正義の概念の多義性を整理することにより、正義の客観性を明らかにしていきたいと思います。通常正義の多義性は三つに分類整理されているので(加藤新平「法哲学概論」442頁)、それに従って考えていきます。

まず、実定法の遵守が挙げられます。アリストテレスが言うところの広義の正義、すなわち法的正義がこれです。調整の原理を文章とし、制定された法律として、端的に目に見える客観的存在としてしまうのです。この場合、重要なのは、法律文書として目に見えるということであり、その中身はここでは別です。後に述べるとおり、調整の原理の実質的な内容は、その社会、組織によって異なってくるのは当然のことです。ただ、法として制定された以上、法は正義であり、遵守しなければならないということです。

次に形式的な平等の原理、すなわち「各人に彼のものを」といった正義です。この形式的な正義は、その形式性ゆえに客観的なものと認められるのです。

アリストテレスは、この正義を狭義の正義とし、さらに配分的正義と匡正的正義に分類しています。配分的正義は、名誉であれ、財であれ、他のものであれ、およそ国家の公民に分かたれるところのものの配分において、それぞれの人の価値に相応して比例的に配分を均等化すること、等しいものには等しいものを等しからざる者には等しからざるものを配分することです(前掲書442頁)。

匡正的正義は、並列的な個人間の相互交渉において、当事者の価値人柄等の人的差異にかかわらず、彼らを全て等しい者と見なした上で、利害の得喪に過不足の無いように調整し、あるいは被害の救正の役目を果たすものです。この場合はさらに二つに分かれ、一つは売買や貸借などの随意的交渉におけるものであり、もう一つは不法行為や犯罪など不随意的交渉に基づくものです(前掲書443頁)。

この「各人に彼のものを」という形式的な正義の概念は、やはり客観性を持つものであると私は思います。もちろん、誰もが客観的と認めるのは先に述べた物理的に存在する実定法でしょう。ただ、その実定法を正当化する根拠、この理念的な客観性も、正義という概念には存在すると考えられるのです。

また、形式的正義を、当然のことを言っているので中身がなく、無意味とする考えもあるかもしれません。しかし、このような考えは明らかに誤っていると私は思います。次に説明する実質的正義は、この形式的正義を前提として成り立っているからです。形式的正義は当然のことだからこそ客観的存在となるのです。

さて、正義の多義性を整理するための第三の概念として登場するのが、実質的正義と言われるものです(前掲書439頁)。実定法と形式的正義は、当然のことながら、現実社会に適用されるものです。この複雑な現実社会に正義が適用される、あるいは正義が実現される際にその基準となるのが実質的正義です。法律の制定では、現実社会での立法の趣旨に関し、何が正義であるかが議論されるでしょう。法律を適用する際も、特に裁判などでは何が正義かが激しく争われるはずです。

実は、私はこの実質的正義にこそ、2で論じた善の要素が正義に流入してくるのだと考えているのです。本来正義は客観的な性格のものです。先に述べたとおり、拡がる自我相互の調整の原理である以上当然のことです。しかし、現実社会でこれが正義であると主張する際は、拡がる自我の拡がりの確証の論理の設定、言い換えれば自己主張になるのではないかと思うのです。これが正義だという自分の主張を他者に認めさせ、正義の意味を共有することにより他者に対する拡がりの確証を得るわけです。これは、拡がりの確証の論理の設定であり、善を導きの糸として、実質的正義を相手に認めさせることによって、拡がりの確証を得ることです。ここでは、善と正義は密接不可分の関係になります。したがって、実質的正義は、同じ正義ではあっても、それ以外の二つの正義概念とはその性格が大きく異なってくるのです。

 

4.主張される正義

実質的正義は、現実社会で客観的な正義を実現するための基準であり、これが正義だと主張される正義であって、それは拡がる自我の拡がりの確証の論理の設定により打ち立てられることを見ました。ところで、2で申し上げたとおり、他者に対する拡がりの確証の論理を実現するための導きの糸になるのは善です。現実社会での正義の実現は、善を経由しなければ実現できないのです。客観的な正義を確立させるために、これが正義だと主張する際、ここで何が善であるかが問題となってくるのです。

具体的に考えていきましょう。例えば、使用者と労働者の労働契約です。不利な者を有利な者と実質的に同等にして対処することが善であり、正義の実現であるという主張があります。一般的に労働者は使用者に比較し、不利な立場にあると考えられています。したがって、各人に彼のものをという形式的正義をそのまま適用するのはよくないとの考えが出てくるのです。労働者保護のため様々な保護規定を定めることが善であるというわけです。

ただ、ここで善の特徴が前面に出てきます。善は各人が直観的に認識しうるだけであり、これが善だという客観性に乏しいということです。有利不利とはどこで判断するのか、実質的に同等とはどのように判断するのか、このことは、それぞれの主張する個人、すなわち拡がる自我によって異なります。善は誰もが求めるものですが、これが善だという客観的根拠は無いのです。

今の労働契約の例で言えば、通常、多くの人は労働者を保護することは善いことであると思っているでしょう。しかし、例えば、何百人もの従業員がいる会社と結ぶ労働契約と個人事業主が初めて結ぶ労働契約では大きな違いがあります。個人事業主は労働者に比較しそれほど優位な立場にあるのでしょうか。事業継続のリスクを考えれば、不利な立場にあるとも言えるのではないでしょうか。個人事業主も保護することが善であり、正義の実現であると主張することも可能なのではないでしょうか。

このように、現実社会での、主張される正義、すなわち実質的正義は、それを主張する個々の人間、すなわち個々の拡がる自我が、何をもって善とするかにより、大きく意味が異なってくるのです。各人の正義に対する思い入れの違いがはっきりと表面に出てくるのです。客観的な正義の、その客観性をめぐって主張される正義の意味、言い換えれば何が善であるかが対立してくるのです。

 

5.客観的な仮説による正義

正義に客観性が必要なことは前に述べたとおりですが、そもそも客観性とは何でしょうか。

客観性とはだれもが認めることができること、誰もが納得することができることだと考えられます。多くは、現実に存在する具体的な事実を根拠に客観性が主張されるでしょう。この世に存在する事実は否定することができず、その事実を根拠に拡がりの確証の論理を構築することは、他者との意味の共有にとって極めて有効な手段となるはずです。

これに対し主観性とは、その人が認めることができること、その人が納得していることを意味しますが、他の者が認めるか否か、あるいは納得するか否かは考慮されない性格のものであるわけです。2で申し上げたとおり、善は誰もが求めるものですが、その内容は主観的なものであると私は考えます。

客観性ということの意味が、誰もが認めるということであるならば、正義の客観性に関して、3で論じた実定法の正義と形式的正義以外にも、客観的な正義を認めることができるのではないでしょうか。すなわち、誰もが認める仮説を打ち立てることにより、その仮説を基に正義の客観性が確保されることになるということです。実はこの仮説の論理、すなわち誰もが認める仮説こそ、現実社会において、公権力が正義を担う最大の正当性となっているのではないかと私は考えるのです。

ここに仮説とは、事実により実証する以前の仮の考え、理論のことを言います。例えば、近代市民社会成立史上主張された自然状態の仮説が代表です。また、様々な神話や宗教的な物語などもあります。事実として立証できなくても、普通の人々はこれをもっともなことだと信じているわけです。その仮説をもとに現実社会の、具体的な諸問題の解決のための、正義を導き出すのです。例えば、自然状態は各人の各人に対する戦争状態であるから絶対権力が必要だとするホッブズの思想や、全ての者が相互に平等である自然状態を前提にして労働に基づく所有権を導き出したロックの所有権思想などがその代表です。

人間の理想状態、原初状態は多くの人が認める仮説となるでしょう。もちろん地球上の様々な地域によって異なる仮説が存在すると思いますし、様々な宗教や神話によって、無数の仮説が存在しているかもしれません。それぞれの、客観的な仮説から実質的正義を形成する主張される正義が導き出されてくるのです。言い換えれば、これらの客観的な仮説から、個々の拡がる自我の拡がりの確証の論理が形成されているのです。

 

6.客観的な善の存否(イデオロギー概念・カントの思想)

では、ここで再度、善について考えてみましょう。2では、善はあくまでも主観的なものであり、これが善だとあらかじめ定義することはできないと論じました。これに対し、正義は客観的なものであり明確に表現できるものでなければなりませんでした。そして、4で論じたとおり、現実社会でこれが正義だと相手に主張する際は、善が窓口になるわけです。そこで善とは何か、誰もが認識し得る善が存在するか否かが改めて問題となってくるのです。

善が他者への拡がりの確証のための導きの糸であり、誰もが求めるものであれば、そこには他者が納得する普遍性が存在するはずです。それを徹底的に追究したらどうなるかということです。客観的な善は本当に存在しないのか、こういう問題です。

まず、次のような考えが出てくるでしょう。

主張される正義を検討すると、その人の社会的立場によって、実質的正義が異なり、正義を正当化する善も異なってくることがわかります。そこで善を、それを主張する人の社会的立場から、言い換えれば社会的事実から説明しようとする考えが生じてくるということです。意識を存在から理解するといった、いわゆる唯物史観に言うイデオロギーという概念も、この発想に基づくものではないかと私は思っています。

この考えは、事実から何が善かを導くものであり、個々の拡がる自我がよって立つ事実から、拡がりの確証の論理を推測するものであって、具体的問題の解決には大きな力を発揮するでしょう。なぜなら、具体的問題の解決は、3で論じたとおり、実質的正義を決するための戦いであり、実質的正義を主張する根拠が客観的事実に基づいて推測される善であるからです。正義は客観的なものでなければなりません。したがって、それを導く善が客観的な事実に基づく存在であれば、主張される正義も客観的であるとみなされるからです。4で論じた労働契約における労働者保護法制の例も、使用者対労働者といった社会的事実に基づく主張であると言えるでしょう。

この考えに対しては、当然のことながら、次のような反論が出てくるのではないでしょうか。

善はあくまでも価値判断であり、事実判断とは異なります。事実から価値は生じないので、善そのものの基礎付けとしては不十分である、というものです。善は、主張される意志であり、あくまでも主観的なものなので、事実から推測した考え方が、果たしてその人の実際に考えている価値観であると言えるかどうかは確定できないというわけです。

ただ、善が正義をはじめとする拡がりの確証のための論理を主張するための論拠であると考えるならば、客観的事実をその主張の根拠にすることは、極めて大きな力を持つと思われます。したがって、現実社会での実質的正義を確定するための争いの中では、常に活用される論拠になっているのではないでしょうか。

もう一つの、客観的な善を導く考えは次のようなものです。

形式的正義と同様に、善も表現することができるのではないかということです。様々な具体的な特殊性を捨象した、当然かつ不可欠な最低限の善があるのではないかということです。

先に、2で論じたとおり、善は、拡がる自我が他者への拡がりの確証を実現するための、導きの糸となるものです。したがって、他者への拡がりの確証の視点から、絶対に不可欠な善の要素を表現することができるのではないかということです。

この点について、私は、善が、他者への拡がりの確証のためのものである点から、善の形式的定義が可能ではないかと考えているのです。常に他者に受け入れられる論理、これこそが善の特徴です。常に他者に拡がりの確証を得るためには、確証の論理が普遍性を持たねばなりません。したがって、拡がりの確証のための論理の意味を共有するための導きの糸である善を、何らかの形で表現することもできるのではないかということです。

さて、カントは、あらゆる人の人格のうちにある人間性を、手段としてではなく目的としてのみ扱うべきと言い、汝の格率が常に同時に普遍的立法として妥当することができるように行為せよと主張しました。ここに格率とは意欲や行為の主観的な原理のことです。(カント「道徳形而上学の基礎づけ」「実践理性批判」)

他者への拡がりの確証の論理が他者に受け入れられねばならないことは、その拡がる自我にとっての至上命令です。拡がりの確証は、他者と意味を共有することによってなされます。したがって、拡がりの確証の論理にあっては、他者は目的であって手段とはなりません。なぜなら、意味の共有とは拡がる自我の自発性、すなわち自律、意志の自由を前提とするものであるからです。意味とは、言葉に対する主体の把握の仕方であり、それは相手の自由を前提とするのです。相手の自由を尊重することは、相手を手段として扱うのではなく、目的として扱うことなのです。

自分の格率が、普遍的立法になるということは、誰もが自分と同じ格率に従った行動をとるということです。これは、拡がりの確証の論理を皆が受け入れたことを想定するものです。これこそ道徳的な意味での理想の世界であり、誰もが望むものです。したがって、善をこのように表現することも可能なのではないかと私は思います。

拡がる自我は人間の主体性を表現するものであり、拡がりの確証はあくまでも将来に向かっているものです。もちろん拡がりの確証を実感するのは経験によるのであり、過去に分類されるでしょう。ただしそれは結果であって、拡がり自体は将来へ向けてのものです。個々の拡がる自我が、その将来へ向ける目標となるもの、拡がりの確証が得られるであろうもの、それは誰もが求めるものであり普遍的立法であって、これこそが善なのです。

 

7.拡がりの確証の論理としての正義 ~善と正義の融合~

拡がる自我は、常に他者に対し、拡がりの確証の論理を投げかける存在です。拡がる自我は、常に拡がりの確証の論理を探し求めているのです。それが主体的な存在である人間というものなのです。

このように考えてみると、先ほど論じた、仮説としての正義も、この個々の拡がる自我の、拡がりの確証の論理として十分活用できることがわかります。正義は、元来、誰もが認めることができる客観的な存在です。したがって、正義の論理を、自分の拡がりの確証の論理に活用することは、誰もが思いつくことなのです。

このことは何を意味するのかというと、正義が善に転じるということです。善と正義の融合です。個々の拡がる自我の、あくまでも主観的なものである善が、正義と融合することにより、客観的存在となるのです。

人間社会は、全体社会と、その中の無数の目的社会から成り立っています。そして、個々の目的社会は、その構成員である個々の拡がる自我の拡がりの確証の論理を提供しています。その論理は主観的な善であると同時に、客観的な正義でもあるのです。なぜなら目的社会を構成する個々の拡がる自我の調整の原理も組織を維持するためには必要だからです。

このことは、話が大きくなって大変恐縮ですが…、人間社会の精神的な文化というものが、認識可能になることを意味しているのです。言い換えれば、人間の本質をとらえることが可能になってくるということです。

様々な歴史的、地理的に多種多様な人間の価値観や倫理観、そして様々な企業や団体の中の組織文化と倫理、これらを包括する精神的な文化を、その社会に客観的に存在している正義を通じて把握することができるということです。そして、それは、その社会の個々の構成員の精神的な文化、すなわち個々の人間誰もが求める主観的な価値観、すなわち「善」が認識可能になることをも意味しているのです。

では、具体的にどのような仮説としての正義があるのか、その仮説はどのようにして生まれてきたのか、現実の社会におけるこれらの具体例については、今後改めて論じていきたいと考えています。

 

参考文献

アリストテレス(高田三郎訳)(加藤信明訳)「ニコマコス倫理学」岩波書店

G.Eムア(泉谷周三郎他訳)「倫理学原理」三和書房

加藤新平「法哲学概論」有斐閣

I.カント(宇都宮芳明訳)「道徳形而上学の基礎づけ」以文社

I.カント(宇都宮芳明訳)「実践理性批判」以文社

岩崎武雄「現代英米の倫理学」勁草書房

岩崎武雄「倫理学」有斐閣

岩崎武雄「カント」勁草書房

岩田靖夫「倫理の復権」岩波書店

岩田靖夫「アリストテレスの倫理思想」岩波書店

T.ホッブズ(永井道雄他訳)「リヴァイアサン」中央公論社

J.ロック(宮川透訳)「統治論」中央公論社

J.ロールズ(川本隆史他訳)「正義論」紀伊国屋書店

時枝誠記「国語学原論」岩波書店

宇都宮芳明「人間の間と倫理」以文社

戸坂潤「イデオロギー概論」戸坂潤全集第2巻 勁草書房

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