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自己と団体との同一視 ~生き甲斐を得るための構造と愛社精神~

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自己と団体との同一視 ~生き甲斐を得るための構造と愛社精神~

和田徹也

目次

1. 問題提起  2.生き甲斐とは何か  3.他者との言葉の意味の共有の二つの類型  4.自分と他者との同一視の構造  5.自己と団体との同一視  6.愛社精神の根拠  7.愛国心の根拠  8.生き甲斐を得るための構造の構築と全体の価値  文献紹介:ヘーゲル「法哲学」  参考文献

1. 問題提起

人間は生きていく上で、他者と様々な関係を結んでいます。この関係は、例えば、家族、親族、町内会、学校、趣味のサークル、等々、様々ですが、やはり重要なのは生きていくための生産活動における関係でしょう。血縁関係である家族や親族は生まれながらにして関係が成立していますが、生産活動は、もちろん家族で行われる場合もありますが、現代ではその多くが、他者と新たな関係を形成することにより成立しているわけです。

生産活動は他者との協働で行われます。この場合、他者との協働は、団体に所属するという新たな関係の形成によって実現することがほとんどだと思われます。端的な例で言えば、会社に入社して働くということです。この場合、役所で働くことも、同様に、生産活動の一種であると考えることができるでしょう。

この団体での他者との協働については、人々は生計を維持するために仕方なく働いていると、まずは考えられるかもしれません。賃労働という言葉がその気持ちを端的に表しているわけです。

しかしながら、単に生計を維持するため消極的に働くだけではなく、積極的に情熱を傾けて働いている人も多いのではないかと思うのです。この場合、自分の業績を他者に評価してもらうことに快感を得る、このことが大きな意味を持っていると思います。

しかしながら、私は、それだけではなく、会社そのものが発展していくことにも快感を得ているのではないか、このように思うのです。ここには会社と自己の同一視といった事実が認められます。言い換えれば、愛社精神といったものに動かされて働いているのではないかということです。

この情熱の根拠を探る、自己と会社といった団体との同一視はどのような仕組みで構成されているのか、愛社精神はどこから生じているのか、こういった事を今回は考えてみたいと思います。そして、さらに大きく、国家という団体についても、愛国心とは何かといった事について、若干触れてみたいと思います。

 

2.生き甲斐とは何か

情熱をもって生きるということは、生き甲斐があるということでもあります。では生き甲斐とは何でしょうか。

生きるとは、物質代謝を行ってエネルギーを摂取・消費することだと言えますが、それだけではありません。他者に向けた主体的な行為でもあります。人間は、他者に対して様々な働きかけを行って生きる、主体的な存在なのです。

この主体性を表現することは困難ですが、私はそれを「拡がり」という概念を出発点として理論立てました。主体的な個人を「拡がる自我」と表現したわけです(「拡がる自我」)。

拡がる自我は、まず生命体として物質代謝が不可欠です。この物質代謝は「物に対する拡がりの確証」と表現することができると私は考えます。

そして、拡がる自我は他者に対しても生きる証を求めようとします。すなわち、拡がりを実感しようとするのです。それは、他者に対して投げかけた言葉の意味を他者と共有することことによって実現します。これを私は「他者に対する拡がりの確証」と表現しました。ここに意味とは言葉に対する主体の把握の仕方のことです(「拡がりの確証と組織文化の本質」)。

実は、個々の人間すなわち拡がる自我にとって、生き甲斐とは、他者に対する拡がりの確証の実現にある、このように言えるのではないかと私は思うのです。

他者に対する拡がりの確証は、言うまでもなく、様々な様相、構造のものがあります。他者との言葉の意味の共有の形態・内容は無限なのです。そこで、以下、その類型を考えてみたいと思います。

 

3.他者との言葉の意味の共有の二つの類型

無限に存在する言葉の意味、それを私達人間は他者と共有しようとします。ではどのように共有するのでしょうか。

私は、他者との言葉の意味の共有の形を、大きく二つの類型に分けることが可能だと思っています。

第一の類型は、自分の内心の自由に基づく言葉を自分自ら発する形です。第二の類型は、自分の内心の自由に基づく意味を他者が発する言葉に託するといった形です。

どちらの場合も、出発点は個々の独立した個人、すなわち個々の拡がる自我であることは言うまでもありません。ただ、他者との言葉の意味の共有が直接的なものか、間接的なものかの違いがここにはあるわけです。

もちろん、基本となるのは第一の類型、個人同士すなわち自分自らが言葉を発する直接的な他者への拡がりの確証です。個々の拡がる自我の内心の自由に基づく言葉の意味を直接他者に発し、他者とその意味を共有することにより拡がりを確証するのです。

この場合、言うまでもなく、一対一の単純な会話の場面には限られません。様々な日常生活における集団的な行為、学校生活、職場での生産活動、これらは全て、個々の拡がる自我自身の他者への拡がりの確証の行為であると考えることができるのです。

しかしながら、自分自身の行為でなくても、例えば、自分の子供が試験に受かったといった事実は、自分自身も嬉しいはずです。試験も他者との言葉の意味の共有であり、試験に受かるということは他者への拡がりの確証の実現であることは間違いありません。では、自分が試験に受かったわけでもないのになぜ本人と同様に嬉しいのでしょうか。

これは、自分と自分の子供とを同一視したということだと思うのです。まさに先程の第二の類型なのです。間接的な拡がりの確証なのです。

 

4.自分と他者との同一視の構造

それでは、この自分と他者との同一視はどのような場合に生じるのでしょうか。

まず考えられるのは、血縁に基づく人間関係でしょう。

以前論じたとおり、血縁関係は人間存在にとって絶対的な存在です(「独立した個人と人間存在の全体性」)。血のつながりは誰もが否定することはできないのです。人間は物理的存在であり、その独立性は否定できませんが、血縁に基づく人間関係は、その他の他者一般の人間関係とはやはり異なるのです。どういうことかというと、血縁に基づく秩序が厳として存在しているということです。

この秩序は愛情によって担保されています。自分の子供をはじめとする肉親との同一視はこの愛情に基づくものと考えられます。愛とは他者との一体感を意味しているのであり、それは本質的には、無条件的な一方的な性格のものであると言えるのです。

このように、血縁が他者との同一視を生み出していることは経験上明らかだと思います。

では、血縁関係にない他者との同一視はどのように生じているのでしょうか。生産活動を例に考えてみましょう。

先程申し上げたとおり、生きる人間にとって物質代謝は不可欠であり、これは生計を維持するということを意味します。生計を維持するために、人間は団体に所属して働く、言い換えれば生産活動を行うわけです。

この団体は、生産活動を行うといった目的を有する社会です。以前から論じているとおり、社会類型上、これは目的社会に分類できます。そして、多数存在する目的社会を包摂する、一定のまとまりある地域、これが全体社会として分類されるわけです。

目的社会は、個々の拡がる自我が他者への拡がりの確証を得ようとする場です。個々の拡がる自我が、自身の内心の自由により形成した言葉の意味を他者と共有する場であるということです。

生産活動は他者との分業により行われます。分業は他者と言葉の意味を共有しなければ成り立たないのであり、まさに他者への拡がりの確証の実現であるわけです。

他者と拡がりの確証のための論理の意味を共有する必要性、実は、自己と他者との同一視はここに生じるのではないかと私は思うのです。それは、言葉の意味を共有するための一体感でもあるわけです。

これは、先程の血縁に基づく家族の一体感とは大きく異なるでしょう。他者との論理の意味の共有を目的とする、手段としての一体感だからです。それは無条件的な、一方的な愛に基づく一体感とは異なるのです。

このような、他者への拡がりの確証の論理の設定のために、自己と他者との同一視は生じます。もちろん、この同一視には他者への哀れみとか、喜びの共有とか、感情的なものもあります。しかし、それはあくまで派生的なものであって、その同一視の本質は、他者と言葉の意味を共有するために必要とされる、自己と他者との人間としての同一性、他者との内心の均一性にあるのではないかと私は思うのです。

ここで重要なことは、以上申し上げた自己と他者との同一視は、直接個人としての他者を自分と同一視するのではなく、何らかの共通の基盤を構築した上で行っているのではないかということ、その基盤の上で自己と他者を同一視する、こういう構造ではないかということです。以下、そのことをさらに詳しく見て行きましょう。

 

5.自己と団体との同一視

物理的存在である身体を前提にすれば、個々の人間は独立した存在となります。したがって、言葉もその都度通じるだけであり、人の集合体である団体の共同意志なるものも、個々の人間の意志の単なる集合体に過ぎなくなります。

しかしながら、それでは他者への拡がりの確証の実現は、不確実になってしまいます。そこで、個々の人間すなわち拡がる自我は、他者との共通の基盤を構築するのです。それが身体から離れた精神といったものではないかと私は思うのです。

個々の拡がる自我の他者への拡がりの確証は、内心の自由により形成した自分独自の言葉の意味を他者と共有するところに成立します。この際、この精神といった概念が、他者との共通の基盤として強力な力を発揮することになるのです。なぜなら、物体である身体から独立した精神という立場、言い換えれば、宙に浮く第三者の立場といったものから現実の事物を表現することが可能になるからです(「身体と精神、自我と他者」)。

実は、このように、精神といったものを前面に出すと、個々の人間の集合体である団体の意志といったものが、実在するものとして認識可能になってくるのではないか、このように思うのです。なぜなら、個々の人間を超越した精神が、個々の人間を超越した団体それ自体の意志を形成するからです。団体の意志が他者との共通の基盤になるわけです。

では、団体自体の意志が認識可能になってくると、どういうことになるのでしょうか。

団体に所属する個々の拡がる自我は、他者への拡がりの確証のために団体に所属しているわけです。まずは団体の内部で、他者に対して言葉の意味を共有しようとします。

もちろん、団体は、物理的個人が活動することにより成り立っています。ところが、団体の意志が認められると、この物理的個人は団体の手足になるわけです。団体の一部、機関として、団体の外部の他者に言葉を投げかけ、拡がりの確証を得るといった事になってくるのです。これは、団体自身の拡がりの確証と言い得る事態であるわけです。

このように考えれば、団体に所属する個々の拡がる自我は、団体自身の拡がりの確証と自己の他者に対する拡がりの確証を同一視することになるでしょう。なぜなら自分自身団体の手足すなわち機関であり、団体の一部となっているからです。

ここに自己と団体との同一視が完成されるわけです。団体の構成員である個々の拡がる自我の、団体の外部の他者に対する間接的な拡がりの確証が実現するのです。

 

6.愛社精神の根拠

血縁関係に基づく愛は、他者との一体感を意味しているのであり、それは本質的には、無条件的な一方的な性格のものであると先程申し上げました。

これに対し、血縁関係に基づかない、目的社会としての団体と自己との同一視においては、その構成員である個々の拡がる自我は自分の拡がりの確証を得ることを目的とするものであり、同一視はあくまでも手段であって、本来は無条件的な愛の発生は考えられないのかも知れません。

しかしながら、自己と団体を同一視した結果、それまでの手段としての性格が消えてしまうのではないか、このように私は思うのです。

拡がる自我の拡がりの確証は、自己の内心の自由によって形成した言葉の意味を他者と共有することによって実現します。この時、団体の外部の他者は、団体といった有機的存在に向き合う対立者、独立した主体となります。それは、団体の内部の他者とは明らかに異なるわけです(ヘーゲル「法哲学」423頁)。

この団体の外部の独立した主体との対比において、団体に対する愛着が発生するわけです。団体を構成する個々の拡がる自我は団体と対立するのではなく、所属する団体に対し一方的な愛情を注ぐことになるわけです。実質的な意味での自己と団体との同一視であり、まさに、自己と団体とが一体になったということです。

企業という団体でももちろん同じことが言えます。企業は営利を目的とするのであり、企業の外部への拡がりの確証は明確な基準があります。その基準を利用して企業の構成員である個々の拡がる自我は間接的に拡がりを確証するのです。

ここに愛社精神は成立します。自分と会社が一体となったわけです。

 

7.愛国心の根拠

では、ここでさらに視野を大きくして考えてみたいと思います。国に対する愛国心の根拠はどこにあるのでしょうか。企業をはじめとする団体は、その外部の他者との対立から愛社精神が生まれたわけですが、国家はどうなのでしょうか。

実は、国家の場合は少々複雑です。国家という概念には、先程申し上げた社会の類型において、全体社会としての側面と、目的社会としての側面があると考えられるのです。

前者は、個々の拡がる自我が拡がりの確証を得る可能性のある地域的な範囲としての性格です。後者は、全体社会の秩序を維持するための公権力行使のための目的社会としての性格です。愛国心はこの二つの側面から生じると私は考えます。

全体社会としての側面から生ずる愛国心は、個々の拡がる自我の他者への拡がりの確証の期待から生じるものです。具体的には、言語が通じる範囲、交通可能な範囲、同じ宗教の範囲、その他、他者と言葉の意味を共有するための共通の基盤に対する愛情から生じるものです。その愛情は、個々の拡がる自我の、他者への拡がりの確証への希望と情熱に基づくものだと考えられます。

一方、目的社会としての側面から生ずる愛国心の代表が、国際社会における国家と自己との同一視により生じる愛国心です。歴史的に見れば、武力行使による領土拡大がその典型であると考えられます。現在では、所属する国家の様々な経済的発展がその典型でしょう。まさに自己と国家という団体との同一視なわけです。

この点については、国家という概念は極めて複雑なので、後日改めて詳細に検討したいと思います。

 

8.生き甲斐を得るための構造の構築と全体の価値

先程申し上げたとおり、生き甲斐は他者との言葉の意味の共有による拡がりの確証から成り立ちます。そして、それは団体との同一視によって、間接的な他者に対する拡がりの確証を実現することになります。自己と団体との同一視が生き甲斐を得る方法を大きく拡大していくわけです。

実は、この団体との同一視が、以前論じた、目的社会の組織を維持する「全体の価値」を生むことは明らかだと私は思うのです。

組織を維持するには、秩序を乱そうとする誘惑や衝動を乗り越えるための、より高い価値が必要です。秩序を構成する諸個人が一定の同じ方向へ向くための、より大きな価値が必要なのです。私はこれこそが、全体の価値であると考えたわけです。

全体の価値があるからこそ、人々は組織が目指す一定の方向に目を向けます。なぜなら、価値は誰もが求めるものであり、可測性があるものだからです。全体の価値は秩序を乱す衝動を打ち消す、より高い、より大きな価値を持つわけです。したがって、目的社会の組織の秩序を維持するには全体の価値が必要となってくるのです。

企業の発展・成長を実現するには、企業の秩序を維持する全体の価値が不可欠となります。秩序が維持されて初めて、個々の拡がる自我の力が十分に発揮されるからです。

したがって、全体の価値を構築すること、そしてそのための、個々の社員が生き甲斐を得るための構造を構築すること、これこそ企業の経営にとって極めて重要な課題になるわけです。これにより、個々の社員の企業との同一視が成立し、企業もますます発展していくわけです。

労務管理の基本理念はまさにここにあるのだと私は思います。その具体的手法については、後日改めて論じたいと思います。

 

文献紹介:ヘーゲル「法の哲学」

今回紹介するのは、ヘーゲルの「法の哲学」です。上妻精(ただし)先生、佐藤康邦先生、山田忠彰先生の訳です。この本は詳しい注釈があり内容もよく理解することができました。

最初から思い出話になって恐縮ですが、ヘーゲルの法の哲学を初めて読んだのは今から40年位昔のことで、中央大学の法哲学ゼミのテキストとして読んだのが最初です。この世界の名著シリーズの、藤野渉先生、赤沢正敏先生の訳の本です。

この本も素晴らしい訳で、もちろん今回も参考にしたのですが、当時はまだヘーゲルの他の著作を読んだことが無く、ヘーゲルの深い哲学理論もまだよく分かっていなかったので、十分理解することはできず、全部読み通すこともできませんでした。

そこで何年か前に新たにこの本を購入し、ヘーゲルの論理学の知識も踏まえて、全部読み通したわけです。この本は、まさに、今回の「自己と団体との同一視」のテーマにぴったりの内容だったので紹介することにしました。なお、ヘーゲルの論理学については、この講座第20回「弁証法とは何か」で詳しく解説していますのでぜひご覧ください。

ところで、自己と団体との同一視と聞くと、社会心理学的なイメージを持つ人が多いかもしれません。実は私も昔はそうでした。例えばこのパーソンズ・シルスの「行為の総合理論をめざして」で論じられている、パーソナリティ体系での「同一化」という概念です(206頁)。これは、カセクシスといったフロイトのリビドーのような心的エネルギーを基に考える理論で、社会的客体への愛着によって動機づけられた志向の型を習得するといった内容なわけです。

しかし、心理学としてではなく、哲学的な理念として、自己と他者、自己と団体との同一視を基礎づけることもできると思うのです。ヘーゲルは、まさに、この本でそれを論じているわけです。

この本は、「抽象法」「道徳」「人倫」の三つの部から成ります。

抽象法は、直接的な自由な意思を出発点とし、外的な圏域である「所有」がまず成立します(90頁)。抽象的な無限な意志が、その無限の意志とは相違した外的なもの、物件に関わるということです。これにより、自然的な現存在を持つ人格が現れます(92頁)。

このことを私なりに言い換えれば、無限な意志はまさに「拡がり」であり、外界の対象によってこの拡がりが意識され、自我が成立するといった事なのです。

ヘーゲルは自由な精神を出発点とし、外界の対象に、所有という絶対的意味を与えました。そしてその所有は、他者との契約の関係により変動するのであり、それは自己と他者の双方の合意により実現します(134頁)。そこに不法が生じる根源があり(148頁)、犯罪と復讐が検討されて、道徳へと移っていきます(172頁)。

道徳の立場は、意志が単に無限であるのではなく、自己に相対する無限性の立場です。ヘーゲルに言わせれば即自的な無限ではなく対自的に無限であるということです(176頁)。それは、即自的な意志から区別される主観的意志です(176頁)。そしてヘーゲルは、道徳的立場は主観的な意志の法であると表現しています(178頁)。要するに意志と主観性が分離対立しているのです。

これらを私流に理解するならば、拡がる自我が他者と出会い、自己の内に形成した一般化された他者によって規定されることだと思うのです。さらに言うならば、個々の拡がる自我の他者への拡がりの確証の論理の設定は試行錯誤なのです。この時拡がる自我は、他者一般の立場と拡がりそれ自体の二つに分裂しているのであり、自己がもう一つの自己により規定される形になっているわけです。

道徳では、この後、故意と責任といった犯罪論に関する検討が詳細になされます。そして、さらに、善と良心が検討されます。

善は意志の概念と特殊的な意志との統一として理念であり、実現された自由であり、世界の絶対的な最終目的であるとヘーゲルは言います(205頁)。そして先程申し上げた主観性に属する、特殊性を規定するのが良心です(214頁)。ただ、ヘーゲルに言わせれば、ここでは善もあれば悪もあるのであって、要するに道徳における良心は形式的なもので、真実の良心は人倫にて初めて確立されるとのことなのです(217頁)。

この点についても私なりに理解すれば次のようなことだと思うのです。

他者に対する拡がりの確証の実現は試行錯誤の結果であり、道徳は自分の主観的なもので、あくまで形式であって実質的な内容がありません。他者への拡がりの確証を確実にするには、普遍的な理念に基づく拡がりの確証のための論理を構築する必要があるわけです。それがヘーゲルの言う人倫ではないかと思うのです。

人倫は、抽象的な善と主観的な意志との具体的な同一性です(245頁)。人倫は自由の理念であり、生ける善として存在し、自己意識の行為によって自らの現実性を持つものです(308頁)。人倫的な諸規定が自由の概念であり、諸個人の実体性であり、普遍的本質であって、諸個人は偶有的なものとしてかかわるだけになります(310頁)。この人倫的実体をヘーゲルは精神と呼びます(320頁)。

これも私なりに理解するならば、自由は無限性であり拡がりの確証の論理を打ち立てるのがその本質であるが、その論理こそが人倫としての自由であり、個人はその一部となる、こういうことだと思うのです。他者への拡がりの確証の論理の中で個々の拡がる自我は生きているわけで、それがヘーゲルの言うところの精神だと思います。

さて、ヘーゲルは人倫を、家族、市民社会、国家の三つに分けて論じています。

家族は精神の直接的実体性として、精神の感じ取られた統一、愛を自己の規定としているとヘーゲルは言います(322頁)。家族は婚姻という形態を通じて、外面的実在である家族の所有物と財に対する配慮を通じ、子供の教育と家族の解体を通じて完結します(324頁)。

この表現は、現在の日本の家族を見ても納得できると思います。結婚して子供ができて、愛情と住居等の物財の中で子供を育て、子供が成人すると独立して家族も解体していく、こういうことだと思います。子供は独立すると、次に論じられる市民社会の一員になるのです。

市民社会は、特殊的なものとしての具体的な人格が欲求の塊として一方の原理となり、他の同様な特殊性との関係において、普遍性の形式によって媒介されたものとして通用させ満足を得る場です(351頁)。利己的な目的を持つ個々人の生存と利福は、万人の生存と利福の内に編み込まれることにより現実となる、特殊と普遍の密接不可分の関係にあるわけです(353頁)。

要するに、個々の経済主体が自己の欲望のもとに活動し、それが社会を成り立たせているという、資本主義の常識的な事実を言っているのだと思います。私なりに言えば、個々の拡がる自我は、他者へ拡がりの確証の論理を投げかけて、他者に受け入れられることにより経済的に生活しているわけですが、その受け入れられる論理こそ普遍であるということです。

この後ヘーゲルは、農業、産業、公務といった職業身分を検討し(371頁)、経済を意味する欲求の体系のルールを司法と題して詳しく論じています(377頁)。そして、個々の経済主体である職業団体を詳しく検討しています(420頁)。

先程申し上げた、目的社会と全体社会の区分に従えば、職業団体は目的社会であり、市民社会は全体社会だということです。この職業団体こそ、今回の講座のテーマである、自己と団体との同一視を意味しているのです。個々の拡がる自我の拡がりの確証が、個々の経済主体である所属団体の拡がりの確証と同一視されているのです。

そしてヘーゲルは最後に国家を論じます。国家は、人倫的精神、顕現した自分自身にとって明瞭な実体的意志であるとヘーゲルは言います(426頁)。国家は市民社会と混同されてはならず、国家は客観精神であるがゆえに個人自身はただ国家の一員であるときにのみ、客観性、真理、人倫を持つことになるわけです(427頁)。ヘーゲルは、国家は契約ではないとし、社会契約説に反対しています。

この点についても、私なりに理解すれば、他者への拡がりの確証は絶対命令であり、拡がりの確証のための論理は絶対に存在しなければならず、それが客観精神となるわけです。国家はまさにこの客観精神なのです。国家があってこそ、拡がりの確証が実現できるということになるのです。

この後ヘーゲルは国家の国内体制として君主権、統治権、立法権を論じ、対外主権として、戦争についても触れています。さらに国際法、世界史にも及んで、この本は終了しています。

国家についてはいろいろ論じたいこともあるのですが、先程も申し上げた通り、国家は極めて複雑な問題なので、公共性などの検討も含め、別の機会に論じたいと思います。

 

参考文献

ヘーゲル「法の哲学」(上妻精・佐藤康邦・山田忠彰訳)岩波書店 (藤野渉・赤沢正敏訳)中央公論社

ヘーゲル「小論理学」(松村一人訳)「精神現象学」(金子武蔵訳) 岩波書店

M.ハイデッガー(細谷貞雄訳)「存在と時間」理想社

T.パーソンス・E.A.シルス「行為の総合理論をめざして」(作田啓一他訳)日本評論社

C・I・バーナード(山本安次郎他訳)「新訳経営者の役割」ダイヤモンド社

加藤新平「法哲学概論」有斐閣

岩崎武雄「西洋哲学史」有斐閣

高山岩男「哲学的人間学」多摩川大学出版部

時枝誠記「国語学原論」岩波書店

和辻哲郎「倫理学」岩波書店

上妻精・小林靖昌・高柳良治「古典入門 ヘーゲル法の哲学」有斐閣

(2023年2月公表)

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