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純粋人間関係とは何か(初版)

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純粋人間関係とは何か(初版)

和田徹也

目次

1.純粋人間関係  2.所有の正当性  3.純粋人間関係と拡がりの確証

参考文献

 

1.純粋人間関係

社会と組織を研究するための、出発点となる概念として、私は「拡がる自我」という概念を確立させました。拡がる自我は、人間を主体的な個人としてとらえた概念です。人間というものを、関係からではなく個々の主体として把握しようとしたのです。そして、個人の主体性を表現するために拡がりという言葉を出発点として、人間を表現したわけです。

世の中には様々な人間関係があります。人間関係とは簡単に言えば人と人とのかかわり合い、つながりであると言えます。社会と組織も人間関係から成り立っています。そして、この場合の人間関係は、個人の主体性無しにはあり得ない性格のものだと言えます。例えば、ある人とある人の背が高低の関係にあると表現されることもありますが、この場合の関係は上に述べた人間関係の関係とは異なり、対比を示しているに過ぎないのです。

さて、拡がる自我は、他者への拡がりの確証を得ようとします。例えば、店先で店員さんに話しかけてケーキを買う、会社の会議で大勢の前で提案し承認される、その他無数の働きかけを人は他者に対して行っています。この無限に存在する人間相互の活動を、個々の主体に着目し、拡がりの確証と表現したのです。

ところで、拡がりの確証は、確証のための論理を他者に向けて投げかけ、他の拡がる自我と論理を共有し、その論理の上で同じ価値を共有することによって実現されます。実は、私は、この拡がる自我と拡がる自我が互いに拡がりの確証を得ようとする関係、この関係それ自体を取り出して、それを「純粋人間関係」と呼びたいと思うのです。

純粋人間関係では、確証のための論理の中身は全くの白紙であり、価値も何ら限定されておりません。ただ論理と価値の枠組みが存在しているだけです。論理そのもの、価値そのものは間違いなく存在しているのですが、その中身は具体的な人間関係の中で生じるわけです。あたかも魚の肉を取り去った後の骨のように、様々な論理、価値観に覆われている現実の人間関係から、その具体内容を取り除き、拡がりの確証を求め合うだけの拡がる自我同士の関係だけが残る、この拡がる自我同士の関係を「純粋人間関係」と呼んだわけです。

なぜ、このような純粋人間関係などというものを考えるのかと言えば、現実に存在する具体的な人間関係を正確に認識するためなのです。正確というよりも、より有効な施策を行うために認識すると言っても良いかもしれません。世の中には、色々な人間関係があることは間違いないのですが、それがどのように異なるのかを、一つの軸を基準にして判断しようというわけなのです。その軸を、拡がる自我が、拡がりの確証を得るために他者に対して互いに論理を設定する事実それ自体に置き、純粋人間関係として措定したのです。

 

2.所有の正当性

私は、長年のサラリーマン生活の中で次のことを感じてきました。すなわち、営利企業はもちろん公共機関をも含む生産活動を行うために形成されてきた社会、類型的には全体社会の一部である「目的社会」における拡がりの確証のための論理と価値は、「全体を分割するといった性格のもの」と、「新たに物を作りだすという性格のもの」とに分かれるのではないかということです。前者は、身分的発想、例えば正社員とパート社員の区分などにつながり、後者は個人の努力を重視する発想、成果主義的発想につながります。

これを所有という言葉を軸として言うならば、身分に基づく所有と労働に基づく所有の対立と表現できます。言い換えれば、拡がりの確証の論理が、身分的なもの、全体の分割の取り決めという性格を持つものであるか、新たに作り出すもの、自分の労働、努力の成果としての性格を持つものかによって大きく異なるということです。

ところで、現代社会においては、既存の社会・企業の上下関係を維持している制度は所有権だと、とりあえず言えると思います。そして、この所有権という制度を根拠づける正当性が大きく二つの性格に分類されると私は思ったのです。すなわち、所有権の正当性は、拡がる自我の拡がりの確証の論理の性格により”身分”と”労働”の二つに区分されると考えたわけです。

私はこの所有権の特徴を、元々歴史を勉強するところから思いつきました。それは、近代社会がいかに成立したかといった有名な論点からでした。労働価値説に着目したのです。すなわち、労働価値説の本質は、労苦骨折りであり、その人がいかに労苦骨折りをしたか、言い換えればどれだけ努力したかが経済価値であると断ずるところにあると考えたのです。これは社会の秩序が絶対王権から導かれるホッブズの思想と、労働に基づく所有としたロックの思想の対比につながるものなのです(水田洋「近代人の形成」)。

話が急に古くなって申し訳ないのですが、労働価値説こそ近代思想を表明するものであり、それ以前の封建主義的な身分秩序に基づく所有権秩序に対立する思想だと考えたのでした。“身分から契約へ”という標語を、所有権秩序を維持する正当性を軸にして、“身分から労働(努力)へ”と言い換えたわけです。

ところが、実際に私自身就職して様々な組織に所属してみると話はそう単純ではない、例えば何となく古いイメージのある役所は身分的秩序であって民間企業は努力に基づく秩序である、などとは言えない、そういうことが分かってきました。身分と労働の対立、分割と創造の対立、これは歴史的流れだけで把握すべきではない、社会・組織の中に普遍的に存在するものだ、こう思ったのです。そこで所有権という言葉から離れて、再度考え始めたわけです。

 

3.純粋人間関係と拡がりの確証

さて、冒頭で申し上げましたとおり、拡がる自我は他者へ拡がりの確証を求めるものであり、これには無限の可能性があるわけです。要するに拡がりの確証を得るがためにさまざまな論理を作り上げ、他者と意味を共有することにより拡がりを確証するわけです。そしてその論理は、自分が期待する内容を他者が承認することにより成り立つのであり、その期待度が高いほど承認された満足度も高くなるでしょう。

拡がりの確証のための論理の中身は無限の可能性があります。それは、生産活動を担う企業、公的機関でも同じです。そしてその中身の特徴を見るときに純粋人間関係という概念が役に立つのです。2で述べました“全体の分割の論理”と“物を創り出す論理”といったものも、現実的には自分自身の人生経験から感じ取ったものですが、純粋人間関係にどのような価値が付着したかに整理できるわけです。

このように、以前論じたような、秩序を維持する正当性という視点ではなく、拡がりの確証の論理の設定という軸を中心にして、様々な社会、組織を考えていこうと思っています。そして、純粋人間関係という概念は、背後にあってこそ意味ある概念なので、今後はあまり前面に出てくることはありません。そのため、背後にあるこの概念を一応論じておこうと思ったわけです。

 

参考文献

水田洋「近代人の形成」東京大学出版会

大塚久雄「欧州経済史」岩波書店

遊部久蔵「労働価値論史研究」世界書院

(ブログ)

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