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拡がる自我
和田徹也
目次
1.問題提起 2.考察の原点「拡がり」 3.拡がりの起点としての自我
4.理性的自我 5.拡がる自我
参考文献
1.問題提起
社会と組織を考えていく場合に、その理論化の出発点をどこに置くかということは非常に大事なことだと考えられます。現実の様々な問題を解決するにあたって過去の経験を適用する際には、それを理論的に整理して適用したほうが応用力もあり実効性も高いのですが、理論化するには、体系的な意味で、理論の出発点が必要だからです。
では理論の出発点はどこに置けばいいのでしょうか。結論から先に言えば、私は、それを個々の独立した個人、個々の主体に求めたいと考えています。
これに対し、社会があって初めて個人がある、あるいは、人間の関係があってこそ個々の主体があるとの考えもあります。この考えによれば、社会、組織から出発することになるでしょう。このような考えも一理あります。例えば、人間が言葉を覚えるのは人間関係、社会関係があってのことですし、私がこの文章を書いているのも他者、すなわち読者を意識しているのは否定できないからです。
なるほど、全てから孤立した個人はあり得ないということは正しいでしょう。しかし、それでも社会と組織の考察の出発点を個人に求めることは可能ですし、逆に個々の独立した個人から出発したほうが、有効な理論が形成されると私は考えます。なぜなら、個々の人間が社会の中で形成され、社会や組織に影響されながら生活しているとしても、現実に様々な意思決定をする際は、究極的にはその人自身の責任においてせざるを得ないからです。社会や関係から出発するのではなく、独立な個人から出発したほうが、日々日常誰もが経験するこの「責任」という緊張感を反映し、現実の、生きているという経験に合致するのではないかと私は考えるからです。
では、個人を出発点とするにしても、どのような個人を想定すべきなのでしょう。
ここで出発点となるのは、個人は個人でも、第三者の立場から見た客体として存在する個人ではありません。あくまでも主体としての個人が出発点となるべきだと私は考えます。主体としての個人とは、自ら考え、意志し、自分の責任において行動する主体のことです。普段の、日常の、今まさに思考し、行動しようとする自分自身のことです。
社会や組織は主体としての個人から成り立ち、主体としての個人が動かしています。主体としての個人が自ら動かない限り、社会や組織は変化しません。したがいまして、社会や組織を理論的に考えていく際は、この、主体としての個人から出発する必要があるのです。そして、この主体としての個人は「自我」と呼ぶこともできるでしょう。自我という言葉は単なる個人ではなく、この主体性という意味が含まれているからです。
ところがここで問題が生じてしまいます。自我、すなわち主体としての個人から出発するにしても、主体それ自体を表現することは、意外と難しいのです。なぜなら、「主体」を表現しようとしても、表現された時点で客体化されており、主体それ自体ではなくなってしまうからです。
果たして主体としての個人を表現することは可能なのでしょうか。そして、主体としての個人はどのように表現すべきなのか、その理論化が問題となるわけです。
2.考察の原点「拡がり」
主体を表現するには、主体を包み込む考察の原点が必要ではないかと私は考えます。この考察の原点から出発すれば主体それ自体を表現することも可能だと考えられるのです。
では、「主体」を表現するための考察の原点はどこに求めるべきなのでしょうか。
私自身が主体であることは、それを的確に表現できるか否かは別として、間違いないでしょう。そこで、今、雑念を取り払い、すべての具体的な意図を括弧に入れて、自分自身が単に「いる」状態になって、ちょっと目を瞑ってみましょう。
目を開くとパッと視界が広がります。そして机や椅子、本棚などいろいろなものが近くから遠くに広がって見えます。いろいろな音が四方の広がりの中から聞こえます。目の前にある自分の手は広がりの奥に伸ばせます。そして広がりの向こうの方に私の息子がいて、今こちらを見て笑いました。
私が提示したい考察の原点は、この「拡がり」です。
まずは、拡がりがあります。意識する以前に拡がりがあるのです。そして、拡がりの中に対象が出現することにより、拡がりを意識することになります。上の例で言えば、机や椅子、そして向こうにいる私の息子に気付くことにより、拡がりを意識するのです。さらに、対象に気付いて拡がりを意識するということは、対象に着目したことを意味します。着目するということには意志的要素があります。拡がりを「広がり」ではなく「拡がり」と書くのはこの意志的要素を考慮してのことなのです。
さて、拡がりに意志的要素があるということは、拡がりという概念それ自体が「生」の発現としての意義を有することを意味します。言うまでもなく私たち人間は生きています。何かのために生きていると考える以前にまずは生きているのです。「生」とは何らの前提なしに生きている事実であり、生きる意志であり、意欲欲求でもある包括的概念です。「拡がり」はこの生という概念を表現するのにも最適な言葉であると私は考えるのです。
3.拡がりの起点としての自我
最初に拡がりがあり、対象が出現し、拡がりを意識します。ここにいわゆる自我が生ずる端緒があると私は考えます。
まず、拡がりの対象として身体が出現します。すなわち、視界の拡がりの中に胴体と手や足が現れ、それらは動かそうとすれば動いてしまうのであり、さらには身体の動きに応じて視界の拡がりの内容も変化するのです。このことは対象としての身体が、単に拡がりを意識するだけのものではなく、意志意欲を実現する機能を持っていることを意味します。すなわち対象としての身体とともに、主体としての身体(市川浩著「精神としての身体」参照)の発見なのです。乳児はよく自分の手足をじっと見つめ、動かしていますが、意志により動き感ずる身体があることを発見しているのではないでしょうか。
さらに身体が意志に応じて動くということから、身体を中心として拡がりの対象の集合である世界が放射状に拡がっていることを発見します。身体を動かせば身体の向きに応じて景色が変わる、すなわち拡がりの中に出現する対象が次々と変化して身体が1回転すれば元の景色に戻ることから拡がりの中心であることが発見されるのです。
ここに拡がりの起点としての自我なるものが生ずる端緒があるのではないでしょうか。意に沿う動きを対象たる身体が行い、その動きに応じて身体以外の拡がりの対象の集合が変化する以上、他の対象とは異なる身体の特徴、拡がりの起点といった自我の性質の一つを獲得するのです。そして重要なことは、この拡がりの起点としての自我は世界で唯一の自我だということです。なぜなら意志に応じて動く身体は一つであり、意志に応じて動く放射状の拡がりの中心となる身体は一つだからです。
4.理性的自我
意志を持つ拡がりの中心としての自我が登場し、通常の意味の自我に大分近づいたわけですが、考察の原点はあくまでも「拡がり」です。まず自我が存在するのではなく、自我は拡がりの中から生じてくるものであると私は考えます。
さて、自我にはさらに理性的な主体としての意味もあります。単に世界の中心であるというだけでなく、いろいろ見て考え、合理的に様々な社会的活動を行う主体としての自我のことです。実は、この理性的な主体としての自我は、拡がりの対象としての他者との関係において生ずると私は考えます。
それでは拡がりの対象としての他者とはどのような現れ方をするのでしょうか。そもそも人間は社会的動物と言われているとおり、他者を求めるものです。生まれてすぐの乳児が母親を求めるのは当然の事として、生活上のあらゆる場面で他者を求め、出会っているわけです。このことは否定できない事実なのです。
さて、拡がりは対象を見出すことにより拡がりを意識するわけですが、拡がりの対象としての他者は、他の対象とはきわめて違う大きな特徴があります。それはこちらの働きかけに対し、反応するということです。反応するということは、こちらも他者に対し何らかの反応を期待し、他者の反応に対し何らかの動きをするという相互作用があるということです。
この事実を表現するには、「役割」という概念が重要な働きをします。人は他者に期待通りの行動を求め、自ら他者の期待する行動を行うのであり、この期待される行動が役割というものです。
さて、理性的な自我はこの役割期待から生ずると考えられます。すなわち、生まれてから人は他者に役割を期待すると同時に他者からの役割期待に応えてきたわけです。この経験の中から、一般化された他者が生じ、一般化された役割期待に応えて振る舞うようになるわけです(G.H.ミード著「精神・自我・社会」参照)。この一般化された役割期待に応じて振る舞うことが理性的な振る舞いであると言えるのではないでしょうか。すなわち、自我は理性的に、すなわち自ら社会の常識に反することなく合理的に振る舞うことになるわけです。
5.拡がる自我
意志を持ち、拡がりの起点としての自我は、理性的なものであることも分かりました。いわゆる自我という概念はここに成立することになるわけです。
さて、私はこの自我を「拡がる自我」と名付けます。その理由は、主体としての個人を表現するための考察の原点を「拡がり」に求めたところにあります。主体それ自体を表現することは困難ですが、「拡がり」から出発し、そこから「拡がる自我」を導き出すことにより、主体としての個人を表現することができると考えたわけです。
ところで、「拡がる自我」を出発点として、組織・社会を考えていくことは、非常に大きな意味があると私は考えています。特に、企業等様々な組織での人事労務管理上の具体的問題を解決して行く上で、問題解決の糸口を見出すために極めて有効な概念であると思っています。その理由は、個々の人間すなわち拡がる自我は、拡がりの確証を求めようとする存在であり、例えば企業は、個々の社員にとって拡がりの確証を得るための制度であると考えられることにあります。「拡がりの確証」とは、言葉は硬いですが、要は、生きる証を求めること、生きることを実感することです。拡がりの確証を研究していくことが社会、組織を理解するうえで大きな意味を持つことを私は確信していますが、その詳細は別論文で発表していきたいと思います。
それでは、拡がる自我を出発点として、社会・組織をこれから考えて行くことにしましょう。
参考文献
平川彰 「無我と主体」(中村元編「自我と無我」所収) 平楽寺書店
M・ハイデッガー(細谷貞雄訳) 「存在と時間」 理想社
G・H・ミード(稲葉三千男他訳) 「精神・自我・社会」 青木書店
船津衛 「自我の社会理論」 恒星社厚生閣
市川浩 「精神としての身体」 勁草書房
和辻哲郎 「倫理学」 岩波書店
(2014年6月公表)