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生の奔流 ~リビドーと主体の構造~

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生の奔流 ~リビドーと主体の構造~

和田徹也

目次 

1. 問題提起  2.組織における地位と競争的役割関係  3.組織を形成する原動力と人間の主体性  4.生の奔流としてのリビドー  5.フロイトの精神構造理論  6.社会的制約と自我の防衛  7.昇華・置き換えと分割の論理・創造の論理  8.分割の論理における昇華・置き換え  9.創造の論理における昇華・置き換え  10.生の奔流と人間の文化の認識  文献紹介:フロイト「自我論」

1. 問題提起

前回の論文(「経験科学を活用した哲学理論」)では、社会関係と役割といった経験科学で用いられている概念に基づいて、人間の主体性は分析することができると申し上げました。そして私は、対等関係である競争的役割関係から、上下関係である共同的役割関係へと向かう変化の認識こそ、主体的人間の集合体である社会の本質を理解するための極めて有効な手法であり、経験科学を活用した人間の哲学としての理論となり得ると申し上げました。

そこで今回は、この手法を用いた主体的人間の分析の具体的方法について論じていきたいと思います。

原点となる考察の対象は、生きている私達、すなわち生それ自体としての人間です。生の奔流である人間存在を、社会関係と役割の二つの概念から分析してみたいと思うのです。具体的には、個々の生きる人間が集合した小集団の分析から始め、目的社会から全体社会へと繫がる社会的存在としての人間を分析するわけです。

その際、いつものように、純粋人間関係論の基本概念である「拡がり」を出発点とするわけですが、今回はそれに加え、思想史上注目すべき理論である精神分析の概念も用いてみたいと思います。人間の衝動、欲求を表明する経験科学的概念であるリビドーといったフロイトの理論の概念を活用して生の奔流である人間を分析したいと思うのです。

リビドーを根本に置き、社会関係と役割といった概念を活用して人間の社会を分析し、生の奔流としての人間の主体の構造を明らかにしていきたいと思います。そして、生の奔流の中で自我といったものがどのように生じるのか、さらには、生の奔流と人間の文化の関連についても考えてみたいと思います。

2.組織における地位と競争的役割関係

人間は生きていく上で、何らかの目的を達成するために集合して、歴史上、無数の目的社会を形成し続けてきました。その現代の代表例が企業等生産活動を行う目的社会です。これら様々な無数の目的社会を包摂しているのが、一定の地域を基盤とする全体社会です(「国家の本質」参照)。

それぞれの目的社会は、その目的を達成させるために様々な組織を形成します。組織とは、二人以上の人々の意識的に調整された活動や諸力の体系とまずは定義できます(バーナード「経営者の役割」76頁)。組織は主体的な人間の集合ですが、客観的存在である社会の体系としてまずは認識できるのです。

この、組織という体系には地位が存在します。地位とは特定の個人が占める社会体系内の位置を意味し、組織が通常上下関係を有するために地位と表現されるものです。社会は多くの社会関係に分析できますが、それらは、平等な当事者間の関係である対等関係と、上位者下位者の不平等な関係である上下関係の二つに大きく分類できるのです(池田義祐「支配関係の研究」22頁)。実は、組織はその目的を達成させるため指揮命令系統が不可欠です。この指揮命令系統は上位の人間が下位の人間に命令するもので上下関係の典型なのです。もちろん、組織内には、例えば職場の仲間といった対等関係も存在します。

ところで、社会の特定の地位には、これに結びつく単一の役割ではなく、相関連する一連の複数の役割が存在します(マートン「社会理論と社会構造」335頁)。組織は、複数の地位とそれに付随する複数の役割から成るのであり、地位役割の体系として認識することができるわけです。

一つの地位の複数の役割関係は、冒頭で申し上げたとおり、大きく共同的役割関係と競争的役割関係に分類することが可能です。共同的とは、役割関係において相互作用を行っている人々のどの一人の行動であっても、それが目標達成に関して全成員に同じような影響を及ぼしている関係であり、競争的とは、相互作用を行っているどの人の行動であれ、彼を目標に近づける行動が必然的に一人以上の他者を彼らの目標から遠ざけることになる関係です(ニューカム・ターナー・コンヴァース「社会心理学」396頁)。

共同的な役割関係は普通親和的なものであり、この場合各個人の主観的な意志は共有する一定の方向に向いています。これは一定の価値の共有を前提とするものです。価値とは誰もが求めるものであって比較がその本質を成すものでした(「価値とは何か」参照)。

一方、競争的役割関係は、対立し離反する役割関係です。これは格差ある地位をめぐる争いであると言え、業績的地位を目指すものと考えることができます。業績的地位は個人の才能や努力による業績によって定まる地位で、先天的・運命的な個人の属性によって定まる帰属的地位に対立する概念です。競争的役割関係は互いに離反するものですが、組織の目標を維持する価値は互いに共有しています。

さて、身近な人間関係である小集団では常に競争的役割関係が生じています。小集団とは、体面的な関係にあり、成員の間に相互作用が行われており、成員相互の間に個人的な印象や知覚を有する集団です(青井和夫「小集団の構造と機能」4頁)。競争的役割関係は、通常対等関係を前提とします。

競争的役割関係の代表的な例が、会社内での社員同士の競争です。会社の組織の中の小集団、例えば、一つの課の中で、営業成績、事務処理能力、その他現実の会社内では、様々な競争がなされています。これは、対等関係にある人間の業績的地位をめぐる争いと理解することができます。その多くは先程申し上げた組織の指揮命令系統に基づく上下関係を前提とするより高い地位を目指す争いです。

これに対し、家族親族ではどうでしょうか。父親母親、祖父母は、帰属的地位の代表です。兄弟の年齢に基づく序列も帰属的地位でしょう。しかしながらその中にも競争的役割関係は生じます。例えば、財産や家の跡取りをめぐる争い等が考えられるでしょう。こちらも対等関係を前提としたより高い地位を目指す争いと認識できると思います。

このように、小集団の人間社会では、対等関係を前提とする競争的役割関係が常に存在します。個々の人間は、この社会・組織の中での他者との競争で多くのエネルギーを使っているのです。

それでは、その原動力はどこから生じてくるのでしょうか。さらに、そもそも、競争はなぜ生じるのでしょうか。次に、これらの問題をその根本から考えていきたいと思います。

3.組織を形成する原動力と人間の主体性

人間は生きていく上で、何らかの目的を達成するために社会を形成し、組織を形成すると先程申し上げました。社会・組織を形成する原動力は何かと言えば、まず、それは、この湧き上がる人間の生命力であり、何かを成そうとする人間の主体性であると言うことができるのではないでしょうか。

ところが、個々の人間の主体性それ自体を表現することは、表現された時点で客体となってしまうため困難です。そこで私は人間の生命力、生の奔流を「拡がり」と表現し、個々の主体的な人間を「拡がる自我」と表現したわけです(「拡がる自我」参照)。

この拡がる自我は、常に、生きる証すなわち拡がりの確証を求めて活動します。生命体としての物質代謝は物に対する拡がりの確証であり、ここで重要となってくるのは他者に対する拡がりの確証です。他者に対する拡がりの確証は、投げかけた言葉の意味を他者と共有することによって実現します。意味とは、言葉に対する主体の把握の仕方のことです。個々の拡がる自我は、内心の自由により形成した自分独自の言葉の意味を他者と共有し、他者に自分を見出すことにより、他者に対する拡がりを確証するのです。

ところで、個々の拡がる自我が、他者に出会う度ごとに、新たな拡がりの確証の論理を一から構築していくことは、実は、極めて困難です。相手である他者がその論理に注目するとは限らないからです。他者から注目される論理は、予め存在する他者との何らかの関係を基にして構築された論理を活用した方が数段容易なのです。

現実社会を見れば明らかなとおり、人は生まれてから必ず何らかの社会・組織に所属します。実は、この既存の社会・組織こそ、他者への拡がりの確証を得るための、既存の論理体系となっているのです(「価値と反価値」参照)。

以上から明らかなとおり、組織を形成する原動力は、他者に対する拡がりの確証の実現にあると言えるわけです。個々の拡がる自我は、目的社会を形成し、あるいは参加して、社会・組織の既存の論理を利用して他者に言葉と論理を投げかけ、他者とその意味を共有して拡がりの確証を実現しているのです。

実は、ここで重要なことは、組織の中での他者への拡がりの確証の実現は、個々の拡がる自我の間にどうしても競争を引き起こしてしまうということなのです。なぜなら、多数の拡がる自我が既存の論理を利用する場合、どうしてもそこに各人の求める言葉の意味の希少性が生じてしまうからです。拡がりの確証の実現は他者との言葉の意味の共有ですが、組織内の言葉の意味は、組織の上下関係と密接に関わっているのであり、組織内の地位の希少性と同様、言葉の意味も希少性が生じてしまうからです。

このように組織での他者への拡がりの確証は競争を必然的に生みます。そしてこの競争の根源も、組織の形成と同様、個々の拡がる自我の拡がりの確証、生の奔流にあるわけです。

4.生の奔流としてのリビドー

私は生の奔流を「拡がり」と表現しましたが、実は、生の奔流を表すには他の表現方法を用いることも可能です。

ここで取り上げたいのが、いわゆる精神分析で用いられているリビドーという概念です。

精神分析の創始者とされるフロイトは、性的エネルギーとしてリビドーを想定し、人間の行動の根源的な衝動を意味する概念として確立させました(フロイト「集団心理学と自我の分析」114頁~)。ただ、フロイトの性の概念は非常に広く、成人男女の性愛に限らず、例えば幼児期の母に対する愛情なども含むものでした(フロイト「精神分析学入門」第21講)。フロイトのリビドーは、性的ではあるものの、人間の生の奔流を表明するものと理解することができると思います。

フロイトはなぜ性衝動・性的エネルギーを重んずるのでしょうか。実は、それは深い形而上学的発想に基づいているのではないかと私は思うのです。

太古の昔、生命のない物質の中に生命の特性が呼び覚まされ、それは無生物に戻ろうとする衝動の中にありましたが、再三再四創造と死を繰り返すうちに、死という目標に到達するまでにますます複雑な迂路すなわち回り道をとるようになったとフロイトは言うのです。こう考えると、自己保存の衝動は死への経路を確実にするものであったということになります(「快感原則の彼岸」45頁~)。

これに対し、性的衝動は全く異なった観点から考えられるのです。胚細胞が類似している別個の細胞との融合により死への道程の延長を実現するのであり、生命そのものを個体以上に長期にわたって保存するのが性衝動なのです(同書48頁)。

このように、フロイトが性的衝動を重視するのは、生命それ自体の保存といった、個体を超越する永遠の生命を重んじたからだと思うのです。物質代謝はあくまでもその個体を維持するものです。あらゆる生物の個体は必ず死ぬのであって、生きるとは複雑に遠回りして死に向かうことであると言えるのです。このように考えれば、生命である自我の衝動は、死への衝動であると言い換えることもできるわけです(同書52頁)。

さて、フロイトは、以上申しあげたリビドーといった概念を前提に、人間の精神の分析を始め、人の精神構造を明らかにしていきます。次にこのことを論じていきましょう。

5.フロイトの精神構造理論

フロイトは人間の精神人格の構造関係を簡単な図に表しています(フロイト「続精神分析入門」118頁)。リビドーはエスにあります。エスはまさに生の奔流が存在する場所で、リビドーのエネルギーに満ちています。このエスの暴走を抑えるために自我が生まれるというわけです。

では、自我は生の奔流であるエスの暴走をどのように抑えるのでしょうか。ここでフロイトの自我の理論を検討していきましょう。

フロイトは、心理を意識的なものと無意識的なものに分けるのが精神分析の大前提であると言います(「自我とエス」243頁)。以前、私は、意識は対象があって初めて成立すると論じました(「存在論とは何だろう」参照)。フロイトも、意識的であるとは直接的で確実な知覚を証拠にしたものであると言うのです(「自我とエス」244頁)。

私達の経験によれば、心理的要素、例えば表象は通常持続的に意識されないのであり、ある時に意識された表象は次の瞬間にはもはや存在しません。しかし、それは潜在的な状態になってから再び意識され得ると理解できるのであり、実は、そこに無意識の概念が見出されることになるわけです(同書244頁)。

フロイトは、この表象は、ある種の力がそれに反対するため意識化されないのであり、そうでなければ意識することができるのであって他の心理的要素と区別されないとし、表象が意識以前に置かれた状態を「抑圧」と名付け、抑圧を引き起こす力は精神分析している間に抵抗として感じるものであると主張しました(同書245頁)。

そして、その意識以前の状態は、潜在的ではあるが意識され得るものと、抑圧されてそのままでは意識され得ないものとの二つが認められ、前者を前意識、後者を無意識と呼びました。前意識は無意識よりもはるかに意識に近いのです(同書246頁)。ここに、意識、前意識、無意識の三つの概念が確立されるわけです。

さて、フロイトは、個人の精神過程のまとまった一体制を自我と呼びました。意識は自我に結合しており、運動機能への通路、すなわち外部世界へ興奮が排出される通路を支配し、それは精神の法廷でもあり、抑圧もこの自我から生じるのです(同書249頁)。

抑圧され除外されたものは自我に対立し抵抗するのですが、抵抗もまた自我から発していることは否定できず(同書249頁)、意識することなしに強い作用を示しているのです。抑圧されたものは無意識的ですが、無意識的なものすべてが抑圧されているわけではありません(同書250頁)。未知で無意識的なもので、自我がその上にのっているのが先程申し上げた生の奔流であるエスです。抑圧されたものもエスの一部分にすぎないのです(同書259頁)。

自我は、知覚=意識の仲介のもとで外界の影響によって変化するエスの一部分であり、エスに対する外界の影響とエスの意図を有効に働かせるように努め、エスの中で拘束されずに支配している快感原則の位置に、外的な現実原則を置こうと努めています。自我は我々が理性または分別と名付けるものを代表し、情熱を含むエスに対立しているのです(同書260頁)。

このように自我は知覚体系によって変化したエスの一部分ですが、それはさらに身体によりエスからの分離を確定させます。身体は外部及び内部の知覚が同時に起こる場所であり、自我は身体的自我でもあるのです(同書261頁)。

そして、自我はさらに分化し、超自我が出現します。超自我とは、精神内部で自我に禁圧や理想を課してそれに背く傾向のある時、罪の感じ、恥の感じ、恐れの感じを自我に引き起こすものです(同書解説327頁)。ここで、フロイトは、エディプスコンプレックスによって、超自我は生じると言うのです。

フロイトによれば、幼い男の子は母親が性的な対象になるのですが、父親は母親のそばに常にいて自分の邪魔をする存在であり、仇敵となります(同書268頁)。女の子の母親に対する関係でも同様のことが言えます。ギリシャ神話のエディプス王の物語は、エディプスは父を殺害し母親と結婚するというものですが、この親と子の対立的な関係をエディプスコンプレックスと呼ぶようになったわけです。

幼い子供は両親、特に母親がいなくては生きていけず、様々な躾を受けることにより一人で生きていけるようになります。それはエスに存在する自由奔放なリビドーを監視するものであり、自我の中に出現する法廷であると言えます。良心はこの法廷の有する機能の一つであり、自己を監視するものです。フロイトはこの法廷を超自我と呼んだわけです(フロイト「続精神分析入門」90頁)。要するに、両親の法廷を超自我が引き継いだわけです(同書94頁)。

フロイトによれば、人間の精神装置は、自我、超自我、エスの三つに区分されます(同書109頁)。生きている人間は常に外界から刺激を受け、外界の環境に対応して生きています。エスは何ら評価ということを知らず、善悪や道徳を知りません(同書112頁)。超自我は、自我に行動の一定の規範を突き付け、それに従わない場合は劣等性と罪悪意識との緊張感情をもって自我を罰するのです(同書118頁)。

6.社会的制約と自我の防衛

エスを拘束する超自我の形成について、フロイトはエディプスコンプレックスを中心に論じました。それは生物体としての人間を重視した論理であると理解できると思います。血縁関係にある親と子を重視し、人間の性といった普遍性に基づき理論構築したものと思われるのです。

しかしながら、超自我について、親子関係以外の様々な他者との関係、言い換えれば、社会的制約を重視する考え方も可能なのではないでしょうか。人間は、生物学的な親子関係だけではなく、様々な社会関係の中で成長していくわけです。このことは現実を思い出せば明らかだと思うのです。

親が子を育てる場合にしても、乳児に対する物理的な援助等は人類普遍の行為かもしれませんが、子が成長していくに従い、親が所属する社会独自の制度価値観に基づいて子を教育していくことになるわけです。親が様々な社会的制約に基づいて生きている以上、当然、子もその社会的制約の中で成長していくのです。

生の奔流であるリビドーは快不快を基盤として好き放題に生を発現しようとしますが、人間が社会生活を営む以上様々な社会的制約により制限抑圧され、現実の生活が維持されているのです。この社会的制約は、先程論じたように、超自我が自我に対してリビドーの抑圧を命じることにより実現します(アンナ・フロイト「自我と防衛」94頁)。

ここで、自我と超自我との間に仲違いが生じてしまうのです。自我は超自我を恐れ、不安の中に陥ります(同書96頁)。さらには、リビドーが超自我の命令によって抑圧された時、自我は超自我の力とリビドーの板挟みとなり崩壊してしまうかもしれません。ここで重要な働きをするのが、自我の防衛機構です。

防衛機構とは、自我が自己の存在を守るため、人格の統一あるいは人格の一貫性を保つために、衝動、外界の現実、超自我に対して抵抗し、防衛することを言います(アンナ・フロイト「自我と防衛」用語解説2頁)。

アンナ・フロイトは自我防衛を10個挙げています。退行、抑圧、反動形成、隔離、打ち消し、投映、取り入れ、自己愛的内向、転倒、そして昇華・置き換えです(同書81頁)。

この内、抑圧は、意識的自我から観念や情緒を駆逐したり、抑えつけたりすることです(同書91頁)。ただそれは、抑圧を確保するには多大なエネルギーを必要とし、最も効果的ですが最も危険な機構で、うまくいかない場合は神経症を引き起こす危険があるのです(同書89頁)。

この点、昇華・置き換えは、衝動の目的をより高尚な社会的価値のある目的に置き換えるものであり、精神の安定をもたらすのではないかと考えられます。ただそれを可能にするにはその社会的価値を承認し同意すること、すなわち、超自我が存在しなければ昇華・置き換えというものもあり得ないのです(同書91頁)。

私はこの昇華・置き換えこそ、社会的存在である主体的人間を理解するために極めて有効な概念ではないかと思うのです。以下このことを論じていきましょう。

7.昇華・置き換えと分割の論理・創造の論理

先程私は、主体的な人間である個々の拡がる自我は、目的社会に参加して、社会・組織の既存の論理を基に他者に言葉と論理を投げかけ、他者と意味を共有して拡がりの確証を得ていると申し上げました。そして身近な人間関係である小集団の中では、常に対等関係を前提とする競争的役割関係が存在していると申し上げました。

競争的役割関係は、拡がりの確証の実現をめぐる個々の拡がる自我同士の争いです。この対等関係である競争的役割関係は、新たな上下関係を内容とする共同的役割関係として決着することになります。その際、どうしても、拡がりの確証を実現した勝者とそれに失敗した敗者が出てきてしまうのです。

この場合、敗者は自我の防衛がどうしても必要とります。なぜなら拡がりの確証は生の奔流すなわちリビドーに基づくのであり、拡がりの確証の失敗は、超自我の命令による自我のリビドーの制限抑圧であると言え、自我の防衛機構が必要とされる典型であると理解されるからです。

さて、昇華・置き換えは、競争的役割関係の基盤となっている論理とは異なる別の論理を求めることになるわけです。ではその新たな論理はどのような内容になるのでしょうか。

先程私は、既存の社会・組織こそ、他者への拡がりの確証を得るための、既存の論理体系であると申し上げました。自我に対する超自我の命令・圧力は、この既存の論理を根拠として成立しているわけです。したがって、自我の防衛のための論理は、この既存の論理とは別の論理でなければなりません。では、その論理はどのように形成されるのでしょうか。

以前、私は目的社会における拡がりの確証のための論理は、分割の論理と創造の論理が支配していると論じました。他者に対する拡がりの確証は、投げかけた論理が他者に注目される必要があります。実は、その注目される方向が二つに分かれるのです(「分割の論理と創造の論理」参照)。

分割の論理は、人間の上下関係を維持する全体の価値を前提とするもので、出発点の人間の身分の上下の差異を明らかにすることによって他者の注目を集めるものです。組織は目的社会の目的を実現するため指揮命令系統といった上下関係が不可避であり、この上下関係を維持する全体の価値が不可欠です。この全体の価値を分割して成立する身分を意味するのが分割の論理です。

一方、創造の論理は、均一な人間を前提として、価値の創造を評価するもので、人間の行為の結果としての価値の高低を明らかにすることによって他者の注目を集める論理です。創造の論理は、結果として人間各個人の能力の差異を明らかにする性格があります(「価値と反価値」参照)。

昇華・置き換えの前提となる論理は、既存の論理が分割の論理を根拠としているのか、あるいは創造の論理を根拠としているのかによってその性格が定まっていくのではないかと私は考えたのです。

8.分割の論理における昇華・置き換え

まず、既存の論理が分割の論理である場合から見て行きましょう。

組織の上下関係を維持する全体の価値を分割し、身分の格差を帰結する論理が分割の論理です。この中で、抑圧されたリビドーに対して自我はどのような論理の置き換えを行って自我防衛を実現するのでしょうか。

この場合二つの方向が考えられるのではないかと思います。

一つはより大きな全体の価値を求めるということです。組織を維持する全体の価値を超越するより大きな価値を設定し、小集団の身近な人間関係を維持する価値を超越したこの価値に自分の生の奔流の目標を置き換えることにより、自我を防衛するものです。

この立場は、所属する目的社会の外の全体社会に、大きな権威を求める性格があります。結果的に、全体社会に強大な権威を有する公的主体を導くことになります。

もう一つは、分割の論理の不満を創造の論理に置き換えることです。身近な人間関係における不平不満を、静的な身分といった既存の対象から、動的な自己の行為へと置き換えることによって自我の防衛を図るものです。

こちらは、前提となっている静的な既存の価値の権威を、動的な価値の創造に置き換えるものです。抑圧されたリビドーは、既存の上下の秩序から全く異なる方向である、一定の行動として発現するわけです。この場合、全体社会にその行動の指針となる新たな理念を形成することになります。それは結果として全体社会に新たな文化をもたらすことになるでしょう。

9.創造の論理における昇華・置き換え

では、既存の論理が創造の論理の場合における置き換えはどのようなものになるのでしょうか。

創造の論理は、均一な人間を前提として価値の創造を評価するもので、結果として人間各個人の能力の差異を明らかにするものでした。この場合価値の創造を実現できなかった者のリビドーは抑圧されたものであることは明らかです。

この場合、リビドーは現実に行動し失敗した既存の論理を飛び越え、より高尚な理念に基づく行為に昇華することができるのではないかと思います。現実を超越した理想の世界を想定し、その理念に基づく行為であるとして納得するのです。例としては、宗教的行為、文学や芸術を創造する行為が考えられるのではないでしょうか。こちらも全体社会に新たな文化をもたらすことになります。

次に考えられるのは、創造の論理から分割の論理に置き換えを行うことです。創造の論理は人間の能力の格差を帰結します。そこで人間の格差を、行為の結果ではなく予め存在する分割の論理を設定し人間の能力差を隠ぺいするわけです。これは業績的地位を前提とする創造の論理の実現を制限するものであり、先述した帰属的地位を重視するものとなります。

人類の歴史上様々な身分制度が生じてきました。これはまさに、個々人の能力の発現を制限するものであり、競争を制限するための制度なのです。ただ、この場合、全体社会は沈滞していく可能性が高いと考えられるのではないでしょうか。

10.生の奔流と人間の文化の認識

生の奔流は、個々の拡がる自我において拡がり、すなわちリビドーとして発現し、それは所属する目的社会を超え出て全体社会の理念をも形成するものであることが分かりました。全体社会の理念こそ人間の文化を形成するものだと思います。なぜなら、全体社会の中で活動する無数の個人、そして無数の目的社会、これらが新たな他者への拡がりの確証の論理を構築するにあたっては、全体社会の理念を活用することが不可欠であり、結果として新たな文化の創出となるからです(「国家の本質」参照)。

この点、今まで私はリビドーといった科学的概念を用いずに人間の文化を論じてきました。文化の創出を実践的な哲学的視点から、未来へ向けた拡がりの確証の論理の設定としてとらえてきたわけです。

例えば「国家の意志形成とその論理構造」でも論じましたが、未来へ向けた人々の営みは、様々な他者に向けての拡がりの確証の論理の設定であり、それが結果として全体社会の中で人間の文化を形作ってきたわけです。この考え方は、未来へ向けての生の奔流を前提とする理論構築であったと言えます。

これに対して、フロイトの自我の防衛の理論は過去の生の奔流であり、科学的事実を前提としてそれがどのように変化するかを論じたものと言えるわけです。文化の創出について、フロイトの理論は科学的な見地からそれを論じることを可能にしたものであると私は思います。

生の奔流であるリビドーは、超自我の命令に基づき自我によって制限され、それは昇華・置き換えといった自我の防衛機構によって新たな論理すなわち新たな理念を創出することになるわけです。その結果、その新たな理念を活用することによって、歴史上様々な文化が成立してきたと理解することができるのではないでしょうか。

このように生の奔流といったものは、未来へ向けての理念としてとらえることができる一方、経験科学の概念として過去の客観的事実としてとらえることもできるわけです。今回は、後者の経験科学の分析手法について詳しく論じたわけです。

今回のテーマは以上です。

文献紹介:フロイト「自我論」

今回紹介するのは、このフロイトの「自我論」です。井村恒郎先生の訳です。

この本は、フロイトの数多くの論文の中から、自我に関係が深い論文を選び集めたものです。収録されているのは、「快感原則の彼岸」「集団心理学と自我の分析」「無意識について」「自我とエス」の4つです。

「快感原則の彼岸」では、本論でも論じましたが、フロイトがなぜ性的概念を重んじるのかといった疑問に対する答えが論じられており、とても刺激的な内容でした。フロイトの理論は、どうしても性的な表現が多く、多くの批判にさらされているのですが、性を重んじる理由が自分なりに理解できた気がしました。

ところで、この純粋人間関係論では、他者への拡がりの確証が絶対命令であることを主張しているのですが、性的概念を重視するフロイトの理論は、この事実をも証明するものだと思いました。

他者に対する拡がりの確証は他者と言葉の意味を共有することにより実現します。では、なぜ人は他者と言葉の意味を共有しようとするのか、このことが問題となります。物質代謝を行うための協働の必要性は、間接的なその理由に過ぎません。性愛は必然的に他者と結び付くものであり、他者との言葉の意味の共有が絶対命令であることを直接根拠づけると考えられるわけです。

次に「自我とエス」ですが、先程本論で論じたとおり、まさに今回のテーマである生の奔流が湧き出る人間の精神構造の一部であるエスと、その暴走を抑える自我、そして自我に命令する超自我、この三者の構造を明らかにする内容です。

リビドーが存在する場所であるエスと、そこから分離した自我の関係を理論的に説明するもので、自我とは何かという問題に対する一つの解答として大変刺激的な内容となっています。エスはまさに生の奔流が存在する場所で性的衝動であるリビドーのエネルギーに満ちています。このエスの暴走を抑えるために自我が生まれるのですが、それは無意識的な超自我の命令に基づくのであり、フロイトによれば、超自我はエディプスコンプレックスに由来するものであったわけです。

フロイトの理論は、豊富な臨床経験に基づくのであり、当然のことながら臨床経験の無い私には、その全てが納得理解できるものではありません。しかしながら、今回改めてこの本に収録されているフロイトの論文を読んでみると、実例に基づく純然たる理論構成であり、まさに拡がる自我の拡がりの確証を基礎付ける論述であったことを改めて強く感じたわけです。

今回は以上です。

参考文献

フロイト「自我論(「快感原則の彼岸」「集団心理学と自我の分析」「無意識について」「自我とエス」所収)」(井村恒郎訳)日本教文社

フロイト「続精神分析入門」(古沢平作訳)日本教文社

フロイト「精神分析入門」(懸田克躬訳)中央公論社

A.フロイト「自我と防衛」(外林大作訳)誠信書房

ニューカム・ターナー・コンヴァース「社会心理学」(古畑和孝訳)岩波書店

マートン「社会理論と社会構造」(森東吾他訳)みすず書房

バーナード「経営者の役割」(山本安次郎他訳)ダイヤモンド社

G.H.ミード「精神・自我・社会」(稲葉三千男他訳) 青木書店

E.H.エリクソン「自我同一性」(小此木圭吾他訳) 誠信書房

M.ハイデッガー「存在と時間」(細谷貞雄訳) 理想社

小此木啓吾「現代精神分析の基礎理論」弘文堂

池田義祐「支配関係の研究」法律文化社

高田保馬「社会関係の研究」岩波書店

青井和夫「小集団の構造と機能」(「集団・組織・リーダーシップ」所収)培風館

宮城音弥「精神分析入門」岩波書店

河合隼雄「ユング心理学入門」培風館

時枝誠記「国語学原論」岩波書店

「心理学の基礎知識」「社会学の基礎知識」有斐閣

(2024年7月公表)

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