個々の人間にとって社会と組織はどのような意味を持つか。和田徹也のホームページです。

希望の断面 ~神への憧れと力への意志~

  • HOME »
  • 希望の断面 ~神への憧れと力への意志~
YouTube解説講座

希望の断面 ~神への憧れと力への意志~

和田徹也

目次

1. 問題提起  2.挫折と希望  3.希望の内容と方向  4.希望の断面、他律と自律  5.秩序と全体の価値  6.人間の強さ・弱さと神への憧れ  7.虚無への希望と力への意志  8.希望の断面と創造の論理  文献紹介:ニーチェ「ツァラトゥストラ」

 

1. 問題提起

前回の論文では、人間の意志について論じました。その際、生の奔流の中で、生の力に支えられた個々の人間の意志は、何かを成し遂げようとする、将来へ向けた論理の設定としての意味合いが強い概念だと申し上げました。そして厳しい現実社会を乗り越えて生きていくために、この意志の論理を補強するため、生の力の情動を論理化して理念なるものを形成するのが人間である、このように論じたわけです。

この時、生の力は、まず、希望という心情として各人の主観に生じてきます。意志や理念の根本には、希望という心の中の生の発現としての情動が存在するのです。

さらに、前回、宇宙の生の奔流も論じました。森羅万象、人間社会その他全てを含む生の奔流、これを宇宙の生の奔流と表現したわけです。宇宙の生の奔流の中で私達人間は生きているわけです。このことは決して否定することができません。

そして、その際、宇宙の意志についても検討しました。ショーペンハウアーによれば、宇宙の意志はカントが言うところの物自体界にあるのであって、本来認識不能となります。このような宇宙の意志を認めることは、結果的にあらゆる理念を否定するニヒリズムに陥る危険があることも分かりました。したがって、個人の意志は認められますが、宇宙の意志は認め難いとの結論に、前回の論文では至ったわけです。

しかしながら、人間は誰もが宇宙への憧れを抱いているのも確かだと思うのです。希望という心情は、この無限に広がる宇宙への憧れをも含んでいるように感じるのです。現実社会の身近な人間関係を超越した無限の宇宙への拡がり、これこそ生きる意欲を引き出す根源であり、希望という言葉の意味するところである、このように思うのです。

こう考えると、宇宙の意志を認めることも必要なのではないかという気もしてきます。宇宙の生の奔流、万物の流れは決して否定することはできません。そうなると、そこに全てを司る宇宙の意志なるものが存在するのではないか、このようにも思えてくるのです。

宇宙の意志に憧れ、宇宙の意志に則ることこそより善く生きることなのではないか、宇宙の意志との合一を望み願うことこそ希望の本質ではないか、このように思えてくるのです。宇宙の意志との合一、これは神への憧れであり、神の存在を認め、神を信仰することにつながっていきます。

そこで、今回は、希望とは何か、希望の断面を考察の対象とし、未来へ向けて生きるとはどういうことか、人間の生の本質といったものを明らかにしていきたいと思います。

 

2.挫折と希望

今回の研究の出発点となるのは、生きている自分、物理的な身体を有する自分自身、個々の主体的人間です。希望は私自身の心に生ずるものです。したがって、主体的な自分自身から出発する必要があるわけです。

ところが、主体性そのものを表現することは、表現された時点で客体となってしまうため、論理的に困難です。そこで私は、生の奔流を「拡がり」と呼ぶことにより個人の主体性を表現しました。主体的な人間を「拡がる自我」と呼んだわけです(「拡がる自我」参照)。

この拡がる自我は、拡がりの対象に着目し、生きているということを実感・確認しようとします。これが拡がる自我の「拡がりの確証」です。外界との物質代謝は、物への拡がりの確証となります。そして、個々の拡がる自我は、内心の自由により形成した自分独自の言葉の意味を、外界で出会う他者と共有することにより、自分が主体的に生きていることを確認しようとします。これが他者への拡がりの確証です(「拡がりの確証と組織文化の本質」参照)。

さて、以上申し上げたとおり、個人を出発点として人間を考えるわけですが、当然のことながら、人間は生まれてから様々な社会に所属します。例えば、勉強するため学校に所属し、生産活動を行う企業に所属し、その他、諸々の社会に所属して個々の人間は生きているわけです。これらの社会は、ある目的を達成するための個人の集合体である目的社会に分類できます。この無数の目的社会を包摂する、一定の地域を基盤とする個人の集合体が全体社会です。

実は、個々の人間すなわち拡がる自我が目的社会に所属するのは、他者への拡がりの確証のためだと考えられるのです。他者への拡がりの確証は、他者に言葉と論理を投げかけて他者とその意味を共有することにより実現しますが、個々の拡がる自我は、所属した目的社会の規範、目的としての理念を他者への拡がりの確証のための論拠として用いているわけです。

ところが、この目的社会の中では、誰もが拡がりの確証を実現することができるわけではありません。個々の目的社会は、拡がりの確証の実現をめぐる個々の拡がる自我同士の争いに満ちているのであって、ここには無数の挫折があるのです。

拡がる自我は、投げかけた論理の意味の他者との共有を期待し、自分の期待に他者を従わせようとします。実は、ここで、お互いの期待が争いに転化してしまうのです。また、拡がりの確証を実現し得る目的社会の中での地位の希少性が、その地位をめぐる争いを不可避的に生じさせてしまうのです(「管理と支配の間にあるもの」参照)。

このような、挫折に満ちた、極めて過酷な環境の中で、確固たる意志をもって、他者に向けて拡がりの確証のための論理を設定し続けているのが、個々の生きる人間すなわち拡がる自我です。

さて、意志は拡がりの確証の実現を目指すための論理の設定でした。この場合、過酷な環境の中で意志は、意志を後押しする力によって存続しています。この力こそ、生の力であり、この力から生まれる将来へ向けた心情が希望と表現されてくるわけです。希望とは、ある事の実現を望み願うことだととりあえず定義できるでしょう(コトバンク デジタル大辞典)。

このように、希望は生の奔流である「拡がり」の主観的表現であると言えるのです。希望は、拡がりの確証の論理の前提となる内心の無制約な自由と、拡がりの確証の実現とを結びつけようとする、挫折を克服する心情を表現していると言えるわけです。

 

3.希望の内容と方向

さて、希望という言葉が意味する内容は大きく二つに分かれます。希望は、具体的な物事の実現を望み願う場合と、抽象的な物事全般の実現といったことを望み願う場合とがあるわけです。

前者の具体的な物事の実現を願うことは、日々日常様々な例が考えられます。飲み物はお茶を希望する、学校で進級を希望する、その他無数の具体的希望を心に抱き、様々な事を実現しながら人々は生活しているわけです。これらの事実は、ごく普通の、日常的なことだと言えるでしょう。

実は、今回詳しく検討したいのは、後者の抽象的な希望なのです。幸福な生活への希望、充実した人生への希望、さらには、明日への希望、未来への希望、こうした表現での希望を検討したいのです。

前回の論文「意志と理念」では、意志は将来へ向けての論理的性格が強い旨論じました。これに対し、抽象的な希望は、同じ将来へ向けての情動ですが、意志ほど論理的性格は強くありません。論理構築以前の心情、情動としての性格が強いのです。抽象的な希望は、人間の生きる意欲を表明するものであり、将来の生きる満足、幸福を希求する心情を意味するものだと言えます。この情動は、私に言わせれば、まさに「拡がり」という表現に含まれるものなのです。

さて、このような抽象的な希望の向かう方向は、大きく二つに分かれるような気がします。

一つは、宇宙の意志を認める方向です。何か超越的なものに憧れ、それに近づくことを願う、こういうことです。これは、絶対的な造物主、神といったものを認めることにつながっていきます。希望は自分の外の何らかの力によって叶えられるといった発想です。神のご加護を願う、そのために自分は神に帰依する、こういった方向です。

もう一つは、宇宙の意志を認めない方向です。これは、自分自身の力を信ずる発想です。大地に確固たる基盤を置き(ニーチェ「ツァラトゥストラ」144頁)、希望は自分自身の力で実現すべきといった発想です。他者に頼らず自分自身で創造する、自分自身で人生を切り開いていく、こういった方向です。

希望はこのような複合的な構造をとっていると思うのです。そこで以下、この希望の断面を検討していくことにより、その構造を明らかにしていきたいと思います。

 

4.希望の断面、他律と自律

今申し上げた希望の向かう二つの方向、宇宙の意志を認める前者は、超越的なものに対する憧れであり、他律的なものです。宇宙の意志を否定する後者は、自分自身を信じるといった自律的な意志に基づくものと考えられます。希望の断面は、他律と自律に区分されるわけです。

そして、これに応じて、希望の向かう方向は天と地の二方向に分割されてきます。他律的希望は天に向かい、天の加護を希望します。自律的希望は地に向かい、大地を基盤として自己の力を発揮し、希望を実現しようとするのです。

なぜこのように二つに分かれていくのでしょうか。希望が分割される原因はどこにあるのでしょうか。

私は、その原因を、先程論じた、拡がる自我の他者に対する拡がりの確証のための論理の性格に求めたいと考えるのです。以前も論じたとおり(「分割の論理と創造の論理」)、他者に対する拡がりの確証のための論理は、二つの類型、「分割の論理」と「創造の論理」に分類されるのです。

「分割の論理」とは、自分が所属する社会あるいは組織全体から出発する論理です。出発点である社会全体それ自体に大きな価値を置き、その社会全体の価値の序列の中での自分の地位の価値の高さによって他者の注目を得る論理、社会全体の価値を自分がどれだけ分割して収得したかによって他者の注目を得る論理です。

「創造の論理」とは、個から出発する論理で、何を行ったか、何を作り上げたかによって他者の注目を得る論理です。個々の行為に大きな価値を置き、その行為の成果である創り上げたものを評価する立場です。行為の出発点の価値はゼロです。いかに努力したか、どのような成果を創造したかを、他者の注目を得るための価値の評価基準とします。

価値とは、誰もが求めるものであって、高低あるいは大小が生じた可測的で比較可能な意味のことです。意味とは言葉に対する主体の把握の仕方のことです。

分割の論理と創造の論理は、この価値の配分の方法に大きな違いがあるわけです。前者は、出発点の社会・組織全体に絶対的な価値を置き、その全体の価値を分割して自分が取得した価値を他者に主張する論理です。これに対し、後者は出発点の価値は皆無で、個々人の行為とその結果のみに価値を置き、自分が創造した結果の価値それ自体を他者に主張する論理です。

宇宙の意志を認めることは、分割の論理の前提となる全体の価値を認めることにつながっていきます。宇宙の意志を否定することは、他の誰からの援助を受けない自分自身の価値の創造、すなわち創造の論理を重視し、分割の論理の前提である全体の価値の否定につながっていくのです。

以下、このことをさらに詳しく考えていきましょう。

 

5.秩序と全体の価値

ここで、分割の論理の前提となる全体の価値の形成について考えてみたいと思います。

まず言えることは、個々の人間すなわち拡がる自我は、他者に対する拡がりの確証のための論理を設定する際、必然的に全体の価値を必要とするということです。このことは、秩序が必要であると言い換えることができるでしょう。

秩序が無ければ拡がりの確証のための論理を設定することができません。なぜなら、論理は原則としては個々の人間の自由意志によって受け入れられなければならないからです。拡がりの確証は他者と言葉の意味を共有するところに実現されるのであり、意味とは言葉に対する主体の把握の仕方であって、内心の自由が前提となるからです(「管理と支配の間にあるもの」参照)。

先程、私は、拡がる自我は他者との言葉の意味の共有を期待するのであり、この自己の期待に他者を従わせるところに人と人との争いの根源があると申し上げました。この争いを避け、個々の拡がる自我の、この意味の共有に対する期待、これを確保することが必要不可欠となるのです。そのためには秩序が必要です。秩序があって初めて内心の自由は確保されるのです。

秩序とは、何らかの事象を構成する諸々の要素の関係に一定の型、規則性があり、要素の一部のあり方を知れば他の諸要素のあり方について可測性が存在する関係ないし事態のことです(加藤新平「法哲学概論」307頁)。可測性があるからこそ、個々の人間、すなわち拡がる自我は、他者に対し拡がりの確証のための論理を投げかけ、他者はこれを受け入れることができるのです。

では、このような秩序を維持するにはどうすればよいのでしょうか。
実は、ここで価値がどうしても必要となるのです。秩序を乱そうとする誘惑や衝動を乗り越えるためのより高い価値が必要なのです。秩序を構成する諸個人が一定の同じ方向へ向くための、より大きな価値が必要なのです。私はこれこそが、全体の価値であると考えるわけです。

全体の価値があるからこそ、人々は一定の方向に目を向けます。なぜなら、価値は誰もが求めるものであり、可測性があるものだからです。全体の価値は秩序を乱す衝動を打ち消す、より高い、より大きな価値を持つのです。全ての拡がる自我が求める、拡がりの確証の論理の設定に秩序は不可欠のものだからこそ、秩序には全体の価値が必要とされるのです。

ではこの価値はどのような性格を有するのでしょうか。人々が着目するような全体の価値はどのような性質を有していればよいのでしょうか。

まず言えることは、拡がりの確証の実現といった目標がその価値の根本であるということでしょう。ということは、各人の拡がりの確証の論理の性質によって全体の価値の性格も定まってくるということです。そこで、全体の価値を基礎付ける拡がりの確証の論理の形成について考えてみたいと思います。

 

6.人間の強さ・弱さと神への憧れ

他者に対する拡がりの確証の論理は、他者に注目されなければなりません。他者に注目されるためには、他者の有する価値観と同じ価値観に基づく論理を形成することが効果的です。全体の価値はより多くの人々が注目する価値でなければならないわけです。

実は、この場合、全体の価値を基礎付ける価値観は大きく、人間の強さに着目する方向と、人間の弱さに着目する方向とに分かれるのではないかと私は思うのです。

拡がりの確証の原動力は、本来、人間の生の力、言い換えれば人間の強さにあります。希望という概念も人間の強さに裏打ちされたものであり、その根底には生の奔流があったわけです。この場合、宇宙の意志は、人間の強さに基づいた意志の目標、意志の憧れとして存在することとなるでしょう。すなわち、強者が有する神への憧れです。

しかしながら、他者に対する拡がりの確証の実現は、何度も申し上げたとおり、極めて困難であり、誰もが挫折を経験します。この拡がりの確証の困難性に着目すると、どうしても人間の弱さを自覚せざるを得なくなってくるのです。自分の無力感、実現不能といった諦念、これらの感情が生じてくるのです。この場合、元来人生は苦である、人間は元々罪を負っている、このような悲観的発想を前提とした論理とならざるを得なくなるわけです。

このようになってくると、希望という概念も大きく変貌してくるのではないかと思うのです。人間の弱さに基づく心情である、救い、加護、こういったものを求める内容となってくるのではないかと思うのです。

その結果、全体の価値を形成する論理もその性格が変化してきます。弱い人間を前提とした、弱い人間を救う宇宙全体の意志となってくるのです。すなわち、弱者が有する神への憧れです。

この場合、人間各個人誰もが有する同情といった心情が大きな役割を演じます。同情とは他人の不幸や苦悩を自分のことのように思いやっていたわることです(コトバンク デジタル大辞泉)。神への帰依は、同情の裏返しであると言えるのではないでしょうか。同情は他者への思いやりですが、逆に神からの自分に対する思いやりを求めるのが神への帰依であると言えるのではないかと思います。苦悩する不幸な自分すなわち弱者としての自分の救済を神に求めるわけです。

先程申し上げたとおり、全体の価値は、本来、個々の拡がる自我の拡がりの確証の実現のために、秩序を維持するために成立したものだったわけです。それはまさに生の奔流、人間の強さに基づくものだったわけです。ところがそれが大きく変化してしまう、全体の価値の成立根拠が人間の強さから弱さへと逆転し、神の救済になってしまっているわけです。人間の弱さに基づく神への憧れに転化してしまったのです。

 

7.虚無への希望と力への意志

人間の弱さに基づく全体の価値について、さらに検討していきましょう。

人間の弱さが直接反映するのは創造の論理の構築です。創造の論理はゼロから価値を創造するわけですが、それには強い意志が必要です。強い意志は弱い人間には生じ難く、弱い人間は創造の論理の構築をあきらめざるを得ないのです。

創造の論理をあきらめると、他者の創造の論理の構築を阻害する傾向が生じてしまいます。どういうことかというと、自分以外の誰もが、創造の論理の構築に関して無力になることを願うといった発想が出てきてしまうのです。要するに、嫉妬といった感情に基づく論理です。これは、価値を創出する創造の論理を前提とせず、単に分割の論理のみ求めるといった発想、既存の価値の分割のみ求める内容なのです。

では、このような、創造ではなく分割のみ求める論理はどのように世の中に顕在化しているのでしょうか。

その代表こそ、ニーチェが言うところの禁欲的世界観ではないかと思うのです(ニーチェ「道徳の系譜」)。創造の論理の実現が困難であるため、禁欲こそ価値があるとなし、禁欲を維持する権威を認め、もともと何もないことを目標にして、禁欲主義といった努力をし、創造の論理を成し遂げたと自己満足するものです。実体は何も創造していない、ある意味見せかけの努力を行うわけです。

このような、虚無への希望(フィンク「ニーチェ」219頁)、これこそ人間の弱さに乗じた拡がりの確証の論理の典型なのです。このような希望は、分割の論理のみで創造の論理はありません。

しかしながら、やはり私は、創造の論理の構築は絶対に必要だと思うのです。価値は創造の論理から生じると思うのです。

本来、創造の論理こそ目的であって、分割の論理の根拠となる全体の価値は、その出発点として必要とされたに過ぎなかったのです。したがって、全体の価値も創造の論理のために本来存在するものだったわけです。それが人間の弱さから分割の論理としてのみ機能してしまったのです。やはり、ここで、創造の論理を復活させなければなりません。

創造の論理の復活において重要な働きをするのが、ニーチェが言うところの、力への意志です(ニーチェ「ツァラトゥストラ」190頁)。単なる生への意志ではなく力への意志、これが必要なのです。

前回検討したショーペンハウアーは、生存への意志を論じました。ところが結果的に厭世観(ペシミズム)に至ってしまったわけです。ニーチェによれば、生存の意志なるものは存在しません。なぜなら、生存している以上既に意志も存在するからです(同書191頁)。

この点について、盲目的な生の意志だけではだめだとニーチェは言います。およそ生があるところにだけ意志もあり、それは生への意志ではなくて、力への意志である、こう言うのです。無常でないような善と悪は存在せず、善と悪は常に自分自身の力で自分自身を乗り超えずにはいられず、善と悪において創造者たるものはまず破壊者とならねばならず、最高の悪は最高の善の一端であり、最高の善とは創造的なものである、ニーチェはこのように言うのです(同書192頁)。

 

8.希望の断面と創造の論理

以上のニーチェの発想はまさに創造の論理を重視するものだと思います。分割の論理と全体の価値は、創造の論理の足枷になってはいけない、この理念の実現を表現するのが、ニーチェが言うところの超人ではないでしょうか。

人間とは乗り超えられるべきあるものであり、およそ生あるものはこれまで、おのれを乗り超えて、より高い何ものかを創ってきたわけです。ニーチェは、超人は大地の意義であると言い、天上の希望を説く人を信じてはならず大地に忠実なれ、このように言うのです(同書64頁)。

創造の論理は新たな価値の創造であり、それは既存の価値を乗り超えていくものであると言えるのであり、このことは、人は自らを乗り超えて生きていく、こういうことを意味します。天を頼るのではなく、大地に踏ん張って生きる、これを表現するのが「超人」であると私は思ったわけです。

希望は虚無をその内容としてはいけません。創造するものでなければならないのです。それは、自分自身の力で実現すべきといった発想であり、神に頼らず自分自身で創造する、自分自身で人生を切り開いていく、希望の断面には常にこの部分が存在しなければならないのです。

今回のテーマは以上です。

 

文献紹介:ニーチェ「ツァラトゥストラ」

今回紹介するのは、ニーチェの「ツァラトゥストラ」です。手塚富雄先生の訳です。

この本は1883年から1885年にかけてドイツで出版された本で、単なる哲学論文ではなくツァラトゥストラを中心とした物語で、中には詩が挿入され、また、戯曲風でもある極めて文学的な作品、というよりもまさに文学作品となっているわけです。

私は、ニーチェの著作は、大分以前に「道徳の系譜」は読んでいたのですが、「ツァラトゥストラ」は分量も多いし文学的なので、中々読む気が起きませんでした。ニーチェの思想は、これも大分以前に読んだ、理想社のニーチェ全集別巻の、オイゲン・フィンクの「ニーチェの哲学」という論文で自分なりに理解していたわけです。

今回、初めて通読しましたが、物語風の記述に慣れてくると、実は、その内容は極めて面白いことが分かり、自分の興味を引く哲学や倫理学の発想が至るところにちりばめられていて感動することも多く、とても満足しました。また、手塚先生の翻訳と訳注が大変分かりやすく、文学的表現についても的確に理解することができたと思います。

内容的には、神の死、本論でも論じた超人、超人がよって立つ大地、善人とは何か、同情の本質、憐れみとは何か、こういった記述が多く、大変参考になりました。さらには、人間は不平等であると断言したり、人間の妬みや嫉妬を真正面から論じたりして、かなり刺激的な内容になっています。

このように、これは文学作品なので、直接読んでいただいてその内容を味わっていただくしかないので、中身の概要などは今回詳しく説明しません。私なりに理解した内容の主なものは、先程本論で論じたとおりです。

そこで、とりあえず読んだ感想だけ申し上げておきたいと思います。

実は、今回のテーマである「希望の断面」は以前から構想を練っていたのですが、この「ツァラトゥストラ」を読んだ結果として構成が大きく変わりました。当初は力への意志といった副題は入っていなかったのです。この本は文学的な作品であるにもかかわらず、理論的に人間の本質を極めて鋭く突く内容で、とても参考になったのは事実です。

ただ、ニーチェの論述の内容それ自体は非常に興味深いのですが、私個人としては、ニーチェその人は、やはりあまり好きにはなれないのです。人を馬鹿にするような表現が多く、私は人間的にはニーチェを好きになることはできません。自分の欲求不満を弱い対象にぶつけて快感を得る、こういった、現代でも時々見かける、人を馬鹿にして他者の注目を得ようとする論述手法の存在を感じてしまったわけです。

ただ、この本全てがそのようなわけではなく、美しい詩的表現も多々あり、言うまでもないことですが、この本は、読む価値がある大変素晴らしい著作であることは間違いないと思います。

今回は以上です。

 

参考文献

ニーチェ「ツァラトゥストラ」手塚富雄訳 中央公論社

ニーチェ「道徳の系譜」木場深定訳 岩波書店

フィンク「ニーチェの哲学」吉澤傳三郎訳 理想社

ショーペンハウアー「意志と表象としての世界」西尾幹二訳 中央公論社

カント「純粋理性批判」宇都宮芳明他訳 以文社

カント「実践理性批判」「道徳形而上学の基礎づけ」宇都宮芳明訳 以文社

ヘーゲル「精神の現象学」金子武蔵訳 岩波書店

アリストテレス「形而上学」出隆訳 岩波書店

ハイデッガー「存在と時間」細谷貞雄訳 理想社

手塚富雄「ニーチェの人と思想」中央公論社

西尾幹二「ショーペンハウアーの思想と人間像」中央公論社

竹田青嗣「ニーチェ入門」筑摩書房

加藤新平「法哲学概論」有斐閣

高田保馬「社会と国家」「社会学概論」岩波書店

岩崎武雄「カント」勁草書房 「西洋哲学史」有斐閣

橋本智津子「ニヒリズムと無」京都大学学術出版会

高崎直道他「インド思想史」東京大学出版会

西田幾多郎「善の研究」岩波書店

時枝誠記「国語学原論」岩波書店

 

(2024年10月公表)

PAGETOP
Powered by WordPress & BizVektor Theme by Vektor,Inc. technology.