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身体と精神、自我と他者 ~デカルトの哲学から考える~

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(YouTube解説講座)

身体と精神、自我と他者 ~デカルトの哲学から考える~

和田徹也

目次

1.問題提起  2.主体としての身体と意志意欲  3.デカルトの身体と精神の絶対的区別  

4.人間の主体性と他者への拡がりの確証  5.精神の成立基盤  6.自我と他者  

参考文献

 

1.問題提起

身体は物理的存在です。ここに独立した個人、そして自我の根拠があるとまずは考えることができると思います。

では、物理的存在である身体に気付くのは誰なのでしょうか。

言うまでもなく、それは自分だと皆が思うでしょう。では身体に気付く自分とは何なのでしょうか。

それは心である、あるいは精神である、このように考えることができるかもしれません。では心あるいは精神とはどこにあるのでしょうか。

この身体の中にある、このように答えることができるでしょう。では、この身体の中のどこに精神といったものはあるのでしょうか。

現在であれば、それは脳だと答える人が多いでしょう。脳が精神といったものを生み出しているのだ、こういうことです。

ここで最初の問題に戻ってみます。物理的存在である身体に気付くのは誰かという問題です。その答えは、とりあえず、脳だということになったわけです。

言うまでもなく脳は身体の一部でしょう。したがって身体に気付く自分も身体である脳だということになります。

しかしながら、ここで思うのが、脳は、精神といったものとはやはり異なるのではないかといったことです。脳は、身体であり、物理的存在ですが、精神は物理的存在であると言うことが絶対にできない気がするのです。言えるのはあくまで、物理的存在である脳と何らかの関係性があるといったことだけなのです。

この問題の追究も、精神と脳との関係性が認められれば、もうそれでいいではないか、このように思う人もいるかもしれません。しかしながら、私は、さらなる追究をすることを我慢することができないのです。

なぜなら、家族を構成する他者、あるいは働く場である企業を構成している他者、これら自分と共に団体を構成している他者達とは何らかの心のつながりがあることは間違いないと思うからです。共同体での他者との精神的なつながりは絶対に否定できません。他者とのつながりを実現している精神は、物理的身体から独立して存在していると思うからなのです。

では、物理的な独立した個人をつなぐ精神とは何なのでしょうか。共同体を構成する個々の人間が有する共同意思とは何なのでしょうか。そして、この共同意思を形成する精神と個々の人間の身体とはどのような関係にあるのでしょうか

今回は、身体と精神、自我と他者、これらについて深く考えてみたいと思います。

 

2.主体としての身体と意志意欲

まずは、身体と精神から検討してみましょう。

人間は物理的存在ですが、単なる物理的存在ではありません。言うまでもなく生きているわけです。湧き上がる生の奔流、生の発現、言い換えれば主体的存在なのです。

この主体性を表現することは困難です。表現した途端に客体になってしまうからです。

そこで私は誰もが感じる「拡がり」といったものを出発点として主体性を表現しようと思ったわけです。

目を開けるとまずは拡がりがあります。そして視界の拡がりから目に飛び込んでくる拡がりの対象に着目せざるを得ないのです。着目するということは、意志意欲すなわち主体性があるということなのです。拡がりという言葉は単なる空間ではなく、意志意欲、主体性といった意味が含まれているのです。

このように、対象と出会うことにより拡がりは意識されます。拡がりは、対象と関わることにより意識され、生きていることを実感するのです。

この場合、まずは、生きていくための手段、道具としての対象に着目することになるでしょう。拡がりの対象たる物を食べ、拡がりの対象たる住居に住む、等々です。このように外界の拡がりの対象たる何らかの物を利用して物質代謝を行い、厳しい環境にも適応しながら生きていく、これが私達生きる人間です。

そして、さらに言えることは、拡がりの対象には自分の身体も含まれるということです。手と足、胴体、それらは拡がりの対象ですが、動かそうとすれば動いてしまうのであり、さらには身体の動きに応じて視界の他の拡がりの対象の内容も変化するのです。

このことは、拡がりの対象としての身体が、単に拡がりを意識するだけのものではなく、意志意欲を実現する機能を持っていることを意味します。乳児はよく自分の手足をじっと見つめ、動かしていますが、意志により動き感ずる身体があることを発見していると推測されるのです。

このように考えると、意志意欲を実現する身体は、対象としての身体であると同時に、主体としての身体であると表現することができます(市川浩「精神としての身体」参照)。

では、この場合、意志意欲とは何でしょうか。意志意欲こそ、冒頭で申し上げた、精神といったものなのでしょうか。

意志意欲といった概念は、私は、二つに分けることが可能だと思います。生の発現としての抽象的な意志意欲と具体的行動を意図する具体的な意志意欲です。

生としての人間を前提とするならば、抽象的な意志意欲の存在は否定することができないでしょう。そもそも生きるとは、意志意欲といった側面が必ずあると思われるのです。「生」という言葉に意志意欲が含まれているのです。この場合、この抽象的な意志意欲は身体とは密接不可分となるでしょう。

一方、具体的な意志意欲は具体的行動をしようとする意志ですが、こちらは、意外と、曖昧な概念ではないかと私は思うのです。

先程申し上げたとおり、私達は日常、食事をし、働いて、家族とともに住居に住んで、様々な具体的行動を行っているわけです。この場合、一見、意志意欲が先行し、行動を導いていると考えることができるかもしれません。しかしながら、具体的行動は、その都度意志意欲が前面に出ているとは限らないと思われるのです。具体的行動は、まさに、身体と意志意欲が一体となって行っていると思うのです。先程申し上げた、主体としての身体といった言葉の意義はここにあるのです。

このように考えてみると、冒頭で申し上げた、身体に気付く精神といったものは、意志意欲とは区別されるべきだと私は思うのです。なぜなら、意志意欲は身体と一体をなしているのに対し、精神とは身体からは独立していると思われるからです。独立しているからこそ身体に気付くと言えるのです。

では、この精神とは何なのでしょうか。身体と対立する精神とは何なのでしょうか。次にそのことを考えましょう。

 

3.デカルトの身体と精神の絶対的区別

精神と身体をはっきり分けた人の代表がデカルトです。

デカルトは、「私は考える、ゆえに私はある」という真理を、懐疑論者のどのような法外な想定によっても揺り動かし得ない確実なものとして哲学の第一原理としました(「方法序説」後掲参考文献188頁)。

疑えるものは全て疑った上で、疑っている自分自身は否定できないとして、私は一つの実体であり、その本質は、ただ考えるということだけであり、したがってこの私は精神であり、物体から分かたれているものである、と主張したのです(「方法序説」188頁)。

このように、デカルトは、精神の実在を認め、物体の本性は長さ・幅・深さなどの延長(「哲学の原理」371頁)、すなわち広がりであるとしました。この広がりは、私が先程申し上げた、この純粋人間関係論で用いている「拡がり」とは異なり、意志意欲を全く含まない物理的な空間です(「省察」246頁)。意志意欲はあくまで精神に含まれるわけです。

したがって、身体も全く物理的なもので、意志意欲を持たない単なる物体となります。意志意欲はあくまでも精神から発するものなのです。精神と物体、すなわち精神と身体の二元論、これこそがデカルトの考えだと言えます。

しかしながら、このように考えると、即座に難問に遭遇してしまいます。身体から離れた精神はどこにあるのかということです。

考えることそのものが我であり、精神であれば、それはあくまでも観念的なものに過ぎず、物とのかかわり合いから隔絶してしまうでしょう。精神は身体をどのように動かすのでしょうか。精神と身体が隔絶されたならば、身体と精神とのつながりは消滅し、精神によって身体が動くと言うことができなくなるのです。

ところが、デカルトは、精神は身体の全ての部分から直接に働きかけられるのではなく脳からのみ、それも共通感覚が宿るという、脳の小さな一部分である松果腺からのみ働きかけられると論じているのです(「省察」304頁)。ここには精神と身体のつながりが認められます。実は、デカルトも精神と身体とは完全別個のものとは考えていなかったのです。

 

4.人間の主体性と他者への拡がりの確証

精神と身体は何らかのつながりが必要である、このことは否定できないと思われます。ただ私は、デカルトのように松果腺を通じてつながるとするだけでは不十分な気がするのです。どういうことかと言うと、先程申し上げた、意志意欲と同様、精神も身体とは本来密接不可分であり、精神と身体を区分する発想は全く別の必要性に基づくということを主張したいのです。

先程、私は人間の主体性を表現するため、拡がりという概念を出発点として考えました。そして、拡がりは身体と結びつき、意志意欲を実現する身体は、対象としての身体であると同時に、主体としての身体であると申し上げました。

ところで、拡がりは常に起点が求められます。世界の中心であるということです。この唯一の起点こそ、かけがえのない自分自身すなわち「自我」の成立根拠たり得るものなのです。

一方、自我という概念には、理性的な主体としての意味もあります。理性を持ってこそ自我と言えるわけです。この理性的な自我は、拡がりの対象である他者との関係において生じるものなのです。

生まれてから人は、様々な社会の様々な役割関係の中で、他者に役割を期待すると同時に他者からの役割期待に応えて生きてきたわけです。この経験の中から、一般化された他者なる概念が生じ、この一般化された他者の役割期待に応えることが、理性的に振る舞う自我を形成するのです(「役割と自我」参照)。

今申し上げてきた、世界の中心にある理性的自我、これを私は「拡がる自我」と呼びました(「拡がる自我」参照)。

さて、生の発現である拡がる自我は、生きていることを実感し、生きていることの確証を求めようとします。これを私は「拡がりの確証」と表現しました(「拡がりの確証と組織文化の本質」参照)。

食事をはじめとする物質代謝は物への拡がりの確証を意味します。そしてより重要なのが他者への拡がりの確証です。それは他者と言葉の意味を共有することにより成し遂げられます。ここに意味とは、言葉に対する主体の把握の仕方のことです。個々の拡がる自我は、他者への拡がりの確証のため、言葉と論理を他者に投げかけ続けているのです。

実は、精神とは、拡がる自我の他者への拡がりの確証の実現から生じてくると思うのです。次に、そのことを考えてみたいと思います。

 

5.精神の成立基盤

個々の拡がる自我は他者へ言葉と論理を投げかけ続けます。他者に言葉をかけたくてしょうがないのが人間なのです。そして他者と言葉の意味を共有することによって他者への拡がりを確証します。

先程、私は、意志意欲と身体は一体化していると申し上げました。主体としての身体です。ところが言葉が存在すると、言葉によって意志意欲を分裂させて認識するようになります。身体と一体となっていた意志意欲を言葉によって表明する、ここに意志意欲が身体から独立に存在する根拠があるのです。

意味とは言葉に対する主体の把握の仕方のことであり、主体と意志意欲とは一体不可分です。そして、他者への拡がりの確証は、内心で自由に形成した自分独自の言葉の意味を他者と共有するところに実現します。他者に自分自身の独自性を見出すからこそ拡がりの確証となるからです。

私は、ここにこそ、精神が独立して認識されるべき根拠があると思うのです。どういうことかと言うと、この後詳しく申し上げますが、他者との言葉の意味の共有は、自分と他者とが共有する精神という基盤の上においてこそ確実に実現され得るということなのです。実は、デカルトの二元論の意図もここにあると思うのです。

デカルトはとにかく「考えること」をすべての基盤としました(「省察」249頁)。考えること自体は絶対に否定することはできないということです。ここに物体である身体と精神が分断される根拠があるわけです。

実は、考えることは内心の自由を意味しているのです。内心の自由は、他者への拡がりの確証のための出発点となるものでした。内心の自由により生み出された言葉の意味を他者と共有することが拡がりの確証であったわけです。そして、他者への拡がりの確証の実現は、拡がる自我にとって絶対命令と言うべきものなのです。

内心の自由を表明する言葉、すなわち言語が確立されると、物質である個々具体の身体から離れた精神といった概念が、他者との共通の基盤としてきわめて強力な力を発揮することになるのです。現実の物体である身体から独立した精神という立場、言い換えれば、宙に浮く第三者の立場といったものから現実の事物を表現することが可能になるからです。

意志意欲は身体と密接不可分であり、精神も本来は密接不可分だったかもしれません。しかしながら、他者への拡がりの確証のためには、精神と身体を分断し、精神を独立したものとし、その他者との共通の立脚点から客観的な事物を論じる、このことが極めて有効な手段となるのです。

この、精神を独立させて生ずる客観的視点からの論理、この他者への拡がりの確証のための論理が、人類の歴史上、様々な科学的思考を生み出し、様々な技術の発展を生み出してきたのではないか、このように私は考えているのです。

 

6.自我と他者

以上申し上げてきたとおり、精神は、他者への拡がりの確証のために、身体から独立したものとして認識されてくるのだと、私は考えます。

そして、さらに言えるのは、この精神といったものを利用することにより、自我と他者が極めて緊密に結び付いていくということなのです。

物理的存在である身体を基準にすれば、どうしても個々の人間は、独立した存在であり、言葉もその都度通じるだけであり、共同体の共同意志なるものも、個々の人間の意志の単なる集合体に過ぎないわけです。

しかしながら、精神といったものを前面に出すと、個々の人間の集合体である団体の意志といったものが、実在するものとして認識可能になってくるのです。例えば、ヘーゲルの言う精神とはまさにその発想ではないかと私には感じられるのです。

以前論じた、個人主義的世界観を否定する団体主義的発想も、この精神といったものを重んじるところから生じたのではないかと思うのです。

ただ、私は、団体主義的発想、共同体を前提としてそこから個人が生じるといった発想、これらにはやはり違和感を覚えるのです。

あくまでも出発点は、独立した物理的身体を有する個々の人間、すなわち個々の拡がる自我であり、他者への拡がりの確証のために、精神といった概念を必要としたのであり、その結果として団体主義的発想も生じてきた、このように考えたいわけです。

身体を有する自我と他者とはあくまで独立した存在なのです。ただ、互いに拡がりの確証を求め合う関係にあり、拡がりの確証を得るために精神が身体から独立して存在してくるのであって、団体の共同意思もここに発現してくるわけです。

 

参考文献

デカルト(野田又夫訳)「方法序説」・(井上庄七・森啓訳)「省察」・(井上庄七・水野和久訳)「哲学の原理」中央公論社世界の名著22巻

M.ハイデッガー(細谷貞雄訳)「存在と時間」理想社

アリストテレス(出隆訳)「形而上学」岩波書店

G.H.F.ヘーゲル(金子武蔵訳)「精神の現象学」岩波書店

山本信「『物』と『私』-相補的二元性について-」産業図書「心身の問題」所収

山本信「形而上学の可能性」東京大学出版会

岩崎武雄「西洋哲学史」有斐閣

岩崎武雄「存在論」(著作集第8巻)新地書房

市川浩「精神としての身体」勁草書房

時枝誠記「国語学原論」岩波書店

桂壽一「デカルト哲学とその発展」東京大学出版会

和辻哲郎「倫理学」岩波書店

児島洋「哲学的人間学序説」九州大学出版会

(2022年9月公開)

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