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存在とは何だろう ~存在論の本質~

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存在とは何だろう ~存在論の本質~

和田徹也

目次

1.問題提起  2.意識とは何か  3.外界の拡がりの対象と内心の対象  

4.拡がりの対象としての他者  5.主観と客観  6.誰もが求める言葉「存在」

7.拡がりの確証と内心の自由  8.意味の共有をめぐる争いとその二方向の解決策

9.「存在論」の本質

参考文献

 

1.問題提起

社会と組織は主体的な個人から成り立っています。この主体性を表現するため、私は「拡がり」を考察の原点として個々の人間の主体性を理論構成し、主体的な個人を「拡がる自我」と表現しました。「拡がり」を出発点として、自分の哲学理論を構築しようと考えたわけです(「拡がる自我」参照)。

一方、哲学理論構築のための、同様な考察の原点としては、例えば、西田幾多郎の「善の研究」で論じられた「純粋経験」があります。純粋経験は、直接経験と同一で未だ主もなく客も無い、知識とその対象とが全く合一している状態だとされています。それは、具体的な意識の厳密な統一にあり、意識の体系というのは、有機物のように統一的な或者が秩序的に分化発展しその全体を実現するものだ、このように説かれています。(西田幾多郎「善の研究」13頁~18頁)。要するに、純粋経験は自己に直接経験されるものですが、統一作用が不可欠であり、統一作用が働いていなければ純粋経験もあり得ない、こういうことだと理解されるのです。

ところで、純粋経験のような統一的なものを原点とする思考は、最終的には絶対者が必要とされるのではないかと私は思うのです。なぜなら、統一的作用が統一的作用それ自体を表現することは困難であり、統一する者をさらに統一する者が必要とされ、究極的には統一の背後の絶対者を求めざるを得ないからです。実際、「善の研究」では、実在の統一者である「神」を論じています。したがって、主体としての個人を理論構成する際も、結局は、絶対者を根拠とすることになってきます。

しかしながら、このように絶対者を根拠とすると、個人の主体性がそれに吸収されてしまい、個々の主体を考察の原点とした意味が失われてしまうような気がするのです。結論と出発点が同一化してしまうように思われてしまうのです。したがって、統一的要素を有する概念を考察の原点に据えることは避けたい、このように私は考えたわけです。

「拡がり」は、同じ考察の原点ですが、この統一というものの持つ性格とある意味において対照的なものです。原点としてはまず外に拡がる状態なのであって、統一のように何かまとまったもの、まとめる者があるような状態は想定していないのです。

それではただ広がっただけで拡散してしまい何も無いのではないか、統一的に意識できなければ少なくとも考察の原点になどなり得ないのではないかと批判されてしまうかもしれません。そこで、私は、拡がりは「対象」によって意識されると考え、そこから自我の成立を求めていったわけです。

まずは拡がりがあり、そして人は拡がりを意識します。どのように拡がりを意識するのかと言えば、それは拡がりに何らかの対象が出現することによるわけです。視覚的に考えれば拡がりを遮断する物的対象が出現することによって人は拡がりを意識するのです。

では、この、拡がりが出会う「対象」とは何でしょうか、対象は拡がる自我の外に予め存在しているのでしょうか。あるいは対象は拡がる自我が自ら作り上げた存在なのでしょうか。そして、そもそも「存在」とはどういうことなのでしょうか。何かが存在する、言い換えれば、何かが「ある」とはどういうことなのでしょうか。

拡がりの対象の性質について私はこれまで徹底的には追究していませんでした。そこで、今回は、この、拡がりの対象について考えて行きたいと思ったのです。別の言い方をするならば、存在とは何か、この哲学の古典的問題に挑戦しようと考えたのです。

 

2.意識とは何か

対象と出会った拡がりははどのように意識されるのでしょうか。そして対象と出会う前の「拡がり」とはどのような状態なのでしょうか。

まず、そもそも「意識」とは何か、ここから検討して行くことにしましょう。

この点については、意識は、意識する対象が必要だとの考えがあります。対象無くして意識無し、こういうことです。意識は必ず何ものかの意識であるという意識の指向性が認められると言うのです(細谷恒夫「現象学の意義とその展開」17頁)。

これに対し、意識という概念には対象出現以前のものも含まれると考える立場もあります。非志向的意識、メタ意識なるものがあるという考えで、これが東洋哲学の特徴だとされるのです(井筒俊彦「意識と本質」16頁)。この考えは、意識の対象は必要無いですが、1で論じた純粋経験と同じく、意識には何か本質を把握しようといった、統一的な要素があるように私には思われるのです。

意識という言葉の定義の問題かもしれませんが、私には、やはり意識は対象があって初めて成立すると思えるのです。意識という言葉には何かに気付くといった、気付く対象を必要とする性格があると考えられるのです。

ただ、私は、この意識以前の何らかの状態、対象が出現する以前の何らかの状態も認めることができる、このように考えたいのです。そこには対象はありません。これを私は「拡がり」と表現したわけです。精神において静かに統一され、まとまって存続するようなものではなく、外に拡がるものを求めたわけです。まとまりではなく拡がりを出発点として意識を説明しようと考えたのです(「拡がる自我」参照)。

ところで、「人間には感覚は無い」と言う人はいないでしょう。そこで、私は、人間に感覚、すなわち感性を認める以上、何らかの対象が人間の外部にあることは認めざるを得ないのではないかと考えました。ただ、それが何であるか、実在するものであるとか、その素性ははっきりしなくてもいいのです。これは、この時点では、カントの「物自体」と言ってもよいかもしれません。拡がりが意識される時点では、対象の詳細はわからなくてもよいのです。ただ、人間に感覚が認められる以上、人間の外部には何らかの対象があることは間違いない、このようにまずは考えたのです。

感覚を得る何らかの対象と出会って「拡がり」は意識されます。ここで「意識」が前面に出てくるのです。対象に注目するのです。統一的な意識があるから外界の対象に注目するのではなく、外界の対象と出会うから拡がりを意識するのです。ヘーゲル流に言えば、外界の対象を「媒介」にして拡がりを意識するのです(ヘーゲル「精神現象学」)。

注意すべきは、この時「拡がり」という状態も継続しているということです。拡がりには人間の「生」の表現である意志意欲が含まれています。「広がり」ではなく「拡がり」と表記する意味もここにあります。ここでは外界の対象に対する意志意欲が意識されるのです。この点については、無限なる自我の働きが、反定立された非我を乗り越えて行こうとする、フィヒテの「絶対的自我」の理論と共通するところがあると私は思っています。

外に拡がる、意志意欲を有する拡がる自我は、外界の対象に意味を与えることによって、拡がりを確証しようとします。意味とは言葉に対する主体の把握の仕方であり(時枝誠記「国語学原論」404頁)、対象に言葉を投げかけ、あてはめることにより、拡がる自我は拡がりを確証しているのです(「『拡がりの確証』と組織文化の本質」参照)。

以前論じたとおり、ここに私は認識の積極性を見出しました(「認識について」参照)。対象を意識した「拡がり」は、その対象に何かを見出そうとし、様々な意味を対象に与えようとするのです。認識の本質はここにあります。対象に意味を見出すことによって、拡がりを確認しようとするのが「認識」です。

 

3.外界の拡がりの対象と内心の対象

以上申し上げたとおり、意識の対象としては、人間の外部、すなわち外界にある拡がりの対象が基本となります。そもそも外界の拡がりの対象が無ければ拡がり自体意識されないのです。ただ、これも先程申し上げたとおり、その外界の対象は、拡がりを意識する時点では、その詳細ははっきりしなくても構わないのです。外界の対象に気付けばよいのです。対象が何であるかを確定するのではなく、外界の対象によって「拡がり」自体が意識され、対象に何らかの意味を与えることによって拡がりを確証することが重要なのです。

一方、それとは別に、自己の内心の意識の対象もあります。先程申し上げたとおり、拡がりには人間の「生」の表現である意志意欲も含まれています。意志意欲も意識されるのです。この内心の意識の対象は、思考とか思惟という言葉で表現できるでしょう。では、内心の意識の対象はどのように生じ、どのような性質を持つのでしょうか。

拡がりを意識する時点ではその詳細がはっきりしなかった外界の拡がりの対象ですが、拡がる自我はこの外界の対象に何らかの意味を見出そうとします。そこには意志意欲があるのです。この場合、意志や意欲は、まずは生きていくための手段として対象をとらえることが多いでしょう。生きるための手段あるいは道具という意味を対象に見出すのです。食事をして物質代謝を行い、更には生きるための道具を見出し、あるいは作り出していこうとするのです。

また、先程の「認識について」でも論じましたが、対象に生きる目的としての意味を見出そうとすることもあるでしょう。自己の意志としての情熱を吸収するものを外界の対象に求めようとするのです。拡がる自我は、対象に善を求め、あるいは何らかの価値を求め、あるいは真を求め、意志意欲が外界の対象に向かって生じ、対象に何らかの意味を与えることによって拡がっていき、拡がりを確証しようとするのです。

これら外界の対象に意味を見出そうとする時、内心には意図あるいは目的なるものが生じます。実は、それらが対象として意識されるのです。これが「内心の対象」です。対象となる意図や目的・目標、これを意識するのです。人間が無意識に動くのではなく意識して動く、単なる体の動きではなく意志に基づく体の動き、これが人間の「行為」です。この人間の行為には必ず意図あるいは目的、すなわち意識の対象が伴うのです。

さて、何かを意志する、何かを成し遂げようとする、この人間の意欲ですが、何を意欲するかは基本的には自由です。内心に生ずる意志や意図は自由なのです。外に拡がる自我は、対象に対して拡がりの確証を求めるのであり、この拡がりの確証の論理の設定の自由が「自由」の意味です(「価値と反価値」参照)。内心の対象は自由に設定できるのが原則です。

これに対し、拡がりを意識する契機となった外界の対象は、その全てが自由にはなりません。外界の対象は感性によって出会うのですが、それはその全てを自由勝手に作り上げるわけにはいきません。あくまで与えられるものなのです。それに意味を付与するのが拡がりの確証ですが、その意味は対象によって制約されざるを得ないのです。

このように、内心の対象と外界の対象は大きく異なります。そして、この対象の差異は、以下この論文で述べていくとおり、拡がる自我が他者に拡がりの確証の論理を設定する際、大きな影響を与えていくのです。

 

4.拡がりの対象としての他者

他者(自分以外の人間)は、拡がる自我の外界にあって、拡がりの対象であることは間違いありません。では、拡がりの対象としての他者とはどのような現れ方をするのでしょうか。

拡がりは対象と出会うことにより拡がりを意識するわけですが、拡がりの対象としての他者は、他の対象とは極めて違う大きな特徴があります。それはこちらの働きかけに対し、反応するということです。反応するということは、こちらも他者に対し何らかの反応を期待し、他者の反応に対し何らかの動きをするという相互作用があるということを意味するのです(以上「拡がる自我」参照)。

実際、古くから人間は社会的動物と言われています。常に他者を求めているのです。生まれてすぐの乳児が母親を求めるのは当然の事として、生活上のあらゆる場面で他者を求め、出会っています。人と人との相互作用があることは否定できない事実です。

さて、相互作用は通常言葉によってなされます。そのため、他者に対する拡がりの確証は、他者という単なる対象に意味を認めるだけではなくなります。他者と互いに言葉の意味を共有することが拡がりの確証である、こういうことになってくるわけです。ここに意味とは、先程2で申し上げたとおり、言葉に対する主体の把握の仕方です。

他者に対する拡がりの確証は、他者と意味を共有することによって実現します。拡がる自我は、より多くの他者に言葉をかけ、より多くの他者と言葉の意味を共有したいのです。

それでは、拡がる自我が、意識の対象を根拠として他者と意味を共有するための拡がりの確証の論理を設定する際、具体的にはどのように行うのでしょうか。

他者に言葉を投げかけるときは、そのきっかけ、論拠が必要です。なぜなら他者に注目されるには、他者が注目する何かが必要だからです。この点、拡がる自我の外部の対象は、他者に注目される論拠として非常に優れたものです。先ほど論じたとおり、人間すなわち拡がる自我に感性が認められる以上、外部に何らかの対象があるのは間違いありません。この否定できない事実は誰もが注目すると考えられるのです。

それでは、他者に言葉を投げかけるために、この拡がる自我の外部の対象はどのように把握すればよいのでしょうか。これは拡がる自我である誰もが興味を持つ問題となるでしょう。そこで、この外部の対象をどのように表現し、その意味をどのように他者と共有するか、この問題こそが他者の注目を得るために不可欠となってくるのです。

 

5.主観と客観

他者という対象に拡がりの確証のための言葉と論理を投げかけるには、投げかけられた言葉に他者が注目するための論理の仕組みが必要となります。拡がる自我の外部の対象をどのように把握するか、そしてどのように他者に伝え注目されるか、この仕組みを理解するために最適な言葉が、現代の私達が日常頻繁に使っている言葉、「主観」と「客観」だと私は思うのです。

主観と客観は、他者に対する拡がりの確証を説明するにあたり、極めて都合がよい言葉と論理です。そもそも他者に対する拡がりの確証は、多義的・曖昧な言葉で他者の注目を得て、その後、論理によってより具体的な意味を他者と共有する過程と表現できるものでした(「論理とは何か」参照)。まずは、いかに他者の注目を浴びるか、これが重要なのです。主観と客観は、個々の拡がる自我の誰もが拡がりの確証のために求める論理であり、したがって拡がりの確証のための出発点として誰もが注目する論理なのです。

ここで注意すべきは、主観をsubjektの訳語として、客観をobjektの訳語として、西洋哲学史で論じられているような歴史的変遷を伴う意味合いで使っているのではない、ということです。ここでは、主観と客観を現代の私たちの日常用語としての意味合いで用いているのです。現代では、主観と客観は一対の組となって用いるのが普通だと思います。「観るもの」と「観られるもの」、この対立を軸にして、個々の人間の個別の主体としての観点と、その外界の誰もが共有する客体としての観点、この二つを区分して論理を形成する言葉、これが主観と客観です(山崎正一他「現代哲学事典」『主観と客観』)。

まず、主観は、「拡がり」を表明する言葉として誰もが活用できるものだと私は考えます。拡がりは身体という対象を通じて拡がりの起点である「自我」として意識されます(「拡がる自我」参照)。このように意識された拡がる自我は、自由意思に基づいていなければなりません。ここに「自由」とは、個々の拡がる自我が拡がりの確証のための論理を他者から強制されずに自ら設定する可能性を意味します。何を考えるのか、どう思うのかはその人の自由であり、外部の他者が強制するべきではないのです。この、自由な意思を有する拡がる自我それぞれ個別の観点、これが「主観」です。

次に、客観という言葉も、外界の拡がりの対象を表明する言葉として誰もが活用できる言葉なのです。これは、主観と対をなす言葉であり、誰もが拡がりを意識するきっかけとなる外界の拡がりの対象を表現するための言葉なのです。拡がる自我の外部にある何ものか、これは誰もが感知する対象であり、それを客観と呼んだわけです。個々の拡がる自我から独立した対象、個々の拡がる自我の自由意思にその全てが左右されない対象、個々の主観ではなくそれを離れた外部の第三者の視点から見る対象、この観方が「客観」なのです。

拡がる自我が他者に対する拡がりの確証を得るため、他者に向けて言葉と論理を設定する際は、客観が有する誰もが認めるものといった性質を利用して他者の注目と納得を得て、それを根拠に主観的な自由意思に基づいて定立した意味を他者と共有する、こういう構造になるのです。客観的な対象に主観的な意味を自由に設定する、これこそが、拡がる自我の他者への拡がりの確証の論理の典型なのです。

 

6.誰もが求める言葉「存在」

客観とは、先ほど申し上げたとおり、個々の主観を離れた第三者の立場から対象を観る見方です。個々の拡がる自我から独立した対象、個々の拡がる自我の自由意思に左右されない対象、誰もが認める対象、これが客観的な対象です。客観とは誰もが認めること、こういうことを意味するのです。

さて、この客観的な対象をどのように他者に伝えるか、どのような言葉で他者に伝えるか、これが問題となってくるわけです。誰もが認める対象を出発点として、個々の拡がる自我は拡がりの確証のための論理を他者に投げかけるのです。

拡がりの外界にある客観的な対象を表現するため誰もが求める言葉、実は、その言葉の典型が「存在」という言葉だと私は考えるのです。存在するところの「存在それ自体」は誰も否定することができず、誰もが認めざるを得ないことなのです。「存在」を出発点として、他者に言葉と論理を投げかけ、意味を共有する、これが他者に対する拡がりの確証の論理の構造となるのです。

端的に言うと、「存在」は、個々の拡がる自我が他者に対して拡がりの確証の論理を投げかけるために用いる最も強力な言葉なのです。外界の対象をとりあえず「存在」、あるいは「ある」と表現して論拠とすることが重要なのです。「存在」は他者に対する拡がりの確証を得るための論理の出発点を形成するために生まれてきた言葉なのです。

なぜ他者は「存在」を言葉と論理の出発点とすることを認めるのでしょうか。それは他者も拡がる自我であり、他の者に対する拡がりの確証のための言葉と論理を常に探しているからです。感性を呼び起こす外界の何らかの対象、拡がる自我の外部にある何らかの対象、個々の拡がる自我から独立した何らかの対象、個々の拡がる自我の自由意思に左右されない何らかの対象、これらを誰もが認める客観的なものとして「存在」と呼ぶことにより、互いにその意味を共有し、この存在を出発点としてより具体的な事実に向けて拡がりの確証のための論理が進行するのです。

さて、以上は、存在それ自体を論じたわけですが、拡がる自我の外界には実際様々なものが存在しています。以下、拡がる自我の外界に、個々具体的に存在しているものを「存在者」と呼びたいと思います。

 

7.拡がりの確証と内心の自由

個々の拡がる自我は、誰もが認める「存在」を根拠として他者に言葉と論理を投げかけ、拡がりの確証を得るわけですが、ここで改めて、拡がりの確証の論理がどのように他者に受け入られるのかを見てみましょう。

拡がりの確証を得るために重要なのは、拡がる自我の内心の対象の意味を他者と共有することなのです。3でも申し上げたとおり内心は自由に対象を形作ります。この内心の対象を形作る言葉を根拠に他者に対する拡がりの確証を得るのです。内心の対象の言葉の意味はその人の自由を前提とし、その人自ら作り上げたものです。何度も申し上げているように、自由とは拡がりの確証の論理を強制されずに設定する可能性のことでした。自由に内心に形成した意味を他者と共有することが、他者に対する拡がりを確証する契機となるのです。

この内心の自由は、誰にでも認められるものです。意識以前の拡がりは、何ら規制されることはありません。それも拡がりの意味なのです。拡がりは自由それ自体です。この自由から生まれ出た意味を他者と共有することが他者に対する拡がりの確証となるのです。

なぜ、この内心の対象・言葉を他者に投げかけ、他者と意味を共有する、このことが拡がりの確証となるのでしょうか。それは自分の内心で自由に形成した意味を他者と共有することが、他者の内心に自分を見出すことを意味するからです。他者の内心と自分の内心が同一化する、これはまさに自分の分身であり、それが他者に認められる以上、主体的な拡がる自我が拡がりを確証することになるのです。「確証」といった強力な言葉を使う理由もこの内心の「自由」を前提とするところにあります。拡がる自我は誰もがこの他者に対する拡がりの確証を目指しています。このように、内心の自由は拡がりの確証のためには不可欠なのです。

 

8.意味の共有をめぐる争いとその二方向の解決策

全ての他者が認める「存在」という概念を前提とし、拡がる自我の外界の存在者を論拠にして内心で自由に創造した意味を他者と共有する、これが他者に対する拡がりの確証の論理の典型的な構造です。

ところがここで問題が生じます。そもそも内心の対象は自由を基礎とするものであり、他者からの強制を排除するため他者から隠匿される性格を併せ持ったものなのです。隠匿されたものの意味を他者と共有する、この拡がりの確証の過程では、どうしても困難が生じてしまうのです。

自由に成立させた拡がりの確証のための論理を他者に投げかけるための論拠が外界の対象としての「存在」、すなわち存在者でした。存在者を根拠とすれば、少なくとも投げかけた論理の出発点、すなわち「存在」それ自体は他者と共有されるのです。

しかしながら、個々の拡がる自我が内心に自由に形成する、具体的な個々の存在者である対象の「意味」について、言葉を投げかけた他者との間で大きなずれが生じる可能性はいくらでもあるのです。

例えば、拡がる自我の内心で形成された外界の存在者に関する論理の意味を、投げかけられた他者が理解できず拒絶した場合はどうなるのでしょうか。内心の対象が隠匿される性格を有する以上、この恐れは常に生じます。

また、他者が投げかけられた論理の意味とは異なる意味を同じ外界の存在者に抱いていた場合、投げかけられた意味を拒絶し、さらには反対の主張を相手であるこちらにすることになるかもしれません。この場合は争いが生じてしまうでしょう。

このような誤解あるいは争いの解消が、当事者である拡がる自我双方で求められてくるわけです。最終的には互いに外界の対象に関する意味を共有して拡がりを確証しなければなりません。したがって、互いに納得できる論理の道筋が必要とされるのです。

この解決を図るための論理の構築は、最終的には二つの方向に分かれると私は考えています。

第一の方向は、外界の対象に重きを置く方向です。内心は外界の存在者に影響を受けて成立する、さらに徹底すれば、外界の存在者に基づいて内心の内容は形成される、こういう主張です。結果的に内心の自由の度合いが減少していくことになるでしょう。客観的な社会的事実から個人の意識は理解できるといった唯物論のイデオロギー概念がこの方向の代表でしょう(「善と正義」参照)。

しかしながら、7で論じたとおり、内心の自由は拡がりの確証のためには不可欠です。したがって、全てを外界にゆだねることはできません。そもそも内心の自由が無ければ拡がりの確証は有り得ないのです。したがって、内心の自由を否定することは不可能だと私は考えます。

内心の自由を否定することができない以上、拡がりの確証のための論理は、外界の対象をいかに意味づけるか、外界の対象をいかに解釈していくかといったことが重要になってきます。外界の否定できない対象の存在を根拠として様々な理論を打ち立てる自然科学がその思考の典型でしょう。

第二の方向は、内心の自由な論理構成を尊重することです。究極的には、外界は内心の自由が作り上げたものだという観念論的主張となります。このような内心中心であっても、個々の拡がる自我は互いに意味を共有することが最終的な目的ですから、どこかに主張される意味の一致点が出現してくるのです。外界の存在を根拠としなくても、誰もが認める内心の対象は創造することができるのです。例えば、神あるいは救世主が実在するといった様々な形而上学的な主張が考えられるでしょう。また、外界の存在を否定し全ての現象は心の中にあるという唯識思想も第二の方向に含まれるでしょう。

ところで、内心の対象を根拠とすることを徹底すると、外界の存在を根拠とすることができなくなるので、その主張の論理は決定的な論拠に欠けてきます。なぜなら、外界の存在は与えられるものであり、個々の拡がる自我の自由に服さない側面が絶対的にあるのに対し、内心の対象は、あくまで自由に形成するものであり、他者がそれを認めるのも拡がりの確証のためにその意味を共有する必要性に基づくに過ぎないからです。

このように、個々の拡がる自我が拡がりの確証を求めている以上、内心の対象の意味を他者と共有することは可能ですが、あくまでも内心の対象の本質は自由であり、外界の対象が持っている、絶対的な自由に服さないという側面に欠け、意味の共有が崩壊する恐れが常にあるのです。仮に、内心に神といった絶対者を認めても、それは内心の自由に基づくのであり、あくまでも拡がりの確証の論拠としての仮説であって、内心の自由が隠匿される性格を有する以上、他者が一度認めたとしても常にその意味の共有が否定される可能性があるのです。

 

9.「存在論」の本質

「存在」は、6で申し上げた通り外界の対象の強力な論拠としての力を表明する言葉であり、誰もが用いるものです。個々の拡がる自我が、他者に対する拡がりの確証のために用いる言葉として、極めて重要な機能を持った言葉なのです。

外界の対象物は確実に存在する、私たちが感知する何らかの対象たる物は確実に存在する、拡がりの確証のための論理を他者に発する拡がる自我にとっては、このことは不可欠なことなのです。

ではなぜ、哲学で「存在論」なるものが問題となってくるのでしょうか。

拡がる自我が他者に対して拡がりの確証の論理を投げかけ、他者とその意味を共有することにより拡がりを確証しようとする際、8で論じたとおり誤解や争いが生じることは避けることができません。

この場合、拡がる自我は互いに自己主張することになります。以前「論理とは何か」でも申し上げましたが、自己主張は自分の意見を相手に主張し、相手が自分と同じ意見を持つように説得することです。この自己主張は言葉によってなされ、論理的なものです。そして相手が納得しない場合、すなわち議論になった場合、主張している意見の論拠を求められます。ある論拠がお互い納得できるのであれば、それを前提としてそこから先の議論になり、さらなる論拠が求められることもないでしょう。しかしお互い納得できる論拠が見つからない場合は、さらにさかのぼった論拠が求められます。これが自己主張のための議論なのです。このことは、最終的には、誰もが否定できない究極の論拠が必要とされてくる、こういうことを意味しているのです。

この究極の論拠をめぐり必要とされるのが「存在論」なのです。そして、究極の論拠をめぐっては、8で論じた二つの方向、外界への方向と内心への方向があり、内心への方向を徹底すると、存在自体が揺らいでくるのです。感性がある以上外界の物は確かに存在するかもしれません。しかしそれを根拠にした理論に疑問点がある以上、その根拠となった存在そのものが問い直されざるを得ない事態となるのです。ここで存在とは何かが問題となってくるのです。内心の自由に基づいた意味を外界の存在者と結びつける、その意味に争いがある場合、全ての思考の前提であった存在そのものが疑念の対象となってしまうわけです。ある存在者に対して、議論の相手の内心の自由が付与した意味を否定しようとすると、存在それ自体までもが不確かなものと考えられてしまうのです。

そこで存在それ自体を補強する論理が必要とされてきます。その代表が「実体」です。そもそも存在論は、アリストテレスが、存在それ自体を考察の対象にしたことにはじまります(アリストテレス「形而上学」91頁)。存在はある一つの原理との関係において存在と言われるのであり、その原理とは、あるものを有らしめるのは実体であるということ、実体であるが故に存在と言われ、実体との関係、生成、消滅、性質等であるが故に、存在である、こういうことなのです(アリストテレス「形而上学」92頁)。実体は否定できない究極の論拠です。

存在それ自体を基礎づけようとするのが存在論の狙いです。ただ、存在それ自体は、あくまでも、個々の拡がる自我が、他者に拡がりの確証のための論理を投げかけ、他者とその意味を共有するための手段なのです。ところが、拡がりの確証は内心の自由が不可欠であり、それが他者から隠匿される性質を有する以上、確証の論理の根拠も揺れ動かざるを得ません。存在論はそこで必要とされてくるのです。外界の対象を、他者への拡がりの確証のための論理の出発点とした時に、それを存在と呼び確実な論拠とする、そして、他者との議論の中で揺れ動く存在をさらに確固たるものにする、これが存在論なのです。

元来、外界の拡がりの対象は、確固たる存在である必要はありません。拡がりを意識させればよいのです。ただ、外界に対象があるのは間違いありません。感性がある以上外界の対象は否定できないのです。その対象によって拡がりの確証を得ていく、これが人間の「生」というものです。生きていくために外界の対象と様々な関係を次から次へと築き上げながら、外界の対象に意味を与え続けていく、これが拡がる自我であり、生きている人間です。

ただ、他者との関係が生じると、他者へ拡がりの確証の論理を投げかけるため、個々の拡がる自我は、曖昧だった外界の対象を「存在」と呼び、他者への拡がりの確証のための論理の根拠とするわけです。その論理の根拠を補強する、これこそが「存在論」の本質なのです。

 

参考文献

アリストテレス(出隆訳)「形而上学」岩波書店

I.カント(宇都宮芳明他訳)「純粋理性批判」以文社

フィヒテ(木村素衛訳)「全知識学の基礎」岩波書店

G.W.F.ヘーゲル(金子武蔵訳)・(長谷川宏訳)「精神現象学」岩波書店・作品社

エトムント・フッサール(渡辺二郎訳)「イデーンⅠ—ⅰ・ⅱ」みすず書房

マルティン・ハイデッガー(細谷貞雄訳)「存在と時間」理想社

岩崎武雄「真理論」「存在論」著作集第8巻 新地書房

岩崎武雄「カントとドイツ観念論」著作集第2巻 新地書房

西田幾多郎「善の研究」岩波書店

長尾訓孝「西田哲学の解釈」理想社

細谷恒夫「現象学の意義とその展開」世界の名著51「ブレンターノ・フッサール」所収 中央公論社

竹田青嗣「現象学入門」日本放送出版協会

井筒俊彦「意識と本質」岩波書店

時枝誠記「国語学原論」岩波書店

桜部建「無常の弁証」(仏教の思想2存在の分析〈アビダルマ〉)角川書店

服部正明「瑜伽行としての哲学」(仏教の思想4認識と超越〈唯識〉)角川書店

木田元他「現象学事典」弘文堂

山崎正一他「現代哲学事典」講談社

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