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国家の本質 ~生きる場である社会の類型から考える~

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国家の本質 ~生きる場である社会の類型から考える~

和田徹也

目次

1.問題提起  2.個人と社会  3.目的社会と全体社会  4.目的社会への帰属意識と全体社会への帰属意識  5.全体社会の意志の有無と国家の本質  6.全体社会と国家は等しいのか?  7.国家の機能と国家の意志  文献紹介:尾高朝雄「国家構造論」

 

1.問題提起

前回の論文では、公共性とは何かということを追究しました。公共性は、人々の日常の不平不満を受容する論理的主体としての性質にその本質があったわけです。

その際、公共性を担う国家についても若干触れました。国家は、個人あるいは団体といった個々の主体相互で争いが生じた場合に、その解消を図るために物理的強制力を行使する機関であり、さらには、人々の不平不満の発生を予防する施策を行う機関でもあったわけです。

また、前々回の論文「自己と団体との同一視」では、愛国心についても若干触れました。人間は生き甲斐を得るため、自己と所属する団体とを同一視する傾向があります。愛国心は、自己と国家を同一視することによって生まれてくる心情であると考えたわけです。

このように、個々の人間は、国家に対して様々な機能を期待し、様々な思いを抱きます。そこで、今回、改めて、国家とは何かといったことを考えてみたいと思ったのです。

実は、国家とは何か、この問いは極めて長い歴史があり、無数の理論が打ち立てられています。それらを全て検討・論述することは到底不可能です。

そこで、今回は、個人と社会との関連を通じて国家を哲学的に追究し、国家の本質を自分なりに把握したいと思います。

達すなわち個々の人間の生きる場が社会です。この生きる場である社会を二つの類型に分け、そこから国家の本質を打ち立てることにより、私達が日常抱いている国家という概念を、できる限り端的に表現してみたいと思います。

2.個人と社会

社会とは個々の人間の集合体であり、国家が社会であることは明らかです。問題は、国家が、どのような社会であるか、言い換えれば、国家はどのような個人の集合体であるか、その集合の仕方にあると考えられます。

個々人の集合の仕方は、まず、大きく二つに分けることができると考えられます。

一つは、個々人の間に意思疎通の無い、単なる物理的人間の集合体です。公園の広場に偶然集まった群衆、駅で電車を待つ人々等がその典型です。この人達は互いに意思疎通をしようという意思はありません。それぞれ別の意図のもとに偶然集まっただけです。

もう一つは、個々人の間に意思疎通がある集合体です。各人の意思に基づき意図的に集合した人達です。現代社会における、企業、学校、役所、その他の様々な団体、これらの団体は、構成する個々の人間の間に、何らかの意思の繋がりがあることは明らかでしょう。

「社会」という言葉は、通常、後者の、人と人との間に何らかの意思の繋がりがある場合を指すものとして使用されることが多いと考えられます。

さて、企業や学校は、営利あるいは教育の目的のために結成された個人の集合体です。そこで、このように、何らかの目的を達成させるための個人の集合体を「目的社会」と呼びたいと思います。人類は昔から現代にいたるまで、様々な目的社会を作り続けてきたわけです。

ところで、目的社会を作り続けてきたのは、個々の人間です。そこで、社会そのものを検討する前に、まず、社会を構成する個々の人間から考えていきたいと思います。

そもそも、人間とはどのような存在なのでしょうか。

言うまでもなく、人間は、物理的に独立した個々の生物体です。個々の人間は、生物体として、生きるために外界と物質代謝を行っていることは言うまでもありません。

ただ、個々の人間が行っているのは、それだけではありません。個々の人間は、他の人間、すなわち、他者に対して様々な働きかけを行って生きる、主体的な存在であると言うことができるのです。

この、生きる人間の主体性を表現することは、それが表現された時点で客体となってしまうため、実は極めて困難です。そこで私は、自分に湧き上がる「生」を表現する、「拡がり」という概念を出発点として主体性を理論化しました。主体的な個人を「拡がる自我」と表現したわけです(「拡がる自我」)。

さて、拡がる自我は、先程申し上げたとおり、生物体として物質代謝が不可欠です。この物質代謝は「物に対する拡がりの確証」と表現することができます。

そして、拡がる自我は、他者に対しても様々な働きかけを行い、生きている確証を求めようとします。それは、他者に対して投げかけた言葉と論理の意味を、他者と共有することによって実現します。ここに意味とは、言葉に対する主体の把握の仕方のことです。これを私は「他者に対する拡がりの確証」と表現しました (「拡がりの確証と組織文化の本質」)。

実は、個々の拡がる自我が目的社会を形成するのは、他者への拡がりの確証のためだと私は考えているのです。目的社会を形成することは、社会の目的を他者と共有することであり、それは他者と言葉と論理の意味を共有することを意味しているのです。個々の拡がる自我は、社会を形成することにより、他者に言葉と論理を投げかけ、他者とその意味を共有して、他者に対する拡がりを確証していると考えられるわけです。

3.目的社会と全体社会

目的社会は世の中に多数存在しています。先程申し上げたとおり、企業、学校、役所、そして趣味のサークル、もちろん家族も目的社会です。その他、無数に存在する目的社会に所属しながら私達人間は生きています。

この目的社会は、団体としての意志を持ちます。なぜなら、目的社会は、ある目的を達成するための社会であり、対内的にも対外的にも、団体としての意志が存在しなければならないからです。

それでは、ここで視点を変えて、この目的社会が存在して、活動している地盤、地域といったものを考えてみましょう。

私達が住んでいる「何々町」といった身近な地域、ここには様々な目的社会があります。さらに広く「何々県」といった地域も同様です。これらが一つのまとまりを形成していることは否定できないでしょう。さらには、日本という国も、一つの確固たるまとまりある地域です。

これら一定の範囲の地域の中で、私達は様々な活動をして生きています。様々な目的社会、例えば、企業を形成し、企業同士で様々な取引をして生きています。

このように、一定の地域を基盤とした、諸々の個人、及び、様々な目的社会を包摂する社会、これを「全体社会」と呼びたいと思います。

私達の生きる場である社会は、目的社会と全体社会の二つの類型に分類することができるのです。

個々の拡がる自我は、この全体社会の中で、他者に対して言葉と論理を投げかけ、他者とその意味を共有することによって拡がりを確証しています。そして、個々の拡がる自我は、全体社会の中で、目的社会を新たに設立し、あるいは既存の目的社会に参加することによっても、他者に対する拡がりを確証しているのです。

この全体社会は、先程2で申し上げた、個々人の集合の仕方の分類上、一つ目の、個々人の間に意思疎通の無い集合体だと考えられるかもしれません。

実際、よほど狭い全体社会、例えば村落共同体でもない限り、大多数の人間が意思疎通の無い状態で存在していることは否定できません。

しかしながら、私は、全体社会においても、個々の拡がる自我には、ある種の意思疎通が存在するのではないかと思うのです。どういうことかと言うと、個々の拡がる自我は、その全体社会に対し、帰属意識を持つことは否定できないのではないかということです。共通の帰属意識を持つということは、個々の人間の間に何らかの意思の繋がりがあるということ、言い換えれば意思疎通があるということ、このように言うことができるのではないかと思うのです。

郷土愛あるいは愛国心といった人の心を高揚させる言葉、自分が生まれ育った地域への郷愁、これらの感情は全体社会への帰属意識から生まれます。

では、この、心を奮い立たせる帰属意識、何か懐かしい思いがする帰属意識は、どこから、どのように生じてくるのでしょうか。次にそのことを考えてみましょう。

4.目的社会への帰属意識と全体社会への帰属意識

まず言えることは、目的社会が帰属意識を生むのは当然だということです。何らかの目的を達成するために社会が形成された以上、その社会の形成に参加した者は皆、基本的に同じ目的を持つのであって、当然、誰もが参加した目的社会、言い換えれば、団体への帰属意識を持つからです。

さらに言えることは、この、団体への帰属意識を持つと、その団体に所属する個々の拡がる自我は、団体と自己とを同一視するようになるということです。なぜなら、自分自身、団体の組織の中では、団体の手足すなわち機関となるのであり、団体の一部となっていると認識できるからです。ここに組織とは、二人以上の人々の意識的に調整された活動や諸力の体系のことです(バーナード「経営者の役割」)。

自己と団体との同一視が成立すると、団体の構成員である個々の拡がる自我の、団体の外部の他者に対する、間接的な拡がりの確証が実現することになります(「自己と団体との同一視」)。

このように、目的社会への帰属意識は、自己と団体との同一視までも生じさせる、強い性格を有するものなのです。

では、全体社会への帰属意識はどうなのでしょうか。

全体社会は、様々な、あらゆる目的社会を包摂する社会です。したがって、全体社会自体は目的がありません。なぜなら、全体社会の成立は、あくまでも、個々の人間あるいは個々の目的社会の活動の結果、こういう性格が強いからです。

このように考えると、全体社会への帰属意識は、論理的には存在しないようにも思えます。なぜなら、包摂されるのは個々の人間の意志ではなく、存在している様々な人間、集団といった、結果としての単なる事実であると考えられるからです。

しかしながら、全体社会への帰属意識は、厳として存在すると私は考えます。

その根拠は、全体社会を構成する個々の拡がる自我の、他者への拡がり、他者への拡がりの確証にあるのです。

個々の拡がる自我は、常に他者への拡がりの確証のための論理を設定し、他者とその意味を共有することを目指しています。“生きる”ということは、拡がりを確証することであると表現することができるのです。そして、個々の拡がる自我が生命体である以上、拡がりの確証は絶対命令でもあります。

この個々の拡がる自我の他者への拡がりの確証の論理は、その全体社会の様々な文化を論拠として形成されることになります。したがって、個々の拡がる自我は、全体社会の文化を活用せざるを得ないことになってきます。

ここに文化とは、ある社会の構成員が共有している行動様式や精神的・物質的な生活様式全般のことを意味します。例えば、その地域で通用する言語、主な食べ物、住居の様式等、文化の様々な具体的内容が考えられます。それぞれの全体社会には、それぞれ固有の文化が存在しているわけです。

個々の拡がる自我が、他者に対する拡がりの確証を得る地盤、地域が全体社会です。そして、個々の拡がる自我は、この全体社会の存在を認識すると同時に注目します。なぜなら、拡がりの確証を常に広く求めるのが拡がる自我であり、拡がりの確証の可能性の基盤、範囲が全体社会だからです。

そして、個々の拡がる自我は、自分が所属する全体社会の文化に愛着を持たざるを得なくなります。なぜなら、その全体社会の文化を、他者への拡がりの確証のための論拠として常に活用することになるからです。だからこそ、生まれ育った地域への郷愁を誰もが感じるのです。人間の成長は、他者への拡がりの確証の実現の蓄積でもあるのです。

要するに、全体社会は、それを構成する個々の拡がる自我が、他者への拡がりの確証の論理を投げかける可能性ある範囲なのです。だから様々な地域の核があり、町内会、市、県、国といった段階的な地域の枠が生じ、そのそれぞれが全体社会となるわけです。例えば、個人は、日常、身近な町の中で他者への拡がりの確証を得ようとするでしょうし、企業に所属する場合は、町から県へ、さらには国全体の範囲で、他者への拡がりの確証を実現しようとするでしょう。

そして、全体社会は、個々の、無数の目的社会を包摂しています。企業を始めとする個々の目的社会は、全体社会の中で互いに交渉し様々な関係を結びます。目的社会の活動の舞台が全体社会なのです。

新たな交渉の相手、言い換えれば、新たな拡がりの対象となる他者が出現する可能性、その可能性に、個々の拡がる自我の主体的な意志意欲が収斂されることにより、全体社会への帰属意識、さらには、全体社会への愛着といったものが形成されてくるわけです。

5.全体社会の意志の有無と国家の本質

個々の人間が、全体社会に帰属意識さらには愛着を持つことは分かりましたが、全体社会は、目的社会と同様に、団体の意志といったものを持つのでしょうか。全体社会の意志といったものは存在するのでしょうか。

この点については、全体社会を構成する個々の人間が、その全体社会に対して強い帰属意識を持ったとしても、全体社会の意志は生じないのではないかと私は考えます。なぜなら意志とは、本質的に、主体性を有する個人に発生するものだと考えられるからです。

目的社会である団体の意志は、その構成員である諸個人が、何らかの過程・手続きで同意して生じるものです。目的社会という団体、組織の意志を、各々の個人が認めているわけです。このことをさらに詳しく見てみましょう。

目的社会がその目的の達成を目指す際、団体は組織化され、上下の指揮命令系統が発生します。組織とは、二人以上の人々の意識的に調整された活動や諸力の体系のことでした。この場合下位の人間が反感を持つと、個々の人間の間に争いが発生して組織が崩壊する危険があります。そこで、組織の上下関係を正当化する理念が求められてきます。

この目的社会を維持する正当性、これを私は目的社会の「全体の価値」と呼びました(「価値とは何か」)。価値とは誰もが求めるものであって、比較がその本質を成すものです。

目的社会の全体の価値は、基本的には、目的社会の目的、例えば利益の追究といった目的から生じますが、そこに様々の理念的要素、例えば所有権といった正当性が付着して形成されます。全体の価値があるからこそ、目的社会の構成員は社会・組織から離脱することなく、その目的社会に所属し続けるのです。構成員誰もが従う、目的社会の意志は、この全体の価値を基盤として成立しているわけです。

このように考えて行くと、全体社会にも意志が存在するようにも思えてきます。なぜなら、誰もが全体社会への帰属意識を抱く以上、全体社会にも全体の価値があるのであって、全体の価値を認めるのであれば全体社会の意志も認めるべきだ、こういう考えが生じてくるからです。

しかしながら、全体社会自体は意志を持つことができません。なぜなら、先程も申し上げたとおり、全体社会の成立は、あくまでも個々の人々の行為の結果、目的社会の活動の結果であるからです。

全体社会は意図的に出来上がったものではありません。意図的に成立するのは個々の目的社会なのです。全体社会は様々な意志を有する諸々の目的社会の集合体に過ぎないわけです(高田保馬「社会と国家」86頁)。

このように、全体社会の意志を意図的に形成することは、論理的に不可能ではないかと思うのです。したがって、全体社会の全体の価値の存在は、何らかの目的社会が証明しなければならないことになります。

実は、ここにこそ、国家という目的社会が成立する根拠があると私は考えるのです。国家の本質はここにあると思うのです。

人間の生きる場、活動の場である全体社会、個々の拡がる自我の他者への拡がりの確証の実現の場である全体社会、全体社会は個々の拡がる自我にとって必要不可欠なわけです。

そして、拡がりの確証の実現の場である全体社会は、秩序も不可欠です。秩序とは、事象を構成する諸々の要素の関係に一定の型、規則性があり、要素の一部のあり方を知れば他の諸要素のあり方の可測性が存在する事態を意味します(加藤新平「法哲学概論」307頁)。秩序があってこそ、個々の拡がる自我は、拡がりの確証の論理を他者に投げかけることができるのです。

目的社会は、まさに意図的に生じる社会です。目的社会の全体の価値は、結果としてではなく意図的に生じてくるものなのです。国家という目的社会を形成することは、全体社会における全体の価値を可視化し、全体社会の秩序を維持するといった目的があるわけです。

国家という目的社会が、他の目的社会とは異なり、特別の存在意義を有する根拠はここにあると私は考えているのです。

6.全体社会と国家は等しいのか?

ここで生じてくるのが、全体社会こそが国家なのではないか、といった疑問です。もし全体社会に全体の価値が認められるならば、全体社会自体が国家なのではないかということです。果たして、全体社会と国家は同一のものなのでしょうか。

この点、全体社会と国家は異なるものと私は考えます。国家はあくまでも目的社会だと思うのです。なぜなら様々な人々の要求や要望を満たすのが国家の本質だと思うからです。何らかの目的を実現するのが国家なのです。全体社会に意志が存在しない以上、全体社会が国家であると、私には言うことができません。

また、現実の社会を検証してみても、全体社会と国家は異なると思われます。

国家が全体社会であるということになると、全ての目的社会が国家に包摂されることになります。しかしながら、目的社会の中には一定地域に限られない社会も存在するわけで、実際、現代社会において国際的な活動をしている企業や宗教団体は多数存在しています(高田保馬「社会と国家」123頁)。そうなると国家は地球全体、世界全体ということになり、現実の国家と異なること明白です。ちなみに、地球全体としての世界、言い換えれば国際社会といったものも、全体社会の一つと考えられます。

国家の影響力、権力が及ぶ範囲は、もちろん一つの全体社会と成り得ますが、これをもって全体社会が国家であるとは言えないと思うのです。

ただ、国家が、全体社会の構成員の意志を実現していることは明らかです。もっとも、それは全体社会自体の意志ではありません。あくまで個々の人間の意志なのです。

しかし、個々の人間の意志が集合して共同意志なるものが生じ、それが国家を設立したとも考えられます。それでは、この共同意志とは何か、そして、目的社会である国家の意志はどのように生じているのか、このことがここで問題となってくるわけです。

7.国家の機能と国家の意志

前回の論文「公共性の本質」で論じたとおり、国家は様々な機能を担っています。

現代社会は、商品経済社会から成り立っています。経済的必要性は、商品交換によって充足され、人間社会は維持されているのです。しかしながら、個人あるいは企業といった私的主体相互の商品交換において争いが生じた場合、商品交換以外の方法によって解決しなければなりません。さらには、人々の間では、経済以外でも様々な争いが生じていることは否定できません。

これらの争いを解決するのが、司法です。裁判によって、第三者の立場からどちらの主張が正しいか決するわけです。司法は誰にでも開かれているといった公共性を有していなければなりません。そして、さらに必要とされるのは、裁判の決定を実現する物理的強制機構、言い換えれば、公的権力です。ここに、権威ある立場であり、物理的強制権力を行使する機能を備えた国家というものが必要とされてくる根拠があります。

また、現実の人間社会では、司法の場に出てこない争いや不平不満の方が断然多いので、争いを未然に防ぐ施策、人々の不平不満を緩和する施策も強く要請されてきます。さらには、対価の徴収が不可能なサービスの提供、例えば道路の設置等も人々から求められています。国家は、これらを実現する行政といった機能をも併せて持っているのです。行政も誰にでも開かれているといった公共性を有しています。

まず言える事は、国家はこれらの人々の要望を実現する機能を持つ目的社会だということです。世の中の様々な目的社会と同様、国家も、公共性を有する多様な目的を実現する目的社会の一つであるわけです。

ただ、その目的を実現するには、国家は他の目的社会に対して、上位にある必要が生じます。なぜなら、国家は、人々の不平不満や目的社会同士の争いの解決を図るため、諸々の目的社会よりも一段上の、権威ある、第三者的立場に立たなければならないからです。

さらに言える事は、国家は、先程申し上げた、司法の判断の実現、行政サービスの実現のため、物理的強制力を行使する必要があるということです。この必要性により、他の諸々の目的社会よりも圧倒的に権威ある地位を国家が独占することになるわけです。

それでは、以上のような機能を有する目的社会である国家は、どのようにその意志が決定されるのでしょうか。

先程申し上げたとおり、目的社会である団体の意志は、目的社会を設立した個々の人間、さらには、目的社会に参加した個々の人間が、何らかの手続き、過程によって、団体の意志を認めることによって成立します。

国家も目的社会である以上、基本的にはこのことが妥当します。全体社会の、個々の人々の意志が、何らかの手続き、過程を得ることにより、共同の意志として国家を成立させているのです。

しかしながら、国家は全体社会を基盤とした公共性を有する目的社会であるため、国家の意志の形成も、一般的な目的社会とは大きく異なってきます。

まず言えることは、国家が、物理的な公権力を行使する唯一の目的社会だということです。これにより、権力といったものが、国家の意思決定において、極めて大きな意味を持たざるを得ないことになります。国家は、一部の人間が人々を支配するために存在しているといった発想も、ここに生まれてきてしまうのです。

また、このことは、国家の権力が及ぶ範囲が全体社会を構成するということをも意味します。国家は他の目的社会と同列の目的社会の一つです。しかし、この権力行使の機能を有することにより、全体社会の地域を画する特別の機能を国家は有することになってくるわけです。

端的に言って、国家を形成する共同意志の内容は、国家が行使する様々な機能の内容そのものになってくると思います。しかし、今申し上げた、権力行使といった国家の特殊な機能が、熾烈な政治的争いを引き起こしてしまい、国家を形成させている、共同意志を見え難くしているのです。それが歴史上の事実であると私は思うのです。

この点、歴史的には、国家は、一般的に他民族を支配することから生まれたとする極端な見解まであります(尾高「国家構造論」360頁)。部族と部族の間の戦争が起こり、一方の部族が他方の部族を制服し、支配関係が生じて国家も成立した、こういう考えです。

そして、さらに問題となるのは、国家という目的社会の構成員は誰かということです。国家の権力行使を行う組織に属する人々が、国家という目的社会の構成員であることは間違いないでしょう。では一般の私人、権力行使の客体となる人々は、国家の構成員であると言えるのでしょうか、逆に、国家という目的社会に支配される人々となってしまうのでしょうか。国民と呼ばれる人々は、国家という目的社会の中で、どのような位置付けになるのでしょうか。

このように、国家の意志の形成については、様々な複雑な要因が絡んできます。そこで、前回の講座で検討した公共性の本質をも踏まえ、国家の意志の形成については、改めて詳細に論じることにしたいと思います。

参考文献

尾高朝雄「国家構造論」岩波書店

高田保馬「社会と国家」「社会学概論」岩波書店

加藤新平「法哲学概論」有斐閣

佐竹寛「政治学体系論」法学書院

時枝誠記「国語学原論」岩波書店

ヘーゲル(上妻精他訳)「法の哲学」(松村一人訳)「小論理学」岩波書店

マッキーヴァー(中九郎他訳)「コミュニティ」ミネルヴァ書房

J.ハーバーマス(細谷貞雄訳)「公共性の構造転換」未来社

K.マルクス(岡崎次郎訳)「資本論」大月書店

M.ハイデッガー(細谷貞雄訳)「存在と時間」理想社

C・I・バーナード(山本安次郎他訳)「新訳経営者の役割」ダイヤモンド社

 

(2023年5月公表)

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