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信頼の理念と主張の論拠 ~「仁」の本質について~
和田徹也
目次
1.問題提起 2.言葉における既存の意味と新しい意味 3.既存の意味の世界と信頼の理念 4.新しい意味の創造と主張の論拠 5.信頼の理念の形成 6.仁の本質 7.仁と身分
1.問題提起
人間は他者に言葉を投げかけ続ける存在です。他者に言葉をかけたくてしょうがないのが私達人間なのです。言葉と論理の意味を常に他者と共有しようとするのが私達生きている人間です。
この他者へ言葉をかける主体的な人間、それを私は「拡がる自我」と呼びました。そして、投げかけた言葉と論理の意味を他者と共有しようとすること、これを私は、他者への「拡がりの確証」と表現しました。
さて、前回の論文「天と人間、天道と人道」で、私は、言葉は曖昧なものであり、他者への拡がりの確証が不確実である以上、どうしても、人と人との間には誰もが納得する「信頼の理念」といったものが必要となると申し上げました。
個々の拡がる自我は、その信頼の理念を基に、投げかけた曖昧な言葉の意味を他者と共有して他者への拡がりを確証しようとするわけです。
しかし、その一方で、拡がる自我は、積極的に自己主張することによって他者への拡がりの確証を実現しようともします。自己主張には「主張の論拠」が必要となります。自分が主張する論理の根拠として、ある言葉を用いて、その言葉から演繹的に自分の主張したい具体的事実を導くわけです。
この自己主張の場合は、言葉を投げかける時点では、主張される具体的な意味は相手との間で未だ共有できていません。この場合、拡がる自我は、相手から見れば、新しい意味を主張することになるわけです。主張の論拠は、他者と共有する新たな意味を生み出し形成する性格を持つものなのです。
ところで、今申し上げた、信頼という言葉と、自己主張という言葉を比較すると、どうしても、その受け取る印象が大きく異なってきます。信頼は相手を重視するもので、自己主張は自分を重視するものだからです。
最終的な目標は、相手と投げかけた言葉の意味を共有することです。この点は信頼の理念も主張の論拠も差異はありません。しかしながらその根本において両者は大きく異なるのです。では、この相反する二つの概念はどのような関係にあるのでしょうか。
今回は、言葉を他者に投げかける人間について、言い換えれば、拡がる自我の他者への拡がりの確証において、信頼の理念と主張の論拠、この対照的な二つの概念を出発点として、人間の本質について深く追究してみたいと思います。
2.言葉における既存の意味と新しい意味
ある対象は複数の言葉によって表現可能であり、さらには、その対象に一つの言葉が付与されたとしても、その一つの言葉の意味は一つに限られません。言葉は、基本的に、多義的・曖昧な性格を持つものなのです。このように、ある一つの対象であっても、そこからは様々な意味が導き出せるのです。
意味とは言葉に対する主体の把握の仕方のことであると定義できます。そして、対象にある様々な意味は、大きく分けて、既存の意味と新しい意味とに分類できると私は思います。
既存の意味とは、個々の人間すなわち個々の拡がる自我が既に有している意味のことです。その対象に係る言葉に対する把握の仕方が、誰にとっても既に定まっているものです。
一方、新しい意味とは、個々の拡がる自我が未だ有していない意味のことです。新しい意味は新たに創造するものであるわけです。
この二つの意味の区分から考えると、信頼の理念は、既存の意味に含まれると思います。誰もが既に有している意味であれば、必然的に他者との意味の共有が実現すると考えられるからです。
これに対し、主張の論拠は、新しい意味を創造するものだと言えます。論拠とは新たな意味の創出を前提とする概念なのです。
3.既存の意味の世界と信頼の理念
私達は、基本的に、既存の意味の世界の中で生きています。既存の意味の世界とは、端的に言えば、人間社会のことです。人間社会は、それを構成する個々人が既存の意味に従っているからこそ、成り立っているのです。
実は、ここで重要なことは、既存の意味であっても、個々の人間の立場からみると、自分が把握している意味が、他者が有する意味と同一であるか否かは簡単には判別できないということです。
このことは、先程申し上げたとおり、ある一つの対象であってもそこから様々な意味が導き出せるということ、言い換えれば、言葉が曖昧なものである以上、不可避のことだと考えられるのです。
実は、ここにこそ信頼の理念が必要とされてくる理由があると私は思うのです。信頼の理念とは、ある言葉の既存の意味に対して、相手も自分と同一の意味をもっていると信じることです。
相手が自分と同一の意味をもっていると信じるためには、何らかの既存の制度に則ることが容易な方法となります。制度とは、社会生活での目的を実現するのに役立つ行為の型が社会規範によって提示された、社会の目的を実現する機構である、このように定義できると思います(加藤新平「法哲学概論」320頁)。
既存の制度は、人間社会の秩序を維持するものです。ここに秩序とは、事象を構成する諸々の要素の関係に一定の型、規則性があり、要素の一部のあり方を知れば他の諸要素のあり方の可測性が存在する事態のことです(加藤新平「法哲学概論」307頁)。
制度は人々が一定の価値観に従うことにより維持されます。従って、信頼の理念はどうしても保守的にならざるを得ません。保守的と言うのは既存の価値を重視し、新たな価値を否定する傾向のことです。価値とは、誰もが求めるものであって、比較がその本質にあるものです。新しいものより既存のものを選ぶ、ここにはこの価値判断があるのです。
4.新しい意味の創造と主張の論拠
一方、新しい意味は、新たに創造するものであり、その新たな意味は他者と共有できるか否かが本質的に未知のものであると言えます。逆に、誰もがそれを認知していないからこそ新たな意味を創造する意義があるとも言えるのです。なぜなら、新しいからこそ他者に注目されることになるからです。創造とは新しい意味を創り出すことであり、他者への創造の論理の提供でもあるわけです。
創造の論理とは、個々の人間から出発する論理で、何を行ったか、何を作り上げたかによって他者の注目を得る論理です。他者に注目されるには、その対象が価値を持たなくてはなりません。従って新たな価値を創造しなければなりません。創造の論理の新しい意味は価値あるものでなければならないのです。
人間が生きている以上創造の論理は不可欠です。外界との物質代謝を行わなければ人間は生きていくことはできません。物質代謝すなわち人間の生産活動は、典型的な創造の論理の設定であると言えるのです。生きるために不可欠な生産物は誰にとっても価値あるものです。そして、生産活動は複数の人間の分業で行うのであり、創造の論理は他者に向けられた論理の設定であると言えます。そして、それは新しい意味の創造であり、生産物こそ、まさに主張の論拠であるわけです。
このような、新しい意味の創造は、物質代謝だけに限られません。
先程私は、既存の意味は人によって異なると申し上げました。同じ言葉であっても人によってその言葉から受け取る意味が異なるのです。このことは、言葉が本来曖昧であるといった言語の本質から導かれる否定できない事実です。
人によって言葉の意味が異なると、矛盾が生じてきます。言葉と言葉がつながって論理が生じると、人によって異なっている言葉の意味の差が露呈してくるからです。矛盾しているとその言葉と論理の意味を理解することができません。従って誰もが矛盾の解決を求めています。
このことは、新たな事実の発見でも同じです。既存の事実に基づく論理が、新たな事実の発見により矛盾することになる、こういうことです。この場合、新たな事実に基づく論理を構築し、矛盾を解決しなければなりません。
実は、新しい意味の創造は、この矛盾の解決をも含んでいるのです。矛盾の解決は、創造の論理の設定であると言うことができるのです。そして、矛盾の解決は、まさに、主張の論拠が不可欠であり、推論に基づく新たな言葉の意味を、他者に対して自己主張することでもあるのです。
5.信頼の理念の形成
生きている以上誰もが創造の論理を設定しようとします。創造の論理は価値あるものを創造することによって確立されます。個々の人間にとってこのことは決して否定することができません。創造の論理を主張して他者に対して拡がりを確証するわけです。これが生きる人間すなわち拡がる自我です。
一方、創造の論理を設定するには、秩序が必要です。秩序を維持する究極の理念が信頼の理念です。秩序が無ければ創造の論理は実現できません。そしてそれは信頼の理念が不可欠であることを意味するのです。
秩序は、秩序を維持する制度から成ります。そしてその制度は誰もが従う全体の価値から成り立っています。全体の価値があるからこそ、個々の人間すなわち拡がる自我は、秩序を破ろうとする誘惑に打ち勝ち、制度が維持されるのです。秩序を乱す誘惑の価値よりも全体の価値が大きいからこそ、秩序が維持されるのです。秩序を維持する社会規範は全体の価値から生じているのです。
この全体の価値がどのように支えられているか、このことがここで重要となってきます。
実は、全体の価値は、ある目的を実現するための人々の集合体である目的社会にまず存在してくるものです。目的社会はその目的を達成するため組織化されます。組織とは二人以上の人々の意識的に調整された活動や諸力の体系です(バーナード「経営者の役割」)。
組織は指揮命令関係といった上下関係が必然的に生じ、それを維持するのが全体の価値です。下位者は全体の価値があるからこそ組織を逸脱しないのです。逸脱する価値よりも所属する価値の方が大きいということです。
そして、誰もが全体の価値を重んずるところに信頼の理念が生じます。信頼の理念は、まずは、全体の価値から導かれるのです。この場合、全体の価値から個々の人間に分け与えられた身分、この身分が信頼の理念の基盤となります。身分に応じた行動を期待するのが信頼の理念の第一の姿です。
ところで、その一方で、信頼の理念は、新たに創造することもできます。どういうことかと言うと、自分の行為から信頼の理念を構築するということです。
信頼を創造することは、他者に対する拡がりの確証における創造の論理であると言えます。この場合の信頼の創造とは、既存の身分に基づく信頼ではなく、新たな価値により形成されたその人自身の徳といったものに基づく信頼のことなのです。
拡がる自我は生きている限り他者への拡がりを確証しようとします。拡がる自我の他者への拡がりの確証は、絶対命令なのです。他者への拡がりの確証が絶対命令であれば、常に個々の拡がる自我は、拡がりの確証を得るための他者を探し求めることになります。
この場合、より人徳のある者への拡がりの確証も誰もが求めることになってきます。人徳は、他者への拡がりの確証にとって、極めて魅力的なものなのです。
既存の組織は、全体の価値によって維持されています。しかしながら、実は、今申し上げた、信頼の創造こそ、全体の価値を直接意識させない行動の原理、言い換えれば、これこそが「仁」ではないか、このように私は思うのです。全体の価値は分割の論理を生みますが、仁はあくまでも自発的なものであり、個から出発するものであって、組織全体を出発点とする分割の論理とは異なるのです。
6.仁の本質
仁という概念は日本では古くからあり、言うまでもなく、中国古代思想にその淵源を持つものです。そこで孔子の「論語」を基にして仁の本質を考えてみましょう。
孔子は論語で、仁について様々に論じていますが、きちんと定義するといった事はしていません。実際、論語を読むと仁は様々に表現されています。人間らしさ、人間の徳、他人を愛する、自分がして欲しくないことを人にしない、剛毅朴訥、先輩と友を大事にする、等々です。総じて言えば、仁は、人の善意であり愛である、この方向を意味することは間違いないと思います。しかし、一言では表現できない様々な人間性を包摂する概念だと思います。
そこで、「巧言令色鮮し仁」(学而)、この言葉を出発点に、仁とは何か、仁の本質はどこにあるのか、このことを私なりに考えてみたいと思います。
さわやかな弁舌、ゆたかな表情、これによって他者の注目を浴びるだけの人には仁は少ない、このように孔子は言ったわけです。
私なりに言わせれば、他者への拡がりの確証の実現では、出発点として他者の注目を浴びるということ、この必要性は否定できません。弁舌さわやかで豊かな表情、これにより他者の注目を得ようとする人は多いでしょう。しかし、重要なのは、内心の自由により形成した自分独自の言葉の意味である、こういうことだと私は思います。
単なる見て呉れではなく、内心の自由に基づいて形成した自分独自の言葉の意味こそ、その人の本心であり、仁を形成するものです。見て呉れを重んずる人間は、逆に、仁は少ない、こういうことです。
さて、先程申し上げたとおり、人間社会の秩序を維持するために、個々様々な社会の組織はそれぞれ固有の全体の価値を生むはずです。当然そこには分割の論理があるわけです。分割の論理の代表が、身分です。では、それは仁とどのような関係にあるのでしょうか。
組織全体の価値は、日々日常の人と人との対抗心を吸収するより大きな価値でした。組織全体の価値があるからこそ、人と人との争いから生じる組織を逸脱しようとする衝動、これが全体の価値に吸収され、組織の崩壊が抑制されるわけです。
これに対し仁は人と人との対抗心を愛情に収斂するものです。仁は、社会全体に価値を置くのではなく、個々人の行為に価値を置くものであって、創造の論理に通じるものであるわけです。
孔子は、「己に克ちて礼に復るを仁と為す」と言いました。これを私流に解釈すれば、己に克ちて礼にかえるとは、短絡的な発想で自己の論理を主張して相手に認めさせることによって他者への拡がりの確証を得るのではなく、より広い長期的視点から、他者に礼を尽くすことにより、他者が訴える他者の拡がりの確証の論理の意味を十分理解した上で、自己の拡がりの確証の論理を主張するべきである、こういうことだと思うのです。
それは単なる自己主張であってはだめだということです。主張の論拠を基に、単に自分の主張する論理を形成しただけでは他者の信頼を得ることはできないのです。相手との信頼関係の創造、ここに仁の本質があるのです。
7.仁と身分
相手の信頼を獲得する、そこに仁の本質があり、そこには創造の論理の視点があります。信頼を創造することも、他者に対する拡がりの確証における創造の論理であるということです。この場合の信頼の創造とは、既存の全体の価値に基づく分割の論理、すなわち、身分に基づく信用ではなく、新たな価値により形成された、その人自身の徳に基づく信頼のことなのです。
では個々の人間すなわち拡がる自我はどのように他者の信頼を得るのでしょうか。
それは、相手の立場を重んずるということ、こういうことになると私は思うのです。では、相手の立場とは何でしょうか。
実は、ここで、身分というものが入り込んでくるのではないかと思うのです。身分は、全体の価値を前提とした分割の論理の典型です。先程の「己に克ちて礼に復るを仁と為す」の「礼」とは、独立した人格と独立した人格とが結ぶ上下関係を前提に、個々人の独立性を分の範囲に限定し、等級づけられ秩序付けられたものだと理解されるのです(板野「中国古代における人間観の展開」21頁)。このように、礼は各人の分、すなわち身分を重んずるものなのです。
社会の身分の存在を前提に考えれば、相手の立場はその人の身分ということになり、その身分に応じた振る舞いが必要とされてきます。それが相手の立場を重んずるということになるわけです。相手も自分の身分を意識せざるを得ない以上、自分の身分に応じた対応を求めるのであって、それに反する扱いを受けた場合は、反発すること間違いないということです。
ただ、ここで重要なことは、相手の立場を重んずるということが、必然的に身分といったものと結び付くわけではないということです。身分を排し、個々の人間それ自体に価値を置くこともできるのではないかと私は思うのです。
例えば、以前論じた、人間の経済活動における商品交換ですが、この場合、基本的には、互いに相手の商品の価値に注目したわけであって相手の身分に注目したわけではありません。商品の価値を除けば、相手は自分と対等な人間となるわけです。
この場合でも、相手を重んずることに変わりはありません。商品交換という取引は相手を重んじてこそ成立するのです。相手を重んじた商取引、当然ここにも礼が存在します。したがって、仁も存在すると私は思うのです。相手の信頼に応える、ここには仁があるのです。
他者に対する拡がりの確証は、個々の拡がる自我にとって絶対命令です。この場合、新たな価値を創り出す創造の論理が基本となります。しかしながら創造の論理はただ自己主張することによって、すなわち、主張の論拠だけではその全てが相手に認められません。相手の立場を重んじることにより信頼の理念を得る、このことが実現される必要があるのです。
この場合、相手の信頼は、身分といった分割の論理に直接基づく場合と、仁を通じた人格の形成といった創造の論理により築き上げる場合があります。そして創造の論理による人格の形成にも、身分といった分割の論理が強く関わっていたわけです。
信頼の理念と主張の論拠は、仁を媒介にして、他者に対する拡がりの確証の実現に向けて、互いに影響し合いながら機能しています。他者への拡がりの確証は、常に分割の論理と創造の論理が絡み合って実現されているのです。
参考文献
孔子(貝塚茂樹訳)「論語」中央公論社世界の名著3 (吉川幸次郎訳)朝日新聞社 (金谷治訳)岩波書店
板野長八「中国古代における人間観の展開」岩波書店
森三樹三郎「中国思想史」第三文明社
武内義雄「中国思想史」岩波書店
加藤新平「法哲学概論」有斐閣
時枝誠記「国語学原論」岩波書店
C・I・バーナード(山本安次郎他訳)「新訳経営者の役割」ダイヤモンド社
M.ハイデッガー(細谷貞雄訳)「存在と時間」理想社
カール・マルクス(岡崎次郎訳)「資本論」大月書店
(2022年11月公表)