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意志と理念 ~生の力とニヒリズム~

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意志と理念 ~生の力とニヒリズム~

和田徹也

目次

1. 問題提起  2.意識とは何か  3.意志の論理  4.社会的環境と理念の形成  5.理念の具体例としての労働価値説  6.個人の意志と宇宙の意志  7.宇宙の意志とイデア  8.ニヒリズムと生の力  文献紹介:ショーペンハウアー「意志と表象としての世界」

 

1. 問題提起

前回の論文では、生の奔流を主題として論じました。社会関係・役割といった経験科学の概念を中心にして、リビドーといった精神分析の概念を用いることにより生きる人間を分析したわけです。この科学的分析は、過去の人間の生の奔流、意欲の発現といった経験的事実をその対象としたものです。

それでは、未来へ向けてはどのように考えればよいのでしょうか。

この点、生の奔流は未来に向けて「拡がり」と表現できると申し上げました。拡がりは、人間の主体性を表現する、個々人の欲求や意志、意欲を含む包括的な概念です。

この内、欲求は生理的な要素を多分に含む概念であり、食欲や性欲などがその代表的な例となります。それらは生きている人間なら誰もが感じる決して否定できない本能的な性格を有するものです。

これに対し、意志は、何かを成し遂げようとする、将来へ向けた論理の設定としての意味合いが強い概念だと思います。そして、より具体化した、意志と欲求との中間にあるような心の情動が意欲といったものではないかと思います。

この生の奔流にある主体としての人間、これを私は「拡がる自我」と呼びました。社会的存在である人間すなわち拡がる自我は、生きる証を常に他者に求めています。他者に対して言葉と論理を投げかけその意味を共有することこそが生きる証であり、他者に対する拡がりの確証です。この未来へ向かう拡がりの確証の論理の設定こそ、まさに意志の発現と表現することができると思うのです。

しかしながら、意志は論理だけではありません。湧き上がる生の奔流として、本能的な欲求と共通する何らかの否定することができない力をも併せ持っているのです。人間の生命力、湧き上がる力の発現、こういった側面が意志という概念にはあるのです。

そこで、今回は、意志とは何か、生の奔流を哲学的に分析し、意志の断面を観ることによりその複合的な構造を明らかにしたいと思います。そして、意志が必要とする理念をも併せて検討することにより、人間とは何かについて深く追究していきたいと思います。

 

2.意識とは何か

私達はどういう時に、意志といったものを感じるのか、意志なるものを意識するのか、こういったことから考えてみたいと思います。そこで、まず、意志と意識の違いから考えてみたいと思います。

では、意識とは何か、この問題から検討してみます。

この点、意識は意識の対象が必要との考えがあります。対象無くして意識無し、こういうことです。意識は何かに対する主観的態度、指向(志向)的関係にあるというのです(ブレンターノ「道徳的認識の源泉について」68頁)。

これに対し、意識という概念には、意識の対象が出現する以前の状態も含まれると考える立場もあります。非志向的意識、メタ意識なるものがあるという考えです(井筒俊彦「意識と本質」16頁)。この発想は、何か本質を把握しようといった、統一的な力の発現が意識の根底にあることを前提にしているように私には思われるのです。

しかしながら、意識には受動的な側面があると思うのです。したがって、私はやはり、意識は対象があって初めて成立すると考えます。意識という言葉には、何かに気付くといった、気付く対象を必要とする性格があると思うのです。

もちろん、私は、意識以前の状態も存在すると考えます。しかしそれは統一的なものではなく、受動的な感性としての性格が強いのではないかと思うのです。外界の何らかの物を感知して初めて意識が生まれると思うのです。

この場合、勿論、外界の物を感知する以前は常に意識が存在しないというわけではありません。人は内心で様々な事を考えています。それは内心の意識の対象を前提とするものです。これは意識的なことに違いありません。ただ発生論的には、内心の意識の対象は、外界の意識の対象を前提とする、経験に基づくものではないかと思うのです。

この意識以前の無意識的な何らかの状態、対象が出現する以前の外界へ感性を向ける何らかの主体的な状況、生の奔流に押されて自分自ら外へ湧き出ていく何らかの感覚、これを私は「拡がり」と表現したわけです。精神において統一されてまとまって存続するようなものではなく、外に拡がる状態が基本であると思ったのです (「拡がる自我」参照)。

さて、人間に感覚すなわち感性を認める以上、何らかの対象が人間の外部にあることは間違いありません。この場合、それが何であるか、実在するものであるとか、その素性ははっきりしなくても構いません。この感覚を得る何らかの対象と出会って「拡がり」は意識されるのです。そして、対象に注目することにより「意識」が前面に出てくるのです。

統一的な意識があるから外界の対象に注目するのではなく、外界の対象と出会うから拡がりが意識されるのです。そして、同時に外界の対象も意識され、対象に何らかの働きかけを行う統一的な意識が成立するわけです。

 

3.意志の論理

では意志とは何でしょうか。

今、「拡がり」が外界の対象と出会うことにより、対象を意識すると同時に拡がりが意識され、対象に注目すると共に働きかけを行う統一的な意識が成立したと申し上げました。実は、対象に注目する時、既に、意志は出現しているのです。

注目するということは、そこには何らかの意志的要素があります。何らかの選択を行っているからです。さらに、注目した対象に働きかけを行うことは、何らかの目的を達成させようとする意志の存在が明らかに認められるわけです。

このように、意志とは、何らかの対象を選択し何らかの目的あるいは目標を実現しようとする主体的概念であるとまずは定義できるのではないかと思います。そして、拡がりという概念は、冒頭で申し上げたとおり、様々な要素を含む包括的な性格が強い概念であり、意識はもちろん意欲や欲求、そしてこの意志といった概念も当然に含んでいるのです。

さて、意志が実現しようとする目的や目標は様々なものが考えられます。目の前の食物を食べるといったことから、明日までに仕上げなければならない仕事、さらには人生の目標の実現まで、千差万別です。この場合、将来の目的や目標は言葉と論理によって表現されるのであり、ここに意志の論理的性格が認められてきます。目の前の直接的な欲求と異なり、意志は言葉と論理がその内容を形成する性格が強いのです。ここに、意志の論理が生まれてくるわけです。

ここで、言葉と論理の基本的性質について、意志を検討していく前提として、純粋人間関係論の視点からまとめておきたいと思います。

人間は他者に言葉をかけたくてしょうがない主体的な存在です。この主体的人間を、生の奔流を意味する「拡がり」という概念を基本に、私は「拡がる自我」と表現しました。拡がる自我にとって、言葉を発することは単なる生きるための手段ではなく、言葉を発することそれ自体が生きる目的でもあるわけです(「言葉とは何だろう」参照)。これが、他者に対する拡がりの確証です。これらのことは先程申し上げたとおりです。

ところで、他者に対する拡がりの確証は、内心の自由により形成した自分独自の言葉の意味を他者と共有することにより実現します。意味とは言葉に対する主体の把握の仕方のことです。したがって、個々の拡がる自我は、言葉に各人それぞれの思いを自由に付与するのであり、言葉の意味は曖昧なものとなってこざるを得ません。実は、それを是正するのが論理なのです。最も重要な論理の原則が矛盾律です。

論理を構築することによって、曖昧だった言葉の意味がはっきりし、他者との意味の共有が明確になり、他者に対する拡がりの確証が実現可能になるわけです(「論理とは何か」参照)。拡がる自我は常に他者に対し、自分の論理を投げかけているのです。この場合、他者へ向けた論理は自分自身をも拘束します。なぜなら、他者に対する拡がりの確証は他者との投げかけた論理の意味の共有であり、意味の共有に時間差が存在する以上、当然に投げかけた論理の意味に自らが拘束されるからです。

さて、意志の論理は、将来の自分自身へ向けた論理となります。なぜなら、一定の時間が経過した時点での、将来の自分自身を拘束する論理こそ意志だからです。このことは、他者に投げかけた論理が自分をも拘束することとある意味同じことです。

実は、ここに、自己を他者と同様に客観的に眺めるといった自己意識の成立根拠があるのではないかと思うのです。自己を離れた第三者の立場から自己を認識するわけです。ここでは、論理が自己を拘束する以上、自己から独立した何らかの立場を認めざるを得ないからです。

このように意志は自己意識を生み出します。自分を客観的にとらえることができるようになるのです。意志は、この客観的存在である自己へ向けた論理ともなるわけです。

 

4.社会的環境と理念の形成

意志は、論理と密接不可分であること、そしてこのことが自己意識を生むことが分かりました。自己意識から生きるための理念が形成されてくるのです。

個々の拡がる自我が他者に対して投げかける拡がりの確証の論理は様々なものがあり、生きるということはまさに拡がりの確証の論理の設定であると言うことができます。企業での生産活動、学校での勉強、趣味のサークル活動、町内会の催し、これら全てが拡がりの確証の論理の設定であると言い得るのです。

様々な活動における他者に対する拡がりの確証の論理の設定は、各人の意志に基づいて行われます。何かをやろうとする意志と共に人間は他者に向けて動き出すのです。主体的に生きること自体が意志の発現だと言えるのです。

先程申し上げたとおり、意志は将来の自分に対する論理として表現されます。自分が行う行為、行動を予め論理的に表現するのです。この論理の構築にあたっては、様々な情報や認識が活用されるでしょう。なぜなら、世の中の情勢を把握して客観的に自己を認識してこそ自分の行為が決定されるからです。当然のことながら、盲目的な衝動だけでは人間は生きてはいけません。

さて、ここで、世の中の情勢とは具体的には何であるかを考えてみましょう。自分の周りの自然的・物理的環境ももちろん重要です。しかしながら、ここでより重要なのは、他者との関係すなわち社会的環境なのです。

人間は生まれてから様々な社会に所属して生きていきます。例えば、先程申し上げた企業や学校は、営利あるいは教育の目的のために結成された個人の集合体です。このように何らかの目的を達成させるための個人の集合体が目的社会です。人類は昔から現代にいたるまで、無数の多種多様な目的社会を作り続けてきたわけです。そして、これら様々な目的社会を包摂する一定の地域を基盤とする個人の集合体が全体社会です。

個々の拡がる自我が目的社会を形成するのは、他者への拡がりの確証の実現にあります。目的社会を形成することは、一定の目的を他者と共有することであり、それは他者と特定の論理の意味を共有することを意味しているのです。この共有した論理の意味を基に、自分独自の様々な拡がりの確証の論理を他者に向けて形成していくのが生きる人間なのです。

このように個々の拡がる自我が直面する社会環境は、他者に対する拡がりの確証の論理に満たされています。ただ、ここで重要なことは、誰もが拡がりの確証を実現することができるわけではないということです。ここには様々な挫折があり、さらには、個々の目的社会は、拡がりの確証の実現をめぐる個々の拡がる自我同士の争いに満ちているとも言えるのです。

なぜこのような争いが生じてしまうのでしょうか。その第一の原因は、言葉の曖昧性にあります。先程申し上げたとおり、言葉は曖昧なものとならざるを得ず、形成された論理もその曖昧性を全て排除することはできません。したがって、個々の拡がる自我が互いに共有する論理の意味の把握の仕方に齟齬が生まれてしまうのです。しかし、拡がる自我は、投げかけた論理の意味の他者との共有を期待せざるを得ません。そして、自分の期待に他者を従わせようとせざるを得ません。実は、ここで、期待が争いに転化してしまうのです。

さらには、拡がりの確証を実現し得る地位の希少性といったことも争いの原因の一つです。目的社会は地位役割の体系であり、拡がりの確証の実現可能な地位をめぐる争いが不可避的に生じてしまうのです。

このような、ある意味、極めて過酷な環境の中で、自分の意志に基づき、他者に向けて拡がりの確証のための論理を設定し続けているのが生きる人間すなわち個々の拡がる自我です。この場合、意志は、意志を支える力が無ければ折れてしまうでしょう。この力こそ、生の力だと思うのです。生の力から生まれる希望、この生の情動を論理化したものこそ理念なのです。

理念は常に自分の心に存在することができる論理でなければなりません。なぜなら自分の生きる意欲を維持増強するのが理念の機能だからです。理念があるからこそ、個々の拡がる自我は強い意志を持つことができるのであり、社会の中を生き抜いていけるのです。

さて、このように考えると、将来の自分の行動を意味する意志の論理は、ある理念から演繹的に導かれなければならなくなります。なぜなら、理念は常に自分の心に存在すべきものであり、過酷な現実に直面した際は、理念から即座に具体的な意志の論理が導かれなければならないからです。

では、この理念は、具体的にはどのようなものがあるのでしょうか。次にこのことを考えてみましょう。

 

5.理念の具体例としての労働価値説

以前、私は「価値とは何か」で商品の価値を検討し、労働価値説について論じました。人間の経済活動は、商品交換によって成り立っています。そして、商品の価値は、使用価値と価値に分かれます。前者の使用価値は人々の何らかの欲望を満足させる有用性を意味します。後者の価値は、交換価値をその現象形態とし、その大きさは商品を生産した労働の量によって測られることになります。

言うまでもなく、商品を生産する労働は様々な苦労が伴います。取引先と交渉して原料を仕入れたり、借金して機械を購入したり、様々な社会・人間関係の中で苦労しながら商品を創造していくわけです。実は、私は、この苦労や困難を乗り越えて商品を創造したところに商品の価値の根本があるのではないかと考えました。様々な苦労を乗り越えることを可能にする理念、努力するといった理念、これこそが価値を形作る正体だと思ったのです。

この労働価値説は、経済学者アダム・スミスが言ったとおり、商品の価値は労苦骨折りであると表現できるでしょう。このことは現在の実際の仕事でも、例えば「努力は裏切らない」といった理念によって表明されています。この理念に基づいて様々な困難を乗り越え、人々は商品を創出しているのです。生産活動に伴う様々な困難を乗り越える時に必要とされる努力という理念が有するより大きな価値、このより大きな価値の結晶が商品の価値なのです。

実は、商品の生産は、他者に対する拡がりの確証の論理の設定であると理解することができると私は考えています。労働により創造された商品は一定の論理を表明するものであり、他者に商品を売るということは、他者とその商品の論理の意味を共有することであり、他者への拡がりの確証を実現することとなるのです。商品が売れたということは、この拡がりの確証の論理の意味を他者と共有したことの証なのです。

価値とは、誰もが求めるものであって比較がその本質を成すものです。価値は、より高いより大きなものが求められるのであって、そのための尺度がどうしても必要となります。実は、それを実現するのが、商品の労働生産物としての性質でもあるのです。日々日常の困難を乗り越えるためのより大きな価値こそが、努力すなわち労働の結晶としての商品の価値であり、商品の本来の価値は労働量という尺度によって測ることが可能とならなければならないわけです。その基準となるのが、マルクスが主張した「抽象的人間労働」という概念です。

ここに、拡がりの確証の実現に、価値の差が出現することになるわけです。商品の価値に格差が存在する以上、拡がりの確証の論理にも価値の格差が生じ、個々の拡がる自我の満足の度合いも差が生じるのです。その結果、個々の拡がる自我はより高い価値を目指し、未来へ向けて様々な困難を乗り越えながら、意欲的に活動し続けることになるのです。

 

6.個人の意志と宇宙の意志

さて、以上、理念の具体例として、労働の価値を重視する人間の生産活動を論じてきました。人々は、生の力に基づくこの理念に支えられ、強い意志をもってより大きな価値を求めて活動していくわけです。他者への拡がりの確証の実現に伴う様々な困難を乗り越えるために必要とされる理念が構築されたわけです。

ところで、以上のことは、生の奔流を、一人一人の個々の人間から考えたことを意味しています。主体的な個人を未来へ向けた生の奔流として捉え、拡がる自我と表現したわけです。拡がりは意志意欲等を含む複合的概念ですが、この場合、あくまでも対象となるのは個々の人間です。

しかしながら、生の奔流は、別の捉え方をすることも可能です。生の奔流を、世界あるいは世の中全体と捉えることもできるのです。自分を含めた世界全体、すなわち、宇宙の生の奔流を認めるわけです。宇宙とはあらゆる事物を包括する空間と時間の広がりです。この場合、当然のことながら、個人である自分自身はその中の一部分として機能することになるでしょう。

ここで、意志の捉え方も大きく二つに分かれてくるのではないでしょうか。一つは、いわゆる神羅万象、人間社会のほか全てを含む世界全体、すなわち宇宙の意志を認める発想です。もう一つは、意志はあくまでも個々の人間すなわち個人に限られるという発想です。

古代インド哲学では、ブラフマンとアートマンの二つの根本原理が認められていました。ブラフマンは宇宙の根本原理であり、神々をも支配する絶対者を意味します。アートマンは、生命の本体として生気、霊魂、自己、自我を表すものとされ、個人の本体を表す術語です(高崎直道他「インド思想史」22頁)。今申し上げた意志の二つの捉え方も、このブラフマンとアートマンの区別に従うものだと考えることができるわけです。

先程、意識とは何かを検討した際、意識という概念には、意識の対象が出現する以前の状態も含まれ、何か本質を把握しようといった、統一的な力の発現が意識の根底にあるといった考えを紹介しました。これは個人を超越した世の中全体の生の奔流を認める発想を前提とするものであり、宇宙の意志を認めることにつながる発想だと思います。

また、例えば、西田幾多郎は「善の研究」で、個々の人間が個別に何かを創造するといったものではなく、個々の人間は全てを包括する統一的な或る者の一部であるとし、個々の人格とは意識の統一力であり、宇宙の統一力が特殊な形で表れたものだと論じました。この発想も個人を超越する宇宙の意志を認める発想だと思います。

 

7.宇宙の意志とイデア

さて、宇宙全体の意志を認めるとどうなるのでしょうか。ショーペンハウアーの「意志と表象としての世界」を参考にして考えてみましょう。

この本で、ショーペンハウアーは、世界は私の表象であり、世界は私の意志であると断じました(113頁)。ここに表象とは、目前にあるように心に思い描くことを意味します(111頁)。そして、全てを認識するが何人からも認識されないものが主観であり、主観は世界の担い手であって、全ての客観を成り立たしている前提条件であって、存在するものは主観に対して存在するに過ぎないとしたわけです(114頁)。

この表象としての世界は主観と客観に分かれますが、客観の形式は空間と時間であり、これによって数多性が生じます。一方、主観は全く分割できないものであり、客観の形式は先天的に我々の意識の内に存在すると言うのです(115頁)。ショーペンハウアーは、客観の形式を「根拠の原理」と言っていますが、これはカントの認識論的主観主義と同様の理論だと理解できます。

カントの認識論的主観主義は、外界の物の認識とは、主観の中にある感性と悟性といった先天的な形式によって構成するものであるとする理論です。この理論によれば認識は主観が構成するものである以上、認識できるのは現象であり、物自体は認識することができないことになります(カント「道徳形而上学の基礎付け」188頁)。しかしながら、カントは認識では物自体を不可知としましたが、実践の場では物自体界すなわち英知界を認知できるとし、道徳法則の存在を主張しました(カント「実践理性批判」110頁)。

ショーペンハウアーによれば、認識主観は身体を通じて個体として現れ、一つの客観として現れると同時に意志として現れます(248頁)。意志と身体とは一体であり(251頁)、身体以外の客観は単なる表象となります(253頁)。意志そのものは動機づけの法則の範囲外にあるのであって、意志の現象だけが根拠の原理に支配されるだけであり(257頁)、意志はカントが言う物自体であり、客観である表象が意志の現象となります(262頁)。

意志が物自体であるとなると、意志の認識は不可能になり、現象のあらゆる形式から完全に自由になります(265頁)。時間・空間・因果性は物自体が現象となって初めて当てはまるのであり(276頁)、意志は時間と空間の外にあり、いかなる数多性も個体性もあり得ず、意志はただ一つということになります(288頁)。

以上から、ショーペンハウアーの言う意志は、宇宙の意志であると解釈できると思います(ラッセル「西洋哲学史」748頁)。宇宙の意志それ自体は物自体界にあるのであって認識不能であり、ただその現象形態のみ知り得るのです。したがって、意志の内容は不可知となり、無目的であるとの解釈も可能となります。すなわち意志は盲目的だと言えるのです(322頁)。

さらにショーペンハウアーは、意志の叡智(英知)的性格はプラトンのイデアと一致すると言います。イデアにおいて現れる根源的な意志の働きと一致するというのです(328頁)。

アリストテレスはプラトンのイデアについて次のように言っています。感覚的事物は絶えず転化しているので、共通普遍の定義はどのような感覚的事物についても不可能であり、別種の存在をイデアと呼び、各々の感覚的事物はそれぞれの名前のイデアに従い、そのイデアに与ることによりそのように存在することになる、と(アリストテレス「形而上学」27頁)。

ショーペンハウアーは、意志は意志を完全に客観化しているイデアの即自態であると言います(361頁)。そしてイデアを考察することこそ天才の業である芸術であり、芸術が再現して見せてくれるのは、純粋な観照(主観をまじえない冷静な観察)を通じて把握せられるところの永遠のイデアであり、芸術の唯一つの起源はイデアの認識であるとし、芸術論を展開していきます(367頁)。

以上、私なりに理解するならば、宇宙の意志は不可知ですが、それが客観化したイデアを認識することは可能であり、それこそが芸術の崇高性の意味するところであるということではないかと思います。

 

8.ニヒリズムと生の力

ショーペンハウアーによれば、意志は不可知である以上、その目標は不存在となり、終わるところを知らない努力であると言えます(340頁)。したがって、カントのような道徳法則などを主張することはあり得ず、意志は自由かつ全能であり、行為も世界も意志そのもので意志の他に存在するものはあり得ないことになります(499頁)。

この世界はあらゆる点で意志に属し意志の所有する世界ですが、普遍的かつ本質的にこのような世界において意志の状態とみなされるのは何かと問うと、意志には究極の目標並びに目的が全く欠如している中で、意志は常に努力して止まず、努力こそ意志の唯一の本質であるということになります(555頁)。努力こそ人間の内部で意志と呼ばれるものと同一であるわけです。ところが、努力は不足から生じ、目標に達することもない以上、努力は常に苦悩であるとショーペンハウアーは言うのです(556頁)。

ショーペンハウアーによれば、幸福とは願望の満足にほかならず、願望は欠乏であって、満足や幸福は、それは何らかの苦痛や困窮からの解放に過ぎません(572頁)。人間の生活も世界の各現象も意志の客観化ですが、この意志は目標も無ければ終点も無い努力であり(574頁)、この苦悩から超越するのが解脱であり、空虚な無への移行なのであると言います(706頁)。このように宇宙の意志を認めたショーペンハウアーは、最終的にはニヒリズムに至ったと理解できるわけです。ニヒリズムは全ての根底に虚無を見出し、価値や権威をすべて否定する思想です(コトバンク「デジタル大辞典」)。

ショーペンハウアーは、通常、ペシミズムの代表的思想家だと言われています。ペシミズムとは厭世観と訳され、世の中は最悪だとする思想で、オプティミズムすなわち楽天主義に対する言葉です。まさに努力は苦悩だといった発想のことです。ただ、ニヒリズムが価値や権威を否定した虚無をその内容とするならば、ショーペンハウアーの論述はニヒリズムであると理解することができると私は思います。

宇宙の意志が物自体であり、不可知である以上、ニヒリズムに至るのも仕方が無いと思います。しかしながら、それは必然ではなく、その論者によって異なる好みの問題、言わばその論者の気分次第ではないかと私は思うのです。ニヒリズムはペシミズムすなわち悲観的感情に大きく依拠しているように私は思います。

勿論、ニヒリズムを信奉するのはその人の自由であり、私はとやかく言うつもりはありません。ただ、私ならばニヒリズムではなくオプティミズム、楽天論に行きます。生の力に基づく生きるための理念を認め、希望それ自体に価値があると考えたいわけです。

このように考えていくと、宇宙の意志なるものは認めるべきではないと私には思えてくるのです。意志はあくまでも個々の人間に存するのです。生の奔流は宇宙にも認められると私も思います。しかしながら、宇宙の意志なるものは元来存在せず、個々の人間すなわち拡がる自我の憧れに過ぎず、他者に対する拡がりの確証の論拠として確立されてきたものに過ぎないのではないかと思うのです。

やはり、私は、出発点は個々の人間だと思います。生の力は間違いなく個々の人間すなわち拡がる自我に現れています。この生の奔流は拡がりと表現できるのであり、拡がりには起点があり、起点である個々の拡がる自我が意志を担っているのです。

では、なぜニヒリズムが世の中に広がってしまうのでしょうか。

先程、人間社会は極めて過酷な環境であり、その中で自分の意志に基づき、他者に向けて拡がりの確証のための論理を設定し続けるのが生きる人間だと申し上げました。その困難を乗り越えるために、各人に生の力に基づく生きるための理念が形成されたわけです。

このことは裏を返せば、困難を乗り越えるべきとの発想とは真逆の方向が存在することを意味します。困難など乗り越える必要はないとの発想です。困難を乗り越えようというのは一つの価値観を前提とします。一定の価値観に基づき、生きていくための理念は形成されるのです。ところが、この場合その理念を否定する、さらには全ての価値を否定するといった発想が生じてきます。ここにニヒリズムが求められてくる根拠があるのです。

このことを、私なりに表現するならば、ニヒリズムは、拡がりの確証の論理の設定自体を否定する思考だということです。これに対し、ペシミズムは、設定した拡がりの確証の論理の実現自体が不可能だとする思考だと思います。

他者に対する拡がりの確証は絶対命令です。したがって、当然、ニヒリズムも他者に対する拡がりの確証のための論理たり得ます。困難を乗り越えようとする理念自体を否定するニヒリズムは、過酷な人間社会では、挫折に怯える多くの人々の注目を集めざるを得ないのです。ここにニヒリズムが世の中に広がる大きな理由があるのではないかと私は考えています。

ただ、私は、生の力を信じたいと思います。生きる力に基づく他者に対する拡がりの確証の論理は、その生の力によって極めて堅固なものとなります。これに対し、ニヒリズムの論理は、過酷な環境で人々が不安の中で生活している以上、多くの他者に注目されるとは思いますが、それは一時的で脆弱なものであり、歴史上繰り返し出現する一過性のものだと思うのです。思想史的にも、ショーペンハウアーの論述は、ニーチェによって権力への意志へと変化し、その後の生の哲学の基盤となりました。

生の奔流の発現である意志は、論理的性格が強いことを今回は主張しました。しかしながら、意志は論理だけではなく生の力をも兼ね備えていたわけです。そして、生の力を論理化したものが理念であったわけです。私は、やはり希望それ自体に大きな価値をおいて、自分の理念を構築することにより、人生上の様々な困難を力強く乗り越えていきたいと、今回改めて強く思ったわけです。

 

文献紹介:ショーペンハウアー「意志と表象としての世界」

今回紹介するのは、先程、宇宙の意志とニヒリズムを検討した際に何度も引用した、ショーペンハウアーの「意志と表象としての世界」です。西尾幹二先生の訳です。この本は1819年にドイツで出版されました。

最初に申し上げておきたいのですが、この分厚い本全体を読んだ感想ですが、ニヒリズムやペシミズムよりも、逆に生の力強さをとても強く感じることが多く、ニヒリズム的な記述はごくわずかだということなのです。意志を重視しながら結局のところニヒリズムに帰結するといった、私に言わせれば、とてもユニークな不可思議な流れとなっている本です。その論理の流れは先程申し上げたとおりなのですが、全体としてみれば、とにかく生の奔流を強く感じる内容になっています。

この本は、カントを代表とする哲学の認識論から始まり、プラトンのイデア論、生の奔流としての意志、生物学を始めとする自然科学、絵画や音楽の芸術論、国家や刑罰などの法律論、キリスト教の宗教論、そしてインド哲学と、様々な内容を扱っています。その全てを完全に理解することは困難でしたし、細かく見て行くと私には賛成できない記述もあるのですが、文章自体はとても理解しやすいもので、とにかく読み応えのある大変刺激的な本だと思いました。

生の奔流を特に強く感じるのがこの本の第三巻の芸術に関する論述です。

意志とは物自体であり、イデアとは一定の段階におけるこの意志の直接の客体性であり347頁)、このイデアを考察するのは芸術すなわち天才の業であるとショーペンハウアーは言います。芸術が再現して見せてくれるのは、純粋な観照を通じて把握せられるところの永遠のイデア、世界の一切の中の本質的なもの、持続的なものです。それは造形芸術であり、詩文芸であり、音楽ですが、芸術の唯一つの起源はイデアの認識であり、芸術の唯一つの目標はこの認識の伝達です(367頁)。

実際、自分自身の経験を振り返ってみても、美術館で絵画や彫刻などの芸術作品を見ると身震いするような感動を覚えることがありますし、音楽を聴くと天にも昇る感激を味わうこともあります。また、世界遺産に指定されているような建築物を見ると心の底から感動することも事実です。これらの自分の経験に照らして、ショーペンハウアーの言うことも十分納得できる気がします。

このように芸術を考えると、ショーペンハウアーの言うところの物自体界に存する意志の存在も認められるような気もしてくるのです。まさにそれは生の奔流です。

ところが、この後、ショーペンハウアーはこの意志を否定する論述を行うのです。それはインド哲学の解脱の思想に基づいているようなのですが、最終的には我々の世界は無であると論じてこの本は終わっています。

先程本論で論じたとおり、意志が物自体界にあるとなれば、意志の認識は不可能なので、意志の否定も論理的には可能かもしれません。しかし、やはり、私は情熱的な芸術論を読んだ以上、この結論にはかなりの違和感を覚えてしまったわけです。

なお、以前この講座でも少し触れた仏教の空の思想ですが、私は、空の思想は今回論じたニヒリズムとは異なると考えています。この点については、後日機会があれば論じてみたいと思います。

今回は以上です。

 

参考文献

ショーペンハウアー「意志と表象としての世界」西尾幹二訳 中央公論社

カール・マルクス「資本論」岡崎次郎訳 大月書店

アダム・スミス「国富論」大河内一男監訳 中央公論社

カント「純粋理性批判」宇都宮芳明他訳 以文社

カント「実践理性批判」「道徳形而上学の基礎づけ」宇都宮芳明訳 以文社

ロック「人間知性論」大槻春彦訳 中央公論社

ヘーゲル「精神の現象学」金子武蔵訳 岩波書店

アリストテレス「形而上学」出隆訳 岩波書店

ブレンターノ「道徳的認識の源泉について」水地宗明訳 中央公論社

ハイデッガー「存在と時間」細谷貞雄訳 理想社

ラッセル「西洋哲学史」市井三郎訳 みすず書房

フィンク「ニーチェの哲学」吉澤傳三郎訳 理想社

岩崎武雄「カント」勁草書房 「西洋哲学史」有斐閣

西尾幹二「ショーペンハウアーの思想と人間像」中央公論社

久留間鮫造「価値形態論と交換過程論」岩波書店

橋本智津子「ニヒリズムと無」京都大学学術出版会

井筒俊彦「意識と本質」岩波書店

西田幾多郎「善の研究」岩波書店

時枝誠記「国語学原論」岩波書店

高崎直道他「インド思想史」東京大学出版会

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