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共同主観とは何か ~生物学的共同主観と社会的共同主観~
和田徹也
目次
1. 問題提起 2.現象学と独我論 3.現象学と生物学的共同主観 4.価値判断と共同主観 5.目的社会における全体の価値と社会的共同主観 6.全体社会の社会的共同主観と物神性 7.生物学的共同主観と社会的共同主観 文献紹介:フッサール「デカルト的省察」、廣松渉「世界の共同主観的存在構造」
1. 問題提起
前回の論文「絶対性の方向」では、議論の場において決して否定することができない論拠である、絶対性といった概念を検討しました。絶対性は、個々の人間誰もが認めざるを得ない究極の論拠を意味しているのです。
その際、私達がこの絶対性を見定めようとする場合、その方向は、自分の内側へ向かう方向と自分の外に向かう方向とに分かれると申し上げました。ところが、絶対性を外の方向に求める場合、人によって大きく見解が分かれることも判明しました。外界の認識に絶対性を認めることができるか否かの対立です。
カントは、私達人間の主観の中に先天的な形式があって、私達の認識は、この形式によって対象と言われるものを構成するのだと考えました。認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従うと考えたわけです。その結果、外界の物自体は認識できず、外界の認識には絶対性を見出すことができませんでした。そして、カントは絶対性を内心の道徳法則に見出したわけです。
一方、ヘーゲルは、即自と対自といった対立を軸に、絶対性の把握を目指しました。その結果、外界の認識の絶対性は、人倫といった他者との共同の主観に基づくものだとされました。すなわち、人間各人は共同主観を有するのであって、それこそが絶対精神だったわけです。
ただ、ここで私が思ったのは、カントが主張する各人の主観にある先天的形式、これも共同主観だと言うことが可能ではないかということです。そして、このカントの先天的な共同主観は、生物学的共同主観と表現できるのではないかと申し上げました。人間という生物である以上、当然、誰にでも共通に主観に備わっている能力だからです。
これに対し、ヘーゲルの共同主観は社会的共同主観と表現すべきものだとも申し上げました。人倫という共同体である社会を基盤として各人が主観を共同したものだからです。
両者は、同じく共同主観と呼ぶにしても、その中身が大きく異なっていることは言うまでもありません。ここで、単なる主観ではない、共同主観といったものが何を意味するのかが問題となってくるわけです。
本来、主観という概念は、個々の人間に別々に存在していると考えられます。この主観に対立する概念が客観で、主観は観るものであり客観は観られるものだと理解できます。そして、主観に対立して存在する客観は、個々の主観の共通の対象となり、客観的なものは、個々の主観の誰もが認めるべきものとなり得るわけです。
それでは、ここで、共同主観の発想とは逆に、この主観というものがそれぞれの個人に、一切共同することなく全く独立に属していると考えるとどうなってしまうのでしょうか。
この場合、主観が完全に独立に各個人すなわち個々の自我に属すると考えると、他者との意思疎通である言葉のやりとりが極めて困難になってしまいます。言葉の意味を共有することが不可能になってしまうからです。さらには、外界の全ては主観である自我が生み出すのだといった、独我論となってしまう可能性もあります。独我論になると、客観は主観が作り出したものとされ、主観に対立する客観の存在は否定されてしまいます。そして、外界の他者の存在自体否定されてしまうわけです。
そこで、共同主観といった概念が必要とされてくるわけです。主観を共同するならば、他者を認識すること、他者と外界の認識を共有すること、言語を通じさせることも当然に可能となるわけです。ヘーゲルもカントも共同主観の存在を前提に理論構築したと考えることができるわけです。ただ、絶対性をめぐる二人の結論は大きく異なっていました。では、この差異はどこから来るのでしょうか。
物理的には個々別々の身体として独立に存在している私達人間、この私達一人一人が有する共同主観とは何を意味しているのでしょうか。主観を共同するとはどういうことなのでしょうか。
今回は、共同主観と何か、共同主観という概念を詳しく分析してみたいと思います。
2.現象学と独我論
共同主観の反対の発想にあるのが何かと言えば、それは、先程申し上げた、独我論だと思います。独我論とは、全てのものはこの自我の内にあるといった考えで、外界の他我やその他全てのものは自己の意識内容に過ぎないとするものです。
実は、共同主観の理論も独我論も、共通の問題意識から出発していると理解することができるのです。それはまさに、絶対性とは何かといった問題意識であり、両者共、絶対性の獲得を目指しているのです。冒頭で申し上げたとおり、絶対性は、誰もが認めざるを得ない究極の論拠を意味しています。
共同主観は、先程申し上げたヘーゲルのように、元々は、外界の認識の絶対性を基礎付けるために必要とされたものです。各人が主観を共同すれば、その個々の主観共通の対象は誰もが認めざるを得ない論拠として絶対性を有することができるわけです。
一方、独我論のように主観が全ての客観を創り出すと考えることも、考えているのが自分自身であることは決して否定することができず、論理的には、絶対性を認めることは十分可能だと思うのです。ただ、外界の存在を否定する独我論の結論は、常識に反することも明らかだと思います。
そこで、共同主観という概念を分析するにあたり、まず、現象学を検討しようと思ったのです。なぜなら、フッサールが確立した現象学は、独我論であるといった批判がなされているからです。現象学の成立を検討し、現象学における独我論とその克服を考えることによって、共同主観が意味することを明らかにしたいと考えたわけです。
さて、現象学は、意識とは何かといった問いから出発します。以前「存在とはなんだろう」でも論じましたが、意識には意識する対象が必要だとの考えがあります。対象無くして意識無し、こういうことです。意識は必ず何ものかの意識であるという意識の指向性が認められるといった考えです(ブレンターノ「道徳的認識の源泉について」68頁)。
これに対し、意識という概念には対象出現以前のものも含まれると考える立場もあります。非志向的意識、メタ意識なるものがあるという考えで、これが東洋哲学の特徴だとも言われています(井筒俊彦「意識と本質」16頁)。
この点、現象学は、意識の指向性を前提にして考察を進めます。それでは、この意識の指向性が必ず認められることになると、どういうことになるのでしょうか。
実は、意識の指向性を認めると、意識の指向性の対象といったものが、外界の認識の対象と同一であるとの発想を導く結果になると私は思うのです。このことは、外界の認識の絶対性を、各自の意識の分析によって求めることを可能にするものだと理解できるのです。現象学は、まさに、この意識の対象を分析の対象とし、絶対性を求めようとしたのではないかと思ったのです。
現象学が主張するところの「判断中止」の根拠は、ここにあるのだと私は思います。様々な外界とのつながりの中における意識ではなく、それらを断ち切った純粋な意味での意識の対象を見出す、そのための手法が判断中止ではないでしょうか(フッサール「デカルト的省察」200頁)。
この判断中止の結果が意味していることを端的に表しているのが、デカルトの「われ思う故にわれあり」です(フッサール「デカルト的省察」201・202頁)。デカルトが究極の論拠すなわち絶対性を求めていたことは明らかです。あらゆる疑念、欺き手を排除することこそ絶対性の意味するところだと理解することができるからです。
実は、このデカルトの理論は、先程申し上げた独我論の絶対性と同じ論理ではないかと思うのです。全てのものは、思うこの自分にあるといった考えであり、外界の他我やその他全てのものも自分の意識内容に過ぎないと理解できるからです。しかしながら、ここで、デカルトは、「われ思う」といった明証的な公理を出発点として、神の存在を証明し、外界の事物も存在すると論じていってしまったのです(デカルト「省察」)。
これに対し、フッサールは、デカルトのように「われ思う」を一つの数学的な公理として、演繹的にあらゆることを説明するのはスコラ哲学的な一つの偏見であると断じました。そして、我々が自分で見ることのないものについては一切言明しないようにするなら、この偏見から免れることができると言ったのです(フッサール「デカルト的省察」204頁)。それでは、フッサールは、判断中止の後、「われ思う」をどのように扱っていったのでしょうか。
フッサールは、判断中止の後に取り出された純粋な自我である先験的自我と、私達の指向の対象として現れる世界・事物、この両者を基本に置きました。先験的とは経験に基づかないということです。先験的自我の意識は、次の相関的な二方向によって記述されます。
一つは、指向の対象それ自体、例えば、確実な存在や蓋然的な存在、あるいは、現在的・過去的・未来的な存在といった、対象に帰せられる諸様相の記述であり、これはノエマ的方向と言われます。もう一つはノエシス的方向であって、意識作用そのものの様態、例えば、知覚・想起・過去指向などの意識様態に関係するもので、それらは明晰とか判明といった様相的区別を備えているのです(同書218頁)。常に何ものかについての意識は、思念された限りでの世界であるノエマと、開放的で無限な意識生命であるノエシスの両側面において(同書219頁)、変化する様々な意識様式の統一としてあるわけです(同書223頁)。
さらに、フッサールは、知覚について、それはいくつかの側面・地平に分類できるとし、外部知覚は、実際に知覚されている側面、そして知覚されてはいないが期待されている側面、さらには別の方向に動かす場合のような知覚の可能性の地平、これらを提示しました(同書226頁)。意識作用で思念されているものは、顕在的に思念されているものよりも常により多くのものを含んでいるのであり、純粋な自我は自らを超え出たより多くの指向対象を得ることができるのです(同書229頁)。
さらに、指向対象には、指向的生の一般的な根源的現象を表す明証があり、明証は、事物・事態・普遍性・価値などがそれ自身そこに有り、直接に直観され根源的に与えられるものです(同書239頁)。それは普遍的な確証をもたらすもので(同書242頁)、指向対象を構成するのは様々な明証の総合統一であり、その基礎にあるのが、時間の中にある生の流れだとフッサールは言うのです(同書246頁)。
先験的自我に対して存在するこれら指向対象の全ては、その自我自身の内で構成されたものであり、超越性も自我の内部で構成されたもので(フッサール「デカルト的省察」268頁)、それらは主観客観の関係ではなく、全ては先験的主観性の中にあります(同書269頁)。このように、全てのものが先験的主観性の中にあると考えると、独我論とみなされ、他我認識が不可能になると批判されてしまうわけです。
そこで、そもそも他我とは何であるか、このことを考えてみましょう。他我とは、その意味からいってあくまでも他者であるわけで、私の内にあるものではありません。このように考えると、自我の内に内在的に構成された自然の背後には、それ自体において存在している世界があるのであって、その世界へ至る道を見出すべきだとの批判が当然出てきてしまうはずです(同書274頁)。
しかしながら、すべてが先験的主観性の中にあることを前提とするならば、私達は先験的自我の地盤の上で他我を確証するべきなのです(同書275頁)。ここで対象となるのは、客観的世界の内に存在する他我ではありません(同書278頁)。先験的自我において先験的に構成される他我であり、感情移入といった、他我経験に関する先験的理論の問題なのです(同書277頁)。
この先験的自我の地盤も新たな判断中止によって得られます(同書280頁)。私に固有なものとは、他我に属するものではないものであり、他我に属する文化といったものや他我の精神的なものを捨象するわけです。ここに基底となる層を見出すことにより客観的意味を持って現れる世界現象において一つの底層が私に固有の自然として現れてきます(同書281頁)。
この私の固有領域としての、単純な自然の中には様々な物体がありますが、その中に私は自分の身体を見出すことになります。この身体は、私が自由に、例えば手を動かし、この身体をもって行動することもできます(同書282頁)。こうして私の固有領域の中に人格的自我を獲得するのです(同書283頁)。この人格的自我は、私の身体を介して固有の自然領域に働きかけ、働きかけを受ける、精神物理的統一態として自我なのです(同書283頁)。
そして、この私の固有領域の中の自我は、他我という他の自我をその固有領域内に見出します(同書298頁)。私の身体が物理的存在であり、この他我なるものも物理的存在である以上、私の身体の統覚をその物体の中に、類比によって移し入れるわけです(同書299頁)。眼前に現存する物に、他の自我が、想像によって間接的に提示されるわけです(同書297頁)。要するに、現象における対象の絶対否定できない物理的側面に、想像的な精神的側面を結びつけたのが現象学の他我認識だと言えるでしょう(同書317頁注)。
以上、現象学は、意識の指向性から出発し、指向性の対象を様々な側面からその様相・様態を把握することによって他我を認識するに至り、独我論との批判を克服したわけです。
3.現象学と生物学的共同主観
さて、以上の現象学における独我論批判の克服を踏まえ、現象学と共同主観について論じてみたいと思います。現象学と共同主観とはどのような関係にあるのでしょうか。
冒頭で申し上げたとおり、カントは、私達人間の主観の中に先天的な形式があって、私達の認識は、この形式によって対象と言われるものを構成するのだと考えました。このカントが主張する各人の主観にある先天的形式は、人間という生物である以上、当然、誰にでも共通に主観に備わっている能力であり、生物学的共同主観と表現できると申し上げました。
フッサールの現象学のねらいは、神のみぞ知ると言うべきこの生物学的共同主観を、どこまで論理的に解明し得るか、ここにあったのではないかと思うのです。経験科学である生物学が獲得するのは、絶対的な真理ではなくあくまでも蓋然的真理です。したがって、絶対性を獲得するには哲学的発想が必要なのです。
実は、哲学的発想の典型である「アプリオリ」とは、生物学的共同主観を意味すると理解できると私は思うのです(「デカルト的省察」331頁)。人間という生物体であれば誰もが先天的に共通に持っている能力、それが経験に基づかないといったアプリオリという概念なのです。その自覚的証拠の一つが、デカルトの「我思うゆえに我あり」だと思うのです。生物学という経験科学は、あくまで蓋然的真理であり、絶対的な真理は、デカルト的な哲学的発想に基礎づけられる必要があるわけです。
フッサールの判断中止に基づく先験的主観や超越的対象は(同書207頁)、生物学的共同主観に基づくと考えられるのですが、人間が生物である以上当然に認められるわけで、先験的主観の存在は、ある意味、絶対性を有することとなるのです。
この、判断中止の後に取り出された純粋な自我である先験的自我は、流動的な生として把握されるだけではなく、あれこれを体験する自我として様々な意識作用を同一のものとして生き抜く、持続的で恒常的な自我としても把握されます(同書248・249頁)。フッサールはこの自我をライプニッツのモナドに倣いモナド的自我と呼んでいます(同書251頁)。ライプニッツによれば、モナドは万物の実在性を担う構成要素であり、原子とは異なり部分が無い非物質的・精神的なもので、表象と欲求とからなります(ライプニッツ「モナドロジー」)。
フッサールは、このライプニッツのモナドから、共同主観を導き出しているのです。モナドの共同体は一つの共通の世界を構成し、客観的世界を相互主観的に構成します(「デカルト的省察」295頁)。モナドは万物の構成要素であり、モナド的自我も共同体の構成要素となるわけです(同書333頁)。したがって当然に共同意志すなわち共同主観が存在するのです。
この点、少々論理の飛躍があるようにも思われますが、生物学的共同主観を前提とするのであれば、当然の事だと私は思います。私達人間といった生物の種の一つのまとまりは、生きる上での経験上、決して否定できない事実であり、ただそれが蓋然的事実であって論理的絶対性を有しないために、哲学的論理構成が求められていただけだからです。
前回論じた、インド哲学の梵我一如、そしてヘーゲルの絶対精神、要するに全体の絶対的存在を前提に考えれば、モナド論によって個々の自我が必然的に導かれてきても否定できないと思います。なぜなら、モナドは、一つの生ける統一体であり、それぞれが宇宙全体を表現しているので、個々の先験的主観性を表現し得るものだからです(同書251頁)。
ただ、認識論の共同主観はこれでよいかもしれませんが、価値判断における共同主観を検討することとなると、問題が生じてくるのではないかと私は思うのです。次に、この点を論じていきましょう。
4.価値判断と共同主観
価値判断とは、判断する人が、何が善であるか、どちらが価値があるか、これらの問題の解答を決定することです。判断とは主語と述語から成る言語表現です。
善とは誰もが求めるものであり、その具体的中身は様々なものであり、実は、善そのものの定義は不可能だと考えられます(ムア「倫理学原理」)。一方、価値も誰もが求めるものですが、価値は比較がその本質にあると考えられるのです。
価値判断は誰もが日常生活において常に行っていると思われます。それでは、どのような状況でどのような価値判断がなされているか、ここで、純粋人間関係論の視点から人間存在の本質に遡り、深く掘り下げて考えてみましょう。
生命体である私達人間は、生の奔流の中で主体的に生きています。しかし主体性そのものを表現することは、表現された時点で客体となってしまい論理的に困難です。そこで私は、生の奔流を「拡がり」と呼ぶことにより個人の主体性を表現し、主体的な人間を「拡がる自我」と呼びました(「拡がる自我」参照)。
拡がる自我は、拡がりの対象に着目し、生きていることを実感・確認しようとします。これが「拡がりの確証」です。外界の対象との物質代謝は、物に対する拡がりの確証です。それにより自らの生命を維持しているのです。
そして、個々の拡がる自我が、投げかけた言葉の意味を他者と共有することにより実現するのが、他者に対する拡がりの確証です(「拡がりの確証と組織文化の本質」参照)。ここに意味とは、言葉に対する主体の把握の仕方であり、他者との言葉のやりとりは、個々の拡がる自我にとっては、まさに生きる目的でもあるのです。
この、他者に対する拡がりの確証は、各人の内心の自由を前提とします。内心の自由は無制約性をその本質とするもので、自分独自の言葉と論理を構成することができるのです。この自分独自の言葉と論理の意味を他者と共有し、他者に自分を見出すことこそ他者に対する拡がりの確証となるわけです。
さて、ここで共同主観に戻って考えましょう。冒頭で私は、人間という生物である以上、当然誰にでも共通に主観に備わっている能力を生物学的共同主観と表現できるとしました。そして、人倫という共同体である社会を基盤として、各人が主観を共同したものを社会的共同主観と表現すべきだと申し上げました。
生物学的共同主観は無意識的なもので、カントの先験的認識能力である感性と悟性を始め、人間の言語能力等が該当します。これは人間であれば誰もが共通に有するもので、人間の思考全ての前提となる共同主観です。拡がる自我の、物に対する拡がりの確証、他者に対する拡がりの確証、これらの基盤として絶対性を有するものです。先程詳細に検討した、現象学の探究の対象も生物学的共同主観であり、結果的に、独我論との批判を哲学的に否定することができたわけです。
一方、社会的共同主観は意識的なもので、他者に対する拡がりの確証のために設定した論理が必要とするものです。実は、こちらは、共同主観とは言っても人によって、あるいは社会によってその内容が異なる可能性が高くなります。なぜなら、内心の自由が参入する余地があるからです。他者に対する拡がりの確証は、内心の自由に基づく自分独自の論理の形成こそが重要となってくるわけです。
価値判断は、まさに、ここに生じてくるのです。各人それぞれの他者への拡がりの確証のための論理体系、それらのどれを選択すべきなのか、あるいはどれが正しいのか、ここでは必然的に価値判断がなされます。拡がりの確証のためには、他者が特定の論理体系を受け入れ、互いに自分独自の意味を共有する必要があるからです。
実は、ここで重要なことは、個々の拡がる自我が、他者に出会う度ごとに、全く新たに拡がりの確証の論理を設定していくことは、困難だということです。他者から注目される論理は、予め存在する他者との何らかの関係をもとにして打ち立てる方が数段容易です。この、他者との既存の関係は何らかの論理体系として成り立っています。例えば、学校や企業等、何らかの目的を達成するために形成された目的社会は、一定の価値を基礎とする設立目的によって論理体系を維持しているのです。
この既存の目的社会の論理体系こそ、他者への拡がりの確証を得るための論拠たり得るのです。この一定の価値を基盤とする論理体系、これこそが社会的共同主観を形成するものだと私は考えるのです。
ところで、私達の生きる場である社会は、今申し上げた目的社会と、個々の目的社会を包摂する一定の地域を基盤とする全体社会、この二つの類型に分かれます。個々の拡がる自我は、後者の全体社会の中で、他者に対して言葉と論理を投げかけて拡がりを確証すると同時に、目的社会を新たに設立し、あるいは既存の目的社会に参加することによって他者に対する拡がりを確証しているわけです。
さて、既存の論理体系の活用は、まさに価値判断が不可欠となります。人それぞれがこの論理を論拠として自分独自の拡がりの確証の論理を打ち立て、その意味を他者と共有しようとするからです。その際、何が善であるか、どちらが価値があるか、これらが当然問題となってくるのです。
そして、ここでは必然的に争いが生じます。なぜなら、自ら無制約的に形成した言葉の意味を他者と共有することは、他者の立ち位置で初めて確証できるのであり、そこでは、他者の打ち立てた価値と対立することが不可避となってくるからです。これこそ、前回検討したヘーゲルの「精神現象学」での承認をめぐる生死を賭けた戦いが意味することなのです。
実は、この争いを終結させ社会を安定的に継続させるのが、社会的共同主観の機能であると言えるわけです。その際、全体の価値といった正当性、誰もが従う物神性、この二つの理念が出現してくるのです。
5.目的社会における全体の価値と社会的共同主観
今申し上げたとおり、個々の拡がる自我が、目的社会に所属するのは、他者への拡がりの確証のためであり、個々の拡がる自我は、所属した目的社会の規範、理念、こういったものを他者への拡がりの確証のための論拠として用いています。
これら目的社会の規範、理念は、目的社会に全体の価値があるからこそ維持されています。それではこの全体の価値は、どのように形成されるのでしょうか。
一つは、これら目的社会の目的を実現するための理念です。団体は何らかの目的を実現するために個々の人間が集合して成立する目的社会です。その目的を実現するために皆が協力するための理念がそれです。
例えば、営利企業では、売れる商品を生産するための様々な理念が形成されています。それに基づき様々な技術が開発され、様々な工夫がなされているわけです。
もう一つは、目的社会の組織を維持するための正当性としての理念です。組織とは二人以上の人々の意識的に調整された活動や諸力の体系です(バーナード「経営者の役割」)。目的社会がその目的の達成を目指す際、当該社会は組織化され、上下の指揮命令系統が必然的に発生します。そこで、組織の上下関係を正当化する理念が強く求められてくるのです。
この正当性の代表例としては所有権があり、例えば営利企業においては、所有権を有する者が上位の地位にあるからこそ下位の者は納得するわけです。この所有権という制度を支える理念は、労働に基づく所有と、身分に基づく所有、この二つに分類されると考えられます(「所有権の本質」参照)。具体例で言えば、前者は企業の創業者に該当する理念であり、後者は世襲の経営者に該当する理念です。
目的社会における全体の価値は、以上の、社会の目的といった理念、上下関係の正当性としての理念、この両者から構成されています。この全体の価値に基づく論理体系の中で、個々の拡がる自我は、他者に対する拡がりの確証を実現しているのです。
実は、ここには、既に共同主観が成立しているのです。ただ、それは先程論じた生物学的共同主観とは全く異なるものなのです。生物学的共同主観は、言わば人類普遍の原理でした。しかし、この社会的共同主観は、それぞれの目的社会によって大きく異なってくるわけです。ただ、個々の目的社会に生ずる共同主観は、次に論ずる、全体社会の普遍性を有する社会的共同主観に大きな影響を与えることは間違いないのです。
6.全体社会の社会的共同主観と物神性
先程、個々の目的社会を包摂する一定の地域を基盤とするのが全体社会だと申し上げました。全体社会は、それを構成する個々の拡がる自我が、他者への拡がりの確証の論理を投げかける可能性ある範囲です。したがって様々な地域の核があり、村落共同体、町、市、県、国といった段階的な地域の枠が生じ、そのそれぞれが全体社会となるわけです。例えば、個人は、日常、身近な町の中で他者への拡がりの確証を得ようとするでしょうし、企業に所属する場合は、町から県へ、さらには国全体の範囲で、他者への拡がりの確証を実現しようとするでしょう。
実は、この全体社会にも、目的社会と同様、既存の論理体系があるのです。個人あるいは目的社会といった個々の主体が活動するには一定の秩序が必要であり、秩序は一定の論理の体系から成っていると考えられるのです。秩序とは、事象を構成する諸々の要素の関係に一定の型、規則性があり、要素の一部のあり方を知れば他の諸要素のあり方の可測性が存在する事態と定義されます(加藤新平「法哲学概論」307頁)。この可測性は、個々の主体が一定の論理の体系に従うことにより維持されているのです。
では、全体社会の中では共同主観はどのように存在しているのでしょうか。
実は、個々の拡がる自我の拡がりの確証実現のための秩序の存在、ここには既に共同主観が確立されています。これは社会的共同主観であり、共通の価値観に基づいて、共同の主観を形成しているのです。その原動力は他者への拡がりの確証です。誰もが自分が獲得した論理を他者と共同したいのです。
新たな交渉の相手、言い換えれば、新たな拡がりの対象となる他者が出現する可能性、全体社会のその可能性に、個々の拡がる自我の主体的な意志意欲が収斂されていきます。そして、それによって全体社会への帰属意識、さらには、全体社会への愛着といったものが形成されていきます。これが全体社会における共同主観をより一層確固たるものにするのです。
実は、全体社会の共同主観は、物神性といったものが大きく支配していると私は思うのです。なぜなら、全体社会の中での人々の活動は、目的社会をも含めた個々の主体同士の、取引を内容とするいわゆる経済活動と言い得るものだからです。
ここで、マルクスの商品交換論を検討してみましょう。マルクスは、「資本論」で「物神崇拝」といったことを論じています。人間の頭の中の産物が、それ自身の生命を与えられて、それ等自身の間でも人間との間でも関係を結ぶ独立した姿に見える、この物神崇拝が商品世界でも見いだせる、マルクスはこのように言いました(マルクス「資本論」136頁)。物神崇拝は、人間が作り上げた「物」を人間が崇拝し、その「物」に自ら従うことだと理解できるのです。
では、この、物を崇拝するといった物神的性格はどこから生じるのでしょうか。私は、それこそ、先程申し上げた通り、個々の拡がる自我が他者への拡がりの確証のための論理を設定するために、商品という「物」に大きな価値を置かざるを得ないからだと思うのです。
この「物」を個々の拡がる自我の他者に対する拡がりの確証のための目印としての物にする、これこそ全体社会における共同主観成立の基盤なのです。なぜなら、全体社会は新たな関係の創出の場であるわけですが、拡がりの相手が何を考えているのかその詳細は不明であり、要するに拡がりの確証のための論理を共有し難いわけです。この時、商品すなわち物を目印にすれば共同の意志を形成することが容易になるのです。客観的な物に、誰もが自己の拡がりの確証の論理を見出す、それによって共通の価値を見出すわけです。
実は、この時に、目的社会のそれぞれの価値の論理が、全体社会の価値の論理形成に大きな影響を与えることになるのです。例えば、先程申し上げた所有権の二つの理念です。目的社会の上下関係を維持する所有権の正当性として、労働に基づく所有と身分に基づく所有とがありました。この二つの理念が全体社会の理念に影響を与えているのです。
この点、歴史的に非常に大雑把に言えば、社会の変革期は労働に基づく所有、安定期においては身分に基づく所有、このように言えるのではないかと思うのです。この社会的共同主観は普遍的な性格を有しています。歴史的に見れば、全体社会の価値の論理としての共同主観は、このように普遍性を有するものとして把握することができるのではないでしょうか。
7.生物学的共同主観と社会的共同主観
以上、共同主観には、現象学がその検討の対象とした生物学的共同主観と呼ぶべき無意識的な共同主観と、社会的共同主観と呼ぶべき価値判断の基準となる意識的な共同主観の二つがあることが分かりました。この両者は、別々に存在しているのではなく、密接に関わって存在していることは言うまでもありません。両者一体となったものを共同主観と言っても構わないと思います。
ただ、このように両者一体として捉えると、社会・歴史の認識上様々な弊害が生じてくるような気がするのです。どういうことかと言うと、本来人間として共通に備わっている認識能力と、人それぞれによって本質的に異なる価値判断とが混同され、誤った事実認識がなされてしまう危険があると思うのです。これはやはり避けるべきだと私は思います。認識判断と価値判断は本来異なりますが、両者が互いに影響を与えることも明らかなので、この点をきちんと整理すべきだと思うのです。
この点、謬見の例の一つとして私が挙げたいと思うのが、主観客観図式の克服という主張です。主観客観図式は近代特有の思考法で克服すべきであり、古代中世においてはそのような思考は存在しなかった等の主張です。また、別の例としては、個人なる概念は近代になって初めて出てきたのであって、中世古代は個人なる概念は存在しなかったなどとする発想です。
もちろん私は現代に生きているのであって、中世古代の人々がどのような人間観を持っていたかは直接にはわかりません。自分の祖父母や親から昔の話を聞いて類推するか、昔の文献を読むしかありません。ただ、主観客観の区別は人間が物理的存在である以上、歴史貫通的に認められるのではないかと思うのです。
一方、社会的共同主観といった意識的な共同主観が、生物学的共同主観である無意識的な共同主観に影響することも否定できないでしょう。団体重視の理念と個人重視の理念の対立などがその典型で、個人なる概念は近代になって初めて成立したとの発想もこの辺から来ていると思われます。
ただ、生物学的共同主観には、人間としての限界が存在すると思うのです。いくら歴史的・社会的に相対的な思想として認知されるにしても、物理的な生物体である人間としての限界があると思うのです。まさにその一例こそ、観るもの観られるものといったことを内容とする主観客観図式なのです。
以上、絶対性を求めて共同主観が考察されたわけですが、それは、無意識的な生物学的共同主観と、意識的な社会的共同主観に分類され、大きな理論的差異があることが分かりました。また、共同主観といった概念が、人間と社会の考察にとり有効であることが間違いないことも分かりました。この二つの類型の共同主観の特質を踏まえ、それを現代社会の様々な問題解決に活かしていくことこそ重要なのではないでしょうか。
今回のテーマは以上です。
文献紹介:フッサール「デカルト的省察」、廣松渉「世界の共同主観的存在構造」
今回紹介するのは、フッサール「デカルト的省察」(船橋弘先生訳)と廣松渉先生の「世界の共同主観的存在構造」の2冊です。
まず、フッサールの「デカルト的省察」ですが、この本は、フッサールが1929年にフランスのソルボンヌで行った「先験的現象学入門」という講演のフランス語訳です。フッサールには例えば「イデーン」を始め多くの著作が出版されていますが、その内容は複雑難解で、フッサールの現象学の全体を把握するのはかなり困難だと思います。その中でこの本はフッサール自らが論じた現象学の概要といったもので、今回の現象学に関する論述は、ほぼこの本に従って論じたものです。
その内容は先程本論で論じたとおりなので、ここでは省略しますが、フッサールの現象学の内容を把握するにはとても良い本だと思いました。また、身体論なども論じていてとても参考になりました。ただ、この本も難解であるのは否定できないと思います。
次に紹介するのは、廣松渉先生の「世界の共同主観的存在構造」です。この本が出版されたのは1972年で50年以上昔ですが、近代以降の日本の哲学書を代表する、極めて刺激的な大変すばらしい内容の本だと思います。今回は「共同主観とは何か」がテーマなので、まさに共同主観を真正面から論じているこの本を取り上げたわけです。
廣松先生は、冒頭で、今日哲学理論は閉塞状態にあると断じ、それが近代特有の主観客観図式に起因すると論じます(同書5頁)。先生によれば、主観客観図式は、①主観の各私性、②対象認識の「意識作用-意識内容-客体自体」という三項図式、③与件の内在性、これらが当然の了解とされているものです(同書7頁)。
そして、人間の認識は、その対象については必ず感性的な所与以上の或るものとして現れ(同書24頁)、主体についても自己分裂的な自分以上の或る者として現れているとし(同書30頁)、この四肢的構造から認識は成り立っていると先生は主張するのです。
そして、身体に主観を閉じ込めるのではなく(同書179頁)、身体の外にある他者との共同主観によって、他我認識問題を代表とする、主観客観図式の諸問題は全て説明できるとするわけです(同書190頁)。さらに、認識の共同主観的同型性は、認識能力のアプリオリ(経験以前)な同型性に直接的に照応するのではなく、協働現存在を通じてアポステリオリ(経験以後)に形成された共軛的なあり方だとするのです(同書190頁)。
また思い出話になって恐縮ですが、私がこの本を初めて読んだのは、今から40年ほど前の学生時代ですが、かなり刺激的な内容なので、面白くて夢中になって読んだ記憶があります。その時、私は既にマルクスの資本論やドイツイデオロギー等の著作も読んでいたのですが、当時マルクス主義者と思われていた先生の論述が、カントやヘーゲル、その他多くの哲学者や言語学者等の理論を踏まえた極めて精緻かつ高度な内容だったのでびっくりした記憶があります。
ただ、その後様々な人生経験を積んで、様々な哲学理論を勉強した現在は、先生の発想にはどうしても違和感を覚えてしまうのです。本論でも申し上げたとおり、私は、共同主観は認識の面と価値判断の面との二つに分かれると考えるので、これを混同するのは問題があるような気がするのです。また、これも本論で論じましたが、主観客観図式を克服すべきと考えるのも私は全く賛成することができません。
廣松先生の発想は、感性的所与について、それを誰もがそれ以上の或るものと見做すと断定し、それを後から客観的実在である社会の生産構造、言い換えれば、人々の協働といった歴史的事実に結び付けて論じたものと理解できると思います。客観的事実として社会が継続している以上、この感性的所与以上の或るものは、歴史的な一定の社会構造に付随する共同主観だと認定されるわけです。この発想は、やはりマルクスの唯物史観的な理論に深く影響されたものだと思います。人間を唯物論的にとらえると、それはそこに精神的なものの実在、すなわち共同主観を見て取りやすいのではないかと思うのです(同書190頁)。
この点、私は人間の主体性を重んじ、主体的な人間である拡がる自我が、他者への拡がりの確証のために構築した論理体系、ここに社会的な共同主観を求めたわけです。
以上申し上げたとおり、廣松先生のお考えには、私はその全てに賛成することができません。しかしながら、この本は、大変ユニークな、それでいて理論的に極めて精緻な、大変すばらしい、日本を代表する哲学書であることは間違いないと思います。
参考文献
フッサール「デカルト的省察」(船橋弘訳)中央公論社
フッサール「イデーンⅠ」(渡辺二郎訳)みすず書房
ブレンターノ「道徳的認識の源泉について」(水地宗明訳)中央公論社
ヘーゲル「精神の現象学」(金子武蔵訳)「法の哲学」(上妻精他訳)岩波書店
カント「純粋理性批判」(宇都宮芳明他訳) 「実践理性批判」(宇都宮芳明訳)以文社
デカルト「省察」(井上庄七・水野和久訳)中央公論社
ライプニッツ「モナドロジー」(清水富雄 竹田篤司訳)中央公論社
マルクス「資本論」岡崎次郎訳 大月書店
ハイデッガー「存在と時間」(細谷貞雄訳)理想社
ムア「倫理学原理」(泉谷周三郎他訳)三和書房
バーナード「新訳経営者の役割」(山本安次郎他訳)ダイヤモンド社
マッキーヴァー「コミュニティ」(中九郎他訳)ミネルヴァ書房
廣松渉「世界の共同主観的存在」「事的世界観への前哨」勁草書房
大森荘蔵「言語・知覚・世界」岩波書店
務台理作「現象学研究」弘文堂書房
竹田青嗣「現象学入門」日本放送出版協会
新田義弘「現象学とは何か」講談社
高田保馬「社会と国家」「社会学概論」岩波書店
加藤新平「法哲学概論」有斐閣
岩崎武雄「カントとドイツ観念論」「真理論」新地書房 「カント」勁草書房
桂壽一「近世主体主義の発展と限界」東京大学出版会
井筒俊彦「意識と本質」岩波書店
時枝誠記「国語学原論」岩波書店
近藤洋逸・好並英司「論理学概論」岩波書店
(2025年8月公表)