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悟りとは何だろう ~創造の論理構築への道~

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悟りとは何だろう ~創造の論理構築への道~

和田徹也

目次

1. 問題提起 2.秩序を維持する全体の価値 3.組織を維持する全体の価値 4.全体社会を維持する文化の論理 5.正義と善 6.仏教の悟り 7.悟りの純粋人間関係論的解釈 8.悟りと善 9.創造の論理構築への道  文献紹介:「大乗起信論」  〔参考文献〕

 

1. 問題提起

悟りという言葉をよく聞きます。自分の人生上での悟り、世の中を渡る中での悟り、等々。では、悟りとは何でしょうか。

言葉の意味は、元来曖昧な性格を持たざるを得ない旨、私は何度も主張してきました(「言葉とは何だろう」参照)。悟りという言葉の意味も曖昧です。したがって、その答えは簡単には出ないでしょう。ただ、この言葉の中身を追究することが極めて有益であることも間違いないと思うのです。

ところで、前回の論文では、希望の断面を考察の対象としました。生の奔流にある個々の主体的な人間、言い換えれば、個々の拡がる自我は、常に、生きる証、すなわち、拡がりの確証を求めています。物質代謝は物に対する拡がりの確証であり、他者と言葉の意味を共有することにより実現するのが他者に対する拡がりの確証です。希望は、この個々の拡がる自我を後押しする生の力の主観的表現であり、何かを望み願うことを意味しています。

そして、個々人の主観に生ずる、この希望という概念には他律的側面と自律的側面があり、それは人間の弱さと強さにそれぞれ根拠を置くことが分かりました。そして、人間の強さが必要とされる自律的な創造の論理が、希望の断面に常に存在しなければならない旨、前回の論文では主張したわけです。

創造の論理は、拡がる自我の他者に対する拡がりの確証の論理の一つです。それは、個から出発する論理で、自分が何を行ったか、何を作り上げたかによって他者の注目を得る論理です。行為の出発点の価値はゼロで、何を創造したかを、他者の注目を得るための価値の評価基準とするものでした。創造の論理の代表は、人間の経済活動における商品です。

一方、創造の論理に対立するのが、分割の論理です。これは自分が所属する社会全体に大きな価値を置き、その全体の価値を自分がどれだけ分割して収得しているかによって他者の注目を得る論理です。分割の論理の代表は身分制度です。ただ、分割の論理は、本来、創造の論理構築の前提となる、社会の秩序を維持するために必要とされる論理に過ぎなかったわけです。

価値を創造するのは創造の論理です。価値とは、誰もが求めるものであって、高低あるいは大小が生じた可測的で比較可能な意味のことです。価値の創造、それをどのように実現するか、これが第一の課題とならねばなりません。

実は、創造の論理構築への道、これこそ、悟りという言葉が目指すものではないかと私は思ったのです。そこで、悟りとは何か、悟りが意味する内容を詳細に検討する必要があるのではないかと思ったのです。

悟りは日常よく聞く言葉ですが、仏教に由来する言葉でもあります。では、仏教では悟りはどのように理解されているのでしょうか。そして、その悟りという言葉は、現代の日常生活でどのように用いられ、私達にとってどのような働きをしているのでしょうか。

厳しい現実社会の中でいかに創造の論理を実現するか、そのために個々の人間の内心にはどのような理念が生まれているのか、今回は、悟りとは何か、この問題を検討することにより、個々の人間の心の動態といったものを探求してみたいと思います。

 

2.秩序を維持する全体の価値

個々の人間が創造の論理を実現するには、生きる場である社会の秩序が必要です。秩序を維持するには、誰もが注目し、受け入れざるを得ない全体の価値が必要となります。先程申し上げたとおり、価値とは、誰もが求めるものであって、高低あるいは大小が生じた可測的で比較可能な意味のことです。

秩序とは、何らかの事象を構成する諸々の要素の関係に一定の型、規則性があり、要素の一部のあり方を知れば他の諸要素のあり方について可測性が存在する関係ないし事態のことと定義できます(加藤新平「法哲学概論」307頁)。この秩序を維持するには、秩序を構成する個々の人間の内心に生ずる、秩序を乱そうとする誘惑や衝動を乗り越えるためのより高い価値が必要とされるわけです。これが全体の価値です。

この全体の価値は、大きく二つの種類に分かれます。一つは、目的社会の組織の秩序を維持する全体の価値、もう一つは、全体社会の秩序を維持する全体の価値です。

人間は生まれてから、例えば、勉強するため学校に所属し、生産活動を行う企業に所属し、その他、諸々の社会に所属しています。これらの社会は、ある目的を達成するための個人の集合体である目的社会に分類できます。

個々の人間すなわち拡がる自我が目的社会に所属するのは、他者への拡がりの確証のためだと理解できます。個々の拡がる自我は、所属した目的社会の規範、目的としての理念、そして目標として実現した事実、これらを他者への拡がりの確証のための論拠として用いているわけです。

ところで、目的社会は、目的を達成させるために組織化されます。組織とは、二人以上の人々の意識的に調整された活動や諸力の体系と定義できます(バーナード「経営者の役割」76頁)。組織は上下の指揮命令系統が不可欠であり、上位者への反発等、秩序を乱す衝動が常に生じざるを得ません。従って、組織を維持するには全体の価値が不可欠となるわけです。

一方、これら無数の目的社会を包摂する、一定の地域を基盤とする個人の集合体が全体社会です。全体社会は、小さな村落から、より広い市町村、都道府県、そして日本国と、その地域の広さは段階的に様々です。

個々の拡がる自我は、この全体社会の中で、他者に対して言葉と論理を常に投げかけ、その意味を共有することによって拡がりを確証しながら生活しています。そして、個々の拡がる自我は、全体社会の中で、新たな目的社会を設立し、あるいは既存の目的社会に参加することによって、先程申し上げたとおり、拡がりを確証しているのです。

この全体社会にも秩序は必要です。なぜなら、個々の人間あるいは個々の目的社会が活動し、互いに交渉して取引するためには全体社会の秩序が不可欠だからです。したがって、全体社会にも全体の価値が必要とされてくるわけです。

 

3.組織を維持する全体の価値

まず、目的社会の組織を維持する全体の価値がどのように構築されるのか、この点から検討していきましょう。

第一に言えることは、組織を維持する全体の価値はその組織の目的に大きく影響され確立されるということです。なぜなら、ある目的を達成させるといった共通の意図をもって目的社会が形成されている以上、当然、その目的が全体の価値を構成することになるからです。

しかしながら、実は、結局、組織では上下関係の正当性としての論理が重要となってくるのです。なぜなら、地位役割の体系である組織は、先程も申し上げたとおり、目的を達成するため、指揮命令の上下関係が基本となっているからです。
では、その場合、上下関係の正当性はどのような論理となるのでしょうか。

これを検討する際は、業績的地位と帰属的地位という社会学の概念が役に立ちます。業績的地位は、個人の才能や努力によって業績の結果として獲得される地位であり、帰属的地位は、個人の資質や才能に関係なく生まれた瞬間から先天的運命的に定められた地位です(「社会学の基礎知識」21頁)。

実は、業績的地位は、創造の論理が組織の地位に反映したものであり、帰属的地位は分割の論理が組織の地位に反映したものと理解できるのです。例えば、会社の創業者の経営者としての地位は前者の業績的地位であり、世襲による経営者は後者の帰属的地位となるわけです。また、営業成績に基づく地位の場合は前者の性格が強く、年功序列による地位は後者の性格が強いと言えます。

現代の代表的な目的社会である企業の組織の上下関係を維持する制度は所有権です。この所有権は、創造の論理に基づく正当性「労働に基づく所有」、そして、分割の論理に基づく正当性「身分に基づく所有」、この二つの理念によって維持されていると理解することができます。このように考えると、組織の上下関係の正当性は、創造の論理と分割の論理の組み合わせによって、組織の構成員が納得する論理が構築されて定まっていくと理解できるわけです。

以上、組織の全体の価値は、まず組織の目的、そして上下関係の正当性である創造の論理と分割の論理、これらが複雑に絡み合いながら成立していると言えるわけです。

 

4.全体社会を維持する文化の論理

それでは全体社会の全体の価値はどのように定まっていくのでしょうか。

全体社会は、その地域内の様々な目的社会全てを包摂する社会です。全体社会の成立は、個々の人間あるいは個々の目的社会の活動の結果といった性格が強いのですが、地域内の多くの人々が全体社会への帰属意識を持つことも否定できません。なぜなら、全体社会は、個々の拡がる自我の他者への拡がりの確証を実現する基盤であり、他者への拡がりの確証の論理を投げかける可能性ある範囲を意味しているのであって、誰もが関心を持たざるを得ないからです。

さて、個々の拡がる自我の他者への拡がりの確証の論理は、その全体社会の様々な文化を論拠として形成されることになります。ここに文化とは、ある社会の構成員が共有している行動様式や精神的・物質的な生活様式全般のことを意味します。行動様式や生活様式を維持しているのは論理であり、全体社会での他者への拡がりの確証は、この文化の論理を論拠としてなされていると理解することができます。したがって、全体社会を維持する全体の価値は、全体社会を維持する文化の論理であると言い換えることができるわけです。

では、全体社会を維持する文化の論理とはどのようなものなのでしょうか。文化の論理はどのように形成されているのでしょうか。

私は、全体社会の文化の論理は、個々の拡がる自我、そして個々の目的社会、これらの主体それぞれが、他の人々に向けて新たに構築した、様々な拡がりの確証のための論理の競合の中から生じてくるのではないかと思うのです。

全体社会の中の人々、言い換えれば個々の拡がる自我は、それぞれの内心の自由で形成した自分独自の論理を他者に投げかけ続けています。この場合、他者に注目されなければなりません。そして他者はその論理に価値があるからこそ注目するわけです。そのため個々の拡がる自我は常に価値ある論理を求めているわけです。

先程申し上げたとおり、価値とは誰もが求めるものであって比較がその本質を成すものでした。各人の拡がりの確証のために必要とされる価値ある論理の提供、これも創造の論理であることは間違いありません。

それでは、全体社会で文化の論理たり得る価値ある論理とは具体的にはどのような論理なのでしょうか。

実は、全体社会での価値ある文化の論理は、個々人の対立を調整する正義、個々人の生きる目標を提示する理念としての善、この二つに大きく分類できるのではないかと私は考えたのです。そこで、次に、正義と善について論じたいと思います。

 

5.正義と善

以前、私は正義について論じました(「正義の本質」参照)。個々の拡がる自我が他者に対する拡がりの確証を求めて他者に言葉と論理を投げかけ、他者とその意味を共有しようとする過程ではどうしても争いが生じてしまいます。なぜなら、言葉が根本的に曖昧な性格を持つため、自分が言葉に付与した意味の共有の期待に他者が反した場合、他者に対して自分の意図する意味を共有させようとする強制が発生し、争いが生じてしまうのです。この、人と人との争いを調整、修復するのが正義です。

したがって、正義が拡がる自我相互の争いの調整の原理である以上、正義とはこういうものだといった明確さ、誰もが認める客観性が予め必要となってきます。なぜなら、与えられた正義の論理によって自分の拡がりの確証の論理を修正することが求められてくる以上、正義の論理は、複数の拡がる自我が皆納得できる客観的な論理でなければならないからです。

全体社会での人々の活動を規制する法律を始めとする様々な制度は、この正義を実現するために存在しているのです。人々の生活を維持する諸々の生産活動も、正義の理念に基づく諸々の制度によって維持されています。これら全体が文化の論理を形成しているのです。

一方、善とは何かについても以前論じたことがあります(「善と正義」参照)。個々人の生きる目標を構成する理念は、人それぞれであり、善といった言葉によって表現せざるを得ません。善とは、誰もが望むもの、誰もが求めるものです(アリストテレス「ニコマコス倫理学」)。誰もが求める究極の理念が善です。善いことは誰もが求めるものであり、求めていなければ善いことではないのです。

実は、個々の拡がる自我が他者に投げかける論理は、善を求めているからこそ他者に注目され、他者とその論理の意味を共有できるのではないかと考えることができるのです。その結果として文化の論理が形成されていると理解できるわけです。

このように、個々の拡がる自我の拡がりの確証の論理が目指すものこそ善であるわけです。しかしながら、この場合予め善それ自体が客観的に存在しているわけではありません。もちろん、これは善いことだと表現することは日常誰もが行っていることですが、実は、善そのものを他の言葉で表現することは困難なのです。

したがって、善とはこういうものだと、善の内容を万人共通の存在として、善それ自体を予め別の言葉で確定させることはできません。善は定義不能の概念なのです(ムア「倫理学原理」)。

以上申し上げたとおり、善とは純粋に主観的なものであり、その人の直観によってのみ把握できるものです。その人にとって善は明らかかもしれませんが、それが他者にとって同様の意味があることを客観的に保証する手段はあり得ないのではないか、このように考えられるわけです(岩崎武雄「現代英米の倫理学」55頁)。この点、善は正義とは正反対の性格を有しているわけです。

実は、私は、この定義不能である善を認識すること、これこそが悟りの内容なのではないか、このように推測したのです。善を何らかの形で把握する、これが悟りの意味するところではないかと思ったわけです。そこで、次に、悟りという言葉が意味するところをさらに掘り下げて考えてみたいと思います。

 

6.仏教の悟り

悟りという言葉は日常でもよく使いますが、仏教では極めて重要な位置を占める言葉です。そこで仏教における悟りについて、私なりに理解したところを申し上げていきたいと思います。主に参考にした文献は、わが国仏教に多大な影響を与えたとされている「大乗起信論」です。

仏教における悟りは、迷いとの対立的概念として理解することができると思います。この世に存在する個々の人間は迷いの中にあり、迷いは、誤った心の動きである妄念によって種々の異なった姿で現れていると考えられています。悟りは、この迷いを払拭することを意味していると理解できるのです。

では、どのようにして迷いを取り払って悟りを得ることになるのでしょうか。その論理構造を明らかにしてみたいと思います。

まず言えることは、私達人間の心は、本来、真実のあり方をしている、このことが前提となっているということです。心の真実のあり方を心真如といいますが、心真如とは全てのものの共通の根元である一法界であり(「大乗起信論」180頁)、差別の無い一の世界で、法界は全てのものに共通する真実のあり方を意味しているわけです(「大乗起信論を読む」63頁)。

このような心の本性は、生滅変化を超えた不生不滅ですが、私達の意識の対象として現れる現象は、ただ誤った心の動きである妄念によって、種々様々な姿で現れているものです(「大乗起信論」180頁)。あらゆる言語表現は便宜的な仮の表現(仮名)に過ぎず、それに対応する実体はありません。全てのものはそれ以外にあり方がないという意味で真、新たに立てるべき何ものもないのでありのままの如、こうなります。全てのものは言葉で表現できず、心に思いうかべることもできず、そのことをものの真実のありのまま(真如)と呼んだわけです(同書181頁)。

この真実の心、すなわち心真如は、衆生心の心の中に如来があるという意味で如来蔵と呼ばれます(同書185頁)。如来とは仏に対する呼び名の一つで、如とは真如を意味し如から来至した方を意味します(「大乗起信論を読む」53頁)。この如来蔵という普遍的なあり方の上には、個別的な現実に消滅を繰り返す心があり、これを心生滅といいます(「大乗起信論」185頁)。

このように、不生不滅な真実のあり方と、生滅のある現実の個別的な姿とが結合した状態が衆生一人一人の心のあり方であり、これはアーラヤ識と呼ばれます(同書185頁)。アーラヤとは貯えるという意味で、機能上、善・不善、世俗・超世俗の一切のもの(法)を包摂し、一切の現象を現しだすものですが、二つの内容から成り、第一が悟りという内容、第二が迷いといった内容となります(同書186頁)。

さて、悟りには、心の生滅の根元を悟る究極的な悟りと、そうでない日常的な悟りとがあります(同書187頁)。日常的な悟りは、迷いの状況下での間違った判断の気付き等を意味しますが、究極の悟りは全ての修行の手立てが完備しもはや生滅心の起こらない常住不滅の心の状態を意味します(同書189頁)。言うまでもなく、ここで目指すべきものは、究極の悟りであり、心真如です。

一方、迷いには三種の基本的な相があります。第一は根源的な無知に基づいて心に動きが現れる業の相で、真実を知れば心の動きは止みますが、心が動いている限り苦が生じます。第二は主観としての相で、真実を知らないために心が動くと主客の対立が現れ、心が主観として対象を認識分別することです。第三は客観として現れる相で、心が主観として働くとき真実には存在しないのに対象がそこに現れることです(同書198頁)。

心真如は本来清浄であるにもかかわらず(同書209頁)、根源的無知により汚され(染心)、煩悩という妨げにより苦しんでいるとされています(同書214頁)。真実には存在しない対象を仮構し、それに執着してしまうことにより苦が生じるのです(同書221頁)。この汚された状態である煩悩を修行により取り除き真実を見出すことこそ仏教の悟りだと理解することができると私は思います。

 

7.悟りの純粋人間関係論的解釈

さて、以上申し上げた仏教の悟りの概念について、純粋人間関係論の視点からその内容をさらに論じてみたいと思います。

まず、悟りの前提となる迷いという概念について考えてみたいと思います。

私は迷いとは、拡がりの確証の論理を構築する際に生じる論理の選択の迷いではないかと思うのです。迷いがあると他者に論理を投げ掛けることができず拡がりの確証を実現することができません。生の奔流の中にある個々の拡がる自我にとって拡がりの確証が絶対命令である以上、それは苦以外の何ものでもなく、迷いの解消は必要不可欠となるわけです。

ところが迷いの解消は極めて難しい。その理由は、本来あるべき心真如こそ他者との意味の共有を実現するものであるのにもかかわらず、個々の拡がる自我は安易に一つの論理に執着してしまい、他者が受け入れであろう論理の意味との乖離がどうしても生じてしまうところにあると思うのです。これこそ仏教が言うところの煩悩の根元であり、執着そのものではないかと私は思うのです。

先程申し上げたとおり、仏教では真実には存在しない対象を仮構しそれに執着することにより煩悩が生じると考えました。実は、この仮構である対象こそ、他者に対する拡がりの確証の論理の論拠を意味していると解釈できるのです。

内心の自由に基づき構築した論理を他者に投げかけて、他者とその意味を共有することにより拡がりの確証を得るのが個々の生きる人間すなわち拡がる自我でした。ところが言葉は曖昧であり、他者と言葉の意味の把握に齟齬が生じ、その期待通りの実現は困難です。しかしながら、ここでどうしても自分の内心の自由に基づく独自の論理の意味に固執してしまうのが人間なのです。その結果、どうしても自己主張に陥ってしまい、他者との対立が生じてしまうのです。

この場合、拡がる自我同士の争いが現実に起こってしまったら、それは正義の出番です。何らかの権力を背景にした正義によって強制的に争いの解決が図られるでしょう。

しかしながら、ここでより重要なことは、争いを避け秩序を維持しながら、互いに拡がりの確証の実現を図ることです。それは善の出番です。善を見出すことにより、他者と自分が投げかけた論理の意味の共有を実現することが先決問題とならなければならないのです。

私は、このことを端的に表現しているのが悟りという言葉ではないかと思うのです。平和裏に個々の拡がる自我が互いに拡がりの確証を実現していく、これこそ悟りの目指すものではないか、このように思ったのです。

 

8.悟りと善

それでは、以上の考察を踏まえ、現実社会における悟りはどのような意味を持っているのかを改めて考えてみましょう。
先程、私は、定義不能である善を認識すること、これこそが悟りの内容なのではないか、このように申し上げました。善を何らかの形で把握する、これが悟りの意味するところではないかと思ったわけです。拡がりの確証の論理が善を目指すことにより他者に注目される以上、善がどのように表現されるべきかがどうしても問題となってこざるを得ないわけです。

実は、善を表現するための論理を見出すための方向は二つに分かれると私は思うのです。一つは、自分の創造の論理の構築を後押しする理念としての論理の発見、もう一つは、他者の論理と自分の論理との対立を調整する論理の発見、この二つの方向です。

第一の、創造の論理構築を後押しする理念については、以前、意志と理念を論じた際、商品の価値における労働価値説を例に論じました(「意志と理念」参照)。例えば、努力は裏切らないといった理念です。これは人によって様々なものがあると思います。例えば、家族の幸せ、社会への貢献等が考えられるでしょう。このような、厳しい現実社会で生きていく上での自己の意志を後押しする理念、これが誰もが求めるといった善の一部であることは間違いないと思うのです。

第二の、他者との論理の対立を調整する論理の発見の方ですが、私は、これこそ仏教の論じるところの悟りという言葉の本質を意味するのではないかと思います。どういうことかというと、先程申し上げたとおり、迷いを払拭して心真如を見出すのが仏教の悟りだったわけですが、私に言わせれば迷いは他者に対する拡がりの確証の論理の選択の迷いであり、悟りは誰もが納得する真の心の論理の発見であると理解できるからです。

このことは、別の視点から言えば、他者がどういう論理を構築しているか、このことを把握するのが重要だということを意味します。それを踏まえた上で、自分の拡がりの確証のための論理を創造するということなのです。

やはり、ここで必要とされるのは、自分の論理に執着してはならないということです。自己主張に徹する、言い換えれば、自分の論理に執着すると他者と言葉と論理の意味を共有することができず、他者に対する拡がりの確証が不可能となり、仏教の言うところの煩悩に陥って苦の人生となってしまうのです。

以上申し上げたとおり、悟りは、自分自身の観点からの善、そして自分自身と他者との両者共有の観点からの善、これらを見出すことだと理解できるのです。

 

9.創造の論理構築への道

拡がりの確証は絶対命令であり、誰もが他者に対し様々な論理を投げかけ拡がりの確証の実現を目指して日常生活を送っています。そして全体社会の中では、個々の拡がる自我は文化の論理を基にして拡がりの確証の論理を構築しています。
この、全体社会での文化の論理は、様々な拡がりの確証の論理の競合の中から成立してくると先程申し上げました。そうなると当然のことながら究極の論拠が必要とされてくることとなります。なぜなら、文化の論理の創造は創造の論理の構築であり、それは他の創造の論理との競合であって論争とならざるを得ず、論争となった以上確実な論拠が求められ、結局のところ究極的な絶対性を有する論拠が必要とされてくるからです。

先程詳しく論じた大乗起信論の心真如はこの絶対性に基づいて構築された理論だと私は思います。心真如は、全てのものの根元で差別の無い一の世界として絶対的な真理であり、それが根源的無知により汚され煩悩によって苦しむという論理構成となっているわけです。

ただ、この場合、絶対性を強調したとしても、絶対者である神といったものを前提とするわけではありません。絶対者である神を前提とした分割の論理に基づく救済といった発想とは大きく異なっているわけです。

悟りは自律的な行為であり、分割の論理ではなく創造の論理を追究するものであることは間違いありません。悟りは、自分自身の修行によって得るのであって、本来、誰かに救済を求めるものではありません。

私はここにこそ、悟りという概念が、創造の論理構築への道を開くものと考える根拠があると思うのです。それはまさに自律的な発想であり、決意であって、強い意志に基づいて人生の様々な困難を乗り越えて生きることを意味しているのです。私達は、人生上の様々な場面で、悟りを開くことによって新たな価値を創造し、人生を力強く歩んで行くべきなのです。

 

文献紹介:「大乗起信論」

今回紹介するのは「大乗起信論」です。宇井伯寿先生の訳注、高崎直道先生の現代語訳です。

この本は仏教の論書で、大乗仏教の如来蔵思想に影響されたものです。如来蔵思想とは、大乗仏教の一派で、全ての衆生に如来すなわち仏となる可能性があるとの主張で、衆生が本来もっている自性清浄心に悟りの可能性を見出して如来蔵と呼んだものです(「インド思想史」102頁)。

作者は、インドの馬鳴(めみょう)という人とされていますが、諸説あるようです。サンスクリットは存在せず漢訳文のみ残っています。日本の仏教界に大きな影響を与えたとされているので、今回、悟りの本質を把握しようと思い初めて読みました。仏教の専門用語が多く、小冊子であるのにもかかわらず意外と読むのに時間がかかり、高崎直道先生の「大乗起信論を読む」を参考にしながら読み進めていきました。

この本の構成は、因縁分(本書述作の動機)、立義分(大乗とは何か)、解釈分(詳細な解説)、修行信心分(信心の修行)、勧修利益分(修行の勧めと修行の効果)の五段から成ります。中心となっているのは第三段の解釈分で、先程本論で論じた、心真如、心生滅、悟りと迷い、執着と煩悩、これらが詳細に説明されています。

悟りについては、先程本論で申し上げたとおりなのですが、悟りという概念を迷いとの対比において、大変鋭く明確に論じたものとなっています。また、今回は論じませんでしたが、悟りを得るための修行についても詳細に論じる内容となっています。

以前、私は「拡がる自我」、「論理とは何か」で、仏教について論じましたが、その際、拡がる自我といった概念は仏教の理論に大きく影響されて構築したものであると申し上げました。今回改めて、拡がる自我、拡がりの確証といった概念が、仏教の理論に大きく関連していることを強く感じました。

また、主観と客観といった、西洋哲学で言うところに認識論についても詳細に論じられており、大変参考になりました。また、心の真実のあり方が根源的無知により薫習(働きかけ)により汚染されてしまうなど、現代社会の様々な問題を鋭くえぐるような記述もあり、大変刺激的な内容でした。やはり、物事の本質は、昔も今も変わらない普遍的なものだと再認識しました。

今回は以上です。

 

〔参考文献〕

「大乗起信論」宇井伯寿訳注、高崎直道訳 岩波書店

アリストテレス「ニコマコス倫理学」(加藤信明訳)岩波書店

カール・マルクス(岡崎次郎訳)「資本論」大月書店

G.Eムア(泉谷周三郎他訳)「倫理学原理」三和書房

ジョン・ロールズ「正義論」(川本隆他訳) 紀伊國屋書店

ハイデッガー「存在と時間」細谷貞雄訳 理想社

T.パーソンス・E.A.シルス「行為の総合理論をめざして」(作田啓一他訳)日本評論社

C・I・バーナード(山本安次郎他訳)「新訳経営者の役割」ダイヤモンド社

マッキーヴァー(中九郎他訳)「コミュニティ」ミネルヴァ書房

加藤新平「法哲学概論」有斐閣

高田保馬「社会と国家」「社会学概論」岩波書店

岩崎武雄「現代英米の倫理学」勁草書房

田村芳朗「天台法華の哲理」(仏教の思想5絶対の真理〈天台〉)角川書店

高崎直道「大乗起信論を読む」岩波書店 「仏教入門」東京大学出版会

高崎直道他「インド思想史」東京大学出版会

中村元編「自我と無我」平楽寺書店

時枝誠記「国語学原論」岩波書店

川島武宜「所有権法の理論」岩波書店

塩原勉他「社会学の基礎知識」有斐閣

(2025年1月公表)

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