歴史を動かすのは何か ~国家理念の変転と歴史分析の手法~
和田徹也
目次
1.問題提起 2.歴史概念の明確化 3.共同主観と歴史 4.人間社会の秩序の本質 5.目的社会の秩序における分割の論理と創造の論理 6.全体社会の秩序における共同主観の論理の構造 7.全体社会における国家の成立 8.歴史における国家の理念の変転 9.近代資本主義の歴史的分析 10.国家理念の変転と歴史を動かす力 文献紹介:堀米庸三「ヨーロッパ中世社会の構造」
1.問題提起
歴史の魅力は尽きません。誰もが様々な興味をもって歴史を眺めます。そして、多くの人々が様々な問題意識に基づき歴史を論じています。
例えば、日本では、なぜ太平洋戦争は起きてしまったのか、明治維新は誰がどのように実現したのか、江戸幕府はどのように開かれ太平の世が実現できたのか、等々、歴史には様々な興味ある問題が存在します。
さらに、世界史に目を向けても、二度の世界大戦はなぜ起きたのか、資本主義はどのように成立したのか、近代市民革命はなぜ起こったのか、中国の歴代の大帝国はどのように構築されたのか、仏教やキリスト教などの宗教はどのように発展していったのか、その他、その人の興味により多種多様な歴史上の問題が浮かんでくると思います。
これら無数の問題を敢えてまとめて表現するならば、歴史はどのように動くのか、こういうことだと思います。そこで今回は、歴史を動かすのは何かといった問題意識から、個人と社会の哲学的検討を踏まえた上で、国家理念の変転といった観点から歴史を分析し、歴史の本質といったものを追究してみたいと思います。
2.歴史概念の明確化
まずは、検討の対象となる歴史といった概念を明確にしておきたい思います。常識的には、過去の人間の活動の叙述が歴史である、こういう事になると思います。ただ、その場合、どのような視点から叙述するかによって、歴史の内容は異なってくるのではないでしょうか。
まず、その事に関心を有する範囲で歴史的素材を物語る、例えば歴史上の英雄の生涯を中心に描くといった、物語風歴史があります。また、過去の歴史的事実を現代の諸問題に教訓として活かすための論述、例えば戦記物といった、教訓的・実用的歴史もあります。さらには、過去のそれぞれの歴史的事実がどのように生成発展してきたかを中立的に論じる、発展的・発生的歴史があるわけです(ベルンハイム「歴史とは何ぞや」21頁~)。
今回検討の対象とするのは、三番目の発展的・発生的歴史です。なぜなら、その時代の国家の理念、社会全体の共同主観の変化発展から歴史を理解したいと思ったからです。そして、歴史は、歴史的事実の因果の叙述によって形成されているとも考えられるからです。例えば、人類の科学技術の進歩が産業革命を引き起こしたといったような叙述です。
ところで、私は、人間各個人の主体的な生き方と、人間の社会との関係を把握したいと考えています。言うまでもなく、歴史は個々の人間の活動により生成変化するのであって、個人の活動が社会全体の歴史に影響を及ぼしていることは間違いありません。この場合、主体的な各個人の意志がどのように他者の意志と結び付くのか、そして、そこから生じた共同主観に基づく理念が、歴史をどのように動かしていったのか、これらを追究したいと思ったのです。端的に言えば、人間の歴史の哲学的考察を行いたいのです。
以上、過去の人間の活動の事実の生成・発展・変化の叙述が、今回の検討の対象となる歴史であると考えます。そして、対象となる歴史での、国家理念の変転の中に、個人と社会の結び付きの根源を見出すことにより、何が歴史を動かすのかを追究していきたいと思います。
3.共同主観と歴史
さて、前回の論文では「共同主観とは何か」を論じました。物理的に独立した個々の人間は、各人が主観を共同する存在であると主張したわけです。その際、共同主観は、生物学的共同主観と社会的共同主観に分類できると申し上げました。前者は、人間という生物である以上、当然、誰もが主観に共有する能力で、個々の人間の活動の前提となる絶対的な性格を有しています。これに対し、後者は、各人が主観に共有する価値判断の基準で、個々の社会によって異なる相対的な性格を有しています。
この社会的共同主観の相対的性格は、主に、何らかの目的を達成するために個人が集合した目的社会で認められるものです。個々の目的社会は、その目的に応じた特殊性を有しており、構成員が共有する価値判断の基準もその特殊性に準ずることとなるため、目的社会の共同主観は相対的性格が強くなるわけです。逆に、目的社会を包摂する一定の地域を基盤とした全体社会においては、社会的共同主観は普遍的な性格が強く認められることになります。
そこで、全体社会の共同主観の構造をさらに詳しく見ると、それは、全体社会を構成する個々の人間の生物学的共同主観を根底に、個々の目的社会の社会的共同主観が互いに影響し合って形成された普遍的な社会的共同主観、この両者から成り立っていると理解できるのです。このため、全体社会の共同主観は極めて強い普遍的性格を有することとなってくるわけです。
しかしながら、この、全体社会での共同主観の普遍的性格は、時間の経過によって変化することも、決して否定することはできません。例えば、日本国といった全体社会における変化で言えば、戦前の軍国主義的な世論と戦後の民主主義的な世論とは劇的に異なっているわけです。世論は、言うまでもなくその時の全体社会の共同主観と密接に繋がっており、この場合、共同主観が大きく変化したことは明らかです。
このように、全体社会の共同主観には、その時代ごとの特殊性が強く現れていると思うのです。実は、歴史とは、まさに、この時間の流れの中での、全体社会の共同主観の変化や転回が、様々な事実を根拠に叙述されたものではないか、このように私は思ったのです。
そこで、歴史を分析するにあたり、この共同主観の変転を考察の基軸とすることにより、何が歴史を動かすかを把握していきたいと考えたわけです。
4.人間社会の秩序の本質
人間の歴史は、過去の人間の活動の事実の生成・発展・変化であり、この人々の活動は社会の秩序があってこそ成り立ちます。ここに、秩序とは、事象を構成する諸々の要素の関係に一定の型、規則性があり、要素の一部のあり方を知れば他の諸要素のあり方の可測性が存在する事態と定義されます(加藤新平「法哲学概論」307頁)。
この可測性は、個々の主体が一定の論理の体系に従うことにより維持されているわけです。このように、論理の体系を各人が共同する、ここには、先程申し上げた、共同主観が既に成立していると考えられるわけです。
それでは、ここで、人間社会の秩序について、人間存在の本質に遡って、さらに深く考えておきたいと思います。
人間は、物理的に独立した個々の生命体であり、言うまでもなく、個々の人間は外界と物質代謝を行って生命を維持しているわけです。ただ、個々の人間が行っているのは、それだけではありません。個々の人間は、他の人間、すなわち、他者に対して様々な働きかけを行って生きる、他者に向けた主体的な存在でもあります。
この、生きる人間の、主体性それ自体を表現することは、表現された時点で客体となってしまうため論理的に極めて困難です。そこで私は、自分に湧き上がる「生」の奔流を意味する「拡がり」という概念から主体性を理論化し、主体的な個人を「拡がる自我」と表現しました(「拡がる自我」参照)。
この、生の奔流の中にある個々の拡がる自我は、自分の内心の自由に基づき構成した、自分独自の言葉と論理の意味を他者と共有することによって、生きていることを実感・確認しようとします。これを私は「他者に対する拡がりの確証」と表現しました(「拡がりの確証と組織文化の本質」参照)。これに対し、外界との物質代謝は「物に対する拡がりの確証」と表現することができるのです。
実は、社会の秩序は、個々の拡がる自我が、他者に対する拡がりの確証の実現のために創出したものだと理解することができるのです。そして、社会の秩序は、個々の目的社会のものと全体社会のものとの二つに分類されます。以下、これを分けて論じていきましょう。
5.目的社会の秩序における分割の論理と創造の論理
先程3で申し上げたとおり、目的社会は、何らかの目的を達成させるための個人の集合体です。現代社会では、営利企業がその代表であり、その他様々な無数の目的社会が存在しています。この目的社会を形成することは、その目的を互いに共有することであり、それは他者と言葉と論理の意味を共有することを意味し、ここには共同主観が成立しています。個々の拡がる自我は、目的社会に所属することにより、他者に言葉と論理を投げかけ、他者とその意味を共有して、他者に対する拡がりを確証していると考えられるわけです。
この目的社会は、その目的を達成するため組織化されます。組織とは二人以上の人々の意識的に調整された活動や諸力の体系です(バーナード「経営者の役割」76頁)。ここで重要なことは、組織では、上下の指揮命令系統が必然的に発生するということです。
ところで、目的社会における個々の拡がる自我の他者に対する拡がりの確証の論理は、大きく二つの論理に分類できると私は考えます。分割の論理と創造の論理です(「分割の論理と創造の論理」参照)。
分割の論理とは、自分が所属する目的社会あるいは組織の全体から出発する論理です。出発点である社会全体それ自体に大きな価値を置き、その全体の価値の上下の序列の中での自分の地位の高さによって他者の注目を得る論理です。目的社会の組織は、分割の論理の源であると同時に、分割の論理によって維持されていると理解できるわけです。
これに対し、創造の論理とは、個から出発する論理で、何を行ったか、何を創り上げたかによって他者の注目を得る論理です。個々の行為に大きな価値を置き、その行為の成果である創り上げたものを評価する立場です。いかに努力したか、どのような成果を上げたかを他者の注目を得るための価値の評価基準とします。
価値とは、誰もが求めるものであって、高低あるいは大小が生じた比較可能な意味のことです。分割の論理と創造の論理は、この価値の配分の方法に大きな違いがあるわけです。分割の論理は、出発点の社会・組織の全体に絶対的な価値を置き、その全体の価値を分割した自分の地位の価値の高さを他者に主張する論理です。一方、創造の論理は、行為の出発点の価値はゼロで、個々人の行為とその結果に価値を置き、自分が新たに創造するものそれ自体の価値を主張する論理です。
ここでまず言えることは、目的社会における目的の達成は、創造の論理の実現であるということです。目的社会の構成員は、分業の下、各自創造の論理を形成し、あるいは既存の創造の論理を利用することにより、自分の論理の意味を、目的社会内外の他者と共有しようとしているのです。そして、目的社会を構成する個々の拡がる自我は、目的社会がその目的を達成することにより、創造の論理を間接的に実現していると言えるのです(「自己と団体との同一視」参照)。
一方、この創造の論理を実現させる目的社会の組織は、全体の価値に基づく身分的秩序であり、それに基づく分割の論理によって維持されています。全体の価値は、組織の上下関係を正当化する理念でもあるわけです。そして、個々の拡がる自我は、分割の論理によって他者の注目を得て、拡がりの確証を実現しているのです。
このように、目的社会の秩序は、分割の論理と創造の論理といった二つの論理によって維持されているわけです。すなわち、目的社会の共同主観はこの二つの論理によって構成されていると理解できるのであり、それは、先程3で申し上げた、社会的共同主観に分類されることになるわけです。
6.全体社会の秩序における共同主観の論理の構造
全体社会は、個々の目的社会を包摂する一定の地域を基盤とした個人の集合体です。地域には、村落、町、県、国といった段階的な枠が生じ、そのそれぞれが全体社会となり得ます。
この全体社会は、それを構成する個々の拡がる自我が、拡がりの確証の論理を他者に投げかける可能性ある範囲です。当然のことながら、拡がりの確証の実現のためには秩序が必要であり、その秩序を維持しているのは皆が共有する論理であり、それは全体社会の共同主観であると言えるわけです。
全体社会における新たな交渉の相手、言い換えれば、新たな拡がりの対象となる他者が出現する可能性に、個々の拡がる自我の主体的な意志意欲が収斂され、全体社会への帰属意識、さらには、全体社会への愛着が生じ、この共同主観は維持強化されているのです。
ここで、全体社会における共同主観の成立をさらに詳しく分析してみましょう。
基本となるのは、冒頭で申し上げたとおり、生物学的共同主観ですが、それは人間の認識能力、そして言語能力です。この点、同一言語を使用する民族が全体社会を形成するのであり、全体社会の共同主観の基盤として大きな意味を持つことになります。
そして、その民族を基盤として成立する国家が、後で申し上げるとおり、全体社会の社会的共同主観の形成に大きな影響を与えることになるわけです。このように、生物学的共同主観と社会的共同主観が結合することにより、全体社会の共同主観は成立します。
ところで、全体社会における社会的共同主観は、個々の目的社会の共同主観に大きく影響されて成立します。では、全体社会の共同主観は、目的社会の共同主観がどのように影響し合って形成されていくのでしょうか。
言うまでもなく、この、全体社会での社会的共同主観の形成の場面では、目的社会の秩序を維持する分割の論理と創造の論理が大きな働きをすることになります。実は、ここで重要なことは、分割の論理と創造の論理は大きく対立する論理だということです。
まず、分割の論理は人間の格差を前提とする論理なのです。目的社会の組織の上下の秩序の価値の配分の差異こそが、分割の論理の源です。より高い価値を有する地位に誰もが注目するわけです。
これに対し、人間の格差を否定し均一な人間を出発点とするのが創造の論理です。平等な人間を前提に、各人がどのような価値を創造したかをはっきりさせるのが創造の論理だったわけです。ところが、価値の創造は、必然的に、個々の人間が創造した価値の格差を明らかにするものです。このように、創造の論理は、結果として、人間の格差を明白にする側面があるのです。実は、均一な人間を出発点とする創造の論理は、個々の人間の器量の上下の格差を明確にするものでもあったわけです(「価値とは何か」参照)。
このように考えると、分割の論理と創造の論理は、双方とも人間の上下の格差を認めるものであって、人間の格差を最初に認めるのか、あるいは、最後の結果に人間の格差を認めるか、そこにその違いがあるに過ぎないことにもなってくるわけです。
実は、ここにこそ、全体社会における、人々の対立する意志の根源があるのではないか、このように私は思ったのです。人々の日常生活における新たな拡がりの確証の論理の設定、その意志意欲は他者との比較を根拠にして生じてくると理解できるのではないか、このように思ったのです。
その場合、比較の対象である人間の格差をどこに認めるか、最初か最後か、ここに対立の分岐点があるわけです。私は、歴史を動かす力の源は、まさにここにあると考えたのです。以下、このことをさらに詳しく論じていきましょう。
7.全体社会における国家の成立
先程申し上げたとおり、全体社会は、それを構成する個々の拡がる自我が、他者への拡がりの確証の論理を投げかける可能性ある地域の範囲です。この全体社会の秩序は、人々の共同主観に基づく同一の論理により維持され、それによって全体社会への帰属意識、さらには、全体社会への愛着といったものが形成されているわけです。
これに対し、目的社会は何らかの目的を達成させる意志を有する個人の集合体です。したがって、目的社会は目的社会の意志なるものが存在します。なぜなら、個々の拡がる自我が共通の目的を達成するため集合したのが目的社会だからであり、ここには目的社会の共同主観が成立すると同時に、同一の意志を有する個人の集合体である以上、当然、目的社会の意志なるものも認められるからです。
それでは、全体社会には、目的社会と同様に、全体社会の意志といったものが存在するのでしょうか。
この点、全体社会を構成する個々の人間が主観を共同し、その全体社会に対して強い帰属意識を持ったとしても、全体社会には意志は生じないと私は考えます。なぜなら、意志とは、本質的に、主体性を有する個人に発生するものだと考えられるからです。
しかし、全体社会にも意志が存在するように思えてくるのも否定できません。なぜなら、誰もが全体社会への帰属意識を抱く以上、全体社会にも全体の価値があるのであって、全体の価値を認めるのであれば全体社会の意志も認めるべきだ、こういう考えが生じてくるからです。
しかしながら、やはり、全体社会自体は意志を持つことができないと思うのです。なぜなら、全体社会の成立は、あくまでも個々の人間の主体的な行為の結果、目的社会の活動の結果としての性格が強いからです。全体社会自体は、意図的に出来上がったものではありません。意図的に成立するのは個々の目的社会なのです。全体社会は様々な意志を有する諸々の目的社会の集合体に過ぎないわけです(高田保馬「社会と国家」86頁)。
このように、全体社会の意志を認めることは、論理的に不可能だと思うのです。したがって、全体社会の人々の意志は、何らかの目的社会が表明しなければなりません。
実は、ここにこそ、国家という目的社会が成立する根拠があるわけです。国家が全体社会の意志なるものを代わりに表明する、国家の本質はここにあると思うのです(「国家の本質」参照)。
人間の生きる場、活動の場である全体社会、個々の拡がる自我の他者への拡がりの確証の実現の場である全体社会、全体社会は個々の拡がる自我にとって必要不可欠なわけです。そして、拡がりの確証の実現の場である全体社会は、秩序も不可欠です。秩序があってこそ、個々の拡がる自我は、拡がりの確証の論理を他者に投げかけることができるのです。
目的社会は、まさに意図的に生じる社会です。目的社会の全体の価値は、結果としてではなく意図的に生じてくるものなのです。国家という目的社会を形成することは、全体社会における全体の価値を可視化し、全体社会の秩序を維持するといった目的の実現、この国家の意志を明らかにすることを意味しているのです。この国家の意志こそ、国家の理念として、客観的に表明されるものなのです。
国家という目的社会が、他の目的社会とは異なり、特別の存在意義を有する根拠はここにあると私は考えています。国家は、他の目的社会とは大きく異なり、全体社会における共同主観の形成と国家の理念の表明といった、全体社会にとって必要不可欠な、極めて重要な機能を担っているのです。
8.歴史における国家の理念の変転
それでは、国家が歴史においてどのような役割を果たしてきたのか、国家の理念は歴史上どのように成立・変化してきたのかをさらに詳しく考えてみましょう。
全体社会の全体の価値を維持する意志、これを代わりに表明するのが国家の機能だと申し上げました。個々の拡がる自我の、他者に対する拡がりの確証のための秩序を維持する理念、これを国家は表明しなければなりません。この国家の理念は社会的共同主観であり、個々の目的社会の共同主観が互いに影響し合いながら形成されると理解できるのです。
歴史における国家の重要性はここにあるのです。多くの歴史書が国家の記述を中心に成り立っていることも十分理由があることなのです。国家の理念の変遷、ここにその時代の特徴が現れるのであり、歴史の本質が現れているのではないかと思うのです。
実は、この国家の理念が表明する論理は、先程論じた、目的社会における、分割の論理と創造の論理の対立、人間の格差を最初に認めるのか最後に認めるのか、この論理の対立の中から成立してくるのではないかと私は考えているのです。
国家は、個人間あるいは個々の目的社会の間の紛争を解決する機能を強く求められています。この場合、国家は超越した権威ある第三者的立場に立たねばなりません。なぜなら、紛争解決のための強制力を行使しなければならないからです。この国家の権威を維持する正当性、言い換えれば、その国家の理念には、その時代の全体社会の共同主観の特殊性が顕著に表れているのではないかと思うのです。
では、歴史上、この国家の権威を維持する理念には、分割の論理と創造の論理が、具体的にどのように現れているのでしょうか。
分割の論理は、身分制度がその代表です。日本で言えば、武士と農民といった身分の区別、西洋でも貴族と平民、インドのカースト制、中国の孔子の血縁関係を基盤とする孝悌の思想、歴史上、身分制度は無数に存在します。この場合、国家の権威は、人間各人の身分的格差に基づいて維持されていると理解されるわけです。
一方、創造の論理は、人間の平等を前提とするもので、身分の格差を否定するのが原則です。日本国憲法、西洋近代の市民革命の人権宣言がこれを端的に表しています。これらの場合、国家の権威は、個々の人間の合意といった契約に基づくとされました。そして、古くは中国古代の墨子の、能力に応じて公平に人材を登用すべきとした尚賢説も身分制度を否定しています。ただ、この場合、国家の権威は、人間各人の誰からも超越した、天と結び付く君主の威光に基づくものでした(「天と人間、天道と人道」参照)。さらには、古代インドの仏教の思想も、誰もが悟りを開けるという主張で、人間の平等を前提とした創造の論理の構築を目指すものと理解できると思います(「悟りとは何だろう」参照)。
以上申し上げたとおり、歴史上、国家の理念は、分割の論理と創造の論理から成る共同主観を基盤にするもので、この対立する論理の変化・転回の中にあると理解することができるわけです。この国家の理念の変転こそ、まさに歴史を形成するものではないか、このように私は考えたわけです。
9.近代資本主義の歴史的分析
さて、ここで、以上申し上げた国家理念の変転に基づいて、具体的な歴史分析を行いたいと思います。西洋近代社会における資本主義の生成変化を考察の対象とし、その時代の共同主観を構成する分割の論理と創造の論理を基軸にして、何が歴史を動かすのかを考えてみましょう。
西洋中世の封建社会は、領主(貴族)を中心とした身分社会であり、まさに分割の論理に基づく社会秩序の典型だと言えます。もちろん、中世社会の構造は、このように単純に理解できるものではなく、創造の論理の実現も当然存在したと思います。例えば、領主間の戦争は、戦闘員各人の行為の成果を競うものであり、このことは創造の論理の実現であったと理解できると思うのです。また、領主間の封建契約は、近代社会と同様の対等な人格に基づく契約と理解できるのです。
しかしながら、中世の全体社会の構造は、概ね、貴族と農民といった身分的格差に基づく、土地所有を基礎とした家産制支配に基づく社会が基本となっていて、これに基づく分割の論理を中心とした共同主観によって維持されていたと理解できるのではないかと思います。したがって、国家の理念も、この身分的格差を正当化する理念、すなわち、伝統的な国王の権威、あるいはキリスト教の宗教的権威、これらの理念であったと思われます(堀米庸三「ヨーロッパ中世社会の構造」63頁~)。
さて、この中世社会の身分的束縛を否定することから、近代市民社会が誕生したわけですが、もちろん、それは均一な人間を前提とするものでした。ホッブズは「自然は人間を心身の諸能力において平等につくった」と論じました(「リヴァイアサン」154頁)。これは旧来の身分的格差を前提とする分割の論理に対し、人間の平等を前提とする創造の論理の実現を宣言するものと理解できるのではないかと私は思います。
そして、均一な人間を前提とする創造の論理により構築した成果物は、「各人には彼のものを」といった正義の理念が適用され(アリストテレス「二コマコス倫理学」150頁)、成果物はその者に帰属します。創造の論理の成果は各人の能力・器量に応じてその者に帰属しなければならず、それを保障するのが全体社会の秩序であり、この秩序を維持する意志こそ国家の理念となるわけです。
ホッブズは、この国家の理念を人々の契約に基づく絶対主権に求めました。しかし、その後、近代社会のこの秩序をその根底から維持していた制度は何かと言えば、それは、私的所有権なのです。すなわち、ロックが言う「労働に基づく所有」といった私的所有権の理念、この共同主観に基づき、社会の秩序は維持されたわけです。私的所有権は明らかに創造の論理に基づく概念です。この制度の中で商品経済が拡大し、資本主義が確立されていったわけです。近代国家の理念は、この私的所有権を保障するところにあったわけです(「所有権の本質」参照)。
ところが、創造の論理構築における人間の器量の差異は、この私的所有という社会制度によってますます助長され、人々の創造の論理の実現の結果、財産の格差やそれに基づく身分の格差が生じていきました。そして、私的所有権は次第に身分に基づく所有に転化していったのです。すなわち、資本家と労働者の身分的対立です。ここには分割の論理が生じていること明らかです。貧富に基づく身分的格差、近代社会における資本主義の矛盾と言われた歴史的事実がまさにこれなのです。このことは歴史上明らかだと私は思うのです。
そして、ここに、社会主義・共産主義の思想が生じてきたわけです。分割の論理の根源とされた私的所有権を否定し、国家による公有といった新たな社会秩序を出発点として、その下で平等となった各人が、創造の論理を構築し実現するといった国家の理念です。
ところが、歴史上、実際に成立した共産主義国家は、結果的に、絶対的な集権国家となり、分割の論理が横行して結局崩壊に向いました。この共産国家崩壊の事実の根底には、一般民衆に根付く創造の論理が反発の力として働いていたこと明らかだと思うのです。創造の論理の実現にとって、私的所有権は必要不可欠であることが再認識されたわけです。
このように、近代資本主義の歴史は、創造の論理と分割の論理の対立に基づく、国家理念の変転の中にあったと理解することができるのではないかと私は思うのです。
10.国家理念の変転と歴史を動かす力
その時代の全体社会の共同主観を表明するのが国家理念でした。国家理念の変転の中に、全体社会の共同主観の変転が見出されるわけです。今回は、この歴史分析の手法による事例として、近代資本主義の歴史を概観したわけです。
この歴史分析で明らかになった重要な事実は次のことです。貴族社会の分割の論理の束縛を否定して、創造の論理実現のために資本主義社会は成立しました。ところが、資本主義社会での創造の論理実現の結果は、新たな財産・身分の格差の形成だったのであり、この格差を前提として再度分割の論理が成立しました。そして共産主義国家を形成して、再びそれを否定して各人平等な社会での創造の論理の実現を目指したところ、またもや分割の論理が横行しそれも否定されてしまったのです。
先程申し上げたとおり、分割の論理と創造の論理は、人間の格差を、最初に認めるのか、あるいは結果に認めるのか、この違いがあるに過ぎないのです。一旦分割の論理による人間の格差を解消しても、結果として創造の論理に基づく人間の格差が形成され、再度分割の論理が世を支配するのです。そして、再び、分割の論理を否定する要望が生まれる振出しに戻るわけです。
ここには分割の論理と創造の論理の循環があります。これはまさに共同主観の変転であり、国家理念の変転です。このように、国家の理念は、分割の論理と創造の論理といった相反する二つの論理の対立の上に形成され、その論理の否定の循環の内に生成存続していると理解できるわけです。
その理念の循環の原動力は、個々の拡がる自我の、他者に対する拡がりの確証の実現です。そして、その力の根源にあるのは、私達人間の生の奔流そのものなのです。生の奔流は、個々の拡がる自我の他者への拡がりの確証として顕現し、そのために形成された論理の対立が歴史を動かしているのです。
今回は、近代資本主義の歴史を極めて簡略に検討しましたが、この、分割の論理と創造の論理という共同主観に基づいた国家理念の変転による歴史分析の手法は、他の様々な歴史的事案に適用できるのではないかと私は思っています。例えば、ファシズムの成立、戦争の原因、さらには現代社会の様々な社会問題の原因の究明にも応用できると私は考えています。これらの点については、別の機会に改めて論じたいと思います。
文献紹介:堀米庸三「ヨーロッパ中世社会の構造」
今回は、堀米庸三先生の「ヨーロッパ中世社会の構造」で、その中の第1論文「中世国家の構造」と第2論文「マックス・ウェーバーにおける前近代的支配」を紹介したいと思います。この本自体は先生の長年にわたる西洋中世史の研究成果の論文集で、昭和51年に出版されたものですが、この二つの論文は、戦後すぐの昭和23年と24年に発表されたものです。
また思い出話になって恐縮ですが、私がこの本を初めて読んだのは、今から40年以上昔の学生時代です。当時、西洋近代社会はどのように成立したかといった問題意識に基づいて「純粋人間関係論序説」といった論文を書いたわけですが、自由平等を理念とする近代社会に対し、身分社会と言われる中世社会の真の構造を知りたくて、中央大学の図書館でたまたまこの本を見つけて、夢中になって読んだ記憶があるわけです。
先生の論文「中世国家の構造」はまさにこの疑問に答えるもので、中世封建社会は、巷で言われているような単なる身分社会と一括りにできるものではなく、近代同様の対等な人格を前提とした契約理論も重要視されていたことが発見できたわけです。
先生はこの論文冒頭で、中世国家は存在するかというドイツの歴史学会での論争を取り上げ、その代表的な学説を詳細に検討します。そして、封建制度の上部構造=知行関係における自由契約的性格と、下部構造=領主対農民関係の不自由な家産性的関係とをあくまでも峻別しなければならないとし(同書50頁)、この両者から中世国家は成り立っていると主張したわけです。
明治以来日本の近代化が叫ばれ、様々な歴史的研究もなされてきたわけですが、近代社会成立に関する文献を読むと、中世社会は封建的な身分社会で、そこから自由平等な近代社会が成立したといった論述の流れが多いと感じますが、この点、先生はあくまでも中世社会の実態を正確に把握することを目指し、封建的要素と非封建的要素を峻別し、前者は対等な人格を前提とする契約関係であり、後者は身分的な家産制秩序であると整理したわけです。
私は、少なくとも、歴史認識にあたっては、身分から平等へ、拘束から自由へ、このような単純な図式だけでは正確な歴史認識はできないと思うのです。なぜなら、自分の主張を他者に説得するために、その論拠としての、歴史上の中世社会を勝手に作り上げてしまう、こういう危険があると思うからです。
次の論文「マックス・ウェーバーにおける前近代的支配」はまさにこの点を鋭く論じたものです。マックス・ウェーバーは、一切の支配権力は、その正当性を基礎付ける根拠として、①合法的支配、②伝統的支配、③カリスマ的支配の3つの理念型に分類されるとしました(「支配の諸類型」)。
先生は、ウェーバーは合法的支配が近代特殊のものであるに対し、後の二つを前近代に特徴的な支配としていると認識した上で、中世の社会形態である、家産制と封建制の二つがウェーバーの体系のどの位置にあるかを検討します。そして、家産制は伝統的支配である家父長制の一変種であり、封建制は一部カリスマ的支配で一部は伝統的支配の合成態として伝統的支配の一変種ととりあえず認定します(103頁)。
しかしながら、封建的という概念は著しく複雑な概念であり一義的に定義できるものではありません(104頁)。先生によれば、ウェーバーの封建制概念の重点は常に、ある特定の社会経済関係の上に維持せられる軍事的組織にあり、特権的土地所有とそれに身分的に隷属する農民の保有・耕作の社会関係は、封建制以外の別個のものであり、これをウェーバーは家産制的と表現したということなのです(109頁)。封建制とは独立せる二個の人格相互間に結ばれる関係であり、これに対し純粋家産制にあっては主(ヘル)に対立する独立の人格は存在しないのであって、その支配は一方的なのです(112頁)。
もちろん、日本において、封建制という概念を、領主・農民の下部構造を含むとしてもかまわないのですが、ウェーバーを引用して封建制をこのような意味で用いてヨーロッパの歴史を論ずることは、やはり歴史認識としてはよろしくないのではないかと私は思ったわけです。
今回は以上です。
参考文献
堀米庸三「ヨーロッパ中世社会の構造」岩波書店
高田保馬「社会と国家」「社会学概論」岩波書店
廣松渉「世界の共同主観的存在構造」勁草書房
加藤新平「法哲学概論」有斐閣
水田洋「近代人の形成」東京大学出版会
岩崎武雄「カントとドイツ観念論」「歴史」新地書房
板野長八「中国古代における人間観の展開」岩波書店
高崎直道他「インド思想史」東京大学出版会
川島武宜「所有権法の理論」岩波書店
時枝誠記「国語学原論」岩波書店
ベルンハイム(坂口昂他訳)「歴史とは何ぞや」岩波書店
マイネッケ(岸田達也訳)「近代史における国家理性の理念」中央公論社
アリストテレス(加藤信明訳)「ニコマコス倫理学」岩波書店
ホッブズ(永井道夫他訳)「リヴァイアサン」中央公論社
J.ロック(宮川透訳)「統治論」中央公論社
ヘーゲル(上妻精他訳)「法の哲学」(武市健人訳)「歴史哲学」岩波書店
M.ウェーバー(世良晃志郎訳)「支配の諸類型」創文社
J.ハーバーマス(細谷貞雄訳)「公共性の構造転換」未来社
K.マルクス(岡崎次郎訳)「資本論」大月書店
M.ハイデッガー(細谷貞雄訳)「存在と時間」理想社
C・I・バーナード(山本安次郎他訳)「新訳経営者の役割」ダイヤモンド社
