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正義の本質 ~正義における合意論的理念と全体論的理念~

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正義の本質 ~正義における合意論的理念と全体論的理念~

和田徹也

目次

1.問題提起  2.正義の客観性  3.創造の論理における正義  4.分割の論理における正義  5.創造の論理の前提としての分割の論理の正当性  6.正義における合意論的理念と全体論的理念  7.分割の論理と創造の論理の調整原理としての正義  8.仮説としての正義  文献紹介)J.ロールズ「正義論」

1.問題提起

私達人間は、言うまでもなく、生きています。主体的に生きているのです。主体的に生きるとは、外界の物を食して物質代謝を行って、外界の環境に適応して生命を維持するだけではありません。他者に対し様々な言葉・論理を投げかけ、他者とその意味を共有して生きていることを実感する、これこそ主体的に生きるということだと私は思うのです。

ところで、社会の中で生きる人間が他者に投げかける論理は、大きく、分割の論理と創造の論理に分類できると私は思うのです(「分割の論理と創造の論理」参照)。

分割の論理は、端的に言えば、自分の地位の高さを他者に主張するものです。自分が所属する社会あるいは組織全体から出発する論理で、出発点である社会全体それ自体に大きな価値を置き、その社会全体の価値の序列の中での自分の地位の高さによって他者の注目を得る論理です。

これに対し、創造の論理は、自分が何を創ったかを他者に主張するものです。個々の人間から出発し、個々の行為と成果に大きな価値を置く論理です。いかに努力し創造したか、これを他者の注目を得るための価値の評価基準とします。

価値とは、誰もが求めるものであって、高低・大小が生じた可測的で比較可能な意味のことです。分割の論理と創造の論理は、この価値の配分の方法に大きな違いがあるわけです。前者は、出発点の社会・組織全体に絶対的な価値を置き、その全体の価値を分割した自分の地位の価値を他者に主張する論理であるのに対し、後者は、個々人の行為とその結果に価値を置き、自分が創造した価値を他者に主張する論理です。

ではこの分割の論理と創造の論理はどのような関係にあるのでしょうか。

分割の論理が人間の格差を前提とするのに対し、創造の論理は均一な人間を前提とします。なぜなら、創造した価値そのものを測定するには人間が均一でなくてはならないからです。ところが、創造の論理は均一な人間を前提とするにも拘らず、結果として新たな人間の格差を形成するものなのです。創造した新たな価値は均一ではなく、創造する人間により上下の価値の差異が存在するからです。したがって、創造の論理の結果に基づいた新たな人間の格差を前提として、再度、分割の論理が成立することになってくるのです。

例として、商品交換経済を考えてみましょう。

商品の生産は、創造の論理の典型です。創造された商品の価値は、均一な人間を前提とするからこそ正確に計測されるのです。ここに人間の格差の発現の根拠があります。そして、創造の論理の結果である商品の価値は、交換経済により特定の者への富の蓄積をもたらし、結果として人々の間に財産の格差をもたらします。

創造の論理の結果としての財産は、労働に基づく所有権といった理念から成る全体の価値により正当化され、維持されます。この財産の集積は、持つ者持たざる者といった人間の格差を根拠に、賃労働を生み出すことになります。集積した財産は資本として賃労働を吸収し、新たな生産活動を行う企業を形成します。企業の生産活動は、所有権により正当化された全体の価値に基づく分割の論理によりその秩序が維持され、人間の格差を前提とする上下の指揮命令系統によって実現されているわけです。

以上まとめるに、創造の論理は均一な人間を前提としますが、個人の活動の結果として人間の格差を帰結します。分割の論理は人間の格差を前提としますが、企業という集団の秩序を維持するものであって、集団自体の創造の論理の構築を実現しているのです。

ところで、現実社会では、分割の論理と創造の論理の二つの理念を基に、国家といった公共機関に、人々の様々な不平不満が寄せられています(「国家の意志形成とその論理構造」参照)。この不平不満は、分割の論理と創造の論理それぞれの、現状に対する矛盾から生じます。その不平不満は解決されなければなりません。そこで、分割の論理と創造の論理それぞれにつき、現状とそれら理念との矛盾の解決が求められることになるわけです。

一方、分割の論理と創造の論理は、人間の格差と均一といった大きな理念的対立が存在します。不平不満をもたらす現状との矛盾の解決には、この対立を克服する必要があると思われるのです。では、分割の論理と創造の論理を調整する原理はどこかに存在するのでしょうか。人間の格差と均一はどのように調和させればよいのでしょうか。

実はその調整の原理こそ、正義が果たすべき最も重要な機能ではないかと私は思ったのです。そこで今回は正義の本質を追究したいと思います。

 

2.正義の客観性

以前、私は善と正義を対比して論じたことがあります(「善と正義」)。

善は、誰もが望むもの、誰もが求めるものです(アリストテレス「ニコマコス倫理学」)。誰もが求める究極の理念が善です。善いことは誰もが求めるものであり、求めていなければ善いことではないのです。このように善は個々の人間の主観的なもので、これが善だといった客観的な定義が不可能な性格を有しているのです。

一方、正義は、善と異なり、本来、客観的なものであって主観的なものではないと考えられます。なぜなら、正義は、個々の主体的な人間相互の衝突の調整のための概念だと考えられるからです。

以下、このことをさらに詳しく説明しましょう。

冒頭で申し上げた個々の人間の主体性、実は、この主体性それ自体を表現することは極めて困難です。そこで、私は、生の奔流として人間の主体性を表現しようと考え、拡がりといった概念を出発点としました。個々の主体的な人間を「拡がる自我」と表現したのです(「拡がる自我」参照)。

拡がる自我は外界の対象に対して拡がりを確証しようとします。物質代謝は、物に対する拡がりの確証です。そして、これも冒頭で申し上げたとおり、拡がる自我は他者に対して言葉と論理を投げかけてその意味を共有しようとしています。これが他者に対する拡がりの確証です。個々の拡がる自我が、他者に対する拡がりの確証を求め合う関係、これを私は純粋人間関係と呼んだわけです(「純粋人間関係とは何か」参照)。

ところが、個々の拡がる自我が、他者に対する拡がりの確証を求めて論理を設定し、他者に論理を投げかけ、他者とその意味を共有しようとする、この過程では必然的に争い、衝突が生じてしまうのです。なぜなら、そもそも言葉は曖昧なもので、一つの言葉に一つの意味が存在するわけではないからです。自分が言葉に付与した意味の共有の期待に他者が反した場合、そこに意味を共有させようとする強制が発生し、争いが発生してしまうのです(「管理と支配の間にあるもの」参照)。

この争いを調整、修復するのが正義です。したがって、正義が拡がる自我相互の調整の原理である以上、正義とはこういうものだといった明確さ、誰もが認める客観性が予め必要となってきます。なぜなら、与えられた正義の論理によって自分の拡がりの確証の論理を修正することが求められてくる以上、正義の論理は、複数の拡がる自我が皆納得できる客観的な論理でなければならないからです。ここが先に述べた善と大きく異なるところなのです。

では正義の客観性とはどのようなものなのでしょうか。どのような内容であれば皆納得するのでしょうか。以下、このことを先程申し上げた分割と創造の二つの論理の観点から考えていくことにしましょう。

 

3.創造の論理における正義

まず、価値の創造である創造の論理の観点から正義の客観性を考えて行きます。

創造の論理の世界では、均一な人間が前提となります。したがって、正義も、まずは均一な人間を前提とすることになります。

ここで問題になるのが、均一とは何かということです。創造の論理では、均一なのは出発点であり、結果は均一ではないということが重要です。結果である価値の差異を明確化するために人間の均一が求められているだけなのです。

ここで以前検討した形式的正義を思い出してみましょう(「善と正義」参照)。形式的な平等の原理、すなわち「各人に彼のものを」「等しきものは等しく、等しからざるものは等しからざるように」といった正義です。

アリストテレスは、この正義を配分的正義と匡正的正義に分類しています。「配分的正義」は、名誉であれ、財であれ、他のものであれ、およそ国家の公民に分かたれるところのものの配分において、それぞれの人の価値に相応して比例的に配分を均等化すること、等しいものには等しいものを等しからざる者には等しからざるものを配分することです(加藤新平「法哲学概論」442頁)。

「匡正的正義」は、並列的な個人間の相互交渉において、当事者の価値・人柄等の人的差異にかかわらず、彼らを全て等しい者と見なした上で、利害の得喪に過不足の無いように調整し、あるいは被害の救正の役目を果たすものです。この場合、売買や貸借などの随意的交渉におけるものと不法行為や犯罪など不随意的交渉に基づくものとに区分されます(前掲書443頁)。

これを見て明らかなとおり、配分的正義は人間の格差を前提とし、匡正的正義は人間の均一を前提としているのです。
ところで、配分的正義が前提とするところの人間の格差とは何を意味しているのでしょうか。

よく聞くのが市民と奴隷といったような社会的身分だという話です。しかし、創造の論理の場面では、事の本質はそこに有るのではありません。人間の生来的な格差も当然含まれると私は思うのです。その人が有する能力を発揮して得たものはその人に帰属するといった理念です。要するに創造の論理を構築するための社会の基本ルールだと考えられるのです。

創造の論理の成果は保護されねばなりません。誰もがこれを望むと私は思うのです。なぜなら創造の論理は人間の生にとって不可欠のものだからです。生きるとは創造することでもあるのです。その代表が労働すなわち生産活動です。

しかしながら、創造された価値は人によって格差が生じてきます。価値を創造するのはその人の能力、器量です。格差は一人一人の器量に基づいているのです。当然のことながら、この各人が創造した価値は、格差が生じているにせよ、その全てが保護されなければなりません。それを実現するのが配分的正義なのです。

一方、匡正的正義は対等な人間同士のルールです。個々の主体同士の交渉には、当然のことながら犯してはならない決まりがあります。公正に取引しなければならないのです。公正(フェア)に行為してこそ創造した価値が正当に評価されるのです。匡正的正義はこれを実現するものであり、まさに創造の論理の場面における典型的な正義であるわけです。

実は、先程論じた現代社会の商品交換経済は、以上申し上げた形式的正義が、しっかり当てはまることが分かります。対等な立場で契約をし、取引を行い、儲かる人間は儲かるわけです。自由経済の理念の実現はまさに創造の論理の実現であり、それは形式的正義を根拠としていることを意味していると考えることができるのです。

 

4.分割の論理における正義

では次に分割の論理の観点から考えてみましょう。

分割の論理は個々の人間の格差が前提となります。では人間の格差を前提とする正義とはどのようなものなのでしょうか。

正義は、相対立する人間、対等な人間を前提にします。対等な人間は平等に扱わなくてはなりません。問題はこの正義における平等をどのように捉えるかにあるのです。

ここでもアリストテレスが言うところの配分的正義を検討してみましょう。ポリスを共同にする人々に分割され得るものの分配における正義です。この場合、人々の間に格差が当然生じるとされています(「ニコマコス倫理学」150頁)。ポリスにおける役割分担における地位の格差をアリストテレスは当然に認めているのです。

人間は一人で生きているのではありません。社会を構成してその中で生きているわけです。当然そこには役割分担があります。実は、この個々の役割は、同一の価値を有しているわけではないのです。危険な仕事、安全な仕事、困難な仕事、容易な仕事、各人が分担する仕事の性格は様々です。そこには価値の序列がどうしても生じてしまうのです。価値とは、誰もが求めるものであって、高低あるいは大小が生じた可測的で比較可能な意味のことでした。分担する役割は社会の中では価値の序列の中の地位として認識されるのです。

要するに、配分的正義は、社会の中で何かを分配する際は、その地位の価値に応じて分配するべきだということです。社会の中での個々の人間の地位に上下の価値を認めることが前提とされる正義なのです。このことは、地位の上下の価値があってこそ社会は維持されるといったことを意味していると思うのです。

このように、分割の論理における正義は、人間社会での分業を正当化する理念であると言うことができるのです。各人の地位の価値に応じて平等に扱う、「各人に彼のものを」「等しきものは等しく、等しからざるものは等しからざるように」ということなのです。

 

5.創造の論理の前提としての分割の論理の正当性

生きる人間、すなわち、個々の拡がる自我は、生きていく以上、創造の論理の構築が不可欠です。その場合、人間の均一が前提となります。

しかしながら、分業が不可避である以上、その実現には分割の論理を前提とせざるを得ません。そこで、この分割の論理の前提となる人間の格差を表明する上下の地位の体系、この上下関係をどのように正当化するかがここで検討すべき問題となってくるわけです。

重要なことは、分割の論理はあくまでも創造の論理の前提であって、ここでの真の課題は創造の論理をいかに実現するかにあるということです。

言うまでもなく、創造の論理は他者に対する拡がりの確証の一つです。他者に対する拡がりの確証は内心の自由を前提としますが、創造の論理は特にその傾向が強くなります。なぜなら、内心の自由に基づき創造した論理の意味を他者と共有することこそ創造の論理の実現に他ならないからです。

創造の論理の代表的な例として生産活動を考えてみましょう。生産活動は、いかに効率よく生産量を上げるか、これが実現すべき課題となります。この生産活動は人間の自発性が不可欠です。人間の自発性は人間の自由を前提とします。したがって、人間の自由は絶対的に守られなければなりません。憲法における基本的人権の中の自由権、これは創造の論理にとって不可欠なのです。

では人間の自由を前提にした場合、創造の論理の出発点である分割の論理が前提とする人間の上下関係の格差はどのように正当化すべきなのでしょうか。

ここで、考え方の方向は大きく二つに分かれるのではないかと思うのです。

一つは合意論的発想です。自由意思に基づく合意によって上下の格差を受け入れたということです。法的に言えば、独立平等な個人が契約によって上下の秩序を構築したと考えるわけです。

もう一つは、全体論的発想で、団体主義・共同体的な考え方です。既存の社会の全体の価値を重視し、その全体の価値に基づく身分といったものが絶対的に存在するといった発想です。分業における身分の格差は本来的に存するといった思考、さらに言うならば、世界を形成する絶対者の一部分を構成するのが個々の人間であり、その上下の秩序は予め定まっているといった考え方です。

実は、正義もこの二つの方向の発想によって、合意論的理念と全体論的理念の二つに分けて理解することができると考えられるのです。次にこのことを論じましょう。

 

6.正義における合意論的理念と全体論的理念

先程2で申し上げたとおり、個々の拡がる自我同士の争いを調整、修復するのが正義です。争いを解決する正義は、客観的理念でなければなりませんでした。

例えば、創造の論理の構築の場である商品交換社会で争いが生じた場合、お互い対等な立場から離れた客観的な第三者的立場の公的主体が求められます。この公的主体は、当事者から超越的な立場になければなりません。なぜなら、超越して当事者双方から中立的でなければ、双方が納得しないので紛争の解決ができないからです(「公共性の本質」参照)。

この場合、紛争解決のための正義の実現は、この権威ある公的主体が行うことになります。したがってこの公的主体の権威も正当化されなければなりません。実は、この超越的存在である公的主体が実現する正義は、先程申し上げた創造の論理に対する分割の論理の正当化の二つの発想と同様、合意論的理念と全体論的理念に分けて理解することができると私は考えるのです。

正義の合意論的理念は、社会全体を統制する権威は個々の人間が同意して初めて生じるといったものです。個々の対等な人間を前提とし、その個々の人間は自律的・理性的存在であり、秩序維持のために権力を第三者に移譲するといった発想です。歴史的に見れば、社会契約論がその典型です。

正義の全体論的理念は、個人は全体から生じるといった考えです。社会の秩序は、新たに作り上げるのではなく、本来的に存在しているといった発想です。歴史的に見れば、正義は客観精神の現れであるといったヘーゲルの理論が典型です。また、全体主義国家も、その多くはこの理念に基づいていると私は思います。

では、正義における合意論的理念と全体論的理念は、それぞれどのような特徴があり、どのような関係にあるのかを考えてみます。この点についても創造の論理と分割の論理の視点から考えることができるのです。

さて、正義の合意論的理念は創造の論理を導く自由意思が前提となり、正義の全体論的理念は分割の論理の前提である社会の全体の価値を前提としています。

以前、私は、分割の論理と創造の論理は、人間の格差を最初に認めるのか、あるいは、結果に認めるのか、この違いがあるに過ぎないと申し上げました(「国家の意志形成とその論理構造」)。

人間の格差を否定し、均一な人間を前提にして、各人がどのような価値を創造したかをはっきりさせるのが創造の論理だったわけです。ところが、価値の創造は、必然的に、個々の人間が創造した価値の格差を明らかにするものであり、創造の論理は、結果としての人間の器量・能力の格差を明白にする側面があるわけです。3で論じたとおり、ここでの正義は、均一な人間を前提としますが、結果としての人間の格差を保護する理念でもあったわけです。

これに対し分割の論理は、人間の格差が前提となります。ただ、これは個々の人間それ自身ではなく、社会の面、分業の面での格差なのです。この社会の秩序を維持するには権威が不可欠であり、それが全体の価値です。この全体の価値を根拠とするのが分割の論理です。社会における分業は、この分割の論理によって正当化されているのです。4で論じたとおり、ここでの正義は、生産活動の出発点である社会の分業を維持する理念だったわけです。

以上申しあげたとおり、正義における合意論的理念は均一な人間を前提とし、全体論的理念は人間の格差を前提としますが、どちらの理念も正義の実現にとって不可欠な理念です。ただ、合意論的理念は均一な人間を前提としながらも結果的には人間の格差を保護するものであり、全体論的理念に結び付くものなのです。

 

7.分割の論理と創造の論理の調整原理としての正義

人間社会は分割の論理と創造の論理を基盤にして、人々が様々な生産活動を行っています。その活動の舞台である社会の秩序は、正義によって維持されているわけです。

ところが、ここでは常に重大な問題が生じているのです。創造の論理の結果としての価値を獲得できなかった人々はどうするのかということです。

実は、創造の論理を実現できなかった人は、ここで分割の論理を公的主体に求めてくるのです。価値を創造した当事者を超越するより大きな権威、具体的には国家の権威を認め、その権威に基づいて創造された社会全体の価値の分割を要求してくるのです。実は、その論拠となるのが正義の全体論的理念なのです。

この歴史的な具体例の一つが、共産主義といった制度でしょう。生産物といった創造の論理の成果を社会全体のものとする、まさに、社会全体から出発する正義の全体論的理念に基づく発想です。生産手段を全て国家に帰属させてしまい、創造の論理の実現の結果である生産物を皆で分割する制度を構築するわけです。

ここでは分割の論理の機能が大きく変化しています。本来、分割の論理は、出発点における創造の論理構築のためにあったわけです。ところが、創造の論理構築の出発点としての分割の論理ではなく、創造の論理の成果を分割するといった、結果に対する分割の論理に大きく転回してしまっているのです。個々人の結果もあくまで社会全体に含まれるということです。

しかしながら、このように分割の論理が変化すると、創造の論理の実現が妨害されること必然だと私は思うのです。社会全体の価値は、個々の人間の創造の論理の成果の集積によって形成されています。創造の論理は個々の人間の能力・器量を遺憾なく発揮するところにその意味があるわけです。個々の拡がる自我の創造の論理の成果を、第三者が分割することは、結果的に、社会全体の価値の創造を抑制してしまうのです。それを是正するには、正義の合意論的理念が重視されなければならないのです。

その一方で、創造の論理の結果としての格差をこのまま放置することも、重大な問題が生じることは明らかでしょう。創造の論理を構築できなかった人々が貧困に陥ることにより、極めて深刻な人間の格差が生じることは明白だからです。その結果、創造の論理の成果としての価値に対する分割の論理の行使の強力な要求が巻き起こり、全体社会の秩序が破壊されてしまう危険が生じてしまうのです。

実は、これらの社会全体の問題を解決するのも正義の重要な機能なのです。正義は、個々の主体的な人間、すなわち拡がる自我相互の衝突の調整のための理念でした。そのためには、個々の紛争の解決だけではなく、社会全体における対立をも解決しなければなりません。この場合、正義は誰もが納得する論理が構築されていなければなりません。要するに、正義の合意論的理念と全体論的理念をいかに組み合わせて論理を構築するかが社会全体の問題解決の本質なのです。

 

8.仮説としての正義

それでは、分割の論理と創造の論理の対立を解消する正義の論理はどのように構築すればよいのでしょうか。正義の合意論的理念と全体論的理念をどのように組み合わせればよいのでしょうか。

社会を構成する誰もが納得する正義の論理、以前、私はこれを「仮説としての正義」と呼びました(「善と正義」参照)。先程論じた形式的正義以外でも、誰もが認める仮説を打ち立てることにより、その仮説を基に正義の客観性が確保されることになるということです。

ここに仮説とは、事実により実証する以前の仮の考え、理論のことを言います。例えば、近代市民社会成立史上主張された自然状態の仮説が代表です。事実として立証できなくても、普通の人々はこれをもっともなことだと信じている論理のことです。

先程申し上げた創造の論理と分割の論理の複雑な対立、これを解決するには複雑な論理構成が求められます。実は、仮説としての正義は、この複雑な論理の構成を可能にする概念なのです。実は、これこそ、現実社会において、公権力が正義を担う最大の正当性、言い換えれば、現実社会に適用される実質的正義の確立になるのではないかと私は考えたのです。

では、現代社会における仮説としての正義は、どのように構築すればよいのでしょうか。最後にこの点を検討したいと思います。

まず検討されるべきは功利主義でしょう。最大多数の最大幸福、これが功利主義の理念です。より多くの人間が幸福になるならば、創造の論理は自由になされるべきであり、創造の論理の結果である人間の格差は問題とはならないといった発想です。この場合、各人の自由な創造を維持する正義の合意論的理念がまずは主軸になります。しかしその一方で、最大多数を重視する点では一部の個人の権利が制約されることもあるわけで、全体論的理念も重視されるべき面もあるのです。

ただ、この理論をこのまま推し進めると問題が生じるのは明らかでしょう。先程申し上げたとおり、創造の論理を構築できなかった人々の強力な分割の論理の要求により、社会の秩序が破壊される恐れが強いからです。

そこで登場するのが、福祉国家的な調整原理です。これは創造の論理を実現できなかった不遇な立場にある人々を特別に扱い、生活保護等の制度によって援助するといったものです。原則は、社会を構成する個々人の自由な経済活動ですが、例外的な結果の不都合を修正していこうというわけです。この場合、正義の論理には、合意論的理念だけではなく全体論的理念が重要視されなければなりません。

現実社会の複雑な利害対立を解消するための、仮説としての正義は、他にも様々な論理の要素が考えられるでしょう。ただ、具体的な事実に対応して論理の構築を行う際は、正義における合意論的理念と全体論的理念の両者が基軸になるということが大事です。この両者の理念をいかに組み合わせて、仮説としての正義の論理を組み立てるか、これが最も重要な課題なのです。その具体例については、後日改めて論じたいと思います。

 

文献紹介)J.ロールズ「正義論」

今回紹介するのは、ジョン・ロールズの「正義論」です。1971年に出版された本です。

今回の正義の本質といったテーマは、まさにロールズの正義論が大きく関係してくる内容なので、取り上げることにしたわけです。

実は、この分厚い本を隅から隅まで通読したのはつい最近です。アリストテレスやカントを始めとする哲学、そして社会学、心理学、経済学等様々な分野を詳細に論じていて内容が極めて豊富なため、読み終えるまでかなり時間がかかりましたが、とても勉強になる大変素晴らしい本だと思います。今回の論文の内容もこの本を参考にした部分が多いです。

この本は、まず「公正としての正義」の論述から始まります。これはこの本の最初から最後まで貫くキーワードで、社会契約論の自然状態に対応する「原初状態」といった仮説に基づき構築された正義の概念です(18頁)。それは、功利主義を批判的に検討した上で構築した、次の正義の二原理を内容とするものです(21頁)。

正義の第一原理は次のとおりです。各人は、平等な基本的諸自由の最も広範な制度枠組みに対する対等な権利を保持すべきである。ただし最も広範な枠組みと言っても他の人々の諸自由の同様な制度枠組みと両立可能でなければならない(84頁)。

第二原理は次のとおりです。社会的経済的な不平等は次の二条件を満たすように編成されなければならない。(a)そうした不平等が最も不遇な人々の期待便益を最高に高めること、かつ(b)公正な機会の均等という条件の下で全員に開かれている職務や地位に付帯すること(114頁)。

第一原理は自由権の保証です。本論でも申し上げましたが、自由権は創造の論理のために必要不可欠です。したがって誰もが平等に保障されなければなりません。制限されるのは他者の自由権と衝突した場合だけです。したがって第一原理は第二原理に優先します。

第二原理は、ロールズ独自の理論だと思いますが、本論でも申し上げた功利主義の最大多数の最大幸福の理論を、創造の論理を実現できなかった人々に価値を分割することによって修正することにより、創造の論理の実現を無制約的に目指すものだと理解できます。そして、創造の論理の前提となる分割の論理についても、上位の地位へ着くことの機会の均等を要求するものだと理解できるのです。

さて、ロールズはアリストテレス的原理を前提に置きます(558頁)。それは、他の条件が等しいならば、人間は自らの実現された能力の行使を楽しみ、そしてこの楽しみはその能力が実現されればされるほど、その組み合わせが複雑になればなるほど増大する、といったものです(560頁)。

これは私流にいうならば、個々の拡がる自我の他者に対する拡がりの確証の論理における創造の論理の設定であり、それは各人の能力・器量の発揮であって誰もがそれを求めるということです。ただ、本論でも申し上げたとおり、それは人間の格差を帰結せざるを得ません。先程の正義の二原理は、その格差をどう扱うかについて、ロールズが新たに構築した実質的正義での調整原理だと思います。

さて、ロールズの原初状態では、無知のヴェールが前提とされます。先程の公正としての正義は契約説の一つであり(23頁)、契約を取り結ぶのは原初状態においてなのですが(25頁)、そこでは当事者たちは具体的な地位財産や自己の能力についての知識は全く無く(185頁)、当事者間の差異は全く知られていない状態で(188頁)、それをロールズは無知のヴェールと表現しているのです。

これこそまさに仮説としての正義を表しているのだと私は思います。私流に言わせれば、万人共通なのは個々の拡がる自我が拡がりの確証の論理を常に他者に投げかけることそれ自体であって、それは決して否定することはできません。その基盤こそが原初状態なのであり、これは、前回検討した、ルソーの言う一般意志の根拠と共通するところがあるのではないかと思うのです。

このような原初状態を前提として、現実社会の様々な利害関係を調整する論理を構築するわけです。そしてその際、論理構築の根底で基準となる論理こそロールズの言う公正としての正義であると思うのです。

また、ロールズは善について、正義の構想を論証するための善の理論は必要最小限のものに制限されるとし、それを善の希薄理論と呼んでいます。公正としての正義にあって、正の概念は善の概念に優先するというのです(518頁)。そして合理性としての善さを主張します。これは十全な熟慮に基づく合理性を用いたならば選択される合理的な計画によって提供される善の基準です(556頁)。

これも私流に解釈するならば、本論で申し上げたとおり、善は主観的なもので定義不能であって各人各様であるのに対し、正義は客観的でなければならないということを前提に、個々の拡がる自我は、それぞれの人生において、客観的存在である正義の基準に則って自由に他者への拡がりの確証の論理を設定しその実現を目指す、この各人が追求する理念こそが善である、こういったことではないかと思うのです。

以上、この本の内容の内ポイントとなる一部を申し上げただけですが、今回はこの程度にしておきたいと思います。

 

参考文献

ジョン・ロールズ「正義論」(川本隆他訳) 紀伊國屋書店

アリストテレス「ニコマコス倫理学」(加藤信明訳)岩波書店

J.S.ミル「功利主義論」(伊原吉之助訳) 中央公論社

ベンサム「道徳及び立法の諸原理序説」(山下重一訳) 中央公論社

I.カント(宇都宮芳明訳)「道徳形而上学の基礎づけ」以文社

ヘーゲル「法の哲学」(上妻精他訳)岩波書店

ルソー「社会契約論」(井上幸治訳)中央公論社

K.マルクス「資本論」(岡崎次郎訳) 大月書店

M.ハイデッガー「存在と時間」(細谷貞雄訳)理想社

加藤新平「法哲学概論」有斐閣

岩田靖夫「倫理の復権」「アリストテレスの倫理思想」岩波書店

岩崎武雄「現代英米の倫理学」勁草書房

齋藤純一.田中将人「ジョン・ロールズ」中央公論新社

(2023年9月公表)

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