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言葉とは何だろう ~言語の本質について~
和田徹也
目次
1.問題提起 2. 手段としての言葉、目的としての言葉 3. 二つの言語学理論
4. 拡がりの確証と言葉の曖昧さ 5. 認識と言葉
参考文献
1.問題提起
自分の気持ちがどうしても相手に伝わらない、じっくり話をしたら全然違う考えだった、等々、日常生活での言葉による人との意思疎通は難しいものがあります。私達が所属する社会・組織の人間関係の中でも、仲間との争いの原因が言葉に対する誤解であったり、自分が発した言葉が、本来の意図に反して、相手を傷つけてしまったりすることも多々あるのではないでしょうか。
また、政治的議論を聴いていても、同じ言葉なのにこうも人によって主張する内容が異なるのかとびっくりすることもあります。平和主義とか地方分権といった政治的議論の対象となる言葉はもともと多義的で包括的な性格のものなのでしょうが、様々な立場や利害で対立している人たちが勝手にその言葉の下に集合し、議論を始めているのではないか、などと思ってしまうのです。
そこで思うのが、「言葉とは何だろう」といったことです。言葉には必ず意味があるはずです。しかし、意図する意味が良く伝わらないこともあるし、さらには、人によって意味の内容が全く異なることもある。こうなると、言葉なんてあまり信用できるものではない、などと思ってしまうこともあるわけです。
一方、私達が働く企業、組織を維持する就業規則、法律をはじめとするこれら様々な制度も言葉から成り立っています。法の解釈は条文という言葉の解釈に多くの見解が対立する学問であり、裁判では言葉をめぐって真っ向から主張が対立します。同じ言葉なのにその解釈に大きな対立が生じているのです。
言葉は、個々の人間関係、そして社会と組織においても、非常に大きな影響力を持っているのは明らかです。それにもかかわらず、今申し上げたとおり、実は、極めて曖昧模糊とした性格をも併せ持っているのです。ある一つの言葉の下に人々が群がって自分勝手なことを言う、言葉にはこのような多数の者を受容する性質、多義的な性質が本来的にあるとしか思えないのです。
そこで、この論文では「言葉とは何だろう」、言い換えれば「言語の本質」といったものを考えていくことにしたいと思います。社会と組織の哲学にとっても、言語の本質を追究することは極めて大きな意味があると考えられるのです。
2.手段としての言葉、目的としての言葉
そもそも人はなぜ言葉を発するのでしょうか。
ここでは、言葉とは何か、という問題設定ではなく、私達が言葉を発する理由の検討から出発したいと思います。その訳は、言葉を発する理由は大きく二つの側面に分かれるのではないかと思ったからです。すなわち、言葉は、人間が生きていくための手段だと考えられる一方、同時に、そもそも言葉を発すること自体が生きる目的なのではないか、とも考えられるからです。
まず手段としての言葉を考えてみましょう。日常生活で私達が言葉を発する場面を考えた場合、言葉は人間が生きていくための手段ではないかとまずは考えられるのではないでしょうか。例えば、子供がお腹がすいたから母親に「お菓子が食べたい」と訴える、あるいは、お店で店員に「パンをください」と言って、パンを買う。この場合、言葉は自分の食欲を満たすための手段としての性格が強いでしょう。食欲を満たすという目的を達成させるために言葉を手段として発したのです。
このことを一般化して言い換えると次のようになるでしょう。人間という有機体が生命を維持していくにはエネルギーの摂取が不可欠ですが、人間は一人で生きているのではないから他人との協働が不可欠で、他人と交渉しなければ生命を維持できません。交渉には言葉が必要ですから、言葉は人間が生きていくための手段であるということになるわけです。
もちろん、言葉が生きるための手段であると考えることは否定できません。しかし、それだけでは言語の本質を理解することは絶対にできないと私は思うのです。その理由は、そもそも人間が生きるとはどういうことか、といったことを考えるとさらに明確となります。「生きる」とは、個々の生命体としてエネルギー代謝を行うだけではなく、意志意欲を有していろいろな活動を行っている自分自身、主体性をも表現する包括的な概念なのです。そこには当然言葉を発することも含まれてくるのです。言葉を発すること自体が、生きるということに含まれているのです。
「生きる」という概念に言葉を発することが含まれるならば、言葉は、単なる手段ではなく、目的であるということにもなってくるでしょう。言葉を発すること、言い換えれば言語活動といったものは、単なる手段ではなく、それ自体が生きる目的である、と言い得るわけです。私達は言葉を発するために日々働いて、食事をし、活力を得ているのだとも言えるわけです。
3.二つの言語学理論
さて、言葉を発することは、自分の思想や感情を他者に伝達することです。この、他者に伝達するということが言葉の大きな機能の一つであることは間違いないでしょう。では、何をどのように伝達するのでしょうか。
ここで言語学理論を検討してみましょう。
言語学者ソシュールは次のようなことを論じています。
人間の言語活動(ランガージュ)は多様で混質的であり、物理的・生理的・心的なもので、個人的領域にも社会的領域にも属し、複雑で学問の対象としてその単位を引き出すことは困難です。言語(ラング)はこれとは別物であり、一定部分に過ぎないもので、言語能力の行使を個人に許すべく社会団体が採用した制約の総体であるというのです(ソシュール「一般言語学講義」21頁)。
ソシュールは言語学の科学的対象を厳密に規定しようとしたのであり、まず人間の持つ普遍的潜在的な言語能力およびその諸活動をランガージュと呼び、個別の言語共同体で用いられている多種多様な国語体をラングと呼んで、この二つを峻別したわけです(丸山圭三郎「ソシュールの思想」79頁)。
そして、言語記号の表象である聴覚映像と、概念という意識事実が連合する心的場所に、社会制度・記号体系としての言語(ラング)が存在するとし、個人はこのラングを介して他者への伝達を実現するのですが、独力でラングを創り出すことも変更することもできないとされました。それは共同世界の成員の間に取り交わされた一種の契約の力によってはじめて存在するからです。なお、ソシュールはこの個人の現実の伝達の遂行的側面をパロルと呼びました(ソシュール前掲書23~27頁)。ランガージュからパロルを差し引いたものがラングであると述べています(ソシュール前掲書110頁)。
ところがこのソシュールの考えに対して、次のような鋭い批判があります。すなわち、このような社会制度としてのラングなるものは実在しないというのです。
国語学者の時枝誠記は次のように述べています。「ソシュールが、言語における社会的性質を認めたことは正しい。しかしながらこの性質を対象化して、言語活動の循行の中に切取って、これをラングとして認識しようとしたことは大きな誤りである。」「ラングの統一性はラングそれ自体に拘束性があるわけではなく、言語行為の習慣の普遍性がラングの統一を保つのである。」(時枝誠記「国語学原論」81頁)と。
ソシュールのような考え方は、言語を構成的に理解して構成単位を抽出するものであり、聴覚映像と概念の連合を「ラング」という構成単位として把握したものです。しかし概念と聴覚映像とは継起的過程的に結合していくものであって、言語の本質は心的過程にあると考えられるのです。すなわち、「言語は思想の表現であり、また、理解である。思想の表現過程及び理解過程そのものが言語である。」「言語は言語主体の実践的行為、活動としてのみ存在する。」(時枝誠記「国語学原論続篇」4頁)というわけです。
音声と概念の連合が、主体の意思と無関係に、ラングとして存在するというのは、やはり、極度な抽象の結果でしょう。なるほど、連合の枠組みは間違いなく存在するでしょう。しかし社会的な契約によって、概念と音声をすべて対応させることは無理だと思うのです。あくまでも学問の対象としての言語を確立させるための仮構だと思うのです。
主体的な実践行為の中にのみ、過程的に言語を見出すという考えは、言葉が生きる目的であるといった発想に、適合するように思えます。人間の主体的行為をよく表現するものだと思うのです。一方、個人の力ではどうすることもできないラングを認めるのは、手段としての言葉の発想に近い気がします。手段としての言語を考えると、どうしても予め実在している言語というものを想定せざるを得ないからです。
4.拡がりの確証と言葉の曖昧さ
言葉を発すること自体が生きる目的であるということは、言い換えれば、人はそもそも他者に言葉をかけたくてしょうがない存在であるということです。言語は、この無数の主体が言葉を通じさせて満足を得ようとする無数の行為の中に、見いだされるものなのです。各個人の主体の言語行為の累積の中に存在してくるに過ぎないのであり、それを確固たる対象を持つ実在だと考えることは言語の本質を見誤ることになる気がします。
では言葉はなぜ通じるのか、ラングなるものがなければ通じないのでは、との疑問が生じるでしょう。
言語が通じるということは、一つには人々の習慣によるのだと考えられます。「言語は要するに習慣の厖大な総体に過ぎないが、たがいに親しく交じり合っている個人たちは影響し合い模倣し合うから、各人がほとんど同じ習慣を獲得する。すなわちそれは個人的習慣ではなく、社会習慣の総体であるといわれるゆえんである」(服部四郎「言語学の方法」27頁)と。この社会習慣の総体といわれるものがソシュールの言うラングなのでしょうが、ラングがあるから通じるとは言えない気がします。
さて、他者に言葉をかけたくてしょうがない人間、私はこれを「拡がる自我」と表現し、他者に言葉をかけ、意味を共有することによって満足することを、「拡がりの確証」と表現しました。もともと人間は言葉を通じさせたいのです。既存の制度を利用して言葉を通じさせたいのです。互いに通じさせたいからこそ通じる、ここに言語が通じる二つめの根拠があると私は考えています。
拡がる自我は、他者に論理を投げかけ、その論理を共有し、価値の尺度を設定し、他者と価値を共有することによって拡がりの確証を得る。これはまさに言葉によってなされるのです。実は、言語の曖昧性の根拠はここにあると私は思うのです。多くの他者を、投げかけた論理に巻き込みたいので、どうしても最初の言葉を曖昧にせざるを得ない。なぜなら他者も拡がる自我であり、拡がりの確証を求めるための論理を探しているからです。論理の入口を広げればより多くの他者に影響を与えることができるからです。言い換えれば、そもそも言葉は、その言葉に人々が群がるべく、曖昧な性格を持たざるを得ないものなのです。
「言語が、特定個物を一般化して表現する過程であるということは、言語の本質的な性格である。」「言語はいかなる場合においても一般的、概念的表現しか為すことができない。」(時枝誠記「国語学原論」88、89頁)と論じられています。この言葉の一般性に、新たに言葉が通じる端緒があり、それを踏まえた後具体的な解釈過程で特定の事実を認識していくのではないでしょうか。この過程が拡がりの確証であると私は考えたいのです。
5.認識と言葉
さて、拡がる自我は、一般的な言葉を用いてより多くの人に拡がりの確証を得ようとすると申し上げました。実は、物を認識することも、この理論とパラレルに考えることができるのです。
ある物を認識するとは、その物が分かるということです。分かるとは、その対象となった物を分割し、普遍的なものと特殊的なものと分けられた概念を再度結合するものなのではないでしょうか。ここで重要な働きをするのが普遍的概念を意味する言葉なのです。
拡がる自我は対象物を概念として分割し、再構成することにより拡がりの確証を得ることができるのですが、普遍的概念を意味する言葉は、まさに上述の多くの他者を集めた曖昧な、一般的概念を意味する言葉と同様なのです。普遍的概念で他者の思考をつかみ、自分が設定した論理を完結し、拡がりの確証を得る。物の認識の時点でも、この他者に対する拡がりの確証を常に意識してなされているのではないでしょうか。
認識論については別稿で詳細に論じたいと思いますので、本稿ではこの程度にしておきます。どうぞお楽しみに。
参考文献
時枝誠記「国語学原論」「国語学原論続篇」岩波書店
F.ソシュール(小林英夫訳)「一般言語学講義」岩波書店
丸山圭三郎「ソシュールの思想」岩波書店
服部四郎「言語学の方法」岩波書店
三浦つとむ「日本語はどういう言語か」講談社
町田健「ソシュールと言語学」講談社
(2015年8月公表)