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絶対性の方向 ~無我と梵我一如、道徳法則と絶対知~
和田徹也
目次
1.問題提起 2.仏教の無我の思想と絶対性 3.梵我一如と絶対性 4.カントの道徳法則と絶対性 5.ヘーゲルの精神現象学と絶対性 6.絶対性の本質 参考文献
1.問題提起
前回の論文では、悟りとは何だろうと問題提起しました。そして、その際、定義不能である善を把握することこそ悟りの意味するところではないか、このように申し上げました。そして、多くの人々が生活する全体社会の中では、善を追求しながら様々な議論がなされ、文化の論理が創造されていると論じたわけです。
ところが、議論を重ねている内に論争になった場合、誰もが納得する論拠といったものが必ず求められてきます。その論拠は、相手が否定できない性質を有することが必要とされます。特に、正義とは何か、存在とは何かといった抽象的な議論がなされると、決して否定できない究極的な論拠が求められてくるわけです。
この否定できない究極的な論拠の性質は、絶対性と表現できると思います。そして、特に哲学では絶対性という言葉がよく使われています。そこで今回は、この絶対性を詳しく検討してみたいと思ったのです。
実は、私は、絶対性を見定める方向は二つに分かれるのではないかと考えました。一つは、絶対性を自分の内側へ求める方向であり、もう一つは、絶対性を自分の外へ求めていく方向です。
前回の論文で追究した「悟り」ですが、その際、古代インド発祥の仏教を検討し、「大乗起信論」で論じられている心真如という概念を検討しました。心真如はまさに自分の内側の方向に向けて絶対性を求めたものです。心真如は、心の真実ありのままといった否定できない絶対的な論拠であり、悟りが迷いを払拭することにより心真如を見出すといった論理構造だったわけです。
一方、世界の多くの民族で認められる神といった概念は、自分の外に絶対性を求める典型ではないでしょうか。例えば、同じく古代インドのウパニシャッドの哲学では、アートマン(我)とブラフマン(梵)という概念が基本となっています。アートマンは、個人の本体を表す術語ですが、ブラフマンは宇宙の根本原理であり、神々をも支配する絶対者を意味しています(高崎直道他「インド思想史」22頁)。ブラフマンは自分の外に絶対性を求めるものであり、それを前提とした梵我一如こそ求める真理だというわけです。
それでは、西洋哲学に目を向けるとどうでしょうか。ドイツ観念論の創始者とされるカントは、人間の外界に対する認識能力は有限であり、物自体は認識できないとしましたが、内心の道徳法則は確実に存在すると考えました。これは自分の内側に絶対性を求めたことを意味するのではないかと思うのです。
これに対し、ヘーゲルは、絶対知といった概念を打ち立てました。人間の認識は発展していくのであり、絶対者は変化する有限者を媒介として存在しているのであって、絶対者すなわち物自体の認識は可能であると考えたわけです(岩崎武雄「カントとドイツ観念論」234頁)。これは自分の外に絶対性を求めた結果ではないかと私は思ったのです。
今回は、絶対性を求める際の、自分の内側あるいは外へと向かう、対立する絶対性の方向、このことを追究することにより絶対性の本質について深く考えてみたいと思います。
2.仏教の無我の思想と絶対性
仏教は無我を主張します。常識的には、自我が無いなどというのは理解し難いことかもしれません。しかしながら、仏教の無我の主張は一貫したものです。そこで、この無我の思想が意味するところは何か、この問題からまず考えていきたいと思います。
先程、仏教「大乗起信論」の心真如に触れましたが、この考えは、私達人間の心は、本来は、真実のあり方をしている、このことを前提としていることが分かります。すなわち、それ以外にあり方がないという意味で真、新たに立てるべき何ものもないのでありのままの如、こういうことです。
絶対性を求めて自分の内側に目を向けると、心なるものが見出されるはずです。その心の真実ありのままが心真如であり、心真如は全てのものの共通の根元である一法界であるわけです(「大乗起信論」180頁)。法界は差別の無い一の世界で全てのものに共通する真実のあり方を意味します(「大乗起信論を読む」63頁)。このような心の本性は、生滅変化を超えた不生不滅であり、まさに絶対的なものなのです。
これに対し、自分の外へ向けた、私達の意識の対象として現れる現象は、ただ誤った心の動きである妄念によって、種々様々な姿で現れているとされます(「大乗起信論」180頁)。あらゆる言語表現は便宜的な仮の表現(仮名)に過ぎず、それに対応する実体はありません。全てのものは、本来、言葉で表現できず、心に思い浮かべることもできないので、そのことをものの真実ありのままと呼ぶわけです(同書181頁)。
心真如は本来清浄であるにもかかわらず(同書209頁)、根源的無知により汚され(染心)、煩悩という妨げにより苦しんでいるとされます(同書214頁)。真実には存在しない対象を仮構し、それに執着してしまうことにより苦が生じているのです(同書221頁)。この汚された状態である煩悩を修行により取り除き真実を見出すことこそ仏教の悟りだと理解することができるわけです。
それでは、無我の思想が意味するところについて、今申し上げた心真如の概念を踏まえて、私なりに理解していることを、申し上げたいと思います。
自分の内側の方向に絶対性を求めて徹底的に進んでいくと、そこには結局、真実ありのままと表現するしかない、逆に言えば、これだといった実体的なものは何も無い、こういう結果になると思うのです。それは、言い換えれば、空と表現されるわけで、空であるにもかかわらず、自我といった実体的なものに執着することにより自己主張に走る、無我の思想はこれを否定するものであると考えられるのではないでしょうか。空は無我と同義だと考えられるわけです(「インド思想史」44頁)。
それでは、空は絶対性を有すると言えるのでしょうか。絶対性は否定できない論拠です。この点、空も論拠となり得ると私は考えます。なぜなら執着を否定するための論拠だからです。したがって空の論理は絶対性を求めた結果であり、無我の思想も絶対性を有するものであると私は思います。
実は、無我の思想は、私達人間の生の奔流としての「拡がり」を前提にしている、このように理解できるのではないかと私は思ったのです。
生命体である私達は、生の奔流の中で主体的に生きています。しかし主体性そのものを表現することは、表現された時点で客体となってしまい論理的に困難です。そこで私は、生の奔流を「拡がり」と呼ぶことにより個人の主体性を表現し、主体的な人間を「拡がる自我」と呼びました(「拡がる自我」参照)。
拡がる自我は、拡がりの対象に着目し、生きていることを実感・確認しようとします。これが「拡がりの確証」です。外界との物質代謝は、物に対する拡がりの確証です。そして、個々の拡がる自我が内心の自由により形成した自分独自の言葉の意味を他者と共有することにより実現するのが、他者に対する拡がりの確証です(「拡がりの確証と組織文化の本質」参照)。ここに意味とは、言葉に対する主体の把握の仕方のことです。
生の奔流は決して否定することはできません。現に自分は生きている、このことが全ての前提です。したがって、生の奔流が絶対性を有していることは間違いありません。
無我の主張は、生の奔流である拡がりが、外界の何らかのものに執着して他者に対する自己主張に陥りそれに徹してしまう、このことを否定する理論だと思います。他者に対する拡がりの確証は、他者との言葉の意味の共有である以上、自己主張に徹して一方的に言葉の意味を押し付けようとすると、他者が意味の共有を拒絶してしまい実現することができません。拡がりの確証を得ることができない個々の拡がる自我は、結局のところ煩悩に陥らざるを得ないのです。
この意味で、無我の思想は、個々の人間における生の奔流の絶対性を、ある意味、逆の方向から表現したものではないかと私は思うのです。生の奔流である拡がりはまさに外へ向けたものですが、逆に内側に向けてその原点を求めようとすることもできるのです。生の奔流は、絶対的なものですが、外と内の方向を併せ持っているのであって、それはまさにあるがままの真実としか表現できません。したがって、本来、その拡がりの原点を実体的概念によって確定させることは不可能である、このことを仏教は主張したのではないか、このように私は思ったのです。
3.梵我一如と絶対性
無我の正反対の思考に基づく概念がアートマンです。無我の原語はアートマンの否定形だと言われています(中村元「自我と無我」4頁)。先程申し上げたとおり、アートマンは個人の本体を表す術語で、元来、気息を意味しましたが、転じて生命の本体として、生気、生命原理、霊魂、自己、自我の意味に用いられ、さらに万物に内在する霊妙な力を意味するに至ったとされています(高崎直道他「インド思想史」22頁)。アートマンは漢語で我と表記されます。
一方、ブラフマンも先程申し上げたとおり、神々をも支配する力とみなされ、宇宙の根本原理、絶対者を意味しています(同書22頁)。このブラフマンは、まさに、自分の外に絶対性を求めたものなのです。ブラフマンは漢語で梵と表現されます。
さて、確固たる自我すなわちアートマンといった主体を出発点として、外に存在する絶対者である神との合一を目指す、この梵我一如の実現こそ、究極の目的であると考えたのが、古代インドのウパニシャッドの哲学理論です(同書22頁)。
梵我一如は、インド古代のヴェーダ哲学から延々と続いてきた思想ですが、理論的には、8世紀の哲学者シャンカラの不二一元論によって確立されたと言われています(同書23頁)。
シャンカラが目指したのは、他のインド哲学と同様、輪廻からの解脱であり、ウパニシャッドの哲学が到達した梵我一如です。それは、ウパニシャッドを典型とする天啓聖典にある「汝はそれなり」といった記述に基づくとされます(同書151頁)。
ブラフマンを論じている5世紀頃の聖典「ブラフマスートラ」によれば、ブラフマンは純粋有であり、純粋に精神的実体であって世界の動力因であると同時に質料因であるとされました(同書152頁)。
ところが、ここで問題となってくるのが、唯一にして無差別なブラフマンから現象世界の多様性が如何にして成立し得るか、純粋に精神的なブラフマンから如何にして物質世界が開展し得るのか、これらの点です。
この点、シャンカラは、未開展の名称・形態の概念を導入し、ブラフマンは未開展の名称・形態を開展する開展者であるとしました。未開展の名称・形態から五大元素(虚空・風・火・水・地)が開展し、五大元素から成る身体が生じ、ブラフマンはアートマンとしてこの身体の中に入るとされました。アートマンは物質的な名称・形態から開展した身体などとは全く異なるもので、アートマンとブラフマンは同一、不異だとされたのです(同書153頁)。
シャンカラはあらゆる物質的なものや現象世界の多様性などの原因を未開展の名称・形態に求め、この未開展の名称・形態は、無明のために付託されたものに過ぎず、これらは幻影のように実在しないもので、ブラフマン=アートマンのみが真実であるとする不二一元論を主張しました(同書153頁)。ここに付託とは、前に知覚されたものが想起の形で顕現することであり、人々の抱く自我意識も、アートマンの本性である純粋精神を物質的な統覚機能に付託して生じた観念に他ならないわけです(同書154頁)。
それでは以上申し上げた梵我一如の絶対性について、先程申し上げた拡がる自我の拡がりの確証の視点、すなわち純粋人間関係論の観点から、自分なりに理解したことを申し上げたいと思います。
アートマンとブラフマンが同一という梵我一如の思想は、絶対性を自分の外に求めたものであることは明らかだと思います。ブラフマンは、外界の神々をも含めた全ての事象を支配するもので、アートマンとしての自分の精神をも含めた、この世の全てを含む絶対者だからです。
梵我一如の思想は、生の奔流としてのアートマンを確固たる対象として捉えると(「ウパデーシャ・サーハスリー」230頁~)、外界に向けてブラフマンの絶対性が必要とされ、その結果として梵我一如をもって絶対的な論拠とした、このように理解できるのではないかと思います。
先程、仏教を論じた際申し上げたとおり、生の奔流は決して否定することはできません。現に自分が生きていることが全ての前提です。したがって、生の奔流が絶対性を有していることは間違いありません。
生命の本体として、生気、生命原理、自我等の意味に用いられているアートマンは、私流に言えば、まさに「拡がり」と表現できます。生の奔流の中の個人を意味するアートマンは様々な意味を有していますが、それはまさに拡がりの意味するものでもあるのです。
この生の奔流である拡がりは、原点と対象の二つの観点から理解することができます。原点が自分の内側の方向であり、対象が自分の外の方向となるわけです。生の奔流である拡がりにおける絶対性の追究は、拡がりの原点すなわち自分の内側に向かうのか、あるいは、外界の拡がりの対象に向かうのか、この二つに分かれるわけです。
前者が先程申し上げた仏教の発想であり、結果として実体としての原点はあり得ないという結論になりました。したがって、自我なるものは空であって無我が基本であり、外界は妄念とされました。
一方、後者が梵我一如であり、外界の対象は確固たるものとして絶対的に存在し、同時に、自我も実体として確実に存在する、このように結論づけたと理解することができると思うのです。
4.カントの道徳法則と絶対性
以前「形而上学とは何か」で論じましたが、カントは、私達の認識は、私達から独立に存在している対象をそのあるがままに把握するのではなく、私達の主観の中に、経験に依存しない先天的な形式があって、私達はこの形式によって、いわゆる対象と言われるものを構成するのだと考えました。認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従うと考えたのです(カント「純粋理性批判」)。
ただ、カントのように対象が認識に従うと考えると、外界の対象である物自体は不可知にならざるを得ません。なぜなら、認識が対象を構成する以上、物自体をそのまま認識することはできず、その現象のみ認識するに過ぎないことになるからです。
このことは、別の言い方をすれば、私達の認識能力は有限であり、外界については経験を超越する絶対的な認識はあり得ない、こういうことになります。認識上、外界に絶対性を求めることは不可能である、こういう結果になると思うのです。
実は、このことを前提にして、カントは従来の形而上学を徹底的に批判しました。例えば、霊魂といったものは存在しない、世界が有限か無限かといった二律背反は両者とも誤り、神なるものは存在しない、このように、経験を超越した絶対性の認識に基づく従来の形而上学の議論をカントは徹底的に否定しているのです(カント「純粋理性批判」)。
しかしながら、カントは人間の実践の場面では大きく異なると考えました。
実践は自由がその本質であり、未来へ向けてのものであって、実践理性にとって、認識におけるような、経験の制約は存在しないのです。カントは経験に制約されない実践の場における道徳法則に、絶対性を求め、新たな形而上学を打ち立てようとしたわけです。これはまさに、自分の内側への方向、内心の方向に絶対性を求めたものと理解できるのではないかと私は思ったのです。
カントは、あらゆる人の人格の内にある人間性を、手段としてではなく目的としてのみ扱うべきと言い、「汝の意志の格率が常に同時に普遍的立法の原理として妥当することができるように行為せよ」という道徳法則を主張しました(カント「実践理性批判」77頁)。ここに格率とは意欲や行為の主観的な原理のことです。
各人の格率が普遍的立法に妥当すべきといった道徳法則がなぜ絶対性を有するのでしょうか。それは、主体的な人間の自由が無制約性をその本質とするからであり、この場合人間の理性は経験の制約を受けるべきではないと考えられるからです。形而上学の対象は、現実の経験を超越したものでなければならず、それは絶対性を有するものなのです。
先程2で申し上げたとおり、私は、生の奔流にある主体的な人間を「拡がる自我」と呼びました。個々の拡がる自我が内心の自由により形成した自分独自の言葉の意味を他者と共有することが他者に対する拡がりの確証です。
他者への拡がりの確証の原点となるのは内心の自由です。それは、自分独自の意味を創出するのであり、何かに制約されることがあってはなりません。この無制約性は、まさに絶対性と表現することができるのです(「自由とは何か」参照)。
さて、この他者への拡がりの確証は、投げかけた論理が他者に受け入れられねばなりません。したがって、拡がりの確証の論理にあっては、他者は目的であって手段とはなりません。なぜなら、意味の共有とは拡がる自我の自発性、意思の自由を前提とするからです。意味とは、言葉に対する主体の把握の仕方であり、それは、自分の内心の自由を前提とすることはもとより、相手の内心の自由をも前提とするのです。相手の自由を尊重することは、相手を手段としてではなく目的として扱うことに違いありません。
そして、自分の格率が普遍的立法に妥当するということは、自分と同じ格率を誰もが有していることを意味し、自分が投げかけた拡がりの確証の論理を誰もが受け入れるべきことを意味しているのです。これこそ道徳的な意味での理想の世界であり、他者への拡がりの確証を目指す個々の拡がる自我の誰もが望むものです。したがって、この道徳法則は絶対的に存在しなければならないわけです。
以上、カントの道徳法則は、自分の内側に絶対性を求めた結果として存在していると理解することができると私は思うのです。
5.ヘーゲルの精神現象学と絶対性
ヘーゲルは、カントとは反対に、外界の絶対者の把握は可能だと考えました。人間の認識は絶対者の認識を求めて発展するのであり、物自体の認識も可能だとしたわけです。では、ヘーゲルはどのように考えていったのでしょうか。
ヘーゲルは、絶対者を、実体として捉えるだけではなく、主体としても捉えることにより、外界の絶対者の把握を目指したものと理解できるのです(岩崎武雄「カントとドイツ観念論」228頁)。以下、絶対性を目指すヘーゲルの議論の展開を「精神現象学」に沿って考えていきたいと思います。
ヘーゲルの議論の出発点は、それ自身直接的な知、感覚的確信です。その意味するところは、ただそれが存在するといったことだけで、極めて貧弱な真理です(ヘーゲル「精神の現象学」95頁)。しかしそこには、感覚の主体である自我と感覚の対象としての客体、少なくともこの両者が存在するという確信があります。
このことを私流に言えば、まず拡がりがあり、拡がりは対象によって意識される、こういうことです。ただ、ヘーゲルは拡がりといった個の起点からは始めません。直接的な「知」から始めます。知は主体と客体を含むもので、ここではこの両者が確実に存在しているということが重要なのです。実は、主体から客体といった即自が、客体からの主体という対自を導き、互いに媒介するといった対立が生じ、それが絶対者の認識に向けた運動となっていくのです(同書584頁)。
この感覚的確信は、普遍性が付与されることにより、知覚となります。普遍は誰もが認める共通性を意味します。知覚は対象に普遍的なものを結び付けることにより成立するのです。実は、自我も普遍的であり、対象も普遍的ですが(同書110頁)、その性質は両者互いに否定し合う対立でもあります。
普遍的なものは単純ですが媒介せられたものであり、対象が多数の普遍的な性質を帯びた「物」となることにより、自我と対象の対立は止揚されます(同書111頁)。これが知覚の対象たる物であり(同書115頁)、無という否定と対立することになるわけです。そして、それを引き起こす力の概念が帰属するのが悟性です(同書133頁)。悟性の対象は、無制約的な普遍者です。なぜなら、悟性は自由に超感覚的な世界の概念を付与するものだからです(同書129頁、1139頁)。
さて、主体と客体の互いに媒介し合う関係から自己意識が生じてきます。超感覚的世界は無限性として現れますが(同書161頁)、無限性は自由に顕現し、その無限性が意識に対してまさにそうであるものとして対象であるとき、それが自己意識であって(同書164頁)、無限性を意識するのが自己意識なのです。
自己意識は、即自かつ対自的に存在します(同書183頁)。自己意識は、即自的な自分を自分の外から対自的に把握するものであり、それは他者を撤廃することによります(同書184頁)。これは他者の立ち位置に、自分が他者を撤廃して立つことであると理解できます。
ところで、拡がる自我の他者に対する拡がりの確証の視点から言うならば、普遍性は、自分独自の言葉の意味を他者と共有するための基盤として不可欠のものです。そして、この他者との言葉の意味の共有は、ヘーゲルが言うところの承認であると解され、承認をめぐって個々の自己意識は生死を賭けて闘争すると論じられるのです(同書188頁)。なぜなら、自ら無制約的に形成した言葉の意味を他者と共有することは、対自的すなわち他者の立ち位置から初めて確証できるからであり、それは他者を撤廃することにより実現せざるを得ないからです。
この承認をめぐる命を懸けた闘争は、結局のところ、主と奴とに落ち着き社会の秩序は維持されることになります。以前「管理と支配の間にあるもの(改訂版)」で論じたとおり、人間の能力は皆平等としたホッブズが人間社会は常に戦争状態であると断じたのに対し、ヘーゲルは人間の能力の格差を前提とした上で、意味の共有の闘争の勝者は自立的な自己意識として主となり、意味の共有を自分の内に押し戻された者は奴となるとし(同書198頁)、社会の秩序は維持継続されるとしたのです。
この秩序は上下関係であって、それを維持するため自己意識の自由を維持する正当性が必要とされ、ヘーゲルは、ストア主義とスケプシス主義、不幸な意識の3類型を論じています(同書198頁以下)。ストア主義は、主が有する主体的な純然たる自由の理念を意味します。これに対しスケプシス主義は奴に対応するもので、一切の主体的理念を否定することにより安静を求めるものです。そして不幸な意識はこの自由な理念とその否定的思惟との複合体として、上下関係の正当性として機能する、欲望と労働の共存であると理解することができます(同書219頁)。
さて、この個別的な意識の正当性の内から理性が現れます。理性とはあらゆる実在であるという確信だとヘーゲルは言います(同書236頁)。存在するものの本質態は範疇ですが、ヘーゲルの範疇は、カントの範疇と大きく異なり、自己意識と存在とが同一本質であることを意味し、自己意識と存在とが即自かつ対自的に絶対的に同一であるとするものです (同書236頁)。カントの範疇は主観にある観念論的なもので、客体である外界の対象を構成するものでした。これに対し、ヘーゲルの範疇は、客観的・普遍的な絶対性を有する実在であり、それを確信するのが理性だと理解できるわけです。
この理性は人倫の中で確立されます。なぜなら、普遍性とは誰もが認めることであり、それは人倫といった共同体の中で実現できることだからです。人倫の中でこそ理性は発現できるのです。そして、この人倫の中で理性は、精神となってくるわけです。
理性のあらゆる実在であるとの確信が真理にまで高められて、理性が自分自身を世界として、また世界を自分自身として意識するようになった時、その時の理性が精神です(同書731頁)。世界が自分自身とは、人倫があって初めて自己があることだと理解できます。
そして、ヘーゲルは精神を様々な観点から論じながら、個々具体の人倫的世界を分析していきます。無媒介の真実態である人倫としての精神(同書737頁~)、この人倫を客体的に把握する教養としての精神(同書785頁~)、そして普遍意志と個別意志が同一化した道徳的精神(同書912頁~)、これら精神を即自と対自、言い換えれば、主体と客体との対立の中で論じながら徐々に真の絶対性に近づいていくのです。
精神を分析した後でヘーゲルは宗教を論じます。宗教は精神の自己意識であり、まず自然宗教として、自分を見出す光、表象としての動植物、工匠としての神殿と神像を経て、芸術宗教に至り、建築と彫刻や演劇といった芸術作品として主体的形式を確立させます。そして、啓示宗教となり、絶対宗教としての啓示を受け、絶対精神の自己意識として実在することとなるわけです(同書1098頁)。
宗教は即自的な拡がりの生の奔流の発現であり(1145頁)、それを客観的に対自的に認知すること、絶対精神を内容とする啓示宗教を把握し受け取ること、これこそ絶対知であり、これにより絶対性は確立されると理解できるのです。
さて、以上の精神現象学のヘーゲルの論述を、絶対性とは何かといった観点から、自分なりに理解したことを申し上げたいと思います。
やはり、問題の基本は、生の奔流の絶対性をどのようにとらえるか、ここにあると思います。精神現象学の出発点である感覚的確信は、生の奔流を漠然と捉えるもので、そこには客観と主観とが混在し、外界の感覚が客体として客観を意味し、確信が主体として主観を意味すると理解できるのです。ヘーゲルはこの生の奔流から出発して、即自と対自といった主観・客観の対立を常に基本に置くことにより、外界全体の分析を重ねることにより絶対性に到達しようとしたのではないかと私は思うのです。
冒頭で申し上げたとおり、絶対性とは決して否定できない究極の論拠です。今申し上げたとおり、ヘーゲルはその絶対性を外界へまず求めました。実は、それは他者を強く意識したからに他ならないと思うのです。どういうことかというと、外界の対象の認識が、他者への拡がりの確証のためであることに鑑みると、外界への絶対性の探求は、各人の主観と結び付くことにより絶対性を獲得するという発想を導くということです。
その結果として、外界の絶対性は、人倫といった他者との共同の主観に基づくものとされたわけです。すなわち、絶対精神は各人共同の主観の実在を意味するのであり、理性はその前提となる実在の確信であり、自己意識は実在性の前提となる客観性であり、感覚的確信は主観と対象との出会いとして出発点である、このように理解することができると思うのです。
一方、カントは孤立した個々人の先天的認識能力を考え、ただ単にそれが各人に先天的に備わっていると考えたがゆえに、ヘーゲルと同じ共同主観であるにもかかわらず、外界の対象である事物の認識に絶対性を見出せなかったのではないでしょうか。ある意味、カントの共同主観は生物学的であると言えるのではないでしょうか。
これに対しヘーゲルは、人倫を根拠とすることにより、個々人を超越する絶対的な共同主観を考えたので、外界の対象にも絶対性を求めることができたわけです。ヘーゲルの共同主観は社会的であると考えられるわけです。生物学的共同主観は神のみぞ知るところですが、社会的共同主観は人間の認識範囲にあると考えられるのです。
6.絶対性の本質
以上、絶対性について、仏教の無我とウパニシャッドの梵我一如、そして、カントの道徳法則とヘーゲルの絶対知を検討してまいりました。絶対性は個々の人間の内側と外側の二方向に求めることができるのであり、そのそれぞれが確固たる論拠たり得ることが分かったのです。
では、この絶対性の二方向は何を意味しているのでしょうか。それは絶対性が自由に使いこなせる概念だということです。内心の自由に基づいて、絶対性は二つの対立する方向を選択することができるのであり、その時の議論の内容によって異なる「絶対性」の活用が可能だということです。
ここで考慮すべき理論が、個々の拡がる自我の、他者に対する拡がりの確証のための論理の二つの類型、創造の論理と分割の論理です。
創造の論理は、個から出発する論理で、自分が何を行ったか、何を作り上げたかによって他者の注目を得る論理です。行為の出発点の価値はゼロで、何を創造したかを、他者の注目を得るための価値の評価基準とするものでした。創造の論理の代表は、人間の経済活動における商品の創造です。
分割の論理は、自分が所属する社会全体に大きな価値を置き、その全体の価値を自分がどれだけ分割して収得しているかによって他者の注目を得る論理です。分割の論理の代表は組織における身分制度です。
実は、外へ向けた絶対性の論理は、どうしても全体の価値に結びつきやすく、分割の論理を導き出さざるを得ないのではないかと思うのです。例えばヘーゲルの絶対精神は、人倫といった全体の価値の実現を意味していると思うのです。それは個人の感覚から出発し、自己意識として他者と抗争し、不幸な意識等の支配の正当性を経由し、人倫という全体の価値に到達するといった流れです。人倫という共同体の秩序は分割の論理によって維持されているわけです。
これに対し、内に向けた絶対性の論理は、その到達点が不明確とならざるを得ず、起点として外へ拡がるという生命力に基づく実践と結び付くことにより、創造の論理の構築を帰結すると思うのです。創造の論理の源は生の奔流であり、他者への拡がりの確証は、無制約的な内心の自由が基盤であり、この内心の自由が外界の対象の存在と結び付くことにより、創造の論理は形成されるのです。
ただ、ここで忘れてはならないのが、創造の論理は他者への拡がりの確証のための論理であり、それは他者との言葉の意味の共有が目的であるということです。そこにこそ規範的要素の存在、仏教の無我思想に基づく執着の否定、カントの道徳律、これらの重要性があるということです。この両者は同じ発想だと私は思うのです。
さらに言えることは、実は、ヘーゲルの人倫の発想も他者への拡がりの確証の実現にあると考えられるのです。予め人倫の論理の体系が存在すれば、その論理によって確実に他者への拡がりの確証が実現できるわけです。
このことは、ブラフマンとアートマンは合一であるとする梵我一如の思想にも通じることでもあります。梵我一如の思想が、インドの社会秩序の維持に大きな役割を果たしたことは言うまでもありません。その秩序の論理の中で、人々は他者への拡がりの確証を実現しながら生活していたわけです。
以上申し上げたとおり、絶対性の本質は、生の奔流の中の、個々の拡がる自我にとって絶対命令である、他者への拡がりの確証を確実に実現させる、まさにここにあると考えられるのです。
参考文献
ヘーゲル「精神の現象学」(金子武蔵訳)岩波書店
カント「純粋理性批判」(宇都宮芳明他訳)以文社 「実践理性批判」(宇都宮芳明訳)以文社
アリストテレス「形而上学」(出隆訳)岩波書店
「大乗起信論」(宇井伯寿訳注、高崎直道訳) 岩波書店
「バラモン経典 世界の名著1」(服部正明他訳)中央公論社
シャンカラ「ウパデーシャ・サーハスリー」(前田専学訳)岩波書店
ハイデッガー「存在と時間」(細谷貞雄訳)理想社
コジェーヴ「ヘーゲル読解入門」(上妻精他訳)国文社
岩崎武雄「カントとドイツ観念論」新地書房 「西洋哲学史」有斐閣 「カント」勁草書房
高崎直道・前田専学他「インド思想史」東京大学出版会
高崎直道「大乗起信論を読む」岩波書店 「仏教入門」東京大学出版会
中村元編「自我と無我」平楽寺書店
時枝誠記「国語学原論」岩波書店
2025年5月公表