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経験科学を活用した哲学理論 ~主体的人間の科学的分析手法の確立~
和田徹也
目次
1. 問題提起 2.心理学とは何か 3.社会学とは何か 4.社会関係と役割理論 5.社会・組織の科学的分析の論理構造 6.主体的人間の科学的分析の手法 文献紹介:ジンメル「社会学の根本問題」
1. 問題提起
前回の講座「形而上学とは何か」では、科学もある一定の形而上学を前提として成立していると申し上げました。形而上学は、一般的に思われているように科学によって否定されるわけではなく、逆に科学を基礎付けていることを主張したわけです。
言うまでもなく、形而上学は哲学の一部を形成するものです。様々な事実の根本にある普遍的原理、あるいは世界観・人生観、このような現実世界を超越する真理を探究する学問、これが形而上学です。
一方、科学は現実の事実の経験を根拠として構築される学問です。経験された事実の一部を切り出して、それを理論構築の論拠とするものだったわけです。こうなると、単に科学と言うより経験科学と呼ぶべきかもしれません。そして、ここで重要なことは、経験された事実全体から一部を切り出す際、形而上学が不可欠の機能を果たしていたということです。
このことは、逆に言えば、科学と形而上学、すなわち、科学と哲学は、何ら対立するものではなく、互いに協力し合うことにより、より深く思考を巡らせることができるということを意味しています。哲学とは、前提となっている思考を乗り越えて、根本理論を追究する学問でした。哲学理論の構築においても、科学を活用することによって、より深い真理を獲得することができる、こういうことにもなるわけです。
そこで今回は、経験科学を活用した哲学理論ということで、心理学や社会学といった人間を対象とする経験科学を具体的に活用し、人間に関する根本理論の構築を可能にするための方法を考えてみたいと思います。具体的には、心理学と社会学、特に両者の中間にある社会心理学を検討し、社会関係論や役割理論を活用して人間を分析し、生きる証を求め続ける主体的な人間の構造を明らかにする手法の確立を目指したいと思います。
2.心理学とは何か
まずは、心理学とは何かといったことから考えてみましょう。
心理学は心の科学だとよく言われます。それはどのようなことを意味しているのでしょうか。
人の心を理解しようとする試みは昔からありました。哲学はまさにこの問題に正面から取り組んできたわけです。善とは何かを追究する倫理学も、ある意味人間の心を対象とした学問だと考えられます。ただそれは、探究する主体としての、哲学者の自分自身の経験の叙述としての性格が強いのです。
例えば、この「純粋人間関係論」では、人間の主体性を「拡がり」と表現しました(「拡がる自我」参照)。ただ、これは私自身の長年に亘る人生上の経験に基づく告白としての性格が強く、他の人が同じように感じているかは、客観的な事実として検証することは困難なわけです。あくまでも自分の内心の自由に基づき構築した主観的な理論なのです。もちろん、この理論が多くの他者の同意を得れば相当程度の客観性を得ることになるわけで、それによって多くの人に真理として認知されることを私は期待しているわけです。
これに対して、科学は事実としての客観性を求めます。前回論じたとおり、近代自然科学は感覚的に経験できるものの中に普遍性を求め、それを数学と結び付けることにより経験科学として確立されました。自然現象のごく一部を切り取り、質を量に転換する数学の手法を用いて量的変化といった普遍性を有する仮説を打ち立て、それを感覚的な経験によって客観的な事実として証明する実証主義の手法により、普遍的な理論を構築したわけです。
ただ、今申し上げた科学の例は、外界の自然を対象とする物理学等に主に当てはまることです。自然現象の一部を数学と結び付けることにより客観性を確保したわけです。
では、心の科学である心理学では、どのように心の内の意識内容について、その客観性を確保するのでしょうか。実は、やはりそれも、基本的には自然科学と同様、事実の感覚的経験に基づくといった実証主義によると考えられるのです。
まず挙げられるのが、ヴントの内観法です。心理学の対象が意識内容だとした上で、実験室を設置し、その室内で被験者に刺激を提示して意識的な体験についての報告を求めたのです(鹿取廣人他「心理学(第5版)」5頁))。意識内容を研究者自身ではなく他者に求めて、実験による他者の報告を根拠に客観的に把握しようとしたわけです。
次に挙げるのは、ワトソンの行動主義です。ワトソンはヴントの内観法に反対して、客観的な行動をその対象としなければならないと主張しました。客観的に確かめることのできる刺激と反応の結合関係である人間の行動を対象としたわけです(同書14頁)。行動という物理的身体の客観的動きによって心の内が認知されると考えたわけです。
現代の心理学は、様々な複雑な理論によって構成されていると思いますが、私は、基本的には、今申し上げた内観法と行動主義を基盤とし、その発展として成り立っているのではないかと考えています。
3.社会学とは何か
それでは次に、社会学とは何かといったことを考えてみましょう。
社会学は経験科学の一つである社会科学に含まれると考えられますが、政治学や経済学といった古くからある社会科学とはその性格が少々異なります。政治学や経済学は、現実の政治制度や経済指標といった特定分野の具体的事実が対象となる科学であるのに対し、社会学は社会一般といった極めて曖昧な事実がその対象となるからです。
政治学や経済学も社会を検討の対象とすることは社会学と同様です。では、社会学が検討の対象とする社会一般とはどのような社会なのでしょうか。以下、社会学の初期の理論研究者達を検討することにより(アンソニー・ギデンズ「社会学(第五版)」25頁~)、これを明らかにしていきましょう。
19世紀に活動したオーギュスト・コントは、人間の世界に対する把握の仕方について、古代多神教や中世キリスト教等の神学的段階、ルネサンス・宗教改革に始まりフランス革命を頂点とする形而上学的段階、科学の精神によって支配される実証的段階、この三つに区分しました(清水幾太郎「コントとスペンサー」16頁)。社会学の対象となる社会は、実証的段階で出現する科学の対象であって、自然的世界と同様一定不変の法則に従うもので、数学から天文学、物理学から化学、そして生物学が社会学を準備するとし(同書26頁)、最も重要で複雑な科学の対象であるとされました(アンソニー・ギデンズ「社会学(第五版)」26頁)。
エミール・デュルケムは、コントの発想をさらに推し進め、「社会的事実を物として研究せよ」と主張しました。社会的事実とは、個々人に外在する行為や思考、感情の様式であり、一人一人の生き方を超えた、社会それ自体といった現実です(同書27頁)。社会的事実は人々に強制力を行使することもありますが、ほとんどの場合、人々は強制を意識せず自発的に社会的事実に従って生きているのです。
カール・マルクスは、今日までのあらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史であると断じ(マルクス・エンゲルス「共産党宣言」38頁)、近代社会は、様々な階級が存在した古代・中世社会と異なり、ブルジョアとプロレタリアの二つの階級対立に単純化されたと論じました(同書40頁)。
マックス・ウェーバーは、社会の構造は、個人から独立して外部に存在するのではなく、個人の行為の複雑な相互作用によって形成されると考えました。社会はその構造に焦点を当てるのではなく、人々の抱く動機や理念が反映される社会的行為こそ社会の変容をもたらすのであり、社会的行為の背後にある意味を理解することが重要だとしたのです(アンソニー・ギデンズ「社会学(第五版)」33頁)。
さて以上から、社会学の対象としての社会一般という概念は、次の視点から構成されると考えることができるわけです。まず、実在する社会的事実を対象とする、そして、それを人間と人間の対立を前提とした構造として把握する、あるいは、それを個々人の社会的行為を形成する理念や価値を認知することにより把握する、この3つです。現代の社会学の理論的アプローチもこれらの視点を基に、機能主義、葛藤理論、象徴的相互作用論の3つに分類されるわけです(同書35頁)。
機能主義は、社会とは社会の様々な部分が安定性と連帯性を生み出すために協調して作動する複雑なシステムであると考えます(同書36頁)。個々人が協調して制度を維持しているのであり、秩序と均衡が社会の正常な状態とみなされ、社会は体系として認識できることになります。
葛藤理論は、機能主義のような合意の強調を排除して社会の分裂を重視するもので、権力や不平等、闘争の問題に注意を向けます(同書37頁)。
象徴的相互作用論は、言語と意味に対する関心から生まれたもので、象徴といった概念が重要な役割を担います。象徴とは他の何らかの事象の代わりになって示されるので、言葉も象徴の一つです。人間は豊富な象徴から構成される世界の中に生きており、人間同士のほぼすべての相互行為は、象徴の交換を必然的に伴うものです。この立場は、個人の日常的な相互行為が、社会や社会制度を創出する過程で果たす役割を重視します(同書38頁)。
以上申し上げた社会一般を対象にして、様々な分野で3つの理論を基盤とした様々な具体的手法によって実証的な研究を行うのが、社会学という科学であると私は理解しているのです。
4.社会関係と役割理論
心理学はその対象とするところにしたがって大きく生理心理学と社会心理学に分けることができます。生理心理学は、社会生活とは一応かかわりのない、主として身体の生理的な働きに左右される心理過程を扱います。これに対し、個人の社会的な活動の面を考え、個人の好みや評価が社会生活に左右される社会的な心理の過程が社会心理学の対象となります(南博「社会心理学入門」1頁)。
また、心理学は、先程触れた社会学における象徴的相互作用論と大きく重なってもきます。心の内の意識内容を科学的に認識するのが心理学ですが、象徴は心の内の意識内容と密接にかかわるものであり、内心の意識内容は、外に表明された象徴を解釈することにより認識できると考えられるからです。社会心理学は、象徴的相互作用論を大きな理論的根拠としてもいるわけです。
以下、社会学や社会心理学といった経験科学理論を活用した、主体的人間の哲学的な分析手法を考えてみたいと思います。
さて、私達が生きる社会は、様々な社会関係から成り立っています。社会学の対象である社会一般は、無数の社会関係に分析できるわけです。
社会関係とは、人々が一定の様式に従って相互作用をなしうる持続的な状態のことであり、また、人々の間の相手に対する行為の持続的な相互期待と相互用意でもあります。前者が社会関係の客観的な定義であり、後者が主観的な定義となるわけです(池田義祐「支配関係の研究」11頁)。以前論じたとおり、関係という概念は主観的要素と客観的要素を併せ持った概念なのです(「純粋人間関係とは何か」参照)。
社会関係はその内容の性質からいくつかの対照的な種類に分類可能です。例えば、対等関係と上下関係、結合関係と分離関係といった分類があります。
一方、社会学や社会心理学で、大きな意味を有するのが役割理論です。役割は社会の中の主体的な人と人との関係を的確に把握するのに極めて有効な概念だからです。
役割という言葉も、他者との関係における個々人の行動に対する規範を指す場合と、相互作用をしている個々人の間の現実の行動の規則性を指すことがあります。主観的要素と客観的要素の二つの性格が役割という概念にも認められるわけです。とりあえず、役割とは、一人の人が一人以上の他者と多かれ少なかれ安定した関係に寄与するときに、その人の行動の一貫性を指すものであるとしておきます(ニューカム・ターナー・コンヴァース「社会心理学」364頁)。
役割の主観的・客観的の二つの要素に応じて、役割理論には社会心理学的伝統と構造主義的伝統がありました(渡辺秀樹「個人・役割・社会」101頁)。前者では、役割概念は自己との関係において論じられ、象徴的相互作用論と密接に関わっているのに対し、後者では、役割概念は客観的存在である社会的地位と結び付き、社会の構造的概念として位置づけられているわけです。
さて、以上概観した社会関係と役割理論ですが、両者とも主観的側面と客観的側面がありました。このことはどのように理論的に整理されるべきなのでしょうか。
社会関係という概念は、主観的要素を含むとしても、どうしても客観的な構造としての概念として認識されやすいのではないかと思います。実は、それを是正するのが役割理論ではないでしょうか。役割という概念の方が関係という概念よりも主観としての性格、規範としての性格が強いと私には思えるのです。社会関係は社会学の構造という概念から出発する性格が強いのに対し、役割は心理学的要素の方が強いと思われるのです。以前「役割と自我」で論じたとおり、人間の自我という概念も、心理学的性格の強いこの役割という概念によって形成されていると考えることができるのです。
5.社会・組織の科学的分析の論理構造
ここで、実際の企業等の組織の分析のための、社会関係と役割を活用する科学理論に基づく手法を考えてみたいと思います。組織は、ある目的を達成するために人々が集合した企業を始めとする社会集団、すなわち目的社会がその目的を達成するために形成されたものだとまずは認定できるでしょう。
ここで改めて、現実の組織の分析が行われる必要性を考えてみましょう。実は、それは現実に存在する個人と集団たる組織との対立の克服にあると思うのです。組織の目標の実現のために必要とされる個人の行動の円滑な実現、組織の個人に対する指揮命令の正当性、現実の組織ではこれらの問題解決が常に必要とされ、それは個人と集団・組織の調整の問題として把握されているのです。したがって、この場合も、主観性と客観性の二つの側面をどのように考えていくかが重要となってくるわけです。
まず、組織を客観的に、その全体を構造的に考えてみましょう。先程論じた社会学における機能主義と役割理論における構造主義的伝統に基づいて検討したいと思います。
まず、組織とは、二人以上の人々の意識的に調整された活動や諸力の体系と定義できると思います(バーナード「経営者の役割」76頁)。組織は主体的な人間の集合ですが、客観的存在である社会の体系としてまずは認識できるのです。
この、組織という体系には地位が存在します。地位とは特定の諸個人が占める社会体系内の位置を意味し、組織が通常上下関係を有するために地位と表現されるものです。
4で申し上げたとおり、社会一般は多くの社会関係に分析できますが、その社会関係の中で、この上下関係は対等関係に対立する概念であり、階層関係と支配関係に分類されます。前者は組織を構成する人間に付与される価値の配分が階層的な上下の格差を持っていることを客観的に表明するものです。後者は、個々の人間の上位の他者に対する反発といった感情の存在を前提に、この主観的な感情を上下関係に含ませた概念であると理解できます。
そして、社会の特定の地位には、これに結びつく単一の役割ではなく、相関連する一連の役割があり、それは役割群と表現されます(マートン「社会理論と社会構造」335頁)。このように組織は、地位役割の体系として認識することができることになるわけです。
さて、一つの地位に複数の役割があるということは、同じ地位に様々な性格を有する役割が付随することになります。例えば企業の組織で言えば、課長という地位の人は、部下との役割関係、同僚との役割関係、上司との役割関係、さらには取引先との役割関係と、様々な役割関係が認められてくるわけです。
それでは、ここで役割の主観的性格を考慮しながらさらに理論構成してみましょう。
今申し上げた、一つの地位の複数の役割関係は、まずは、大きく共同的役割関係と競争的役割関係に分類することが可能です。共同的とは、役割関係において相互作用を行っている人々のどの一人の行動であっても、それが目標達成に関して同じように全成員に影響を及ぼしている関係です。一方、競争的とは、相互作用を行っているどの人の行動であれ、彼を目標に近づける行動が必然的に一人以上の他者を彼らの目標から遠ざけることになる関係です。共同的役割関係は共有する目標を前提とし、競争的なものは反対の目標を前提としているわけです(ニューカム・ターナー・コンヴァース「社会心理学」396頁)。
共同的、競争的という概念は、客観的事実としてとりあえず定義されますが、実は、これは主観的要素を強く保有する概念でもあるのです。共同的な役割関係は、親和的なものであり、この場合、主観的な意志は共有する一定の方向に向いています。これは価値の共有といった主観的要素の存在を意味しています。価値とは誰もが求めるものであって比較がその本質を成すものでした(「価値とは何か」参照)。
一方、競争的役割関係は、方向を定める価値は共有しているのですが、主観的には対立し離反する役割関係なのです。これは格差ある地位をめぐる争いであり、業績的地位を目指すものなのです。業績的地位は個人の才能や努力による業績によって定まる地位で、先天的・運命的な個人の属性によって定まる帰属的地位に対立する概念です。ここで忘れてはならないことは、組織の方向を定める価値の共有が大前提となっていることで、それが全く無くなってしまうと組織は崩壊してしまうということです。
さて、以上の科学的概念を前提にすると、どのような理論構成が考えられるのでしょうか。
この点、私は、対等関係である競争的役割関係から、上下関係である共同的役割関係へと向かう変化が、組織の本質の理解にとって極めて有意義であると考えたいのです。なぜなら、個々の人間の特徴は対等関係である競争的役割関係で最もはっきりと認識できると考えられるからです。そして組織が成立している以上、指揮命令を実現する上下関係が不可欠であると同時に、組織維持のための共同的役割関係も不可欠だからです。
個々の人間の個性と社会全体の構造をいかに統一的に理解していくか、これが組織を検討するに当たって最も重要な視点だと思います。したがって、対等関係である競争的役割関係から、上下関係である共同的役割関係へと向かう変化の過程の認識こそ重要だと考えたわけです。
6.主体的人間の科学的分析の手法
以上申し上げたとおり、対等関係である競争的役割関係から、上下関係である共同的役割関係へと向かう変化を認識することが、組織の本質の理解に極めて有益だと思うのですが、それは現実的にはどのように行うのでしょうか。
この点については、基本的には、小集団が科学的分析の対象となると考えます。小集団とは、体面的な関係にあり、成員の間に相互作用が行われており、成員相互の間に個人的な印象や知覚を有すること、この3条件を満たした集団のことを意味します(青井和夫「小集団の構造と機能」4頁)。
社会心理学では、その科学的認識のため、様々な小集団を対象とした実験が行われています。例えば、先程の共同的役割関係と競争的役割関係について、学生を集めて形成した小集団による実験が行われています。実験室における操作によって共同的役割関係を創出してその特性を調べているのです(ニューカム・ターナー・コンヴァース「社会心理学」397頁)。
社会心理学の教科書には様々な小集団での実験の結果が記載されています。もちろん、記載されているこれらの具体的な実験結果については、私は科学的・実証的に論評することができません。ただ、それらの実験結果が、自分の人生経験に基づく、社会の中の人間の心理状況の認識と共通する部分があれば、それは主体的な人間を対象とする自分の哲学理論の構築に活用できると思ったのです。対等関係である競争的役割関係から上下関係である共同的役割関係への変化といった理論の枠組みの活用は、このような経緯で考えたものなのです。
それではここで、人間の主体性について、改めて論じておきましょう。
言うまでもなく、人間の主体性は未来へ向けたものです。ところが、この主体性それ自体を表現することは、表現された時点で客体になってしまうため論理的に極めて困難です。そこで私は生の奔流である「拡がり」を出発点として主体的な個々の人間を「拡がる自我」と表現しました(「拡がる自我」参照)。この点については、先程、2で少し触れました。
この拡がる自我は、常に、生きる証すなわち拡がりの確証を求めています。物質代謝は物に対する拡がりの確証で、ここで重要なのは他者に対する拡がりの確証です。他者に対する拡がりの確証は、投げかけた言葉の意味を他者と共有することによって実現します。ここに意味とは、言葉に対する主体の把握の仕方のことです。
他者への拡がりの確証の原点となるのは内心の自由です。それは、自分独自の意味を創出するのであり、制約されない自由こそ拡がりそれ自体でもあるわけです。この拡がりといった概念は未来へ向けての概念です。したがって、本来、経験科学の対象となることはあり得ません。あくまでも一つの哲学理論であり、個々人の世界観や人生観、これら現実の世界を超越する真理を探究する形而上学としての性格が強いのです。
このように、未来へ向けた主体性、私流に言えば「拡がり」は、哲学探究の中心となるのであり、本来経験科学の対象ではありません。しかしながら、現実社会で生きている私達は、未来へ向けた生き方を確定せざるを得ません。この場合やはり過去の経験が重要視されることになるわけです。
では過去の経験をどのように活用すべきなのでしょうか。未来と過去をどのようにつなげればよいのでしょうか。主体性はどのように客観的に表現すればよいのでしょうか。
ここで重要視されるべきなのが、今回検討してきた、経験科学の理論である社会関係理論と役割理論だったわけです。他者に対する拡がりの確証は、既存の社会関係を前提とした役割の遂行でもあります。この場合、役割という概念を活用することにより、哲学的概念である「拡がり」といった主体性の概念が科学的に描写できるのではないかと思ったのです。どういうことかというと、役割の遂行は通常言葉によってなされ、それは先程申し上げた、他者への拡がりの確証が他者との言葉の意味の共有であることと重なるのであって、役割の遂行こそ他者への拡がりの確証の実現となり得るということなのです。
個々の人間の主体性と社会全体の構造の対立をいかに統一的に理解していくか、これこそが組織認識の最も重要な視点だったわけです。以上申し上げたとおり、対等関係である競争的役割関係から上下関係である共同的役割関係への変化の過程の認識こそ、この課題に答える主体的人間の分析手法だと私は考えたわけです。
その分析の具体的内容や結果については、後日、別の論文で詳細に論じたいと思います。
文献紹介:ジンメル「社会学の根本問題」
今回紹介するのは、ジンメルの「社会学の根本問題」です。1917年に出版されました。ジンメルは社会学者であると同時に哲学者でもある人です。
本論3で社会学の創成期の学者として、コント、デュルケム、マルクス、ウェーバーの4人を取り上げましたが、ジンメルも社会学の確立に大きな役割を果たしています。また、4で社会関係といった概念を論じた際、相互作用といった概念を用いましたが、実は、相互作用を基本に社会学の対象である社会一般を構築したのがジンメルなのです。
相互作用といった人間の主体的行為がなぜ客観的事実として科学としての社会学の対象となるか、これをジンメルは哲学的に深く考えています。それはまさに、本論冒頭で申し上げた、一つの形而上学に基づく科学の創出である、この様に考えることができるのです。
実際この本を読むと、ジンメルの議論はカントの認識論的主観主義を踏まえたものだと実感します。カントは、人間は外界の認識の対象を直接受容するのではなく、私達の主観の中に、経験に依存しない先天的な形式があって、私達はこの形式によって、いわゆる対象と言われるものを構成するのだと考えました(「形而上学とは何か」参照)。この発想から言えば、個人という認識の対象も、社会という認識の対象も、この意味ではどちらも構成されたものとして同じであるということになります。したがって、個人のみ存在し社会は擬制であるといった発想ではなく、社会それ自体も存在すると考えることができることになるわけです。
そしてジンメルは個人と個人の相互作用こそ社会の源泉であると考えました(ジンメル「社会学の根本問題」20頁)。そして、社会による生産といった概念を主張します。言語や宗教を始めとする構成物は、いずれも人間の相互関係から生まれたものであり、多くの場合、独立の個人の観察からは到底導き出せないものだというのです(同書26頁)。そして諸個人の力の相互作用を生む社会関係という共通性によって、社会学的認識方法といった様々な問題解決の共通の基盤を与えると言うのです(同書28頁)。
また、思い出話になって大変恐縮ですが、私がこの本を初めて読んだのは40年以上昔の学生時代でして、もちろんその時は社会学の根本概念を知りたくて読んだわけです。実は、今回本論で主張した、対等関係である競争的役割関係から上下関係である共同的役割関係への変化という考えも、その当時思いついたことで、「純粋人間関係論序説」という論文で論じたことなのです。
当時は、「拡がり」といった人間の生の奔流を前提とする概念をまだ確立していなかったのであまり意識しませんでしたが、実は、今回久しぶりにこの本を通読して、この本が拡がる自我の拡がりの確証を理論的に強力に基礎付けていると大変強く感じました。
実は、哲学者ジンメルの理論は、哲学史上、ベルグソンやディルタイを始めとする生の哲学に分類されています(城塚登編「西洋哲学史」209頁)。ジンメルによれば生の本質的形態は、生が現在のものである自分自身を絶えず超え出ていくことであり(阿閉吉男「ジンメル」25頁)、生の超越こそ生の核心だとされているのです(同書32頁)。このことは、まさに生の奔流である「拡がり」そのものです。
この「社会学の根本問題」でも、生の哲学に基づく議論が多くなされています。
ジンメルによれば、すべて人間の社会は内容と形式に区別でき、社会そのものはごく一般的に見れば、諸個人間の相互作用を意味します(同書67頁)。この相互作用は必ずある衝動から生まれ、性本能、物質的利益、宗教的衝動、遊戯や利得、その他様々な目的から相互作用に入り、社会が形成されます(同書68頁)。この社会化は形式であって、この形式の中で諸個人が様々な関心に基づき精神的な諸活動がなされ、世界から得た生命的素材に加工を施し、生命の目的のままにその諸要素に一定の形式を与え、生命を生命要素として確認し、利用しています(同書69頁)。
ジンメルによれば、社会というのは、相互協力、相互援助、相互対抗の事であり、これらの諸形式は新しく独立の生命を獲得し、当初の目的や衝動から解放された、ただ諸形式そのものの刺激のための活動を営みます。これが社交という現象で、これは社会形成そのものを楽しむ感情であり、個々の社会化が含む現実的内容さえ超え出ていくような衝動です(同書72頁)。個々の人間は、現実的意義を捨ててただ純粋な彼の人間性に基づいて社交形式へ入っていくのです(同書77頁)。
このように、社交すなわち人と交わりたいというのは人間の本性であり、生まれながらに身についているもので、まさに他者に対する拡がりの確証が絶対命令であることを意味します。このことは、現実の様々な社会の存在から実証的に導かれるのであり、高度の蓋然的な真理として万人に認められているわけです。
今回は以上です。
参考文献
ジンメル「社会学の根本問題」(清水幾太郎訳)岩波書店
アンソニー・ギデンズ「社会学第五版」(松尾精文他訳)而立書房
ニューカム・ターナー・コンヴァース「社会心理学」(古畑和孝訳)岩波書店
デュルケム「社会学的方法の規準」(宮島喬訳)岩波書店
マルクス・エンゲルス「共産党宣言」(大内兵衛他訳)岩波書店
マートン「社会理論と社会構造」(森東吾他訳)みすず書房
バーナード「経営者の役割」(山本安次郎他訳)ダイヤモンド社
コント「実証精神論」(霧生和夫訳)(世界の名著36)中央公論社
カント「純粋理性批判」「実践理性批判」(宇都宮芳明訳)以文社
M.ハイデッガー「存在と時間」(細谷貞雄訳)理想社
G・H・ミード(稲葉三千男他訳)「精神・自我・社会」青木書店
山本信「形而上学の可能性」(岩波講座哲学6「存在と知識」所収)岩波書店
鹿取廣人他「心理学(第5版)」東京大学出版会
池田義祐「支配関係の研究」法律文化社
高田保馬「社会関係の研究」岩波書店
渡辺秀樹「個人・役割・社会」(思想№686所収)岩波書店
青井和夫「小集団の構造と機能」(「集団・組織・リーダーシップ」所収)培風館
南博「社会心理学入門」岩波書店
「心理学の基礎知識」「社会学の基礎知識」有斐閣
清水幾太郎「コントとスペンサー」(世界の名著36)中央公論社
城塚登編「西洋哲学史」有斐閣
岩崎武雄「カント」勁草書房
時枝誠記「国語学原論」岩波書店
(2024年4月公表)