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管理と支配の間にあるもの(初版)
和田徹也
目次
1.問題提起 2.管理の意味 3.支配の意味
4.支配の前提としての“争い”
①ホッブズの戦争状態論 ②ヘーゲルの“承認のための命を賭けた戦い” ③争いの根源
5.既存社会での支配関係の発生
①目的社会での権力の発生 ②地位をめぐる争いと権威の発生 ③支配の成立
6.管理と支配の間にあるもの
参考文献
1.問題提起
社会と組織に関する様々な分野の学問の書籍を読むと出てくるのが、管理という言葉と支配という言葉です。そして、管理という言葉と支配という言葉では、その受け取る印象で大きな差が生じます。どういうことかというと、支配という言葉は支配される者が抱く不満や反発などマイナスのイメージが強いのです。支配する者とされる者が対立するということを前提に、支配者は威張り被支配者は奴隷のように扱われる、支配という言葉には、このような人間に対するネガティヴな発想、前提があるような気がするのです。
これに対し、管理という言葉は、管理される者の反発を前提としたものではありません。どちらかというと、管理する者と管理される者が一体になっていることを前提にしていると思われます。管理は、管理する者される者を含めた全体の中で見いだされる機能的な言葉だと思うのです。
管理という言葉も支配という言葉も人間の上下関係を前提としていることは間違いありません。ここでいう上下関係とは、事実としての、客観的意味での概念です。すなわち外部から見て、上位の人間が下位の人間に対し指示し、指示された者はその指示に従って動いているといった事実のことです。客観的には同じ事実である上下関係であっても、下位に立つ人間が納得しているかあるいは反発するか、このことは組織を維持する上で極めて重要なことだと考えられます。
そこで本稿では、この二つの言葉を出発点として、主に支配関係の成立をその根本から検討することにより、組織の管理の道筋を考えていきたいと思います。
2.管理の意味
まず、管理という言葉を考えてみましょう。管理とは物事が円滑にできるよう気を配ることである、とまずは言えるでしょう。そして人に関連して用いる場合、管理という言葉は何らかの組織の存在を前提としているのではないでしょうか。
組織とは、二人以上の意識的に調整された人間の活動や諸力の体系です(バーナード「経営者の役割」)。組織は釣り合っている状態、体系だとまずは考えられるのです。個々の組織の構成員が内心でどう思おうが、組織はまとまった状態のものなのです。ここでは、組織の構成員の、組織に対する貢献意欲の存在が大前提となっています。構成員の貢献意欲がゼロの場合はそもそも組織が成り立ちません。
したがって、組織を「管理」するとは、本来は、組織を構成する個々の人間の内心から離れて形成された言葉だと言えます。もちろん、現実に管理業務を行う時は違うでしょう。管理者は被管理者の反発を食らうこともあるでしょうし、被管理者の心情を考慮しながら管理するのが普通かもしれません。しかし、それは管理という言葉の本質から離れた話だと私は考えます。管理の対象となる組織とは、結果としての人の動きに着目した概念であり、諸個人の心情から離れた概念だと私は思うのです。
組織での管理が個々人の具体的心情から離れたものであれば、組織の管理は、機械的、工学的になされるのであって、それがうまくいかないのは、単に組織デザインの設計ミスだからだという考えにつながります。いかに優れた組織を作るかが問題となってくるのです。
3.支配の意味
念入りに設計された組織であっても、実際に組織を管理することは難しい。実は、私はその原因が、組織の中に支配関係が生ずるところにあると考えたいのです。そこで次に支配という言葉を考えてみたいと思います。
支配とは、優越的な地位にある者が下位者に対して、特定の行為の実行を要求し、下位者は自分の好むと好まざるとにかかわらず実行せざるを得ない持続的な関係である、とまずは定義できるでしょう。
支配という言葉は、冒頭で申し上げたとおり、被支配者の反発を前提とした言葉だと私は思います。下位者は自分が好まない場合でも支配者の言う通りにしないとならないので、そこに反発の可能性があるのです。また、支配者の優越的地位に対する反発もあるでしょう。
ではなぜ支配される者は反発するのでしょう。まず一つ言えることは、支配という言葉が、争いの中から出てきたもの、人と人との争いを前提とする言葉だからです。争いの中で支配関係が成立するので、争いに負けたものは勝ったものに支配されるわけです。したがって支配される側の人間の反発は不可避なのです。
さらに、支配が、既存の社会の階層関係を前提とする場合であっても、上位者の権威に下位者が反発する可能性も常にあるのです。既存の社会は、上下関係を維持する権威を必要としますが、このために常により高い地位をめぐる争いがあり、争いに敗れた者の上位者に対する反発が生じるのは不可避なのです。
以下、支配の前提となる、“人と人との争い”と“秩序を維持する権威”、この二つをそれぞれ論じていきたいと思います。
4.支配の前提としての“争い”
①ホッブズの戦争状態論
そもそも人間はなぜ争いをするのでしょうか。
ここでよく聞く議論は次のようなものです。
すなわち、本質的に人間は戦争状態にあるという発想です。すなわち、もともと人間は争うものである、もともと人間は他者を支配したがるものである、こういった論理を前提に理論構築するものです。
ホッブズは「リヴァイアサン」で次のようなことを言っています。
自然は人間の心身の諸能力を平等に作りましたが、この能力の平等から希望の平等が生じます。したがって、二人の者が同一のものを欲求し、それが同時に享受できないものであれば、彼らは敵となり、その目的に至る途上において、互いに相手を滅ぼすか、屈服させようと努めるのです。それを踏まえ、ホッブズは人間の本性には争いについての主要な原因が三つあると言います。競争(獲物を得る)、不信(安全を求める)、自負(名声を求める)であり、人間は、自分たちすべてを畏怖させるような共通の権力がなければ、各人の各人に対する戦争状態にあるというわけです。そして、この戦争状態においては、何をやっても不正ではないとされてしまうのです。
この戦争状態を解消するために、社会契約を取り結び、絶対主権を認めなければならないとホッブズは主張しました。契約を結んだ以上、国民は、絶対主権である国家の指示には、何があろうと従わなければならず、絶対的な支配が成立するわけです。
ただ、ホッブズは、絶対権力を論じてはいますが、悪魔的な人間の本性として人を支配するのだと主張したわけではありません。絶対主権はあくまで合理的な理由、安全を求める必要に基づくものであるとしているのです。
②ヘーゲルの“承認のための命を賭けた戦い”
ヘーゲルは、その著「精神現象学」で、欲望という概念を基本に据えて、支配と隷属を論じています。
ヘーゲルによれば、自己意識は欲望なのであり、欲望とは対象を無にするものとされています。例えば、食欲は食べ物を食うことにより対象を無にするというわけです。他者が対象であっても同じです。欲望は他者を否定することにより、そこに自己を見出すことによって自我を確立させるのです。なぜなら対象に自己を見出すには、他者というものを撤廃しなければならないからです。
ヘーゲルはなぜこのような極端なことを論じたのでしょう。それは、カントが人間の認識には限界があり、「物自体」を認識することはできないと論じたことに対し、すべてを包摂する絶対者を認識することは可能であるということを強く主張するためでした。
カントは、認識の対象が私たちの主観から独立にそれ自身において存在しているのではなく、私たちの主観の先天的形式によって構成されたものだと考えました。したがって対象そのもの、「物自体」は不可知なのです。人間の認識能力は有限なのです。これに対しヘーゲルは、有限者の変化を通じて発展的に自己同一性を保つ絶対者を考えたのです(岩崎武雄「西洋哲学史」)。
ヘーゲルは「精神現象学」で、絶対者のみが真なるものであるとし、この絶対者に向かうため、直接目の前にあるといった感覚的確信から出発し、自己意識を経て、“自分が精神であることを知るところの精神(絶対精神)”を目指したわけです。そして、その過程では上述の“欲望”を基本におきました。その理由は、自己意識は対象となる他者があって初めて成立するものであり、自己意識も対象である他者も“生命”であるという点にあります。生命とは、個体を包み込む普遍的なもので、食いつくされ消費されると同時に、食いものにして己を維持して己自身との統一を得る、流動的、過程的なものなのです。
ヘーゲルの議論に戻りましょう。自己意識は欲望であり、対象として自立的な生命として現れる他者を撤廃することにより、そこに自己自身だという確信を得るのですが、ここでは撤廃すべき対象たる他者の自立性をまず経験します。撤廃というのは対象の自立性を前提とする概念だからです。ただこれは、自立的ではあっても自己意識ではなく、否定されるべき他者であるにすぎません。欲望の満足は、自己意識の自分自身への還帰であり、客観的真理となった確信です。これは自己意識が二重化することです。自己意識が満足するのは、対象が自分自身で否定的でありながら同時に自立的なものであること、すなわち生命の流れの中での、類としての、もうひとつの自己意識でなければならないのです。
ここに、自己意識に対して、ひとつの他の自己意識があるということが見いだされたわけですが、これは相手も同じことで、互いに承認しあっている状態となっています。しかしそれは、他者も対象であるこちらを無きものとすることで、互いに相手を撤廃しあうことでもあります。ヘーゲルは、各人は他人の死を目指してそれを行うのであり、それは自分自身の生命を賭けることだと論じています。承認のための命を賭けた戦いを行うというのです。
しかし自己意識にとっては生命も本質的なものです。死は全てを無くしてしまいます。結果、自立的な意識で自分だけで存在する「主」と、非自立的意識で他に対し生命としての本質をもつ「奴」の支配関係が生じるというのです。
ヘーゲルの議論は、個々の自己意識から絶対精神を導くという壮大なものです。過去の人類の歴史を見ると、人間は戦争を繰り返し、様々な支配関係があったのも事実ですし、近代市民革命での混乱を見れば、なるほどと思う面も多々あります。ただ、私には、承認をめぐる命を賭けた戦いとか、主と奴とかの理論は、読者の注目を得ることはできるにしても、少々極端な感じがするわけです。
③争いの根源
企業の労務管理などを考える際に、死ぬか生きるかを出発点とするのはおかしいと私は考えます。もちろん極度の緊張の中で取引をすることもあるでしょう。そのときは生きるか死ぬかを考えるかもしれません。しかし人間はそんなにいつも命を懸けて争っているわけではない、また論理的にも、争いの根源、理由を探るのに争いの存在を前提とするのは本末転倒のような気がするのです。平穏な中からなぜ生死を賭けた戦いが生まれてしまうのか、ここを考えることが重要ではないかと思うのです。
ではどのように考えて行けばよいのでしょうか。
ヘーゲルは対象を無にする欲望を基本に置きました。この欲望という言葉を用いるのは、生命を維持するための飲み食い、すなわち物質代謝を表現するには最適でしょう。また人類の歴史上、常に戦争があったことは事実ですから、それを表現するために人間社会全体の歴史を“生”の流れと考えて、相手を無きものにする欲望を基本に据えて理論化するのも可能でしょう。
しかし、人間はいきなり相手を無き者にするわけではないと思うのです。それよりも前の段階があると私は考えたいのです。すなわち、主体的な人間すなわち“拡がる自我”が、拡がりの対象である他者において拡がりを意識するということです(「拡がる自我」参照)。他者に対する拡がりの確証です。他者に対する拡がりの確証は相手と意味を共有することです。個々の主体的な人間、すなわち拡がる自我は相手を否定する前に、相手と“何か”を共有しようとするのが基本ではないかと私は考えるのです。
相手と共有する意味は、相手を否定するものではなく、親と子供を見れば明らかなように、愛情や喜びといった言葉で表現されるような感情に基づくものもあるでしょう。これは欲望と表現すべきではありません。もっと広いものです。最初は相手と意味を共有したいだけなのです。これを私は、「拡がりの確証」と表現したのでした。
ではなぜ争いが生じてしまうのでしょうか。
拡がりの確証は他者と意味を共有することにより実現します。拡がる自我は他者との意味の共有を期待するのです。自己の期待に他者を従わせる、実はここに支配の端緒があります。意味の共有は言葉によってなされます。しかし言葉は曖昧なものであり、拡がる自我は勝手に言葉に意味を付与するのが真実なのです(「言葉とは何だろう」参照)。確証の論理は、他者に対して、意味を共有する期待を前提としています。この期待こそが重要なのです。他者が期待に反した場合、それを是正させようと相手を説得し、場合によっては他者の意に反しても自分の意に従うよう支配しようとするでしょう。期待と支配は紙一重だと言ってもよいのです。
相手も同じ拡がる自我ですから、こちらの意に反しても相手の意に従うよう支配しようとします。ここに、拡がる自我同士の争いが生じてしまう根源があるのです。
5.既存社会での支配関係の発生
①目的社会での権力の発生
以前にも論じましたが、個々の拡がる自我が他者と会うたびに拡がりの確証の論理を設定していくことは困難です。既存の社会、組織こそ他者への拡がりの確証のための、既存の論理体系となっているのです。そして、既存の社会は、目的社会とそれを包摂する全体社会に区分され、人間は拡がりの確証を得るために、様々な目的社会を次から次へと形成してきたと論じました(「拡がりの確証と組織文化の本質」参照)。
既存の社会が拡がりの確証のための既存の論理体系であるとはどういうことでしょうか。これすなわち、その目的社会に参加する人はその論理を取り入れるということ、確証の論理を受容するということです。したがって、上に述べた、拡がる自我同士の争いの原因の大部分は消滅するでしょう。なぜなら、意味を共有することへの期待は、あらかじめ存在する社会の論理に従うことにより充足されるからです。意味の共有のため、期待に反する相手に対して個々に行う是正は不要となるのです。互いにその社会の論理に従うことは、それぞれの、一方の他方に対する拡がりの確証を得る期待に反する結果を激減させることになるのです。
このように、目的社会とは、本来、本質的に争いを防ぐものなのです。しかし、ここでまた新たな事態が生じてしまいます。既存の論理を逸脱する者を是正させる力が必要になるということです。この力は権力と呼ばれます。権力は、他人に直接何らかの効果を生み出す力です。目的社会が既存の争い、すなわち互いに支配しようとする衝動を吸収するものである以上、この権力はとても強い力を有することとなります。なぜなら、争いを調停するには、その争いの当事者の関係を超越した力が必要だからです。支配しようという衝動を超え出た、それを納得させる、もう一段強い力が必要となるのです。
②地位をめぐる争いと権威の発生
さらに、既存の目的社会があるということは別の争い、言い換えれば平和的争い、競争といってもよいでしょうが、これを生み出します。なぜなら、拡がりの確証のための論理があるということは、そこにどうしても価値の高低、階層を設けざるを得ないからです。期待は、より良いもの、より価値があるものを必要とするものであるため、どうしても価値の序列を作り出してしまうのです。
このことを、社会を組織的なものとしてとらえ、地位役割の体系として考えると、地位をめぐる争いが新たに生じるということになります。より価値のある高い地位を、拡がりの確証のために目指すわけです。
安定した人と人との関係の中では、人は他者に期待通りの行動を求め、自ら他者の期待する行動を行うのであり、この期待される行動が役割というものです。一方地位とは、階層化した社会を前提としたもので、その社会の構造の中のある個人の位置のことです。一つの地位には様々な役割が付着しています。
地位をめぐる争いは、原則として対等の関係にある者同士の争いとなります。ホッブズの議論ではないですが、二人の者が同一のものを欲求し、それが同時に享受できないものであれば、彼らは対等に相争う敵同士となるのです。
地位をめぐる争いが生じると、またさらなる権威が必要とされます。なぜなら、争いに敗れた者は、対等な立場であった人間に支配されるのが嫌だからです。その地位をさらに超え出た権威に支配されると考えたいからです。
私がここで重要になると考えるのが「置き換え」という概念です。置き換えは、心理学や社会学を基礎とする行為理論での、個人を表現するための「パーソナリティ」という概念を前提とします。パーソナリティは、動機づけられた行為が、生物有機体をめぐって組織化される体系のことです(パーソンス・シルス「行為の総合理論をめざして」86頁以下参照)。
置き換えは、言わば個人の欲求不満の解消を図る手段の一つで、パーソナリティがその体系を維持するために行う防衛のメカニズムの一種です。置き換えは、自分内面の崩壊をもたらしかねない感情や態度の対象を、別の無害な対象に移し替えるものです(パーソンス・シルス同書215頁以下参照)。争いの相手に支配されるということは、耐えられるものではなく、パーソナリティの体系が崩壊する恐れが大です。そこで、自分が支配される対象を別の対象に置き換えるのです。この場合、争いに負けた相手を超越した、より大きな権威を有する別の者に支配されると考えて納得するのです。例えば、自分は課長の指示に従うのではなく、部長の指示に従うのだと思うようなものです。
このように、地位をめぐる争いの結果を平和的に収めるには、対等な立場の人間の集合体を超越した、別の権威あるものに支配されるようにしなければならないのです。そしてこのことは、その権威を担う上位の集団の中でも同様です。上位の集団の中でも争いを収束させるにはさらに超越した権威を求めるわけです。すなわち、権威の段階的な構造が発生するのです。ここに、既存社会での崇高な権威の発生、歴史上の様々な支配体制を維持してきた絶大な権威が成立する原因があると私は考えています。
③支配の成立
以上、既存社会における権力の必要性と、権威の発生を論じてきました。支配は、社会の中に、権力と権威が生じることにより成立します。今回は、この支配の成立の過程を、拡がる自我を出発点として論じたわけです。
もちろん支配の理論は様々な切り口があります。また、支配について論ずべきことはこのほかにも無限にあるでしょう。とりあえず、管理と支配の関係を論ずるのに必要なことを申し上げた次第です。
6.管理と支配の間にあるもの
支配という言葉にはネガティヴな面があると、この論文の冒頭に申し上げました。人間同士の争いや不満などが支配という言葉に付着しているからです。支配について今まで述べてきたとおり、それは否定できない事実です。
ところで支配という言葉にはもう一つ特徴があるのです。それは、支配という言葉が、実践的な、主体性をもった言葉というよりも、第三者の目から見た、客観的な性格の強いものだということです。現実の社会を、それに属する者としてではなく外から、例えるならば雲の上から眺めることにより、客観的真理を得るための概念なのです。
このこと自体、私は決して悪いことだとは思いません。そもそも学問の理論自体、超越的見地から眺めるという性格が少なからず存在するのです。学問における理論の魅力とは、そこにあるとも言えます。このような学問に対する態度が、客観的な、様々な科学的思考を生み出し、人間の文化を築いてきたとも言えるのです。
これに対し、管理という言葉は、本来、実践的であり、自ら実施すべき主体的な言葉なのです。日々日常、組織に属する人間が頭に置いている概念なのです。いかに管理するかは常に私達実務担当者の頭を悩ましています。
それにもかかわらず、管理の理論においては、組織の存在を前提として理論を形成せざるを得ません。したがって、支配の分析で明らかにされたような管理される者の内心から離れてしまうものなのです。組織を設計し、制度化して、そのルールに則った定型的業務が管理だとされるのです。もちろん組織を維持する定型的業務は、非常に大事なものであることは言うまでもありません。
この点、管理される者の立場も踏まえた管理を表す概念としては「マネジメント」があると指摘されるかもしれません。言うまでもなく、組織のマネジメントは経営学の中心課題です。ただ、マネジメントという言葉は、極めて広い意味を持っていると私は考えています。管理も支配も包摂してしまう言葉なのです。マネジメントという言葉を用いると、単なるその言葉の分析となってしまうので、今回は敢えて使用しませんでした。管理と支配という二つの言葉を用いて社会と組織を分析した方が、組織管理の本質に迫れると考えたわけです。
管理を実践する現場では、争いの原因でもあり、支配関係成立の原因でもある、拡がる自我の拡がりの確証の論理を認識すること、そして認識した拡がりの確証の論理を組織の管理においていかに利用し活用していくか、これらのことを常に意識することが大事だと思います。管理と支配の間にあるこの理念こそ、実際の組織の管理の現場で、的確な判断を導くものなのです。
参考文献
池田義祐「支配関係の研究」法律文化社
C.I.バーナード(山本安次郎他訳)「新訳 経営者の役割」ダイヤモンド社
村田晴夫「管理の哲学」文眞堂
T.ホッブズ(永井道夫他訳)「リヴァイアサン」中央公論社
G.W.F.ヘーゲル(金子武蔵訳)・(長谷川宏訳)「精神現象学」岩波書店・作品社
岩崎武雄「西洋哲学史」有斐閣
長谷川宏「ヘーゲル『精神現象学』入門」講談社
原田鋼「政治学原論」朝倉書店
T.パーソンス・E.A.シルス(作田啓一他訳)「行為の総合理論をめざして」日本評論社
伊丹敬之・加護野忠男「ゼミナール経営学入門」日本経済新聞社
(2017年1月公表)