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管理と支配の間にあるもの(改訂版)

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管理と支配の間にあるもの(改訂版)

和田徹也

目次

1.問題提起    2.管理の意味    3.支配の意味

4.ホッブズとヘーゲルに見る支配の前提としての“争い”

 ① ホッブズの戦争状態論   ②ヘーゲルの承認のための命を賭けた戦い

5.争いの根源 

 ① ホッブズとヘーゲルの批判的検討  ② 他者への期待と争いの発生の根源  

6.目的社会への参加と争いの縮減  

7.地位・役割の体系としての目的社会

8.目的社会でのより高い地位をめぐる争い

9.置き換えに基づく絶大な権威の発生   10.絶対的な支配の出現

11.管理と支配の間にあるもの

参考文献

 

1.問題提起

社会と組織に関する様々な分野の学問の書籍を読むと出てくるのが、管理という言葉と支配という言葉です。「管理」も「支配」も社会や組織の秩序を維持するといった意味を持っています。

しかしながら、管理という言葉と支配という言葉では、その受け取る印象で大きな差が生じます。どういうことかというと、支配という言葉は支配される者が抱く不満や反発などマイナスのイメージが強いのです。支配する者とされる者が対立するということを前提に、支配者は威張り被支配者は奴隷のように扱われる、支配という言葉には、このような人間に対するネガティヴな発想、前提があるような気がするのです。

これに対し、管理という言葉は、管理される者の反発を前提としたものではありません。どちらかというと、管理する者と管理される者が一体になっていることを前提にしていると思われます。管理は、管理する者される者を含めた全体の中で見いだされる機能的な言葉だと思うのです。

管理という言葉も支配という言葉も、人間の上下関係を前提としていることは間違いありません。ここでいう上下関係とは、事実としての、客観的意味での概念です。すなわち外部から見て、上位の人間が下位の人間に対し指示し、指示された者はその指示に従って動いているといった事実のことです。客観的には同じ事実である上下関係であっても、下位に立つ人間が納得しているかあるいは反発するか、このことは組織を維持する上で極めて重要なことだと考えられます。

そこで、この論文では、この二つの言葉を出発点として、主に支配関係の成立をその根本から検討することにより、組織の管理の道筋を考えていきたいと思います。まず、管理と支配の二つの概念を検討し、支配の前提である人間の争いがなぜ生じるのかといったことを考え、さらに歴史上存在してきた絶対的な支配といったものがなぜ出現したのかを考えて行きたいと思います。そして、それを踏まえ、組織の管理の実務で何が必要とされるのか、このことを考えてみたいと思います。

 

2.管理の意味

まず、管理という言葉を考えてみましょう。管理とは物事が円滑にできるよう気を配ることである、とまずは言えるでしょう。そして管理という言葉を人に関連して用いる場合、管理という言葉は何らかの組織の存在を前提としているのではないでしょうか。

組織とは、二人以上の意識的に調整された人間の活動や諸力の体系です(バーナード「経営者の役割」)。組織は釣り合っている状態、体系だとまずは考えられるのです。個々の組織の構成員が内心でどう思うが、組織はまとまった状態のものなのです。ここでは、組織の構成員の、組織に対する貢献意欲の存在が大前提となっています。構成員の貢献意欲がゼロの場合はそもそも組織が成り立ちません。

したがって、組織を「管理」するとは、本来は、組織を構成する個々の人間の内心から離れて形成された言葉だと言えます。もちろん、現実に管理業務を行う時は違うでしょう。管理者は被管理者の反発を食らうこともあるでしょうし、被管理者の心情を考慮しながら管理するのが普通かもしれません。

しかし、それは管理という言葉の本質から離れた話だと私は考えます。管理の対象となる組織とは、結果としての人の動きに着目した概念であり、諸個人の心情から離れた概念としての性格が強いと私は思うのです。したがって、人の動きをいかに組織の目的に近づけるか、その仕組み、すなわち情報の伝達経路や業務分担を構築する、こういったことを考えることが重要となってくるわけです。

組織での管理が個々人の具体的心情から離れたものであれば、組織の管理は、機械的、工学的になされるのであって、それがうまくいかないのは組織の仕組みが悪いということ、単に組織デザインの設計ミスだからだという考えにつながります。いかに優れた組織を作るかが問題となってくるのです。

 

3.支配の意味

念入りに設計された組織であっても、実際に組織を管理することは難しい。実は、私はその原因が、組織の中に支配関係が生ずるところにあると考えたのです。そこで次に支配という言葉を考えてみたいと思います。

支配とは、優越的な地位にある者が下位者に対して、特定の行為の実行を要求し、下位者は自分の好むと好まざるとにかかわらず実行せざるを得ない持続的な関係である、とまずは定義できるでしょう(なお、池田義祐「支配関係の研究」28頁)。

ただ、私は、支配という言葉は、冒頭で申し上げたとおり、被支配者の反発を前提とした言葉だと思うのです。人間の上下関係、すなわち指揮命令系統によって下位の人間が上位の人間に従っている状態の社会関係、これを単なる役割分担と意識するのではなく、これに対してある一つの価値判断が付着されているのです。それは、被支配者の不満、マイナスの情感を表明する価値判断です。

その理由を推測しますと、下位者は上位にいる者の言う通りにしないとならないので、そこに反発の可能性があるのです。また、支配者の優越的地位に対する反発もあるでしょう。優越的地位は人と人との、様々な意味での格差を明確にするものだからです。

では、さらに、支配される者が反発する理由を考えて行きましょう。まず一つ言えることは、支配という言葉が、争いの中から出てきたもの、人と人との争いを前提とする言葉だからです。通常、争いを経て支配関係は成立するので、争いに負けたものは勝ったものに支配されるわけです。したがって、支配される側の人間の反発は不可避なのです。

さらに、支配が、既に争いが終了した既存の社会の階層関係を前提とする場合であっても、上位者の権威に下位者が反発する可能性も常にあるのです。なぜなら、価値配分に差がある階層関係は、その優越的地位に対する反発は元より、その上下の差異を維持する権威を必要とするため、常により高い権威を有する地位をめぐる争いが生じてしまうからです。したがって、この静的な争いに敗れた者の上位者に対する反発が生じるのは不可避なのです。

そこで、まず、支配の前提となる、“人と人との争い”を論じていきたいと思います。

 

4.ホッブズとヘーゲルに見る支配の前提としての“争い”

そもそも人間はなぜ争いをするのでしょうか。

ここでよく聞く議論は次のようなものです。

すなわち、本質的に人間は戦争状態にあるという発想です。すなわち、もともと人間は争うものである、もともと人間は他者を支配したがるものである、こういった論理を前提に理論構築するものです。

以下、ホッブズとヘーゲルの代表的な二つの争いの理論を検討してみましょう。

 

①ホッブズの戦争状態論

ホッブズは「リヴァイアサン」の冒頭で、人間は自動機械みたいなものだと言っています(ホッブズ「リヴァイアサン」53頁)。そして、自然は人間の心身の諸能力を平等に作ったのですが、この能力の平等から希望の平等が生じます。したがって、二人の者が同一のものを欲求し、それが同時に享受できないものであれば、彼らは敵となり、その目的に至る途上において、互いに相手を滅ぼすか、屈服させようと努めるのです(前掲書155頁)。

それを踏まえ、ホッブズは人間の本性には争いについての主要な原因が三つあると言います。競争(獲物を得る)、不信(安全を求める)、自負(名声を求める)この3つであり、人間は、自分たちすべてを畏怖させるような共通の権力がなければ、各人の各人に対する戦争状態にあるというわけです(前掲書156頁)。そして、この戦争状態においては、何をやっても不正ではないとされてしまうのです。

この戦争状態を解消するために、社会契約を取り結び、絶対主権を認めなければならないとホッブズは主張しました。契約を結んだ以上、国民は、絶対主権である国家の指示には、何があろうと従わなければならず、絶対的な支配が成立するわけです。

ただ、ホッブズは、絶対権力を論じてはいますが、悪魔的な人間の本性として人を支配するのだと主張したわけではありません。絶対主権はあくまで合理的な理由、安全を求める必要に基づくものであるとしているのです。

通常、ホッブズはイギリスの市民革命期の混乱の中で生きたので、戦争状態を考えたと説明されることが多いようです。これはこれで正しいと思うのですが、私は真の根拠は人間機械観だと思います。人間が皆同じで皆同じことを欲するならば、その対象物の希少性は避けられず、どうしても争いが生じてしまいます。また、人と人との間に能力の差がなければ、一旦生じた争いは永遠に続くことになるわけです。

このことは、言い換えれば、対等の人間は争わざるを得ないということを意味するのではないかと思うのです。このことは、人間の争いの根源を探究するにあたって極めて重要なことになってくるような気がします。すなわち、このことを逆に言えば、人間は差異があれば、能力差があれば、戦争状態にはならないということにも解されるのです。

 

②ヘーゲルの承認のための命を賭けた戦い

ヘーゲルは、その著「精神現象学」で、承認のための生死をかけた争いと、その結果である支配と隷属を論じています。

ヘーゲルによれば、自己意識は何かに制約されない無限性をその本質とし、物に対しての欲望であり、欲望とは対象を無にするものとされています。例えば、食欲は食べ物を食うことによりその対象を無にするというわけです。

対象が他者であっても基本的には同じです。自己意識は欲望であり、自己意識は他者に承認を求めようとします。それは、他者を否定することにより、そこに自己を見出すことによって自己を確立させるのです。なぜなら対象に自己を見出すには、自己意識は無限性を本質とするため、他者というものを撤廃しなければならないからです。

ヘーゲルはなぜこのような他者を撤廃するなどという極端なことを論じたのでしょうか。それは、哲学者のカントが人間の認識には限界があり、「物自体」を認識することはできないと論じたことに対し、すべてを包摂する絶対者を認識すること、言い換えれば物自体を認識することは可能であるということを強く主張するためではないかと考えられるのです。

カントは、認識の対象が私たちの主観から独立にそれ自身において存在しているのではなく、私たちの主観の先天的形式によって構成されたものだと考えました。したがって対象そのもの、「物自体」は不可知になってしまうのです。人間の認識能力は有限なのです。これに対しヘーゲルは、有限者の変化を通じて発展的に自己同一性を保つ絶対者を考えたのです(岩崎武雄「西洋哲学史」)。

ヘーゲルは「精神現象学」で、絶対者のみが真なるものであるとし、この絶対者に向かうため、直接目の前にあるといった感覚的確信から出発し、自己意識を経て、“自分が精神であることを知るところの精神(絶対精神)”を目指したわけです。そして、その過程では上述の“欲望”を基本におきました。その理由は、自己意識は対象となる他者があって初めて成立するものであり、自己意識も対象である他者も“生命”であるという点にあります。生命とは、個体を包み込む普遍的なもので、食いつくされ消費されると同時に、食いものにして己を維持して己自身との統一を得る、流動的、過程的なものなのです。

ヘーゲルの議論に戻りましょう。自己意識は欲望であり、無制約なものであるので、対象としての生命として現れる他者を撤廃することにより、そこに自己自身だという確信を得るのですが、ここでは撤廃すべき対象たる他者の自立性をまず経験します。撤廃というのは対象の自立性を前提とする概念だからです。ただこれは、自立的ではあっても自己意識ではなく、否定されるべき他者であるにすぎません。欲望の満足は、自己意識の自分自身への還帰であり、客観的真理となった確信です。これは自己意識が二重化することです。自己意識が満足するのは、対象が自分自身で否定的でありながら同時に自立的なものであること、すなわち生命の流れの中での、類としての、もうひとつの自己意識でなければならないのです。

ここに、自己意識に対して、ひとつの他の自己意識があるということが見いだされたわけですが、これは相手も同じことで、互いに承認し合うこととなります。しかしそれは、他者も対象であるこちらを撤廃しようとすることでもあり、要するに互いに相手を撤廃し合うことになるわけです。ヘーゲルは、各人は他人の死を目指してそれを行うのであり、それは自分自身の生命を賭けることだと論じています。承認のための生死を賭けた戦いを行うというのです。

しかし自己意識にとっては生命も本質的なものです。死は全てを無くしてしまいます。結果、自立的な意識で自分だけで存在する「主」と、非自立的意識で他に対し生命としての本質をもつ「奴」の支配関係が生じるというのです。

精神現象学におけるヘーゲルの議論は、個々の感覚を出発点とし、自己意識、理性、精神を経て絶対精神を導くという壮大なものです。過去の人類の歴史を見ると、人間は戦争を繰り返し、様々な支配関係があったのも事実ですし、近代市民革命での混乱を見れば、なるほどと思う面も多々あります。ただ、私には、承認をめぐる命を賭けた戦いとか、主と奴とかの理論は、読者の注目を得ることはできるにしても、少々極端な感じがするわけです。

 

5.争いの根源

①ヘーゲルとホッブズの批判的検討

ヘーゲルは対象を無にする欲望を基本に置きました。この欲望という言葉を用いるのは、生命を維持するための飲み食い、すなわち物質代謝を表現するには最適でしょう。また人類の歴史上、常に戦争があったことは事実ですから、それを表現するために人間社会全体の歴史を“生”の流れと考えて、相手を無きものにする欲望を基本に据えて理論化するのも可能でしょう。

しかし、人間はいきなり相手を無き者にするわけではないと思うのです。それよりも前の段階があると私は考えたいのです。

私は人間の主体性を表現するため、「拡がり」を出発点として、拡がる自我という概念を打ち立てました。そして、主体的な人間すなわち“拡がる自我”は、拡がりの対象としての物に対して拡がりを確証します。これは生きるための手段・道具としての意味を物に見出すということです。そして、拡がる自我は、拡がりの対象である他者においても拡がりを意識すると考えました。他者に対する拡がりの確証です(「拡がる自我」参照)。

他者に対する拡がりの確証は相手と意味を共有することによって成立します。個々の主体的な人間、すなわち拡がる自我は相手を否定する前に、相手と“何か”を共有しようとするのが基本ではないかと私は考えるのです。

ヘーゲルが言うところの物に対する欲望の満足は、物を食い尽くしてそれが永遠に続き、極まるところはないものです。これは、私の表現によれば、物に対する拡がりの確証となります。物質代謝をその代表とする、物に対する拡がりの確証は、その物を消滅、撤廃するものであり生きている限り存続します。これは、他者に対する拡がりの確証とは異なるのです。

もちろんヘーゲルもそれを意識していて、他者に対する場合は「承認」という概念を提示しました。これを私なりに表現すると、他者に対する拡がりの確証ということになります。以下、これを前提に検討してみましょう。

他者に対する拡がりの確証は、拡がる自我の内心の自由を前提とします。他者に対する拡がりの確証は他者と言葉の意味を共有することによって成立しますが、言葉の意味とは言葉に対する主体の把握の仕方であり、それは内心の自由を前提とするわけです。自由は無制約なものであり、こちらの自由に基づく意味を他者に見出すことこそ他者への拡がりの確証です。したがって、ヘーゲルが言うように、他者の内心の他者性、すなわち他者を撤廃する必要があると、一応は、言い得るのではないかと思います。

ところが、ここでは、他者もこちらに対し同じように拡がりの確証を求めようとします。したがって互いに相手の他者性を撤廃しようとするため、ぶつかり合わざるを得なくなります。すなわちヘーゲルの言う承認をめぐる生死をかけた闘いになると一応言えるのではないかと思います。

しかしながら、内心の自由に基づく言葉の意味を他者と共有することから他者を撤廃するとも言えるかもしれませんが、他者も拡がる自我であり意味の共有を求めているわけですから、自発的な意味の共有もあるはずなのです。したがって、撤廃は不要とも言い得るのではないかと私は思うのです。

ここには、世界観の対立が生じているのではないでしょうか。

ホッブズは互いの同意により絶対権力を導いています。このことは、互いに拡がりの確証のために、言葉の論理の意味を共有するということを意味しているのではないでしょうか。ここには他者を一方的に撤廃するということはありません。これに対し、ヘーゲルは一方的な支配と隷属を導きました。この違いは、人間の個人的な差異を認めるか否かではないかと私は思うのです。

人間は機械だと考えたホッブズは、個人間に差異がない同一の人間を考え、同じ物を求め合うがゆえに戦争状態は不可避と考えましたが、相手との意味の共有も可能と考えたわけです。なぜなら相手も自分と同等の人間だからです。

これに対し、ヘーゲルは差異がある異なった人間を根拠としているのではないかと思うのです。他者への拡がりの確証を一方的に求めようとするがゆえに生死をかけた闘いが生じ、主と奴といった関係が生じる、これは人間には差異がある、能力の差があるといったことを前提としているような気がするのです。この人間の差異が、一方は奴として物に対する拡がりの確証のみを担い、他方は主として他者に対する一方的な拡がりの確証を得る、こういう事態をもたらしているのではないかと思うのです。

一方、ホッブズのように、人間を機械と考え、個々の具体的人間が全く同様の存在だと考えるのも極端だと思います。やはり人間には差異がある、これは否定できないと思うのです。したがって、個人間の全面戦争になる前に、ある程度の秩序は成立するのではないか、このように考えられるのです。

 

②他者への期待と争いの発生の根源

企業の労務管理のために争いの理論を検討する場合に、戦争状態とか、死ぬか生きるかとかを出発点とするのはおかしいと私は考えます。もちろん極度の緊張の中で取引をすることもあるでしょう。そのときは生きるか死ぬかを考えるかもしれません。しかし人間はそんなにいつも命を懸けて争っているわけではない、また論理的にも、争いの根源、理由を探るのに争いの存在を前提とするのは本末転倒のような気がするのです。平穏な中からなぜ生死を賭けた戦いが生まれてしまうのか、ここを考えることが重要ではないかと思うのです。

ではどのように考えて行けばよいのでしょうか。

相手と共有する意味は、相手を否定するものではなく、例えば親と子を見れば明らかなように、愛情や喜びといった言葉で表現されるような感情に基づくものもあるでしょう。これはヘーゲルのように欲望と表現すべきではありません。もっと広いものです。最初は相手と意味を共有したいだけなのです。これを私は、先程申し上げたとおり「拡がりの確証」と表現したのでした。

拡がる自我の他者への拡がりの確証は他者と意味を共有することにより実現します。拡がる自我は他者との意味の共有を期待するのです。自己の期待に他者を従わせる、実はここに争い、そして支配の端緒があります。意味の共有は言葉によってなされます。しかし言葉は曖昧なものであり、拡がる自我は勝手に言葉に意味を付与するのが真実なのです(「言葉とは何だろう」参照)。

確証の論理は、他者に対して、意味を共有する期待を前提としています。この期待こそが重要なのです。他者が期待に反した場合、それを是正させようと相手を説得し、場合によっては他者の意に反しても自分の意に従うよう支配しようとするでしょう。期待と支配は紙一重だと言ってもよいのです。相手も同じ拡がる自我ですから、こちらの意に反しても相手の意に従うよう支配しようとします。ここに、拡がる自我同士の争いが生じてしまう根源があるのです。

この意味の共有の期待から生じた言葉の意味をめぐる些細な争い、これが実は生死を懸けた争いになっていってしまうのです。拡がりの確証のための論理は、その意味の共有をめぐる争いが、より大きな権威を求めるがゆえに、多くの人を集結させてより大きな争いを導かざるを得ないのです。

しかしながら言葉の意味の共有をめぐる争いなどは、日常的に生じるものであり、些細な争いにすぎません。この些細な争いが、なぜ大規模な争いになってしまうのか、なぜ絶大な権威や権力を生み出すのか、次に、この問題を、社会学、心理学や精神分析等を総合して成立した学問である「行為論」を中心に考えて行きたいと思います。

 

6.目的社会への参加と争いの縮減

主体的な人間、私はこれを表現するために、「拡がり」を出発点として理論構築し、それを「拡がる自我」と表現しました。そして、拡がる自我は、他者に対して拡がりを確証しようとします。他者への拡がりの確証は、他者と言葉の意味、論理の意味を共有することによって実現します。

ところが、個々の拡がる自我が他者と会うたびに拡がりを確証するための論理を設定していくことは、実は、困難なのです。出会った他者がどのようなことに興味があるのかがわからないからです。そこで人々は社会を築こうとするのです。実は、既存の社会・組織こそ他者への拡がりの確証のための、既存の論理体系となっているのです。そして、既存の社会は、目的社会とそれを包摂する全体社会に区分され、人間は拡がりの確証を得るために、歴史上、様々な目的社会を次から次へと形成してきたと論じました(「拡がりの確証と組織文化の本質」参照)。

既存の社会が拡がりの確証のための既存の論理体系であるとはどういうことでしょうか。これすなわち、その目的社会に参加する人はその論理を取り入れるということ、拡がりの確証のための論理を受容するということです。

先程5では、人と人との争いがなぜ生じるのかといったことを考え、結論的には、個々人の他者に対する言葉の意味の共有の期待、この期待といったものが支配欲を生み出し、争いが生じてしまうのであると結論付けました。

したがって、既存の目的社会に参加すれば、拡がる自我相互間の意味の共有をめぐる争い、拡がる自我同士の争いの大部分は消滅するでしょう。なぜなら、意味を共有することへの期待は、あらかじめ存在する社会の論理に従うことにより充足されるからです。

既存の目的社会では、意味の共有のため、期待に反する相手に対して個々に行う是正の働きかけが不要となるのです。互いにその社会の論理に従うことは、それぞれの、一方の他方に対する拡がりの確証を得る期待に反するような結果を、大きく減らす結果となるわけです。このように、目的社会とは、本来、本質的に争いを防ぐものだと言えるのです。

しかしながら、ここでまた新たな事態が生じてしまいます。目的社会の既存の論理を逸脱する者を是正させる力が必要になるということです。目的社会は皆が同じ目的を目指すところに成立します。その目的は皆が共有するところの拡がりの確証のための論理であるわけです。したがって、それを逸脱することは個々の拡がる自我の期待に反することであり、是正させなければなりません。

実はここに絶大な権力が出現してくる根源があるのです。そこで、既存の目的社会で、このような権力、そして権威がどのように生じてくるのか、このメカニズムをさらに詳しく考えて行くことにしましょう。

 

7.地位・役割の体系としての目的社会

ある目的を達成させるために人々が集まった社会である目的社会は、その構成員の地位・役割の体系である、このように表現することができます。

目的社会が存続している状態、安定した人と人との関係の中では、人は他者に期待通りの行動を求め、自ら他者の期待する行動を行うのであり、この期待される行動が「役割」というものです(ニューカム「社会心理学」280頁)。例えば、学校という目的社会の中では、先生は生徒に教える役割を担い、生徒は素直に教えを受ける役割を担います。

一方「地位」とは、その社会の構造の中のある個人の位置のことです。一つの地位には様々な役割が付着しています(マートン「社会理論と社会構造」335頁)。今の例でいえば、先生という地位、生徒という地位です。先生の地位にある者は、授業で生徒に教える役割を担うほかにも様々な役割があります。例えば他の先生と協力する役割とか、事務処理を行う役割とかです。

さて、このように目的社会を地位・役割の体系と考えると、その地位といったものに序列が生じてくることになります。なぜなら、目的社会は一定の目的を達成させるための組織である以上、全体の意思の統一が不可欠であり、ある地位とある地位との間に他者への影響力の差異が生じざるを得ないからです。例えば今申し上げた先生と生徒の間には先生の方が上位となる序列があるわけです。

さらには先程申し上げたとおり、目的社会の目的を実現させるための論理から逸脱する者を是正させる役割を担う地位も必要とされてきます。この役割を担うものが行使する力は「権力」と呼ぶことができるでしょう。権力は、直接他人に対してその意思に反してまでも何らかの効果を生み出す力です(ウェーバー「社会学の根本概念」86頁)。

目的社会が既存の争い、すなわち、他者への意味の共有の期待から生じる、互いに支配しようとする衝動、これを吸収するものである以上、この権力は強い力が必要とされることとなります。なぜなら、争いを調整するには、その争いの当事者の関係を超越した力が必要だからです。支配しようという衝動を超え出た、それを納得させる、もう一段強い力が必要となってくるのです。

ただ、まだこの時点では、地位の序列、格差といっても絶大な権威の差が生じているわけではありません。しかしながら、この後差異が大きくならざるを得ない事態が生じてくるのです。

 

8.目的社会でのより高い地位をめぐる争い

さて、今申し上げたような既存の目的社会があるということは、別の争い、言い換えれば平和的争い、競争といってもよいでしょうが、これを生み出します。

その理由は、まず、第一に、先程申し上げたような、権力といったものが発生するため、その権力を行使する役割が当然必要とされ、その役割を担う地位を目指す者が出てきて、争いが生じるわけです。権力を行使する者とされる者との関係は、先程申し上げた支配関係であり、支配されるものは自分の意に反してまで人の指示に従いたくないので、権力ある地位をめぐる争いが生じてくるのです。

それだけではなく、権力を行使する地位には、それを維持するための正当性、言い換えれば権威といったものが必要とされ、その地位をめぐる争いも必然的に生じてくるのです。なぜなら、拡がりの確証の論理は、より多くの他者との意味の共有を目指すものであり、権力を行使する地位はより多くの他者に影響を与えるので、その地位に就くことは、より多くの他者に対する拡がりの確証を得ることができるからです。

さらに、具体的な権力行使といったものが無い地位でも、その地位をめぐる競争は生じます。なぜなら、先程申し上げたとおり、目的社会において、拡がりの確証のための論理があるということは、そこにどうしても価値の高低、階層を設けざるを得ない側面があるからです。

より高い価値はより多くの他者の注目を浴びます。そもそも価値とは、誰もが求めるものであって、比較がその本質である概念のことです。したがって、価値あるものは誰もが求めるのであり、それは先程申し上げた権力を行使し得る地位とは別の概念です。例えば、皆から注目を受けている研究を行う地位等があるでしょう。これは権力行使とは別であり、それにもかかわらず競争が生じ、人と人との争いが存するのです。

これらの地位をめぐる争いは、原則として対等の関係にある者同士の争いとなります。ホッブズの議論ではないですが、二人の者が同一のものを欲求し、それが同時に享受できないものであれば、彼らは対等に相争う敵同士となるのです。目的社会の内部では、常にこの地位をめぐる争いが生じているのです。

したがって、ここには先程論じた争い、特にホッブズが論じたような対等な個人同士の争いがその典型的な形で表れてくるのです。当初は言葉をめぐる些細な争いだったものが、徐々に地位をめぐる、個々の拡がる自我同士の争いとなってくるのです。そして、この地位をめぐる争いがさらなる大きな権威を生み出していくのです。

 

9.「置き換え」に基づく絶大な権威の発生

権力を持つ地位をめぐる争いが生じると、またさらなる権威が必要とされます。なぜなら、争いに敗れた者は、対等な立場にあった人間に支配されるのが嫌だからです。その地位をさらに超え出た権威に支配されると考えたいからです。そして、この積み重ねが、絶大な権威を導いてくるのです。

さて、この権威の発生で重要な働きをするのが、「置き換え」という概念です。置き換えは、心理学や社会学を基礎とする行為理論での、個人を表現するための「パーソナリティ」という概念を前提とします。

パーソナリティは、動機づけられた行為が、生物有機体をめぐって組織化される体系のことです(パーソンス・シルス「行為の総合理論をめざして」88頁参照)。組織といった体系の個々の地位を担う個人それ自体にも、体系というものを見出すことができるわけです。

パーソナリティは、いくつかの要求性向から成り立っています。要求性向とは、客体に対し一定の様式で志向と作用を行い、これらの行為から一定の結果を期待する傾向のことです(前掲書181頁)。要求性向間での均衡によって調整を行うことによりパーソナリティの体系は維持されているのです。

置き換えは、言わば個人の欲求不満の解消を図る手段の一つで、パーソナリティがその体系を維持するために行う防衛のメカニズムの一種です。すなわち、置き換えは、自分の内面の崩壊をもたらしかねない感情や態度の対象を、別の無害な対象に移し替えるものです(前掲書216頁)。

争いの場面では、争いの相手に支配されるということは、耐えられるものではなく、パーソナリティの体系が崩壊する恐れが大です。そこで、自分が支配される対象を別の対象に置き換えるのです。この場合、争いに負けた相手を超越した、より大きな権威を有する別の者に支配されると考えて納得するのです。例えば、卑近な例でいえば、出世争いで課長になれなかった者が、自分は課長の指示に従うのではなく、部長の指示に従うのだと思うようなものです。

このように、地位をめぐる争いの結果を平和的に収めるには、対等な立場の人間の集合体を超越した、別のより権威あるものに支配されるようにしなければならないのです。そしてこのことは、その権威を担う上位の集団の中でも同様です。上位の集団の中でも争いを収束させるにはさらに超越した権威を求めるわけです。すなわち、権威の段階的な構造が発生するのです。ここに、既存社会での崇高な権威の発生、歴史上の様々な支配体制を維持してきた絶大な権威が成立する原因があると私は考えています。

 

10.絶対的な支配の出現

以上、既存社会における権力の必要性と、権威の発生を論じてきました。支配は、社会の中に、権力と権威が生じることにより成立します。

この論文では、この支配の成立の過程を、拡がる自我を出発点として論じたわけです。

拡がる自我が他者へ拡がりの確証を求めるにあたっては、既存の目的社会に参加することが便利であり、様々な目的社会が成立します。そして、その中で拡がりの確証の論理を逸脱するものを是正させるために、権力が生じ、権力を行使する地位も出現します。

目的社会でのこの地位をめぐり個々の拡がる自我同士で争いが不可避的に生じ、この争いの中でその関係を超越した権威が必要とされ、より大きな権威を持つ地位が成立します。そして、さらにそのより大きな権威を持つ地位の争いが生じ、さらに大きな権威が必要とされます。その累積の結果、崇高な権威が出現してくるのです。この崇高な権威と物理的な権力の行使が結びついて、絶大な権威を有する権力による、絶対的な支配といったものが成立します。

過去から現代に至るまで、歴史上様々な絶対的な支配が成立してきました。それは、身近な人間関係における支配関係の成立の中で、個々のパーソナリティの維持、すなわち自我の防衛機制の一つである置き換え、これによりその人間関係の外部により大きな権威が創出される、そこにその成立の根拠があったわけです。

身近な人間関係が必要とするその外部のより大きな権威、そしてそれが累積して生じる絶大な権威、この権威と目的社会を維持するため不可欠な権力行使といった機能が結びつくことにより、絶対的な支配が出現してきたわけです。

 

11.管理と支配の間にあるもの

支配という言葉にはネガティヴな面があると、冒頭で申し上げました。人間同士の争いや不満などが支配という言葉に付着しているからです。それは否定できない事実だと思います。

ところで支配という言葉にはもう一つ別の特徴があるのです。それは、支配という言葉が、実践的な、主体性をもった言葉というよりも、第三者の目から見るといった、客観的な性格の強いものだということです。現実の社会を、それに属する者としてではなく外から、例えるならば雲の上から眺めることにより、その対象となる社会の客観的真理を得るための概念なのです。

このこと自体、私は決して悪いことだとは思いません。そもそも学問の理論自体、超越的見地から眺めるという性格が少なからず存在するのです。学問における理論の魅力とは、そこにあるとも言えます。このような学問に対する態度が、客観的な、様々な科学的思考を生み出し、人間の文化を築いてきたとも言えるのです。

この第三者的な立場から、支配という言葉には被支配者の抵抗や不満といったものがあることを認定し、負の側面があることが肯定されているのです。

これに対し、管理という言葉は、本来、実践的であり、自ら実施すべき主体的な言葉なのです。日々日常、組織に属する人間が頭に置いている概念なのです。いかに管理するかは常に私達実務担当者の頭を悩ましています。

それにもかかわらず、管理の理論においては、組織の存在を前提として理論を形成せざるを得ないところがあります。したがって、支配の分析で明らかにされたような管理される者の内心から離れてしまうものなのです。組織を設計し、制度化して、そのルールに則った定型的業務が管理だとされるのです。もちろん組織を維持する定型的業務は、非常に大事なことです。言い換えれば、制度による支配、人間によるのではなく物による支配なのです。物による支配であれば、他者への反感は生じないのです。

この点、管理される者の立場も踏まえた管理を表す概念としては「マネジメント」があると指摘されるかもしれません。言うまでもなく、組織のマネジメントは経営学の中心課題です。ただ、マネジメントという言葉は、極めて広い意味を持っていると私は考えています。管理も支配も包摂してしまう言葉なのです。マネジメントという言葉を用いると、単なるその言葉の概念の分析となってしまうので、今回は敢えて使用しませんでした。管理と支配という二つの対立的な言葉を用いて社会と組織を分析した方が、組織管理の本質に迫れると考えたわけです。

他者に対する拡がりの確証の論理は、主体的な実践としての意義と、論理という誰もが認める客体としての性質とを統一する概念であり、敢えて言うならば、主体と客体を両者の媒介で統一しようとするヘーゲルの理論に近いのではないかと私は思っています。個々の主体が創出する拡がりの確証の論理、これが組織の中でどのように出現しているのかを把握することが重要だと思うのです。組織の個々の構成員の、客観的対象としての拡がりの確証の論理を把握することが、管理の実践で重要であるということです。

支配関係成立の端緒は、他者に対する拡がりの確証であり、その言葉に対する意味の共有の期待でした。期待が支配に転化してしまったわけでした。したがって、管理を実践する現場では、争いの原因でもあり、支配関係成立の原因でもある、組織の構成員である個々の拡がる自我の拡がりの確証の論理を認識することが重要となってくるのではないでしょうか。

そして認識した拡がりの確証の論理を組織の管理の実務でいかに利用し活用していくか、これらのことを常に意識することが大事だと思います。管理と支配の間にあるこの拡がりの確証の論理の認識こそ、実際の組織の管理の実務の現場で、的確な判断を導くものなのです。

 

参考文献

池田義祐「支配関係の研究」法律文化社

村田晴夫「管理の哲学」文眞堂

C.I.バーナード(山本安次郎他訳)「新訳 経営者の役割」ダイヤモンド社

T.ホッブズ(永井道夫他訳)「リヴァイアサン」中央公論社

B.ラッセル(市井三郎訳)「西洋哲学史3」みすず書房

G.H.F.ヘーゲル(金子武蔵訳)「精神の現象学」岩波書店

岩崎武雄「カントとドイツ観念論」新地書房

岩崎武雄「西洋哲学史」有斐閣

長谷川宏「ヘーゲル『精神現象学』入門」講談社

T.M.ニューカム(森東吾他訳)「社会心理学」培風館

R.K.マートン(森東吾他訳)「社会理論と社会構造」みすず書房

M.ウェーバー(清水幾太郎訳)「社会学の根本概念」岩波書店

原田鋼「政治学原論」朝倉書店

T.パーソンス・E.A.シルス(作田啓一他訳)「行為の総合理論をめざして」日本評論社

A.フロイト(外林大作訳)「自我と防衛」誠信書房

伊丹敬之・加護野忠男「ゼミナール経営学入門」日本経済新聞社

 

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