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戦争の本質 ~人間の闘争の哲学的探究~
和田徹也
目次
1.問題提起 2.人間と組織の基本理論 3.国家と軍隊 4.意味の共有の期待と人間の闘争 5.闘争と戦争 6.軍隊の構造 7.国家の権威の論理構造 8.戦争の構造 9.太平洋戦争の起因の分析 文献紹介:「失敗の本質」
1.問題提起
現在、私達は平和な日本に生きています。しかしながら、今から80年程前、私の親の世代は悲惨な戦争の中に生きていました。多くの人が戦争で命を落とし、生活の場である街は空襲で悉く破壊されていたのです。
二度とこのような戦争は起こしてはならない、私は子供の頃いつもこのように言い聞かせられて育ちました。もちろん、自分自身、今でも本当にその通りだと思います。
ただ、ここで疑問に思ったのが、なぜこのような悲惨な戦争が起きたのかということでした。人間であれば、誰もが、悲惨な戦争などやるべきではない、こう思うのは当然のことではないかと思ったのです。それなのに、なぜ戦争は起きてしまったのか、この素朴な疑問が頭から離れなかったわけです。
日本が無謀な戦争を行った理由について、日本国民は、当時まだ、戦争がこのような悲惨なものだと認識していなかったからだ、このように理解することもできるかもしれません。昔は、兵器の破壊力は今ほど大きくなかったことは事実ですし、島国である日本では、戦争が国民の日常を殲滅させる危険があるとの認識が、当時の人々は少なかったのかもしれません。
しかしながら、現代でも、世界を見ると、戦争が絶え間なく起こっているのです。戦争の原因は、兵器の破壊能力の大小に関係するだけではありません。そして、さらに言えることは、戦争は、人類の歴史上、古代から絶え間なく起こっているという事実です。日本でも戦国時代がありました。こうなると、何か人間の精神の根本のところに、戦争の原因があるのではないか、このように考えざるを得ないのです。
そこで今回は、先の戦争はなぜ起こったのか、歴史上常に戦争が起こっているのはなぜか、人間存在の根本に遡って戦争の構造を哲学的に分析し、戦争の本質を明らかにしてみたいと思います。
2.人間と組織の基本理論
戦争を遂行する主体は軍隊です。この軍隊という概念は、歴史貫通的なものとして扱うことができます。例えば、鎌倉時代や戦国時代の武士軍団、明治以来の旧日本軍、現代の自衛隊、その集団の規模や目的・性格は異なっても、とりあえず、戦争遂行可能な集団を軍隊として定義したいと思います。現在、世界各国は、一部の例外を除き、そのほとんどが軍隊を保有しています。
軍隊は、社会類型上、ある目的を達成するための個人の集合体である目的社会に分類されます。それに対し、様々な無数の目的社会を包摂する、一定の地域を基盤とした個人の集合体が全体社会という類型です。
目的社会は目的を達成するため組織化されます。組織とは、二人以上の人々の意識的に調整された活動や諸力の体系です(バーナード「経営者の役割」76頁)。組織では、上下の指揮命令系統が必然的に発生し、それが組織の構成員にとって極めて重要な意味を有することになります。
そこで、軍隊を検討する前に、組織を構成する人間の基本的性質について、その存在の本質に遡って、一応確認しておきたいと思います。
人間は、様々な活動をしながら主体的に生きています。この主体的な個々の人間を、私は「拡がる自我」と表現しました。主体性そのものを表現することは論理的に困難です。そこで、生の奔流を意味する「拡がり」を出発点として主体性を表現したわけです(「拡がる自我」参照)。
この生命体である拡がる自我は、生きていることを実感、確認しようとします。まず、外界の自然に対し拡がり、物質代謝を行うことによって生命を維持します。これは物に対する拡がりの確証と表現できます。
そして、拡がる自我は、他者に向けて様々な働きかけを行う存在でもあり、他者に投げかけた言葉の意味を共有することによって、他者に対する拡がりを確証しようとします(「拡がりの確証と組織文化の本質」参照)。意味とは、言葉に対する主体の把握の仕方のことです。内心の自由に基づく、自分独自の言葉の意味を他者と共有することにより、生きる証を見出そうとするのが人間なのです。
さて、この場合、他者の注目を得るために、他者に投げかける言葉の意味は、大きく二つの論理に分類することができるのです。分割の論理と創造の論理です(「分割の論理と創造の論理」参照)。
分割の論理とは、自分が所属する目的社会や組織の全体から出発する論理です。出発点である社会それ自体に大きな価値を置き、その全体の価値の上下の序列の中での自分の地位の高さによって他者の注目を得る論理です。
これに対し、創造の論理とは、個から出発する論理で、何を行ったか、何を創り上げたかによって他者の注目を得る論理です。個々の行為に大きな価値を置き、その行為の成果を評価する立場です。いかに努力したか、どのような成果を上げたかを他者の注目を得るための価値の評価基準とします。
価値とは、誰もが求めるものであって、高低あるいは大小が生じた比較可能な意味のことです。分割の論理と創造の論理は、価値の存在を、時間の流れの中で、最初に認めるか、最後に認めるか、ここにその違いがあることになります(「歴史を動かすのは何か」参照)。
実は、目的社会の組織は、分割の論理と創造の論理によって維持されていると理解することができるのです。それでは、現実の組織の中で個々の拡がる自我は、具体的に、どのようにその二つの論理を活用しているのでしょうか。
まず、目的社会における目的の達成は、創造の論理の実現であると言えます。目的社会を構成する個々の拡がる自我は、組織での分業の下、各自創造の論理を新たに形成し、あるいは既存の論理を利用して自分独自の意味を創造し、それを他者と共有することにより拡がりを確証しているのです。そして、組織がその目的を達成することは、個々の拡がる自我にとって、創造の論理を間接的に実現していることになります。なぜなら、指揮命令系統の中で、目標を達成する組織の一部、組織の手足として機能したからです。したがって、人間は積極的に、自己と所属する団体とを同一視しようとするわけです(「自己と団体との同一視」参照)。
一方、この創造の論理を実現させる目的社会の組織は、全体の価値に基づく分割の論理によって維持されています。全体の価値は、組織の上下関係を正当化する、誰もが求める理念であり、目的社会の目的こそその理念の代表例です。組織を構成する個々の拡がる自我は、全体の価値を分割した自分の地位の高さを論拠とする分割の論理によって、他者の注目を浴びて拡がりを確証しているのです。
さて、軍隊という目的社会の目的は、戦争に勝つことです。戦争に勝つことによって、軍隊を構成する個々の拡がる自我は、創造の論理による他者に対する拡がりの確証を実現しているのです。そして、個々の拡がる自我は、軍隊という上下の階級組織の中で、その地位の高さによって他者の注目を浴び、分割の論理によって他者に対する拡がりを確証しているわけです。
3.国家と軍隊
近代以降の統一国家においては、軍隊は国家に帰属します。一つの国家には一つの統一された軍隊が存在するのであり、国家内に対立する複数の軍隊が存在する場合は、その国が内戦状態であることを意味し、国家の存立自体が危ぶまれる状態だと考えられます。
そこで、まず、国家について、その存在意義、存在構造について確認しておきたいと思います。
先程少し触れたとおり、個々の目的社会を包摂する一定の地域を基盤とした個人の集合体が全体社会でした。全体社会は、村落共同体から市町村、県、国、地球規模と、その広さは様々ですが、現代では、国境を基盤にした地域がその代表だと考えられます。
この全体社会は、それを構成する個々の拡がる自我が、拡がりの確証の論理を他者に投げかける可能性ある範囲です。未来へ向けた自分の生きる場、主体的活動の場である全体社会、全体社会は魅力に溢れ、誰もが帰属意識を抱き、愛着を感じることになるわけです。
そして、拡がりの確証の実現のためには社会の秩序が不可欠であり、その秩序は、皆が共有する一定の論理によって維持されます。この論理が、人々の全体社会への愛着と結びつくことにより、全体社会の共同主観が成立することになるわけです(「共同主観とは何か」参照)。
実は、この全体社会の共同主観を表明するところに、国家という目的社会が成立する根拠があると考えられるのです。全体社会は意図的ではなく結果として成立したのであり、全体社会に意志は存在しません。国家が全体社会の代わりに意志を表明する、国家の本質はここにあると思うのです(「国家の本質」参照)。
全体社会とは逆に、目的社会はまさに意図的に生じる社会です。目的社会の全体の価値は、結果ではなく意図的に生じてくるものなのです。国家という目的社会を形成することは、全体社会における全体の価値を可視化し、全体社会の秩序を維持するといった目的の実現、この意志を明らかにすることを意味しているのです。この国家の意志こそ、国家の理念として客観的に表明されるべきものなのです。
実は、ここで忘れてはならないのが、全体社会の秩序を維持するには、軍隊が不可欠だということです。秩序は理念だけでは維持できません。実は、秩序を破壊する者が出現することは、私達の経験上、決して否定できない事実なのです。したがって、それを押さえる物理的な暴力装置が必要とされることになります。それを担うのが国家であり、まずは警察権力が必要とされ、最終的には、軍隊こそが全体社会の秩序を維持することになるのです。
そして重要なことは、全体社会の既存の秩序を破壊するのは、その社会の構成員だけではないということです。歴史的事実から言えば、その全体社会の外の集団、すなわち他国の軍隊であることが圧倒的に多いのです。したがって、その侵略に対抗するためにも、国家には軍隊が必要不可欠な存在となるわけです。
以上、国家には、全体社会を維持するための物理的暴力を行使する能力が不可欠であり、その機能を果たす組織こそが軍隊なのです。
4.意味の共有の期待と人間の闘争
今申し上げたように、全体社会の秩序を破壊しようとする者が出てくるのは否定できません。それでは、なぜそのような不幸な事態が生じてしまうのでしょうか。このことを、再度、人間存在の本質に遡り考えてみましょう。
まず言えることは、社会秩序の破壊の根底には、人間の闘争があるということです。人々の日常生活の根底には、常に、闘争を引き起こす要因が眠っているのではないか、このように私には思われるのです。
先程、私は、主体的存在である個々の拡がる自我は、他者に投げかけた言葉の意味を共有することによって、他者に対する拡がりを確証しようとする存在であると申し上げました。常に、拡がる自我は他者との意味の共有を期待し、自分の期待に他者を従わせようとしているのです。実は、この期待こそが闘争の根源ではないか、このように私は考えたのです(「管理と支配の間にあるもの」参照)。
他者に向ける言葉の意味は、各人の内心の自由に基づくものであり、他者とのその意味の共有は、意外にも、その性格上困難を極めるものです。なぜなら、内心の自由は無制約的でなければならず、共有の目的たる意味はその人独自のものでなければならないからです。
実は、世の常識と言われている論理、誰もがその意味を共有する論理、これらは内心の自由に基づく自分独自の言葉の意味を他者と共有するための手段として機能していると理解できるのです。既存の論理を活用して、内心の自由に基づく自分独自の言葉の意味を他者と共有し、他者に自分を見出すことにより拡がりを確証する、これが個々の拡がる自我なのです。社会の秩序は、この手段としての論理により形成・維持されていると理解できるわけです。
このように、各人が他者に投げかける言葉と論理は、自分独自の意味を他者と共有することへの期待、これが前提となっています。実は、この期待こそが重要なのであり、闘争の原因たるものだと考えられるのです。
どういうことかと言うと、他者がその期待に反した場合、誰もが、それを是正させようと相手を説得し、場合によっては他者の意に反しても自分の意に従うよう支配しようとするだろうということです。期待と支配は紙一重なのです。相手も同じ拡がる自我ですから、こちらを支配しようとします。ここに、人間同士の争いが生じてしまう原因があるのです。
他者との言葉の意味の共有への期待、ここに闘争の根源があります。社会の根底では、常に人と人との争いが生じていると理解できるのです。このことは、私たちの日常生活を思い浮かべても納得できるのではないでしょうか。家族内での言い合い、会社の中での諍いや議論、勿論、日常の全てではありませんが、絶え間なく争いが起こっていることも決して否定することはできない事実なのです。この些細な争いが、より深刻な人と人との闘争に発展していくのです。
それでは、個人間の闘争と戦争とはどのように関連していくのでしょうか。次にこのことを考えてみましょう。
5.闘争と戦争
さて、ここで、考察の対象としての、戦争という概念について、一応、定義付けしておきたいと思います。
クラウゼヴィッツは「戦争論」で、戦争とは拡大された決闘以外の何ものでもないと言い、戦争は、敵をして我らの意志に屈服せしめるための暴力行為だとしました。物理的暴力はあくまでも手段であり、意志を押し付けることが目的で、敵の抵抗力を打ち砕くことが軍事行動の本来の目標であるとしたのです(クラウゼヴィッツ「戦争論」35頁)。
先程、人間の闘争は、個々の拡がる自我が、他者に対する拡がりの確証のための言葉の意味を共有する期待から生じると申し上げました。それはまさに自分の意志に相手の意志を屈服させることにつながります。自分の内心の自由により構築した意味を、互いに強制的に他者に認めさせようとするのが闘争です。
この個人間の闘争も暴力により決着がつけられることがあります。相手が自分の期待に従わない場合、暴力を振るう者が存在することは、私たちの経験上、絶対に否定することはできません。本来、他者に対する拡がりの確証は論理によるのであり、人間社会の平和と秩序を維持するため暴力が禁止されているのは倫理上明らかです。
それにもかかわらず、暴力に訴える者が存在するのはなぜでしょうか。それは、論理で相手を説得できない場合に、暴力で論理を破壊しようとするからです。論理の優劣ではなく暴力の優劣で相手に自分の意図を認めさせようとするからです。これは、理性を情動が上回ってしまったことだと理解できるのです。生の奔流に基づく他者に対する拡がりの確証の衝動はここまで強力なのです。
そして、社会秩序存続のために、この暴力への情動を制度化したのが決闘です。決闘は当事者の合意による定められた方法で行われる闘争の暴力による決着です。言うまでもなく、現代社会では決闘は法的に禁止されています。
それでは、それがどのように拡大すると戦争になるのでしょうか。
先程、私は、全体社会の秩序を維持するには、暴力的な強制力が不可欠だと申し上げました。秩序を破壊する最も大きな原因は闘争で、闘争を鎮圧させるのが秩序維持のためには必要であり、個々の人間及び目的社会から超越した、中立的な第三者的立場にある国家権力の強制が必要なのです。この国家権力は、多大な権威が必要とされます。なぜなら、誰もが認める絶対的な権威がないと暴力の行使に皆が納得しないからです。
このように国家権力に多大な権威が結び付くと、今度は国家権力を巡る熾烈な争いが生じます。この場合、個人同士ではなく主に集団同士の争いとなり、全体社会の中に、国家権力を目指す目的社会が乱立することになるのです。これは、個人よりも集団の方がより大きな力を発揮できるといった当然の理由に基づくものですが、人々は国家の絶大な権威の獲得を目指して目的社会を形成し、他者に対する拡がりの確証を実現しようとするのです。
実は、この目的社会同士の争いが暴力を伴う場合、既に戦争が成立しているとも考えられます。そして、暴力の行使はさらに高まり、強力な組織的暴力となり、軍隊が形成されるのです。さらに、この闘争は、その目的社会の存立が全体社会を基盤とすることにより、国家間の闘争に発展していきます。絶大な権威に基づく国家権力同士の闘争、これこそが典型的な戦争であり、軍隊と軍隊との暴力的闘争です。
このように、拡大された決闘とは、個人から軍隊への拡大であると理解できるのです。この軍隊は組織であり、分業の体系です。先程申し上げたとおり、組織は分割の論理と創造の論理によって維持されていました。実は、ここに、個人の決闘とは異なる戦争の特殊性が現れてくる、このように私は考えるのです。
6.軍隊の構造
国家は軍隊を保有し、国内の秩序を維持すると共に他国の侵略を防ぎ、さらには、歴史上積極的に他国と戦争を行ってもきました。この軍隊は、他の目的社会と同様、分割の論理と創造の論理によって維持されます。そして、国家も目的社会であり、分割の論理と創造の論理によって維持されていると理解できるのです。
まず、軍隊について、その組織の構造を明らかにしていきましょう。
軍の組織では上官の命令は絶対であり、厳格な指揮命令系統が成立しています。この上下関係を成立させる全体の価値は、軍隊の目的である戦争の勝利にありますが、それは個々人の命を賭けた戦いであり、当然、絶大な権威を有することになるわけです。
したがって、軍隊における分割の論理は、極めて大きな全体の価値を前提とすることになります。上下の階級に基づく権威は絶大であり、誰もがそれに従うと同時に、誰もがその地位にあこがれ、その地位を目指すことになるわけです。
さて、この軍隊の組織の地位ですが、本来は、分割の論理の源であるわけですが、実は、創造の論理の目標とも成り得るものなのです。創造の論理は、その人が何を創造したか、その価値の大きさによって実現されるものでした。軍隊の組織における様々な活動、これは軍隊の目的を実現するためのものであり、組織の構成員にとっては、創造の論理の構築です。この創造の論理の実現と軍隊の組織の地位が結び付くことになるわけです。
ところで、ヨーロッパの市民革命、特にフランス革命は、軍隊の構造に大きな変化をもたらしたとされます。軍隊には一種の平等原則が生じ、その強力な上下の組織は、勲功と能力だけが原則として指揮権のよりどころとなったのです(カイヨワ「戦争論」149頁)。中世の貴族の戦争は、騎士と騎士との剣術の決闘であり、それは貴族の身分の人間の、個人の身体的能力の勝負でした(同書61頁)。創造の論理は、戦闘の場では顕著に認められたのですが、組織自体は分割の論理が強力に固定され、創造の論理が入る余地は少なかったのではないかと思います。
このことは、日本の軍隊についても言えると思うのです。明治維新後の軍隊は以前の武士階級から成る軍隊とは大きく異なると推測されるのです。どういうことかと言うと、軍隊での階級は、創造の論理によって獲得せられるようになったということが重要なのです。武士といった身分に基づく分割の論理ではなく、平等な個人を前提とする、創造の論理の実現に結び付いた地位、これに基づく分割の論理となったということです。
創造の論理の実績に基づく分割の論理の獲得、これこそが軍隊の理念となったのです。分割の論理は大きな権威すなわち全体の価値を前提とします。命を懸けた戦いは大きな権威を生むこと必然であり、この偉大な価値に基づいて、大きな実績を上げた者こそ英雄として評価されるのです(「失敗の本質」262頁)。
7.国家の権威の論理構造
先程、国家の本質は、人々が生活する場である全体社会の意志なるものを表明するところにあると申し上げました。この国家は目的社会であり、分割の論理と創造の論理によって維持されています。人々の紛争解決を行う国家の絶対的権威から、国家組織での分割の論理が生じるわけです。一方、この権威に基づく様々な国家の政策の実施は、軍人を含む公務員による創造の論理の構築であると理解できるのです。
では、この国家の絶対的な権威はどのように論理形成されているのでしょうか。実は、これも分割の論理と創造の論理から形成されていると理解できるのです。
以前、私は、公共性は人々の日常の不平不満を受容する論理的主体としての性格にその本質があるのであって、国家は公共性を有する目的社会であると申し上げました(「公共性の本質」参照)。この場合国家は人々から超越していなければなりません。
では、国家はどのように人々から超越するのでしょうか。この場合、身分的超越と合意による超越の二つに分かれるのではないかと考えられるのです。実は、前者は分割の論理がその根底にあり、後者は創造の論理がその根底にあるわけです。
身分的超越は、紛争当事者である団体の組織の身分的上下関係に基づくもので、紛争を解決する公共機関も同様の身分的価値を纏い、個々の団体を超越した身分的権威が公共性を構成するものです。この人々から超越した身分的権威が国家の権力を正当化するのです。
一方、合意による超越は、基本的には、対等な主体同士が対立する場合に生じるもので、個々の人間が互いに合意して公共性といった自分たちを超越する論理を創造する、まさに創造の論理の構築に基づくものなのです。この場合、創造の論理は公論に基づく国家の意志と理解できるわけです。公論とは公共性を有する意見、すなわち多数の者が納得している意見です。
国家が有する社会秩序を維持するための理念、それは人々の日常の不平不満をいかに吸収し、その解消を図るか、この機能に基づくものです。その理念の創造こそ、国家が有する公共性の本質であるわけです。
実は、人々の日常の不平不満の解消、ここに国家による戦争が起こる大きな原因があるのではないかと私は思うのです。先程申し上げたとおり、他者に対する拡がりの確証の衝動は、個々の拡がる自我にとって極めて強力であり、論理によって他者と意味の共有ができない者が暴力に訴える、言い換えれば、情動が理性を駆逐してしまう、この事実は決して否定することはできません。
しかしながら、暴力は日常生活において強く禁止されています。この制度的抑圧に対する不満が公論を構築してしまうのです。国家は、公共性を担う以上、この一般民衆の暴力への情動を吸収せざるを得ません。そこに戦争が起こる原因の一つがあるのではないか、このように私は思ったのです。
8.戦争の構造
それではここで、以上検討した軍隊と国家の構造を踏まえ、戦争の構造を明らかにしていきたいと思います。
まず言えることは、戦争は創造の論理の実現であるということです。戦争を実際行う軍隊の組織は、極めて厳格な上下関係となっていますが、生死を賭けた戦争では個人の能力の発揮が必要とされ、それが必ず認められなければならないからです。
では、この場合、どのような能力を発揮させるのでしょうか。端的に言えば、それは闘争における暴力の行使です。ただ、戦争における闘争は、個人対個人の闘争とは異なり、複雑多岐にわたる闘争よりなる一つの全体です(クラウゼヴィッツ「戦争論」81頁)。この全体は一つ一つの単位に区分することが可能であり、それが戦闘です。戦闘におけるすべての行為は敵の打倒、敵の戦闘力の壊滅を目標としていますが、大なる戦闘力は、複雑多岐な分節及び組織的序列をもち、相互に連結しているのです(同書82頁)。
戦争において、この戦闘を一定の秩序のもとに配列し遂行するのが作戦であり、戦闘それ自体を秩序立て遂行させることが戦術で、これらの戦闘を聯合させて戦争の目的に結び付けるのが戦略です(同書146頁)。また、軍隊の階級においては、地位が低いほど個人的自己犠牲的な勇気といったものの要求される度合いは多くなり、地位が上昇するにつれて判断上の困難は増加し、高度な理性的能力が必要とされるに至ります(同書174頁)。このように、戦争では個人の能力を発揮する分野は様々で、それに応じた様々な創造の論理が形成され、実現されなければならないのです。
さて、実際に戦争を遂行する軍隊は国家に帰属し、国家の意志に従う必要があります。なぜなら、国家こそが人々からの委託を受けた権威ある主体だからです。戦争を行うか否かは、外交問題その他総合的な判断が必要となり、それはまさに政治的判断であって、それは国家が決定すべきものです。
実は、ここで問題とすべきは、軍隊も国家も目的社会であり、それぞれ独立の組織を構成するということなのです。国家には、例えば、省庁や政党という組織があります。独立の組織は自立性を有し、独自の意志を持ちます。その結果、本来は国家の決定に従うべきなのに、軍隊独自の判断で戦争を行う、こういった事態が生じてしまう危険があるのです。
先程2で、目的社会の組織の構成員である個々の拡がる自我は、自己と団体とを同一視することにより、所属する目的社会の目的の実現が、自分自身の拡がりの確証になると申し上げました。このことは、当然、軍隊と国家にも当てはまるのです。
軍隊は戦争を行う目的社会であり、その構成員たる軍人は、自己と軍隊との同一視により拡がりを確証するのであり、その場合軍人は軍隊の勢力を拡大しようとします。まずは国家内での勢力の拡大を行います。そして、国家が軍隊の意向を反映させると、今度は他国への勢力の拡大となり、結果的に侵略戦争が始まってしまうわけです。
そして、自国民に対しては、あの手この手で宣伝し、軍隊の勢力拡大を実現しようとするのです。その結果、国民の間に、自己と国家との同一視が広まり、国家の領土の拡大を目標とする軍国主義が生まれてしまうのです。
なぜ国民は戦争といった暴力の行使を内容とする反倫理的な宣伝を受け入れてしまうのでしょうか。
それは、先程申し上げたとおり、生の奔流にある他者に対する拡がりの確証は、論理によっては他者と意味の共有ができない場合、情動に基づく暴力の行使を誘発するといった厳然たる事実があるからです。この場合、暴力が日常生活において強く禁止されている以上、理性によって暴力への情動は抑えられますが、その結果、この抑圧の不満に基づく情動が公論を形成することとなってしまうからです。
国家は、公論の内容である国民の不満を吸収せざるを得ません。その結果、国家が個人の代わりに、戦争という暴力を振るい、他国への侵略が始まり、国家間の戦争が勃発する、このような異常な事態になってしまうのです。
9.太平洋戦争の起因の分析
さて、以上申し上げた戦争の構造は、我が国の歴史上、日中戦争の開始を見ると十分納得できるのではないかと私は思います。軍部の独断で満州事変が起き、さらには盧溝橋事件が起きました。それを国家が承認していくことにより、全面的な日中戦争に展開していったわけです。
実は、このような日本の中国大陸への軍事侵攻の延長線上にあるのが太平洋戦争だったのではないでしょうか。アメリカと日本とには国力に歴然とした差があることは、当時の軍の幹部や政府の担当者も認識していたはずです。それにもかかわらず、なぜ太平洋戦争が起きたのか、この有名な論点について、以上申し上げた戦争の構造を踏まえ、自分なりに考えてみたいと思います。
この場合、軍部すなわち日本軍の組織内部の状況と、国家における公論の状況とを分けて戦争の起因を分析すべきだと思います。
まず、軍部の状況から考えていきましょう。
戦争は創造の論理の実現だと先程申し上げました。そこで、一般的な軍隊における創造の論理構築について、その変遷を歴史的に概観してみると、個人の敵に対する戦闘能力の直接的評価から、軍の組織の中での個人の論理構築に対する評価へと変化していったのではないでしょうか。
戦争での創造の論理の実現は、軍隊という目的社会の外の人間との関係と、内部の人間との関係とに分かれるわけです。この点、昔は個人と個人の勝負であったのが、軍隊の組織の複雑化に伴い徐々に外部の者との個人的な関係は消滅し、内部の者との創造の論理の共有となり、ここに分割の論理が入り込むに至ったのではないかと思うのです。
その組織の中で、広い視野が必要とされる創造の論理を忘れ、組織内部の各人の分割の論理の実現のため、無謀な戦争を行ったのが日本の軍部だったのではないでしょうか。この点、例えば日本軍の将校の学歴の重視、それは本来創造の論理を重んじるべき軍隊において、分割の論理を重んじたことを推測させるものではないでしょうか。これらが合理性を欠いた戦略・作戦の立案につながっていったのではないかと思うのです。
次に、当時の日本の公論の状況について分析してみましょう。
軍部の構成員は、自己と軍隊という団体との同一視により、勢力拡大を目指します。国家の中での軍人の地位の向上を目指し、拡がりの確証のための論理を構築していったわけです。その結果、軍部は国民に対し戦争遂行を応援するよう宣伝し、さらには反対意見を弾圧していきました。
本来、開戦を巡る判断は政治的判断であり、国際情勢その他、極めて高度な見識が必要とされます。それにもかかわらず、国家の中での軍人勢力の地位の向上を目指して拡がりの確証のための論理を構築し、5.15事件、2.26事件その他のテロ行為により、政界や財界の反対勢力を抑圧していったのが歴史的事実なのです。
テロといった暴力の行使は言論の自由を奪います。それにより日本の公論は大きな影響を受けました。更には、当時は社会主義・共産主義の思想に対する防御のための言論統制も行われ、相乗効果により更なる弾圧が行われました。これらの要因によって当時の日本の公論は形成され、軍国主義的な世相が出来上がっていきました。
軍部は国民に対し戦争遂行を応援するよう宣伝し、軍国主義的な教育が実施され、当時の若者は軍部を強く支持しました。旧来の身分的な分割の論理に反抗し、創造の論理構築のため、若者は軍隊を目指しました。ここに、圧倒的な国民の支持が確立されるに至ったのです。
その結果、軍部は引っ込みがつかなくなり、国民の声に押されて敢えて無謀な戦争に突入していったのではないか、このように私は思うのです。要するに、この公論の中で、日本の軍隊は分割の論理に気を取られ、創造の論理に関し的確な判断ができないために戦争は起きたのです。
分割の論理と創造の論理の循環、理性と情動の循環、この四つの現象から歴史は動いていくのではないでしょうか。分割の論理と理性が結合すると判断を誤る危険が高まります。なぜなら、周りの環境が見えなくなるからです。さらには、創造の論理と情動が結合すると戦争の危険が高まります。なぜなら、理性を忘れて暴力によって他者への拡がりの確証を実現しようとするからです。先の戦争はまさにこの二つの要件が合体して起きたのではないかと私は思います。
文献紹介:「失敗の本質 日本軍の組織論的研究」
今回紹介するのは、戸部良一先生、野中郁次郎先生、その他4人の先生の執筆の「失敗の本質」です
この本は昭和59年に出版され、ノモンハン事件から始まり、ミッドウェー作戦、ガダルカナル作戦、インパール作戦、レイテ海戦、沖縄戦といった実際の戦闘を詳細に分析し、日本軍が敗れた理由について、組織論の観点から鋭く分析した内容となっています。
今回の講座のテーマは、なぜ日本は無謀な戦争を始めたのかといった点にありますが、この本は、そのような戦争の原因については論じることを避け、開戦した後の戦い方、負け方を論じたものとなっています。ただ、読んでみると、それが開戦の原因にも深くつながっているように私には思えたため、今回この本を取り上げることとしました。
私は、これら日本軍の諸戦の記録は、子供の頃戦記物を夢中になって読んでいたので、大体把握しているのですが、この本はそれを組織論の観点から分析しているので、別の意味でかなり刺激的な内容だと感じました。
本書で取り上げた六つの作戦に共通するのは、日本軍の作戦中枢が関与する大規模作戦であり、作戦中枢と実施部隊との間に距離があったこと、統合的な近代戦だったこと、作戦計画があらかじめ定められた組織戦だったということです(187頁)。そして、日本軍が敗れた原因について、この本は次のことを挙げています。
まず、あいまいな戦略目的を挙げています(188頁)。本来軍事上の作戦では、明確な戦略ないし作戦目的がなければならないのに、日本軍の戦略目的はあいまいだったというのです。これが現場の意志の不統一を招き、作戦の失敗に帰結したとされます。
次に、短期決戦の戦略志向が強かったとしています(195頁)。そもそも太平洋戦争の開戦自体、日本軍の戦略にはアメリカ本土を攻撃する構想はありませんでした。緒戦に勝利して南方の資源確保を行えば、アメリカは戦意を喪失し講和が結べると考えていたわけです。短期決戦の志向による戦略は、防御や諜報活動、作戦を支援する兵站の軽視となり、結果的に敗北を招きました。
さらに、日本軍は主観的で帰納的な戦略策定であり、情緒や空気が支配する傾向だったとされ(199頁)、現実から出発し状況ごとに対応しその結果を積み上げていく思考法でした。これに対し、アメリカ軍は質量の安全性を確認した上での作戦遂行で、演繹的なものだとされます。
さらに本書は組織上の失敗要因として、人的ネットワーク偏重の組織構造だったことを挙げています(217頁)。組織とメンバーとの共生を志向するために、人間と人間との間の関係それ自体が最も価値あるものとされる日本的集団主義だったとされるのです(222頁)。組織の官僚的指揮命令系統が存在するにもかかわらず、現実には情緒的な個人間の間柄に配慮した意思決定がなされ、失敗の経験から積極的に学び取ろうとする姿勢が欠如していたのです(232頁)。
また人間の評価も、結果よりもプロセスが評価され、ここに戦闘においては、戦闘結果よりリーダーの意図とかやる気が評価され、個人の責任が不明確となり、作戦結果の客観的評価・蓄積を制約し、官僚組織における下克上を許容していきました(237頁)。
概略、以上が日本軍の敗北を招いた原因とされ、それは組織の環境適応の失敗だったと評しています(242頁)。そして、本書では、それを踏まえた教訓として、現代の日本企業にも通じる、パラダイム論や組織構造、管理システム、リーダーシップ論、組織文化論、イノベーション論等を展開して終わっています。
この意味で、本書は現代の経営理論においても非常に参考になる内容となっていて、是非一読すべき書籍だと思います。
今回は以上です。
参考文献
クラウゼヴィッツ「戦争論」清水他吉訳 中央公論社
カイヨワ「戦争論」秋枝茂夫訳 法政大学出版局
マイネッケ「ドイツの悲劇」矢田俊隆訳 中央公論社
ハーバーマス「公共性の構造転換」細谷貞雄訳 未来社
ハイデッガー「存在と時間」細谷貞雄訳 理想社
バーナード「新訳経営者の役割」山本安次郎他訳 ダイヤモンド社
ヘーゲル「精神の現象学」(金子武蔵訳)「法の哲学」(上妻精他訳)岩波書店
戸部良一・野中郁次郎他「失敗の本質」ダイヤモンド社
高田保馬「社会と国家」岩波書店
丸山眞男「現代政治の思想と行動」未来社
廣松渉「世界の共同主観的存在構造」勁草書房
加藤新平「法哲学概論」有斐閣
井上清「日本の歴史 下」岩波書店
加藤陽子「それでも日本人は戦争を選んだ」新潮社
時枝誠記「国語学原論」岩波書店
