YouTube解説講座
論理とは何か(改訂版) ~組織と論理、実体と諸行無常~
和田徹也
目次
1.問題提起 2.論理の機能 3.論理の原則 4.曖昧な言葉による拡がりの確証 5.究極の論拠としての実体 6.諸行無常 7.組織における論理の二つの側面 文献紹介 参考文献
1.問題提起
社会と組織を考えていくにあたり、私は「拡がる自我」という概念を、その理論化の出発点としました。拡がる自我は、主体としての個人であり、他者に対して様々な働きかけを行う主体、すなわち他者に拡がる存在であって、他者に対して拡がりの確証を求める存在なのです(「拡がる自我」参照)。
拡がる自我は、他者に言葉をかけたがる存在であり、他者と言葉の意味を共有することにより、拡がりを確証します。このことを論じた際、私は、拡がりの確証は論理的なものであるとも申し上げました。すなわち、拡がる自我は、様々な論理を他者に向かって投げかけ、その論理をもとに他者と意味を共有し、拡がりの確証を得ると論じたわけです(「拡がりの確証と組織文化の本質」参照)。
論理とは思考の決まりであり考え方の筋道であると、まずはこう言えると思います。では、論理は、拡がる自我が他者と意味を共有するのに不可欠なものなのでしょうか。論理がなければ他者と意味の共有ができないのでしょうか。さらには、言葉と論理とはどのような関係にあるのでしょうか。
これまで、この講座で私は“論理”という言葉を用いるにあたり、論理という言葉の詳細な分析を行っていませんでした。常識的な意味合いで深く考えずに論理という言葉を用いてきました。そこで、今回の講座では、論理という言葉の意味を明確にしようと思ったわけです。拡がりの確証は論理による、このことをきちんと理論的に整理しようと考えたわけです。
2.論理の機能
拡がる自我が他者への拡がりの確証を求めるために論理が必要とされる理由はどこにあるのでしょうか。論理とは、私たちにとってどのような働きをしてくれているのでしょうか。
「言葉とは何だろう」では、私は、主体としての個人、すなわち拡がる自我は、他者に言葉をかけたくてしょうがない存在であって、言葉を発することそれ自体が生きる目的であると申し上げました。他者に言葉をかけて他者と意味を共有すること、これが実現されたのが他者に対する拡がりの確証です。では、この場面で論理はどのような機能を持っているのでしょうか。どのように論理が求められてくるのでしょうか。
まず、大雑把に言うならば、論理が必要とされるのは、単なる言葉だけでは他者も言葉によって拡がりの確証を得ようとしている以上、その言葉をめぐり対立が生じてしまう危険があるからだということです。論理は言葉と言葉をつなぐものであり、言葉と言葉の決まりごとであって、言葉をめぐる拡がりと拡がりのぶつかり合いを吸収する働きを持っているとまずは推測されるのです。
では、この言葉をめぐる拡がる自我同士の対立が、どのように生じてくるのかを、さらに深く考えていきたいと思います。
拡がる自我は、拡がりの確証のために、言葉に思い思いの意味を含ませます。意味とは、言葉に対する主体の把握の仕方です(時枝誠記「国語学原論」404頁)。そしてこれを他者と共有しようとします。このように拡がる自我が他者と意味を共有すること、これが拡がりの確証です。
実は、ここにこそ、言葉と言葉の間に齟齬が生じる可能性が出てくるのです。なぜなら、拡がりの確証のために言葉を共有しようとする、共有しようとすることそれ自体が、言葉の意味に先行しているからです。その共有する同じ言葉に対するそれぞれの拡がる自我の把握の仕方、すなわち言葉への思い入れに“ずれ”が生じるのです。
「言葉とは何だろう」でも申し上げたとおり、実は、言葉は極めて曖昧なものです。まず“拡がり”があり、他者への拡がりを確証するため、拡がる自我が他者を言葉に引き入れるため、言葉が曖昧になるのは必然のことなのです。
ところが、言葉と言葉が組み合わされると、この言葉の曖昧さが暴露されてきます。ある一つの言葉に対し、ある人はこういう思い入れがあり、別の人はこういう思い入れがある。言葉が曖昧なものである以上、二人の思い入れには、ほとんどの場合、差異が生じてしまいます。この差異が別の言葉とこの言葉を結びつけるときに顕在化してくるのです。
例えば、誰かがある思いで「人間」という言葉を用い、別の人がある思いで同じ「人間」という言葉を用いたとします。それだけでは各人の思い入れだけであり、問題ありません。しかしその言葉を別の言葉に結び付けようとしたときに二人の間の差異は顕在化するのです。
例えば、「人間」という言葉と「動物」という言葉で考えてみましょう。ある人は「人間は動物である」と言い、別の人は「人間は動物でない」と言いました。この二つの表現は相反しています。後で申し上げますが、要するに矛盾しているわけです。
実は、この場合、「人間」という言葉自体は互いに共有しているのですが、「人間」と「動物」を結びつけると両者の「人間」という言葉に対する思い入れに差異が存在していたことが露呈してくるわけです。
一方の人は「人間」は動物と同じ生物だということを強調する趣旨で用いたのに対し、もう一方の人は「人間」は理性を持ち動物とは明確に区別されるべきだという意味で用いたのです。人間は生物学的には動物と同じだという考え方がある一方、人間は理性的な存在であり動物とは異なるという考え方も当然に存在しているわけです。
このように、ある言葉に対する各人の思い入れには差異が存在します。これを明確にし、つじつまを合わせ、整理し調整して、理論立てて説明する、これが論理の機能であると私は言いたいのです。
3.論理の原則
以上のとおり、論理とは、言葉に対する“拡がる自我”の思い入れの差を明確にするとともに、これを整理し調整する働きを持つものです。では、論理の原則としてはどのようなものがあるのでしょうか。
アリストテレスはこう言いました。「同じものが同時に、そしてまた同じ事情の下で、同じものに属しかつ属しないということは不可能である」と(「形而上学」101頁)。この「矛盾律」こそ、論理についての最も明らかな原理であるというわけです。「何人も同じものがありかつあらぬと信じることは不可能であり」(同書101頁)、この原理は人間誰もが共有する“論理”の大原則なのです。
言葉と言葉が並んだとき、矛盾律に反した場合は、その言明は誤り、すなわち“偽”となります。ある言葉にそれぞれの思いを入れ込み、それを他者と共有しようとしても、矛盾した場合は、他者と意味を共有することにはなりません。矛盾する以上、意味を理解する、あるいは信じることが不可能であるため、他者が納得しないので意味の共有にならないからです。
そして、この場合は当然のことながら他者に対する拡がりの確証は満たされません。拡がりの確証が他者と意味を共有するものである以上、自分が意図する意味の共有に失敗した場合は、拡がりの確証が得られないことになるのです。
論理とは、今申し上げた矛盾律をその代表とするように、真偽を決定することにより、拡がりの確証が得られたか否かを判断することを可能にする原理なのです。真なる命題と思ったものが相手に否定されると、自分の期待に反することとなり、真偽を検討せざるを得ません。その検証の手段が、矛盾律を代表とする「論理」なのです。真理とは、他者が真であると納得できる命題です。説明の成功といってもいいかも知れません(岩崎武雄「真理論」)。
さて、論理学では通常、論理の原則として、今申し上げた矛盾律の前に同一律を掲げています。「同一律」とは、「いかなるものもそれがAならばAである」という原理です。ちなみに上述の矛盾律は、「いかなるものもAかつ非Aであることはできない」と表現されています。矛盾律が認められる以上、同一律も認められてしかるべきでしょう。
ところで、アリストテレスはさらに次のようなことも言っています。すなわち「二つの矛盾したものの間にはいかなる中間のものもあり得ず、必ず我々はある一つについては何かある一つのことを肯定するか否定するかのいずれかである。」「何かをあるとかないとかいう者は、真を言うか偽を言うかのいずれかである」と(形而上学126頁)。これは「排中律」といわれるものです。論理学では、「いかなるものもAであるか、または非Aである」と表現されています。Aでも非Aでもない中間的なものは認められないという原則です。
論理学ではこの3つが私たちの思考の原理であるとされています(近藤・好並「論理学概論」73頁)。
4.曖昧な言葉による拡がりの確証
言葉は曖昧なものであり、拡がる自我が他者への拡がりの確証を得るためには論理が必要でした。言葉と言葉が結びついたときに、言葉の曖昧性が露呈されるので、それを整理する必要が生じたということでした。
しかしながら、言葉が曖昧だと拡がりの確証を得ることはできないのでしょうか。言葉の意味をはっきりさせることは、他者に対する拡がりの確証にとって、絶対に必要なことなのでしょうか。
この点については、言葉の意味を明確にしなくても、その言葉でそれぞれの拡がる自我が意味を共有したと思い込めば、拡がりの確証は実現すると私は考えます。
言葉を論理的に厳密に検証しなくても、各人の言葉に対する思い入れ、すなわち意味を共有することは決して不可能ではないと思うのです。言葉と言葉の関係について白黒はっきりさせようという考えとは別の考えもあるわけです。言葉と言葉のつながりに、多少のずれがあってもいいのではないか、互いにその言葉を通じて、拡がりの確証が得られればいいのではないかという考えです。
もちろん、この場合もある程度の論理は必要であると私は考えます。少なくとも矛盾律とその前提である同一律は多少なりとも必要でしょう。この二つが全く存在しないのであれば、そもそも意味の共有自体が確認できないと思うのです。先程申し上げたとおり、矛盾とは理解不能な状態であり、意味の共有も不能な状態なのです。私には、この二つの論理は、拡がりを確証しようとする際に、意味を共有したことを検証するために必要とされる論理であると感じられるのです。
しかし、排中律はどうでしょうか。いかなるものもAか非Aかいずれかはっきりしろというのは、どうも、私には、永遠普遍の原理とは思えないのです。排中律はその論争のステージに立った者同士の戦いのルールのような気がするのです。拡がりの確証を得るために意味を共有したことを確認する上で必要不可欠とは思えないのです。もちろん、はっきりさせるのが好きな人もいるでしょう。しかし、議論を曖昧にしたい人もいるはずです。
矛盾律を肯定する以上、論理的には排中律も肯定すべきかもしれません(大出晃「論理の探究」102頁)。「いかなるものもAかつ非Aであることはできない」以上、「いかなるものもAであるか、または非Aである」と言わざるを得ないからです。しかしながら、中間を排除するというのは、矛盾とは異なり、発言されたことが理解できないといった意味での、事後の検証ではありません。これから発言することに関するルールであるわけです。言い換えれば、矛盾は聞き手に主眼を置くのに対し、排中律は話し手に主眼を置いている、このように私は考えるのです。
拡がりの確証の観点からはこのように理解するべきであると思います。私には、排中律は、議論をするための事前の取り決めだと感じられるのです。したがって、真か偽かをはっきりさせようとする議論の場合には、間違いなく必要な論理の原則になると思います。
5.究極の論拠としての実体
さて、今申し上げたようなこの排中律を強調するような考え、白黒はっきりさせるような論理、これは論争を好む人達の間でのルール、自己主張のための議論のルールではないかと私は思うのです。
拡がる自我は誰でも拡がりの確証を求めています。そして、このため、他者に自己主張をしようとする人が出てきます。自己主張は、自分の意見を相手に主張し、相手が自分と同じ意見を持つように説得することです。単なる言葉の意味の共有ではなく、自己、すなわち、客体としての自己を相手に認めさせようとする性格が強いのです。実は、自我という言葉は主体性といった意味合いが強い言葉ですが、自己という言葉は客体といった意味合いが強い言葉なのです。
さて、この自己主張は言葉によってなされ、言うまでもなく論理的なものです。そして相手が納得しない場合、すなわち議論になった場合、主張している意見の根拠、言い換えれば、論拠を求められます。ある論拠がお互い納得できるのであれば、それを前提としてそこから先の議論になり、さらなる論拠が求められることもないでしょう。しかしお互い納得できる論拠が見つからない場合は、さらにさかのぼった論拠が求められます。これが議論というものです。このことは、最終的には、誰もが否定できない究極の論拠が必要とされてくる、こういうことを意味しているのです。
ではこの究極の論拠とは何でしょうか。究極の論拠は相手も含めた誰もが否定できないところにその存在意味があります。では、具体的にはどのような究極の論拠があるのでしょうか。
まず代表例として考えられるのが、「実体」という概念です。物事は全て実体からなる、実体とは常に同一性を保ち、それ自身で存在する本体のことです。仏教では「自性」といいます。あることそれ自体を否定することができない本体、すなわち実体から議論を出発させ、自分の主張を論理立てて相手を説得していくわけです。
アリストテレスも、実体とは、他のいかなる基体[主語]の述語[属性]ではなく、それ自体が、述語である他の物事の主語[基体]となるものであるとしています(形而上学153・209頁)。これはアリストテレスの第一実体といわれるものです。これに対し第二実体とは、第一実体のうちに属するところの種と類であるとされています(「カテゴリー論」7頁)。アリストテレスの実体は少々複雑ですが、簡単に言えば、同一性を保って存在している個物である実体は、主語となるもので、実体を作っている材料である“質料”と、その実体をしてまさに現にあるとおりのものとする“形相”とから成り立っているということだと思われます(岩崎武雄「西洋哲学史」55頁)。
6.諸行無常
実体、あるいは“自性”とは、常に同一性を保ち、それ自身で存在する本体です。しかしながら、よくよく考えてみると、あらゆるものは常に変化し他の何ものかに依存しているのであって、常に移り変わる無常なる現実、すなわち“諸行無常”を思えば、それ自身で常に同一性を保っている実体などあり得ないとも思えるのです。
この諸行無常を、まず、仏教の一派であるアビダルマ哲学は、実体、自性を認める立場、「すべてが有る」といった視点から説明しました。すなわち過去と、今生きている一瞬と、未来の三つを分け、ある瞬間において実在する“ダルマ”の生起であるとしたのです。これを「三世に実有」であると言います。ダルマは “法”と訳され、支える・保つという意味の語源ですが、極めて多義的な概念で、ここではあらゆるものが秩序立てられて存在しているという意味としておきます。ダルマは、それぞれがそれ自体の変わらぬ特性を持っており、現在においてはただ瞬間的に存在し、その現在の一瞬一瞬の実在の積み重ねが諸行無常だというのです(桜部建「仏教の思想2」62頁)。
これに対し、大乗仏教の思想家である龍樹(ナーガールジュナ)は、すべては空であると主張しました。「空」とは、語義的にはAはBを欠いているということで、教義的にはダルマにはその固有不変の実体がない、無自性であるということです。(高崎直道他「インド思想史」90頁)。アビダルマが主張したようなダルマの生起を否定したのです。
そして、龍樹は上述の諸行無常を「縁起」という言葉で説明しました。縁起とは相互依存的、相対的なものです。縁起とは継時的な因果関係と論理的な相対関係とを含めた依存性一般を意味しているのです(梶山雄一「仏教の思想3」74頁)。龍樹は「滅することなく、生ずることなく、断滅ではなく、常住ではなく、同一であることなく、異なっていることなく、来ることなく、去ることもない」のが縁起だ、と論じています(龍樹「中論」上85頁)。生滅、断常、一異、去来の四対を否定し、両極端を離れた“中道”を主張したのです。諸法が縁起しているとは諸法が空なることであり、空であるため本来は“縁起”も言葉で表現できないのですが、世間的真理として便宜上、何かに“よって”言葉で表されていることであり、有るものでも無いものでもない中道だというわけです(高崎直道他「インド思想史」92頁)。
私は先ほど、自己主張のための議論の究極の論拠として、実体という概念を論じました。これは相手が否定できない論拠を求めたもの、すなわち論戦のルールだったわけです。人と人との争い、これは議論からも生まれてしまうのです。
仏教は「無我」を主張します。人は自我に執着し、争いを生み、苦をもたらします(高崎「仏教入門」85頁)。議論の究極の論拠である“実体”を否定する考えは、実体という言葉に執着する「われ、わがもの」の観念の除去、無我の主張を意味しているのです。
もっとも、アビダルマ哲学でも、自性、すなわち実体は認められますが、それは一瞬一瞬認められるにすぎません。したがって、個々の自我は不変常一ではあり得ず、無我を主張することに変わりはありません。実は、先ほどの三世実有の根拠となるのは、対象の無い心は有り得ないという考えなのです(桜庭前掲書75頁)。
それではここで、他者に対する拡がりの確証の論理の設定という観点から、実体を認めるべきか否かを考えてみたいと思います。
縁起とは、端的に言えば、全ての存在は関係性の中にある、ということですが(増谷文雄「釈尊のさとり」32頁)、関係というのは、私は、やはり個物を前提としていると考えるべきではないかと思うのです。起点となる個物、これがあって初めて関係は生じるのではないか。なぜなら、他者の注目を得るためには、初めに否定できない何ものか、存在、実体、こういったものが必要だからです。関係は二次的な概念だと私には思われるのです。したがって、他者への拡がりの確証のための論理の設定としては、実体あるいは自性という概念を採用すべきではないかと私は思います。
しかしながら、それでは自己主張の対立となり、争いが避けられないことも事実です。自己主張に基づく争いを避けるという点では、空の論理の方が優れた理論ではないかと思うわけです。
他者への自己主張は得てして極端な前提によることが多くなります。なぜなら他者の注目を浴びるには、極端な、特徴ある考えが有利だからです。そしてこのことは、必然的に対立する概念、両極端な思考方法を生み出します。そして思考が対立すると、永遠普遍の実体といった原理を基に自己主張することになります。空の論理はこれを否定するわけです。中道こそが議論の争いを納めるものなのです。
7.組織における論理の二つの側面
論理は、組織の中で、組織の方針決定を行う際、極めて重要な働きをすることは間違いありません。なぜなら、何度も申し上げたとおり、言葉は、拡がる自我が拡がりの確証を得るために思い思いの意味を入れ込むものであり、このことは共通の意思決定において、客観的な事実を見えなくさせる危険が大だからです。客観的な事実に基づく正しい判断を妨げる危険性が高いのです。
したがって、ある言葉に対する各人の思い入れに存在する差異、これを明確にし、組織の目標との矛盾を発見し、誤りを発見し、整理し、調整して、理論立てて説明する、これが論理の機能です。個々の拡がりの確証のための論理を、統一するのも論理なのです。
第一に、以上のことから、組織における論理は、客観的な事実を明確化させ、はっきりした意思決定を行う厳格な論理が必要とされます。今回論じた論理の原則をそれぞれの場合に応じて厳格に適用し、正しい推論を行うことが求められるのです。この場合、拡がる自我同士の議論も不可欠でしょう。議論により厳格な論理が貫徹され、正しい判断が可能になるのです。
ここに推論(推理)とは、ある命題を根拠として他の命題を導き出すことです。推論には、次の二つがあります。
一つは、前提のみから、別の根拠を用いること無しに結論が必然的に導かれる「演繹推理」で、前提となる言葉に結論が含まれているものです。三段論法はこの代表的なもので、よくある例が、①全ての人間はいつか死ぬ、②ソクラテスは人間である、③ゆえにソクラテスはいつか死ぬ、です。ソクラテスがいつか死ぬという結論は、ソクラテスをも含めた全ての人間はいつか死ぬという、前提となる言葉に含まれているわけです。
推論のもう一つは、前提は結論の若干の根拠となりますが決定的なものではなく、結論はある程度確からしい「蓋然的推理」と呼ばれるものです。蓋然性とは、あまり聞きなれない言葉かもしれませんが、100%確実ではないが“確からしい”ということです。例えば昨日あそこのパン屋で買ったパンはおいしかったから、今日もあそこのパン屋で買えばおいしいだろう、と推理するようなものです。なお、蓋然性推理には、先程申し上げた排中律は適用されません。なぜなら真と偽の中間が蓋然性だからです。
「帰納法」は蓋然的推理の一種で、複数の個々の事実から普遍的命題を推定するものです。例えば、スワンとは白鳥のことですが、このスワンも白い、あのスワンも白い、したがって全てのスワンは白い。帰納法により普遍的命題を確立したわけです。ところが、後にオーストラリアで黒いスワンが発見されたのです。蓋然的推理は決して100%正しい推理ではないのです。
私たちは蓋然的推理をもとに推測や仮説を立て、その推測や仮説から演繹推理によって結論を導き出して事実によりこれを検証します。科学的思考も同様です。演繹推理では前提が正しければ結論は100%正しいので、結論が検証されることは蓋然的推理である推測や仮説の確実性が増すことを意味します。また、推測や仮説を裏付ける事実が多ければ、結論の確実性が増します。
さて、その一方で、第二に、組織が人の集団である以上、争いを避けるための論理、組織を維持させる論理も必要だと私は考えます。議論が争いを起こし、組織が分裂することは避けなければなりません。実は、ここで、今回論じた“空の論理”も役立つのではないかと思うのです。
人は拡がりの確証を得るために自己主張せざるを得ない存在です。そして、議論になると、これは絶対的に正しい、疑う余地のない永遠普遍的なものを前面に押し出します。疑う余地のないものを論拠に自己主張するわけです。しかしながら、絶対的、永遠普遍的なものなど実は存在しない、これすなわち「空」の論理なのです。先程申し上げましたとおり、これは、極端なことを避ける中道の考えです。この中道こそ、組織の崩壊を避ける論理なのではないでしょうか。
組織を維持する原理については、様々テーマの論文を公表していきたいと思います。
今回のテーマは以上です
文献紹介
今回ご紹介するのは、このアリストテレスの「形而上学」です。
アリストテレスは、紀元前384年ころに生まれ322年に亡くなった人で、形而上学とは、自然学の後の書という意味ですが、その後次第に自然界を超越したものという意味になっていったようです(岩崎武雄「西洋哲学史」61頁)。
このような2000年以上の昔の本をなぜ取り上げるのかと思う人もいるかもしれませんが、もちろん、今回のテーマである論理について、矛盾とか実体とかといったことを論じているからですが、それ以上に、実際この本を読んでみると結構面白かったからです。
翻訳が素晴らしいからかもしれませんが、矛盾とか実体とか様々な哲学・論理学の理論について、日常の言葉でわかりやすく論じられています。
例えば、今回のテーマである論理とは何かといったことを考えたときに、記号論理学は数学的に記号化されているので、記憶力があまりない私には、教科書を読んでもあまり理解できませんでしたが、この本では、今回申し上げた矛盾の定義のように普通の日常の言葉で書かれているのでとても分かりやすい気がしたわけです。
先程も申し上げたとおり、矛盾律とは「同じものが同時に、そしてまた同じ事情の下で、同じものに属しかつ属しないということは不可能である」ということであり、それが認められるのは「何人も同じものがありかつあらぬと信じることは不可能である」(「形而上学」101頁)からです。実際この本を読むとこういう書き方をしていることが分かるのです。
この本は、全ての人間は生まれつき知ることを欲する、といった有名な言葉で始まり、原因とは何か、存在とは何か、そして今回の実体とは何か、こういった様々な哲学的な議論が日常の言葉でなされています。そして、この哲学的な議論がその後今日に至るまで、哲学の基本概念として生き続けてきたわけです。そういう意味では西洋哲学の基本中の基本書と言うことができるかもしれません。
正直言って、この本の隅から隅まで読んで理解したわけではないのですが、現在の哲学の論文などを読む場合に、誰もが使う哲学用語、その根元をこの本が教えてくれるのは明らかです。前提となっている思考を乗り越えて、根本理論を追究する学問、この哲学の定義を、まさに実践することができる書物だと思ったので今回皆さんにご紹介したわけです。
今回は以上です。
参考文献
アリストテレス(出隆訳)「形而上学」(全集12)岩波書店
アリストテレス(山本光男訳)「カテゴリー論」「命題論」(全集1)岩波書店
アリストテレス(村治義就訳)「トピカ」(全集2)岩波書店
時枝誠記「国語学原論」岩波書店
岩崎武雄「真理論」(岩波講座哲学8所収)岩波書店
岩崎武雄「西洋哲学史」有斐閣
近藤洋逸・好並英司「論理学概論」岩波書店
桜部建「無常の弁証」(仏教の思想2存在の分析〈アビダルマ〉)角川書店
龍樹(ナーガールジュナ)(三枝充悳訳)「中論」第三文明社
高崎直道他「インド思想史」東京大学出版会
梶山雄一「瞑想と哲学」(仏教の思想3空の論理〈中観〉)角川書店
三枝充悳「仏教入門」岩波書店
増谷文雄「釈尊のさとり」講談社
山内得立「ロゴスとレンマ」岩波書店
市井三郎「哲学的分析」岩波書店
(2021年4月公開)