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純粋人間関係とは何か(改訂版)

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純粋人間関係とは何か(改訂版)

和田徹也

目次

1.「人間関係」の意味(主体的関係と客体的関係)

2.純粋人間関係

3.所有権の正当性

4.近代社会の成立と所有権

5.戦後日本の所有権秩序と高度経済成長

6.「支配の正当性」から「拡がりの確証の論理の設定」へ

参考文献

 

1.「人間関係」の意味(主体的関係と客体的関係)

社会と組織を研究するための根本理論として、私は「拡がる自我」という概念を提案しました。拡がる自我は、人間を主体的な個人としてとらえた概念です。人間というものを、実際に存在する社会や組織、あるいは関係といったものを出発点として考えて行くのではなく、個々の独立した主体として把握することを出発点として考えて行こうと思ったのです。そして、個人の主体性を表現するために拡がりという言葉を出発点として、人間の主体性を表現したわけです。

世の中には様々な人間関係があります。人間関係とは簡単に言えば人と人とのかかわり合い、つながりであると言えます。社会と組織も人間関係から成り立っています。そして、この場合の人間関係は、個人の主体性無しにはあり得ない性格のものだと私は考えます。例えば、ある人とある人の背が高低の関係にあると表現されることもありますが、この場合の関係は上に述べた人間関係の関係とは異なり、対比を示しているに過ぎないのです。

もちろん関係という言葉は、人間の主体性と不可分なものに限りません。物と物との関係も無限にあります。大小の関係、色彩の違いの関係、重さの関係、様々です。また、数学や論理学でも関係という概念があります。例えば、xとyとはこういう関係にある、例えばy=ax+b、数学で習う関数です。

さらには、人間関係という言葉でも、個人の主体性を除いた関係を意味させることは可能です。第三者の立場から観た、客体的な意味での関係です。例えば、先ほど言った背が高い低いの関係です。親と子の関係も生物学的に見ればそう言えるでしょう。

しかしながら、私が検討する人間関係は、個人の主体性抜きにはあり得ないものなのです。実は、この関係という言葉は、本当に曲者のような気がします。関係という言葉の両義性、すなわち主体的なものと客体的なもの、このことが、この先人間関係を論じる際大きな理論的差異をもたらすのです。

例えば、客体的な意味での関係を出発点として人間の主体性を論じようとする立場もあるわけです。太った人と痩せた人とで主体的な性格が異なってくるといった考え方です。また、経営者と労働者といった社会的な区分けの事実に基づいて、関係という言葉を客体的に用いた上で主体性を論じようとする例もあります。

しかしながら私は人間を対象とする場合は、主体性を出発点としたいと考えています。なぜなら、人と人とのかかわりあいは、主体性抜きには考えられないからです。「拡がる自我」を出発点とした以上、主体的な関係を出発点としようと考えたわけです。

 

2.純粋人間関係

ところで、私は「『拡がりの確証』と組織文化の本質」という論文で「拡がりの確証」という概念を提案しました。拡がる自我は、他者への拡がりの確証を得ようとするのです。例えば、店先で店員さんに話しかけてケーキを買う、会社の会議で大勢の前で提案し承認される、その他無数の働きかけを人は他者に対して行っています。他者に言葉を投げかけ、他者に働きかけ、他者と意味を共有することによって、拡がる自我は、拡がりを確認する、確証するのです。この無限に存在する人間相互の活動を、個々の主体に着目し、拡がりの確証と表現したのです。

今申し上げたとおり、拡がりの確証は、確証のための論理を他者に向けて投げかけ、他の拡がる自我と論理を共有し、その論理の上で同じ意味、価値を共有することによって実現されます。

実は、私は、この拡がる自我と拡がる自我が互いに拡がりの確証を得ようとする関係、この関係それ自体を取り出して、それを「純粋人間関係」と呼びたいと思うのです。

純粋人間関係では、確証のための論理の中身は全くの白紙であり、意味や価値も何ら限定されておりません。ただ論理と意味や価値の枠が存在しているだけです。論理そのもの、価値や意味そのものは間違いなく存在しているのですが、その中身は具体的な人間関係の中で生じるわけです。あたかも魚の肉を取り去った後の骨のように、様々な論理や価値観に覆われている現実の人間関係から、その具体内容を取り除き、拡がりの確証を求め合うだけの拡がる自我同士の関係だけが残る、この拡がる自我同士の関係を「純粋人間関係」と呼んだわけです。

なぜ、このような純粋人間関係などというものを考えるのかと言えば、現実に存在する具体的な人間関係を正確に認識するためなのです。世の中には、色々な人間関係があることは間違いないのですが、それがどのように異なるのかを、一つの軸を基準にして判断しようというわけなのです。その軸を、拡がる自我が、拡がりの確証を得るために他者に対して互いに論理を設定する事実それ自体に置き、純粋人間関係という概念を確立させたのです。

 

3.所有権の正当性

私は、長年のサラリーマン生活の中で次のことを感じてきました。すなわち、営利企業はもちろん公共機関をも含む生産活動を行うために形成されてきた社会、類型的には全体社会の一部である目的社会、この目的社会における拡がりの確証のための論理と価値は、全体を分割するといった性格のものと、新たにものを創造するという性格のものとに分かれるのではないかということです。前者は、身分的発想、例えば、経営者と労働者、正社員とパート社員等の区分につながり、後者は個人の努力や仕事の成果を重視する発想、すなわち個々の人間の行為自体に着目する発想につながります。

要するに、拡がりの確証の論理が、身分的なもの、全体の分割の取り決めという性格を持つものであるか、新たに創造するもの、自分の労働、努力の成果としての性格を持つものかによって大きく異なるということです。

そして、このことは、所有という言葉を軸として言うならば、身分に基づく所有と労働に基づく所有の対立と表現できます。

現代社会においては、既存の社会・企業の上下関係を維持している正当性は、所有権であるとまずは考えられるのではないかと思います。この際、その所有権を根拠づける正当性が大きく二つの性格に分類されるのです。身分という性格と労働という性格です。

そして、その二つの方向に区分された、社会を維持する所有権という権利の正当性は、社会を構成する個々の拡がる自我の、この、身分と労働といった二つの拡がりの確証の論理によって支えられていると考えたわけです。

 

4.近代社会の成立と所有権

私はこの所有権の特徴、すなわち身分としての性格と労働としての性格といった二つの性格を持つという特徴を、元々歴史を勉強するところから思いつきました。それは、西欧の近代社会が中世社会からどのように成立したかといった有名な論点からでした。

実は、「純粋人間関係」という言葉は、今から36、7年前、中央大学の森末伸行先生の法哲学ゼミの1984年3月発行の論文集に私が発表した「純粋人間関係論序説」という論文で論じた自分独自のものなのです。それは、独立した個々の主体的な人間から社会を理解していくための概念なのです。

その論文は、西欧の資本主義社会、あるいは近代社会といったものがどのように生じてきたのか、それをマックスウェーバーの言う「支配の正当性」の変遷を通じて論じたというのがその内容です。

その際、労働価値説に着目したのです。すなわち、労働価値説の本質は、労苦骨折りであり、その人がいかに労苦骨折りをしたか、言い換えればどれだけ努力したかが経済価値であると断ずるところにあると考えたのです。

これは社会の秩序が絶対王権から導かれるホッブズの思想と労働に基づく所有であるとしたロックの思想の対比につながるものなのです(水田洋「近代人の形成」)。

ホッブズは、それまでの、中世のキリスト教の絶対的な権威に基づく政治権力ではなく、人間各個人が平等である自然状態を出発点として、絶対的な政治権力を基礎づけました。平等な個人は同じものを獲得しようとすると相争わずにはいられないので戦争状態になってしまいます。そこで、安全のために絶対権力を持つ国家が必要だとされたわけです。この国家は、絶対権力を持っていて、所有権もこの国家が分け与える結果となるわけです。国家という政治体が成立して初めて所有権が与えられるのです。

これに対しロックは、同じ自然状態から出発しても、ホッブズのように戦争状態となるとはしませんでした。自然状態でも秩序が存在するとしたのです。そしてこの秩序は、労働に基づく所有という正当性に基づいているのです。所有権が労働に基づくのであれば、絶対権力を前提とすることなく所有権が認められるということなのです。

私は、労働に基づく所有という正当性によって基礎づけられ、その後、科学的に認められるに至った労働価値説こそ近代思想を表明するものであり、それ以前の封建主義的な身分秩序に基づく所有権秩序に対立する思想だと考えたのでした。“身分から契約へ”という標語を、所有権秩序を維持する正当性を軸にして、“身分から労働(努力)”へ言い換えたわけです。

そして、この発想は、大塚久雄氏の西欧経済史の研究を学ぶことによっても、さらに自分にとって確固たるものとなったのです。

近代資本主義の形成については、イタリアのルネッサンスの基盤となった商業の興隆がさらに発展し、人間の営利欲が解放されて近代資本主義が成立したとする「開放説」と、営利欲が解放されたのではなく逆に禁欲されて、倫理的義務によって営利の追求がなされたとする「禁欲説」があります。

大塚氏は、この二つの説のうち、禁欲説こそ正しいと考え、西欧に資本主義が成立したことを実証的に説明するものとして、中産的生産者層の両極分解といった説を唱えました。資本を前期的資本と産業資本の二つに区分し、前期的資本は、先程の営利欲に基づく伝統的な商業資本を代表とするものとし、資本主義を代表する産業資本はこの前期的資本とはその系譜が異なるもので、断絶しているものとしたのです。

そして、イギリスを例としてみると、近代資本主義のイギリスの工場主層の主流は、商人ではなく18世紀にはイギリスの人口の半数以上を占めていた半農半工の社会層であり、中産的生産者層がその淵源だとしたのです。この中産的生産者層が両極分解し、工場主である資本家とその下で働く労働者になったわけです。

私は、労働に基づく所有という理念は、この歴史の流れの中から生じ、人々共有の価値観となったと考えたのです。従来の社会ではなく新たに形成された目的社会、その社会の秩序の正当性、それが労働に基づく所有であり、それを基礎づけたのが、先程論じたロックだったのです。

この、労働に基づく所有という理念により秩序が維持され、それが社会全般に広まり、商品の価値もが労働に基づくとされ、実際の取引において商品の価値は労苦骨折りであると誰もが思念するに至った時、労働価値説が誕生したのです。

以上の歴史の検討を経て、身分から労働による所有へといった支配の正当性の歴史的変化、これに着目し、この正当性に覆われていない人間関係が、社会の根底に普遍的に存在するのではないかと考えたわけです。そして、それを私は「純粋人間関係」と呼んだのです。純粋人間関係に、中世は身分という理念が結びついたのに対し、近代は労働という理念が結びついた、こう考えたのです。

 

5.戦後日本の所有権秩序と高度経済成長

今申し上げた、昔のイギリス近代の歴史的事実が本当に正しいのか、こういう疑問も出るでしょう。実際、一時期一世を風靡した大塚理論には現在に至るまで多くの批判があるようです。しかし、西洋経済史講座やその他多くの文献を読んだ限りでは、私は基本的に正しいのではないかと思ったわけです。もちろん私にはそれを実証的に検討することはできません。

ところが、私は、戦後日本の社会の構造の変化も同じようなことが言えるような気がしたわけです。

戦後日本は敗戦により、政治制度はもちろん、産業の施設も空襲によって破壊され、その全てが新たな価値観の下に社会が形成されてきました。その時に努力に基づく所有といった理念が産業発展の主流になったと私は考えたわけです。それは神奈川県自治総合センターの1987年度の「地価高騰と土地政策」という報告書で論じたことなのです。

この所有権秩序を維持する正当性は、身分に基づくものではなく、個々の人間の努力に基づく、これを推し進めたのが持ち家政策であり、その最終的な結果が地価高騰だった、こう考えたのです。努力に基づく所有権は、必然的に所有権絶対の思想を生み出すのではないか、企業の秩序を維持する努力に基づく所有権が、土地にも適用されたからこそ土地神話が生じてしまったのではないか、このように考えたわけです。

このように、企業で働く人は、その上下関係の正当性を努力に基づく所有、すなわち労働に基づく所有ということに求めたわけです。同じ所有権であっても、身分的に正当化されるのではなく、個人の努力によって正当化されたと考えられるのです。そしてそれが戦後だったからこそ、新たな目的社会、すなわち中小企業を次から次へと形成して発展していった時代だったからこそ、この理念が実現できたのです。

このことはイギリスの中産的生産者の両極分解と同じような気がするのです。同じ労働に基づく所有という正当性により社会が維持されて、生産が増大し、日本でも高度経済成長と表現された戦後の資本主義が確立されたと考えたわけです。

 

6.「支配の正当性」から「拡がりの確証の論理の設定」へ

ところが、自分が公務員から転職して民間企業で働くことになり、実際に様々な組織に所属してみると話はそう単純ではないということを実感することになったのです。

例えば伝統的な正当性に基づくイメージのある役所は身分的秩序であり、反対に民間企業は努力に基づく秩序である、単純にそうとは言えない、そういうことが分かってきました。民間企業でも身分的秩序、すなわち全体の分割ということは大きな意味を持っていたわけです。

そこで所有権という言葉から離れて、再度考え始めました。

そして、所有権といった目的社会の上下関係を正当化する理念、言い換えれば上下の秩序を維持する正当性ではなく、個々の人間の生きる意欲、すなわち「主体性」こそ理論の出発点にすべきではないか、こう考えたのです。

秩序を維持する正当性、これは支配の正当性と言い換えることができます。実は、この「支配」という言葉は、主体的な個人の反発を前提とした概念なのです。したがって、支配関係ではなく、主体的な拡がる自我を出発点としてもよいと考えたのです。

そして、「純粋人間関係」という概念も、ここで大きく転回したわけです。すなわち、支配の正当性に覆われていないといった消極的な意味ではなく、拡がる自我が拡がりの確証を求め合う関係、こういった積極的な意味に大きく変わったのです。

拡がる自我が拡がりの確証を求めんがために、確証のための論理を多くの他者に投げかけ、その拡がりの確証のための論理を皆が承認することによって秩序が維持されている、こう考えたわけです。

 さて、このように、拡がる自我は他者へ拡がりの確証を求めるものであり、これには無限の可能性があるわけです。そしてその論理は、自分が期待する内容を他者が承認することにより成り立つのであり、その期待度が高いほど承認された満足度も高くなるでしょう。そして、それは、生産活動を担う企業、公的機関でも同じです。そしてその中身の特徴を見るときに純粋人間関係という概念が役に立つのです。

3で述べました“全体の分割の論理”と“物を創り出す論理”といったものも、現実的には自分自身の人生経験から感じ取ったものですが、純粋人間関係にどのような価値が付着したか、純粋人間関係の中でどのような価値が求められたか、こういう問題に整理できるわけです。

そして、身分に基づく所有と労働に基づく所有というものも、秩序を維持する所有権の正当性としてではなく、個々の拡がる自我が自由に設定する論理の意味であると考えることとしたわけです。

このように、昔論じた、秩序を維持する正当性という視点ではなく、拡がりの確証の論理の設定という軸を中心にして、様々な社会、組織を考えていこうと思っています。純粋人間関係は、その社会・組織を考えて行くにあたっての基準となる概念なのです。

 

参考文献

水田洋「近代人の形成」東京大学出版会

大塚久雄「近代欧州経済史序説」岩波書店

大塚久雄「欧州経済史」岩波書店

大塚久雄「宗教改革と近代社会」みすず書房

遊部久蔵「労働価値論史研究」世界書院

ウェーバー(世良晃志郎訳)「支配の諸類型」創文社

トレルチ(内田芳明訳)「ルネッサンスと宗教改革」岩波書店

ホッブズ(永井道夫・宗片邦義訳)「リヴァイアサン」中央公論社

ロック(宮川透訳)「統治論」中央公論社

神奈川県自治総合研究センター「地価高騰と土地政策」

 

(2015年1月公表、改定版2020年12月公表)

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