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価値とは何か ~価値の本質と拡がりの確証~

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価値とは何か ~価値の本質と拡がりの確証~

和田徹也

目次

1.問題提起

2.創造の論理の典型としての商品の価値

①商品の価値の二つの側面  ②なぜ価値を労働で表すのか  ③商品の価値と拡がりの確証  ④抽象的人間労働の意味

3.分割の論理の前提としての全体の価値

①全体の価値が必要な理由  ②目的社会と全体の価値  ③商品の使用価値と全体の価値  ④分割の論理の成立

4.拡がりの確証と価値の本質

 

1.問題提起

価値とは何でしょうか。誰もが価値あるものを求めます。これだけ見ると前回の論文「善と正義」で検討した「善」と共通するものがあります。しかし、価値は上下あるいは大小といった比較がその本質のような気がするのです。善はそれほど大小、すなわち比較や格差にこだわりません。善であるか否か、善か悪かです。これに対し、価値には可測性があります。他との比較が重要になるのです。より大きな価値があるか、他よりも価値があるかが問題となります。人間はより価値あるものを追求するのです。

このようなことを考えてみると、価値は対象である物の格差はもちろん、人間の格差をも容認しているような気がしてきます。それは何を意味するかというと、価値は人と人との競争を担保する機能があるということです。人は様々な活動を行っていますが、より良いもの、より価値あるものを求めているのであって、それが意味するのは、人が活動する際は他者との比較を意識せざるを得ない側面があるということなのです。

そこで、今回は価値とは何かということをその根本から検討してみたいと思います。価値は人間にとってどのような意味があるのか、社会・組織の中で価値はどのような機能を果たしているのか、これらのことを探求していきたいと思います。

以前、私は「分割の論理と創造の論理」という論文で、分割の論理は出発点である全体に大きな価値を置き、自分が全体の中でどのような地位にいるのかによって他者の注目を集める論理であると申し上げました。これに対し、創造の論理は出発点の価値はゼロであり、行為自体に大きな価値を置き、価値の創造をその本質とすると申し上げました。そこでこの論文では、とりあえず後者の価値の創造、創造の論理を出発点とし、次に分割の論理の前提となる全体の価値を検討することにより、価値とは何か、価値の本質について考えていきたいと思います。

 

2.創造の論理の典型としての商品の価値

①商品の価値の二つの側面

いきなり商品の価値から始めることについて、驚く方もいるかもしれません。それは哲学的価値と経済的価値は違うのではないかと考えるからではないでしょうか。

この点について、私は哲学的価値も経済的価値もその根本は同じだと考えます。なぜなら両者とも誰もが求めることに変わりはないからです。可測性についても、経済的価値はもちろんのこと、哲学的価値にもそれが含まれることは否定できないと考えられるからです。それどころか商品の価値を検討することは、哲学的な価値をも含め、人間の価値に対する考え方を極めて鮮明にとらえることができるのではないかと思っています。

さて、マルクスは「資本論」第1章で、商品について次のようなことを言っています。

資本主義的生産様式が支配的に行われている社会の富は一つの巨大な商品の集まりとして現れていて、そこでは、商品はまず第一に、外的対象であり、その諸属性によって人間の何らかの欲望を満足させる有用物であるとし、その有用性が使用価値である、と。次に、商品の交換価値は、ある種の使用価値とある種の使用価値とが交換される割合であって、一見偶然的なものに見えるが、ある一つの商品が様々な商品と交換されることを考えると、結局、諸商品の諸交換価値は、結局ある一つの共通なものに還元されるのであって、それがその価値であり、交換価値はこの価値の現象形態である、と言うのです。

そして、この商品の価値は、交換価値として表れているのですが、そこには一分子の使用価値もなく、したがって使用価値を問題にしないのであれば、商品体に残るのは労働生産物という属性だけであり、ここに労働の具体的有用性は消え去り、ことごとく同じ人間労働である抽象的人間労働に還元されることになる、こう言います。抽象的人間労働が凝固したのが商品の価値であり、価値の大きさは労働の量によって測られることになるわけです。

②なぜ価値を労働で表すのか

ここで疑問が生じるのが、なぜ価値を労働だけから考えるのかということでしょう。使用価値の有用性一般から価値を考えても良いのではないかということです。

ここで再度「資本論」に沿って考えていきましょう。

「資本論」では、具体例として、労働生産物であるリンネル(亜麻織物)の所有者が上着所有者に対し、一定量のリンネルは上着に等しい価値とする単純な価値形態を出発点に、商品の性格を分析しています。この時、リンネルと上着は明らかに違った役割をしているとマルクスは言います。リンネルは自分の価値を上着で表しており、上着はこの価値表現の材料だというのです。この時、第一の商品であるリンネルは相対的価値形態、第二の商品である上着は等価形態と呼んでいます。

この場面では、リンネルはその所有者が労働して生産したもの、言い換えれば創造したものです。一口に労働といっても色々な苦労があったでしょう。取引先と交渉して原料を仕入れたり、機械を購入したり、自分の家族を養うプレッシャーがあったり、様々な社会・人間関係で苦労しながら製品を創造したわけです。この苦労や困難を乗り越えてリンネルを創造した、ここに商品の価値の根本があるのではないでしょうか。様々な苦労を乗り越えることを可能にする理念、これこそが価値を形作る正体だと私は思うのです。

ところで、リンネル所有者はこの時上着を得るためだけに生産したのでしょうか。たまたま今回は上着と交換しようとしたのであって、別のものでもいいはずです。世の中は社会的分業によって成り立っています。言い換えれば個々人それぞれが様々な労働を行って、その成果物である商品を自分が必要とする他の様々な商品と交換して世の中は成り立っているのです。もちろん使用価値も価値には違いありません。しかし社会の分析の基礎概念として価値という言葉を用いるならば、様々な使用価値を有する商品全般を創造する労働を基本にする必要があると私は思います。なぜなら分業の本質は労働にあるからです。社会を成立させている人間の活動、すなわち社会的な労働を分割する概念が分業なのです。したがって、この場面では労働の主体であるリンネル所有者が主役になるのです。

一般的に価値とは、この論文の冒頭に申し上げたとおり、誰もが求めるものであって可測性があるもの、まずはこう言えると思います。そして商品の価値の場合、商品の創造において可測性、すなわち大小・高低が生じるというのは、高い方にはより多くの情熱を注ぎ込むことができるということ、辛いことも価値が高いことを目指せば乗り越えられるということ、こういうことを意味すると考えられるのです。日々継続する労働の目標となるような価値、日常の困難を乗り越えることができるより高い価値、これが最も重要な価値の性質であり、商品の価値の本質もまさにここにあると私は考えるのです。商品を創造するための労働に伴う様々な困難を乗り越えるための、売り主の商品に対する思い入れの結晶が商品の価値ではないか、こう思ったのです。

③商品の価値と拡がりの確証

では、以上のことを主体的な個人である「拡がる自我」と拡がる自我が他者と意味を共有する「拡がりの確証」を用いて再度考えてみましょう。主体的人間は他者に拡がる存在であり、私はそれを拡がる自我と表現しました。そして、拡がる自我は他者と意味を共有することにより拡がりを確証します。意味とは言葉に対する主体の把握の仕方のことです。拡がる自我を出発点として、なぜ価値の本質を労働に求めるのかを考えていきましょう。

拡がる自我は他者に対し拡がりの確証のための論理を常に投げかけています。投げかけた論理の意味を他者と共有することによって拡がりを確証するのです。実は、商品を創造することもこれと同じことなのです。商品を創造して他者の商品と交換する、あるいは他者に商品を売ることは、他者と自分が創造した商品の意味を共有することであり、商品に表された論理の意味を共有して他者への拡がりの確証を実現することとなるのです。商品が売れたということは、この拡がりの確証の論理の意味を他者と共有したことの証なのです。

先ほど申し上げたとおり、商品が意味する価値には二つあります。一つは使用価値、もう一つは価値です。後者の価値は、商品の生産の労働に伴う様々な困難を乗り越えるための売り主の商品に対する思い入れの結晶である本来の価値と、その現象形態とされている交換価値の両者から成り立っています。

では、商品を創造した拡がる自我が交換相手と共有した拡がりの確証の論理が意味するのは使用価値と価値のどちらでしょうか。

この場合、第一次的には使用価値だと誰もが思うかもしれません。なぜなら、自分の創造した商品の使用価値を相手が認めたがゆえに交換できたからです。誰もがより良い商品、すなわちより高い使用価値を有する商品を求めることは当然のことです。したがって、商品が売れたということは使用価値の意味が共有されたことであり、それが拡がりの確証の論理の意味が共有されたことを表現していると考えることは自然なことだと思います。

これに対し、後者の価値は、商品を創造する者が対象に注ぎ込む価値で、様々な主観的な要素からなり、その点から考えればとても客観的であるとは言えないでしょう。したがって相手とその意味を共有したとは言い難いでしょう。

しかしながら、他者への拡がりの確証の観点から価値の本質を追究するならば、後者の価値を出発点とするべきだと私は考えます。以下、その理由を論じます。

まず言えることは、使用価値は、人が生きていく上で、ある目的のための手段としての意味合いが強く、目的手段の関係の中で意味を持つものであるということです。すなわち、使用価値において拡がる自我が求める拡がりの確証は、道具としての意味を対象としての商品に見出すものです。以前「認識について」で論じた、物に対する拡がりの確証としての第一の性質とした、道具としての意味を対象に見出すということです。

この場合、各々の人間が抱く、日常生活における様々な目的の中で考えれば、使用価値は明確な性質のものであると言えます。生きていくための道具・手段は誰もが求めるものであり、どのくらい役立つかといった可測性もあります。これはまさに価値であり、誰もがより価値のある商品を求めることは当然のことだと言えるでしょう。リンネルは上着の所有者から見れば使用価値として認められたからこそ交換されることになったのです。

しかしながら、使用価値は商品の買い手にとっては明確ですが、商品を創造した売り手にとっては、厳密に言えば、使用価値とは成り得ないものです。あくまで買い手である相手の使用価値に対する推測でしかありません。商品は売ることを目的とし、売り手はその商品の使用価値を実現することは不可能です。「資本論」の例でいえば、売主にとっては、リンネルの使用価値は売るための手段なのです。上着をはじめとする様々な使用価値を手に入れるための手段として働くのです。しかし、リンネルを作るための苦労を乗り越える価値も必要です。作り手がリンネルを使わない以上、この価値は使用価値ではあり得ません。そして、上着との交換が実現したということは、この価値を実現することを意味します。もちろんリンネルの使用価値の存在がここでは前提となりますが、これによってリンネル所有者は社会的な分業を自分が遂行したことを確信するわけです。言い換えれば、拡がる自我の拡がりの確証を得たことになるのです。ここで初めてその交換を成立させる二つの商品の共通性、すなわち価値が明確になってくるわけです。

その場合、リンネル所有者は、上着によってリンネルの価値を表現せざるを得ません。マルクスが資本論で言う「回り道」です。リンネルを創造するための苦労、すなわち人間労働の凝固としての対象物であるリンネルの価値は、上着の使用価値を通じて測られます。ただ、この時リンネルの価値は、価値と使用価値が異なる以上、上着の使用価値そのものによっては測られません。上着を作り上げた労働として等置されるだけなのです。まず上着を労働生産物としてリンネルに等置して、上着もリンネルと同じ価値を持つとしなければならないのです(久留間鮫造「価値形態論と交換過程論」)。

このことは、リンネルの価値を上着で表す単純な価値形態ではなく、展開された価値形態、さらには一般的な価値形態を経て確立される、貨幣で価値が表現された貨幣形態を見ればさらにはっきりするでしょう。なぜなら貨幣は端的に価値を価格という数値として表すからです。商品の価値を形成するとされる労働量は、貨幣によって価格という数値で表現されることになるのです。

以上のことは、生産活動が、拡がる自我の拡がりの確証の論理の設定であることを考えれば、極めて納得のいくことだと私は考えます。商品の創造は他者への拡がりの確証の論理の設定であり、価値はより高いより大きなものが求められるのであって、そのための尺度がどうしても必要であり、それを実現するのが労働生産物としての性質なのです。日々日常の困難を乗り越えるためのより大きな価値、これが努力、労働の結晶としての商品の価値であり、商品の本来の価値は労働量という尺度によって測ることが可能とならなければならないのです。そして、その労働量は、最終的には価格といった数量で測られ、価格によってその量が表現されるのです。

④抽象的人間労働の意味

以上論じてきた商品の本来の価値は、一言でいえば、努力あるいは労苦骨折りと表現することができるでしょう。すなわちアダムスミスが「国富論」で言うところの価値の本質です。労働価値説を唱えたとされるアダムスミスは、あらゆるものの実質価格は、それを獲得するための労苦骨折りであると断じました。これはまさに③で申し上げてきた、拡がる自我の、他者に対する拡がりの確証のための論理の設定、商品を生産する際の創造の論理が表す価値の中に、拡がる自我が注ぎ込む情熱を見出したことである、私はこう考えるのです。様々な困難を乗り越えるための価値を、創造する商品の中に求めたのです。

この個々の人間の努力あるいは労苦骨折りは、主観的な性質を持たざるを得ません。したがって、この凝固物としての価値も、即座に客観的なものとはなりません。そこで、抽象的人間労働という概念が確立されたのではないかと私は考えるのです。抽象的人間労働とは、個々の商品の使用価値を形作る具体的有用労働の有用性がすべて消え去った、互いに区別されることのないことごとく同じ人間労働という概念です(「資本論」77頁)。

実は、資本論に言う抽象的人間労働は、この論文の冒頭で申し上げた価値の可測性という性質から必然的に導かれるのではないでしょうか。どういうことかというと、価値の本質は比較にあるということであれば、比較の標準となるものが必要とされるのではないかということなのです。商品の価値が労働であり、労苦骨折りであるならば、その主観的なものを明確にするための標準となる抽象的人間労働が必要だということです。拡がる自我は、抽象的人間労働をもとに、自己の労苦・骨折りを測って拡がりを確証しているわけです。他者に向けた拡がりの確証の論理である商品の価値の大きさを測る尺度、それが抽象的人間労働なのです。

商品の価値は抽象的人間労働の労働量によって測られ、商品の価格もこの労働量であると生産者は思い込むことができます。拡がる自我は、抽象的人間労働を基準にして、自分の創造した価値の大小が把握でき、拡がりの確証を得ることができるのです。他者と比較して自分の努力の意味を確証するわけです。実は、このことは、人間の能力差を容認することでもあります。創造の論理の典型としての商品の価値は、個々の拡がる自我が本来有している能力を正当に評価する機能があるのです。能力を発揮するための努力の結晶である商品の価値は、抽象的人間労働という概念を通じて、個々の人間の能力の差異を顕在化させる機能があるのです。

③で論じたとおり、商品の価値は最終的には価格という数量で表されます。価格によって自己の努力の成果が明確に表明され、抽象的人間労働を基準にその価値の大小が測られます。商品の生産を通じた拡がりの確証の論理は、ここに成し遂げられるのです。

 

3.分割の論理の前提としての全体の価値

①全体の価値が必要な理由

分割の論理は全体の価値を前提とします。全体に大きな価値を置き、自分がその中でどの地位にいるかによって他者の注目を得るのが分割の論理です。そこで、分割の論理の前提となる全体の価値の根源を次に探っていきたいと思います。ここでは2で論じた商品の価値とは少々異なる別の価値を論じていくことになります。

そもそもなぜ人間は全体の価値を求めるのでしょうか。

端的に言えば、個々の人間、すなわち拡がる自我が、拡がりの確証のための論理を設定するために全体の価値を必要とするからです。このことは、秩序が必要であるからと言い換えることができるでしょう。拡がりの確証のための論理を設定するには、確固たる立場、自分の立ち位置が必要なのです。秩序がなければ拡がりの確証のための論理を設定することができません。なぜなら論理は原則としては個々の人間の自由意志によって受け入れられなければならないからです。拡がりの確証は他者と意味を共有するところに実現されるのであり、意味とは言葉に対する主体の把握の仕方であって、自由な意思が前提となるからです(「善と正義」参照)。

以前私は「管理と支配の間にあるもの」で、拡がる自我は他者との意味の共有を期待するのであり、この自己の期待に他者を従わせるところに人と人との争いの根源があると申し上げました。争いを避け、個々の拡がる自我の、この意味の共有に対する期待、これを確保することが必要不可欠となるのです。そのためには秩序が必要です。

秩序とは、何らかの事象を構成する諸々の要素の関係に一定の型、規則性があり、要素の一部のあり方を知れば他の諸要素のあり方について可測性が存在する関係ないし事態のことです(加藤新平「法哲学概論」307頁)。可測性があるからこそ、個々の人間、すなわち拡がる自我は、他者に対し拡がりの確証のための論理を投げかけることができるのです。

では、秩序を維持するにはどうすればよいのでしょうか。

実は、2で論じた創造の論理の典型としての商品の価値と同様に、ここでも価値が必要となるのです。秩序を乱そうとする誘惑や衝動を乗り越えるためのより高い価値が必要なのです。秩序を構成する諸個人が一定の同じ方向へ向くための、より大きな価値が必要なのです。私はこれこそが、全体の価値であると考えるわけです。

秩序の維持というと、一般の人は秩序を維持するための強制力、すなわち権力を思い浮かべるかもしれません。無論これは間違ってはいません。ただ、秩序は強制力だけによって成り立つのではありません。実は、秩序は、そのほとんどが人々の自発的行動によって維持されているのです。

全体の価値があるからこそ、人々は一定の方向に目を向けます。なぜなら価値は誰もが求めるものであり、可測性があるものだからです。全体の価値は秩序を乱す衝動を打ち消す、より高い、より大きな価値を持つのです。全ての拡がる自我が求める拡がりの確証の論理の設定に秩序は不可欠のものだからこそ、秩序には全体の価値が必要とされるのです。

②目的社会と全体の価値

私は以前「拡がりの確証と組織文化の本質」で、個々の人間、すなわち拡がる自我は、歴史上様々な目的社会を次々と作り上げてきたと論じました。目的社会は、構成員全員の共通の目的が必要です。なぜなら拡がりの確証のための論理を互いに共有し、その共有した論理の中で個々の拡がる自我が拡がりの確証を得るのが目的社会だからです。したがって、目的には大きな価値が付随します。何度も申し上げたとおり、誰もが求めるもの、そして可測性があるもの、これこそが価値でした。目的社会の目的には大きな価値が必然的に付着するのです。これは、①で申し上げた秩序を維持するための価値でもあります。すなわち、これは全体の価値なのです。

秩序を維持する価値は、秩序を乱す誘惑や衝動を打ち破るより大きな価値が必要です。そして、目的社会の価値は、秩序を維持するためだけの全体の価値よりもさらに強力な力を発揮しなければなりません。なぜなら目的社会は個々の拡がる自我の拡がりの確証の論理を提供し、拡がりの確証を実現するために存在するものだからです。個々の拡がりの確証のための論理の目標を実現しなければならないからです。

言うまでもなく、秩序は目的社会の内部だけではなく、個々の目的社会の外側に、すなわち全体社会にも存在します。目的社会相互間の秩序も必要なのです。これに対し、目的社会内部の秩序は、その社会の目的の実現のためにあり、変化し生成・成長する特徴を持ちます。したがって、目的社会の秩序は、その動的側面をとらえて、組織と言い換えた方がよいかもしれません。

組織とは、二人以上の人々の意識的に調整された活動や諸力の体系です(バーナード「経営者の役割」)。この組織は明確な目標がなければ成立しません。目標の実現のための論理が明確に設定され、それを逸脱するものにはそれを調整するために強制力が発動されるのが組織なのです。したがって組織には人間の上下関係が存在します。上下関係を正当化する、その強制力の根源となるのが全体の価値です。

組織の中の人と人との上下関係は細部に至るまで存在します。そして、その上下関係がどのような価値によって正当化されているかが重要となってきます。そして、商品の価値と異なり、上下関係を正当化するこの価値は様々な性格を持つことが可能です。商品の価値は労働量、そして最終的には貨幣によって表現されました。ところが上下関係を正当化する価値は、その構成員によっていくらでも自由に設定できるのです。ここに全体の価値の特性があります。全体の価値は千差万別なのです。

また、全体の価値は統制することも可能です。強制力によるのはもちろん、最終的には全体の価値が、個々の拡がる自我の拡がりの確証の論理と成り得るものである以上、何らかの価値にまとまる必要があるからです。組織を構成する個々の拡がる自我が拡がりの確証のための共通の論理を求めるため、統制を受け入れやすいのも全体の価値の特徴です。

③商品の使用価値と全体の価値

では、ここで一つの例として、2の商品の価値で論じた使用価値から全体の価値を考えてみましょう。

すでに申し上げたとおり、使用価値は千差万別です。そして商品は使用価値があるからこそ商品たり得ます。2では、商品交換における商品の価値は労働である旨論じましたが、商品所有者が一つの目的社会、すなわち組織である場合は、商品を創造するためには、皆が協力し、まとまらなければなりません。そこでは商品の買主である他者に対する商品の意味、すなわち使用価値が重要な機能を有することになるのです。ある商品を作る組織は、その商品の使用価値の特性に応じた全体の価値を持つことになるのではないかということです。

例えばテレビを製造する場合、より高い使用価値を持ったテレビを製造することが、組織の目標となります。このことをより一般的に表現すれば、より高度なサービスを提供するために組織が成立し、そのサービスを実現するための理念が組織全体の目標、言い換えれば全体の価値となるのです。より高度なサービス、すなわちより高い使用価値を提供して世の中に貢献する、こういった経営理念を持つ企業は多いと思います。誰もが求め可測性あるものが価値であり、その組織が求めるより高度なサービスの提供は、組織の構成員誰もが求める目標でもあるのです。これは組織全体に価値を付与することを意味します。

そして、その経営理念が表明する価値をもとに企業の組織が維持されます。すなわち指揮命令系統が正当化され、上下関係が正当化されるのです。重要なことは、ここに価値の序列が生じてくるということです。より高い地位にはより高い価値が付着することになるのです。

④分割の論理の成立

全体の価値を分割するのが分割の論理です。なぜ全体の価値を分割することができるのでしょうか。それは組織自体が分割できる性質を有するからです。組織は複数の人の活動の体系であり、複数の人の地位役割の体系だと言えます。地位役割の体系は組織の中で各単位に細分化される性質を持ちます。そして、③で論じたとおり、上下関係の中では、より高い地位にはより高い価値が付着するので、組織を構成する拡がる自我は、その地位を根拠に拡がりの確証を得ようとするのです。高い地位ほど人々の注目を得ることができるのです。

このように、組織がまとまるための全体の価値が上下の地位役割の体系によって分割され、もともと全体の価値は組織の構成員なら誰もが注目するものなので、それを分割したものも、当然、他者から注目されるものとなるわけです。その結果、組織のその地位に就くことそれ自体が、個々の拡がる自我の拡がりの確証の論理の設定となるのです。この全体の価値を前提とした個々の拡がる自我の拡がりの確証のための論理、これが分割の論理です。

分割の論理は、地位をめぐる争いを必然的に生じさせます。すなわち個々の拡がる自我が上位の地位をめぐり相争う関係となるのです。以前「管理と支配の間にあるもの」で論じたとおり、二人以上の者が同一のものを求め、それが同時に享受できない場合彼らは対等に相争う敵同士となります。そして、分割の論理は必然的に支配関係を成立させるのです。争いの中から上下関係が生じた場合、それは単なる上下関係ではなく、支配被支配という関係、すなわち、被支配者の反発を前提とする支配関係を生むのです。

全体の価値は、この支配関係を正当化する機能があります。すなわち、全体の価値が個々の拡がる自我の反発を吸収して、結果的に人間の格差を容認する性格があるのです。ただ、この人間の格差は、2で論じた商品の価値に基づく人間の能力差とは異なります。個人が発揮する能力以外の格差を多分に含むのです。このことは、組織が個々の拡がる自我単独の行為ではなく、多数の拡がる自我が集合する組織内分業であるといった根本の性質に由来するものであると考えられます。拡がる自我同士のぶつかり合いが、能力以外の、様々な人為的な格差をもたらすのです。

 

4.拡がりの確証と価値の本質

これまで、創造の論理の典型である商品の価値と、分割の論理の前提となる全体の価値の二つの価値を検討してきました。双方とも人間の差異を結果として明らかにするものであり、競争を促進するものであることが判明したわけです。

ところで、前者の商品の価値は創出された価値と言い換えることができるでしょう。価値は誰もが求めるものであって可測性あるものです。拡がる自我は、商品の創造を通して、価値を創出し、その価値の大小によってより大きな拡がりの確証を得ることができるのです。

これに対し、後者の全体の価値は与えられた価値と言い換えることができます。全体の価値から自分がいる地位に対して価値が分割され、与えられているのです。与えられた地位が高い地位であればあるほど、より大きな価値が与えられてより大きな拡がりの確証を得ることができるのです。

では、より大きな拡がりの確証とは何でしょうか。実は、拡がりの確証には大小があり、価値と同様に比較計測の対象となるのです。

拡がりの確証は他者と意味を共有することにより実現されます。したがって、まずは他者の数によって確証に程度の差が生じます。より多い他者と意味を共有するとより大きな拡がりの確証を得ることができるということです。

まず、3で論じた分割の論理について考えてみればこのことは明らかでしょう。分割の論理は目的社会の組織の中で、どの地位にいるかによって拡がりの確証を得るものです。この場合、より高い地位にいる方がより多くの他者に注目され、より多くの他者に影響を与えることができるのであり、より高い地位がより高い価値があるのであって、より大きな拡がりの確証を得ることができるのです。

次に、2で論じた商品の価値でも同じことが言えるのです。他者の数に応じて拡がりの確証に程度の差が生じているのです。実は、商品の価値はより高い価値であればあるほど、より多くの他者に影響を与えるものなのです。商品の価値を表現する貨幣は、多く持てば持つほど、多くの商品を購入することができ、商品はその本質が労働ですから、より多くの他者に影響を与えることになるわけです。そして、蓄積された貨幣であり、貨幣-商品-貨幣と循環する「資本」は、多くの他者を雇用して商品を生産するものであって、より大きな資本はより多くの他者と意味を共有するものであり、まさに、資本を担う拡がる自我が、より大きな拡がりの確証を得るための仕組みであると言えるのです。

このように、価値の本質は、拡がる自我の拡がりの確証に、大小や高低といった程度の差を与えることにある、このように私は考えます。そして、その程度の差は、まずは、拡がりの確証のために、その論理の意味を共有する他者の数に基づくと考えられるのです。

もちろん、拡がる自我の拡がりの確証は他者に対するものだけではありません。以前「認識について」で論じたとおり、物に対する拡がりの確証もあります。物に対する拡がりの確証は、物の使用価値を代表とするもので、この論文の2③で論じたとおり、ある目的のための手段としての性格が強く、物は生きるための道具となるのです。その有用性から価値の高低が必然的に現れ、今回論じた価値であることは明白です。しかし、この場合の価値は他者の数とは無関係と誰もが思うかもしれません。

また、内心の価値も他者の数とは無関係だと主張されるかもしれません。崇高さ、敬虔さ、これらの感情や思いは個人の内心にあって、他者を意識したものではないと誰もが思うかもしれません。

しかしながら、拡がる自我を出発点として考えると、これらの価値も、今回論じた価値の本質である、より多くの他者との意味の共有ということに結びついてくるのです。生きるための道具は生きることそれ自体に関わるものであり、他者と必然的に関わってきます。また、内心の価値も、それが他者への拡がりの確証への期待から内心に生じたものである、このように考えることもできるのです。

とりあえず、今回は価値の本質を端的に申し上げるに留め、これら疑問点に対する回答は、また改めて詳細に論じたいと思います。

 

参考文献

カール・マルクス(岡崎次郎訳)「資本論」大月書店

アダム・スミス(大河内一男監訳)「国富論」中央公論社

アリストテレス(高田三郎訳)「ニコマコス倫理学」岩波書店

久留間鮫造「価値形態論と交換過程論」岩波書店

岡崎次郎「資本論入門」大月書店

宇野弘蔵「価値論」著作集第3巻 岩波書店

廣松渉「資本論の哲学」現代評論社

遊部久蔵「労働価値論史研究」世界書院

宇野弘蔵編「資本論研究Ⅰ商品・貨幣・資本」筑摩書房

加藤新平「法哲学概論」有斐閣

C・I・バーナード(山本安次郎他訳)「新訳経営者の役割」ダイヤモンド社

T.ホッブズ(永井道夫他訳)「リヴァイアサン」中央公論社

R.M.マッキーバー(中久郎他訳)「コミュニティ」ミネルヴァ書房

T.パーソンス・E.A.シルス(作田啓一他訳)「行為の総合理論をめざして」日本評論社

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