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形而上学とは何か ~現実を超越する発想の必要性について~
和田徹也
目次
1.問題提起 2.哲学と形而上学 3.形而上学に対する経験論からの疑問 4.カントの認識論と形而上学 5.カントの形而上学と道徳法則の本質 6.問題解決における経験的判断の性質 7.科学と形而上学 文献紹介:カント「実践理性批判」 参考文献
1.問題提起
哲学を勉強すると形而上学という言葉をよく聞きます。普通の人には少々聞き慣れない言葉かもしれませんが、哲学ではとにかくよく出てくるのです。最初は、ちょっと意味不明に感じるでしょうが、現実離れした想像の世界を対象とするのが形而上学だ、このように推測できるのではないかと思います。したがって、科学といった現実の世界を対象とする学問とは大きく異なる、こういった印象を多くの人が持つのではないかと思うのです。
言うまでもなく、科学は現代社会での学問の花形です。学問は全て科学でなければならないといった意見もある位です。現代の様々な高度の生産技術や建築土木技術、通信技術等は、科学によって生み出されたことは明らかであり、科学は人類に多大な福利をもたらしたわけです。
これに対し、哲学は、役に立たない学問の典型のように思われている節があります。また、哲学理論の内でも、前回論じた分析哲学と言われている立場のように、事実の認識は科学に任せるべきであり、哲学は科学の基礎となる言語の分析に限るべきとの立場もあるのです。この立場から言えば、形而上学は否定されることとなるでしょう。
果たして形而上学は否定されるべき学問なのでしょうか。形而上学を研究する意味はどこにあるのでしょうか。
今回は、形而上学とは何か、この問題を考えていくことにより、形而上学の必要性、さらには、科学と哲学の関係性、こういったことについて、深く追究してみたいと思います。
2.哲学と形而上学
哲学とは何かについて、以前、私は「前提となっている思考を乗り越えて根本理論を追究する学問」と定義しました(哲学社労士の「純粋人間関係論」講座 第1回「哲学とは何か」参照)。
私達の日常生活は、様々な常識や思考法を前提として成り立っています。通常であればその前提に則って活動すれば問題は生じませんが、今までの常識や思考法では解決できない難しい問題に直面することも多いわけです。その場合、普段の実務や生活で前提となっている思考を吟味し、果たしてそれが本当に正しいのかどうか、それが本来どのような意味を持っていたのか、こういったことを検討する必要に迫られます。その時に、その前提となっている思考を乗り越えるということが必要とされてくるのです。
根本理論とは、普段実際に考えている様々な具体的な事を、演繹的に導き出すことを可能にする究極的な理論のことです。ここに演繹的とは、一般的・普遍的な言葉から、個々具体・特殊的なものを導き出す思考法のことです。
ところで、根本理論には、その人の世界観、人生観が反映されます。なぜなら、前提となっている思考を乗り越える時には、その人の生きざま、主体性、こういったものがかかわってこざるを得ないからです。しかし、それは、外部の人からは、明確には認識できないでしょう。なぜなら世界観、人生観はその人の主体的な内心の自由に基づいているからです。ただ、少なくとも、哲学理論の追究、すなわち根本理論を構築する際は、世界観、人生観が切っても切れない関係にあることは間違いないと思います。
実は、この世界観・人生観の探究が、形而上学という言葉が意味する内容の一つであることは否定できないと思うのです。それは、世界観あるいは人生観といったものが、超越的な立場から語られるということを意味しています。なぜなら、世界観や人生観は、自分を含めたこの世界全体を見渡す立場からこそ獲得できると考えられるからです。この、現実からの超越性、これが形而上学の大きな特徴であることは間違いないと私は思うのです。
ところで、形而上学、すなわち、metaphysicaとは、元々、「自然学の後の書」という意味だそうです。アリストテレスの「形而上学」という本は、アリストテレスの死後まとめられたそうですが、その遺稿を編纂する際、それが自然学書の次に編入されたことがその語源なのだそうです。アリストテレスは、自然学についても詳細に研究しているのですが、この「形而上学」は、第一哲学、すなわち、物事の本質や実体といった、存在を存在として考察する学、種々の存在の具体的内容に立ち入らず、一般に存在といわれているものが持っている性格を探求する学を論じたものなのです(岩崎武雄「西洋哲学史」61頁)。
ちなみに、形而上という訳語は、中国の古典「易経」からとられたそうです。形を備えていて感覚によって知ることができるものが形而下であるのに対し、形が無くて感覚ではその存在を知ることができないのが形而上です(コトバンク 精選版日本国語大辞典)。
以上申し上げたことを踏まえて、とりあえず、形而上学を定義してみましょう。
私達は世の中の事物について日常的にも学問的にも様々の知識を持っていますが、そこからさらに進んで、それらの知識を成り立たせている基本的な原理を求め、同時に、世界の構造と人生の意味を捉えようとする、この知的努力が形而上学だと理解されるわけです(山本信「形而上学の可能性」223頁)。
このように、事物といった事実の知識だけではなく、その基本にある原理、全てを包摂する世界の構造、個々人の世界観や人生観、これら現実の世界を超越する真理を探究する学問、これが形而上学なのです。
3.形而上学に対する経験論からの疑問
さて、このような形而上学に対しては、その必要性への疑問が、昔から存在しています。その理由は、形而上学の検討の対象が、現実の経験を超越したものである点にあります。
経験は人間の思考の根源であり、経験無くしては、どのような思考もあり得ない、いかなる知識もあり得ない、このように考えられるわけです。したがって、経験を経由しない思考は、空虚であり、誰もが認める客観性も存在せず、検討する価値がない、こういう結論にもなってくるわけです。
以前「経験とは何か」で論じたとおり、イギリス経験論の創始者であるロックは、生まれた時点の人間の心を、文字を全く欠いた拭われた書板(タブラ・ラサ)で、観念は少しもないと想定しました。その上で、どのようにして心は観念を備えるようになるかと問い、それは経験であり、経験に全ての知識は由来するとしたわけです(ロック「人間知性論」81頁)。
ロックは、感覚の対象としての外なる物質的な事物と、内省の対象としての内なる私たち自身の心の作用、これだけが私達の一切の観念の始まる起原だと言いました。そして、いつ人間が観念を持ち始めるかと言えば、それは初めて感覚するときであり、感官が観念を伝え入れないうちは心に観念はないので、知性にある観念は感覚と同時だとしたのです(同書83頁)。この考えに従えば、経験に基づかない超越的世界や原理を認め、これに依拠する形而上学は、否定されることになるでしょう(大槻春彦「経験の哲学」144頁」。
ただ、ロックは感覚を受容する理性的な主体の実在については疑いを持ちませんでした。これは、デカルトの「我思うゆえに我あり」という合理論的思考をロックが引き継いていることを意味しています。
そして、同じくイギリス経験論のヒュームは、理性だけではどんな初めての概念も効力の観念も決して生じさせることはできないと主張しました。そして、因果性といった観念は、理性ではなく経験に、効力の生じた個々の事例に起因しているに過ぎないとしたのです(ヒューム「人性論」453頁)。因果性の推論には絶対的な必然性は存在せず、あくまで蓋然的、確からしいことに過ぎないわけです。さらに、ヒュームは、人間とは、思いもつかぬ速さで次々と継起し、絶えず変化し、動き続ける様々な知覚の束あるいは集合に過ぎないと断言し、主体の実在をも否定してしまいました(471頁)。
したがって、ヒュームの立場からは、形而上学は完全に否定されることになります。なぜなら、外界の因果性といった真理は個々具体の経験に基づく蓋然的なものに過ぎず、精神も単なる知覚の束で実在するものでない以上、経験を超越した絶対確実な真理など到底あり得ないことになるからです。
4.カントの認識論と形而上学
さて、このヒュームの懐疑論的な結論を踏まえ、理性を徹底的に批判して旧来の形而上学を否定し、新たな形而上学を確立させようとしたのがカントです(岩崎武雄「カントとドイツ観念論」14頁)。
カントによれば、形而上学は、完全に離立する思弁的な理性認識であって、これは経験による教えを全く超え出ていて、しかも単なる概念のみから成り立つ認識です(カント「純粋理性批判」22頁)。ところが、カントは、これまでの形而上学には、学としての確実性が見出されていなかったと断言するのです(同書23頁)。カントがこのように考えた理由は、数学と自然科学の発達によって、自然といった対象を経験に基づかずに認識することは決して許されない、このように考えられるに至った点にあるのではないかと思うのです。
そこでカントは、形而上学を復活させるため、全ての認識は対象に依拠しなければならないといった従来の発想を、天文学のコペルニクスと同様、180度転回しなければならないと考えました。対象が我々の認識に依拠しなければならないと考えたわけです。
常識的には、認識は、外界に存在する対象である物自体をそのまま受け入れて認識すると考えられます。しかしながら、カントは、私達から独立に存在している対象をそのあるがままに把握するのではなく、私達の主観の中に、経験に依存しない先天的な形式があって、私達はこの形式によって、いわゆる対象と言われるものを構成するのだと考えたわけです。
カントは、何らかの仕方で触発されることで表象を受け取る心の受容性を感性と呼び、逆に表象そのものを生み出す能力、認識の自発性を悟性と呼びました(カント「純粋理性批判」114頁)。表象とは、意識に現れる対象のことです。感性がなければ私達にはどんな対象も与えられないですし、悟性がなければ何一つ思考されません。直観として対象を与える感性と、与えられた対象を思考する悟性、この両者が一体にならなければ認識は成立しないというわけです(同書114頁)。このカントの発想は「認識論的主観主義」と呼ばれています。
それでは、カントはなぜこのようなことを考えたのでしょうか。
私達の認識には経験的認識と経験から独立した経験的要素を含まない先天的認識があります。カントは先天的認識こそ確実なものと考え、先天的な認識を基に理論の発展を意図したのです。なぜなら、学問は必然性と普遍性を要求するわけですが、経験は蓋然的で必然性・普遍性を有さないとカントは考えたからです。これは、先程論じたヒュームの理論を踏まえたものであると推測されます。
カントによれば、判断は分析判断と総合判断に分かれます。判断とは主語と述語とからなりますが、分析判断は述語の概念が主語の中に含まれている判断で、総合判断は述語の判断が主語に含まれていない判断です。分析判断は全て先天的認識です。また、経験的認識は全て総合判断となります。
ところが、経験的認識には必然性は無く蓋然性があるに過ぎません。そして、必然的である先天的認識であっても、分析判断は新たな概念を創出するわけではないのであまり意味はありません。意味があるのは新たな概念を導く総合判断であるとカントは考え、先天的総合判断こそ求めるべきものとしたのです。
カントは、先天的総合判断はいかにして可能かということを検討することにより、形而上学が学として成立するか否かを考えたわけです。形而上学は、先程申し上げたとおり、現実の事実を超越した原理を求め、世界観や人生観を探究する学問です。
カントによれば、数学の命題は経験に基づかない先天的判断ですが、先天的総合判断は、例えば、7+5=12というものです。7+5という言葉には12という概念は含まれません。また、直線は二点間の距離の最短の線である、というものもあります。直線という言葉にはまっすぐという意味しかなく、距離は含まれていません(カント「純粋理性批判」56頁)。また、自然科学での原理的命題、例えば、物体界のあらゆる変化において物質の量は不変である、といった命題も総合的であるとしています。物質という概念は持続性を考えることはなく、単に空間を満たして空間の内に現存していることを考えるだけにもかかわらず、この命題は新たな概念を加えているからです(同書57頁)。
先程申し上げた、対象が認識に従うという認識論的主観主義は、この先天的総合判断を基礎づけるためにカントが考えた理論だと理解できるのです。私たちの認識の対象が主観の形式によって構成されるということは、経験によらないということであり、先天的総合判断を可能にすると言い得るわけです。
ただ、カントのように対象が認識に従うと考えることは、外界の対象である物自体は不可知になること明らかです。認識が対象を構成する以上、物自体をそのまま認識することはできず、現象のみ認識するに過ぎないことになるからです。
そして、カントは、従来の形而上学を徹底的に批判します。感性によって得られた対象を構成する悟性、そして、それをさらに体系的に統一するのが理性であって、この理性が経験を無視してしまうところに、形而上学が陥る誤りが存する、こういったことをカントは「純粋理性批判」の後半の「超越論的弁証論」という部門で詳細に論じているのです。
例えば、霊魂といったものは存在しない、世界が有限か無限かといった二律背反は両者とも誤り、神なるものは存在しない、このように、経験を超越した認識に基づく従来の形而上学の議論をカントは徹底的に否定しているのです。
5.カントの形而上学と道徳法則の本質
では、カントが考えた新たな形而上学とはどのようなものなのでしょうか。以下、このことを私なりに、純粋人間関係論の観点をも踏まえて検討していきたいと思います。
先程申し上げたとおり、カントによれば、認識の場面では理性は経験を飛び越えることはできませんでした。経験の制約を無視した形而上学的議論は認識論では許されなかったのです。
しかしながら、実践の場面では大きく異なります。実践は自由がその本質であり、未来へ向けてのものであって、実践理性にとって、認識のような経験の制約は存在しないのです。カントは経験に制約されない実践の場における道徳法則に形而上学の必要性を認めたのではないかと私は思うのです。
カントは、あらゆる人の人格のうちにある人間性を、手段としてではなく目的としてのみ扱うべきと言い、「汝の意志の格率が常に同時に普遍的立法の原理として妥当することができるように行為せよ」という道徳法則を主張しました(カント「実践理性批判」77頁)。ここに格率とは意欲や行為の主観的な原理のことです。
各人の格率が普遍的立法に妥当すべきといった道徳法則がなぜ形而上学を基礎付けるのでしょうか。それは、主体的な人間の自由が無制約性をその本質とするからであり、理性は経験の制約を受けるべきではないと考えられるからです。形而上学の対象は、現実の経験を超越したものなのです。
私は、生の奔流を意味する拡がりを出発点として人間の主体性を表現し、個々の主体的人間を「拡がる自我」と呼びました。生命体である拡がる自我は、常に生きる証、拡がりの確証を求めています。物質代謝は物に対する拡がりの確証であり、他者に対する拡がりの確証は、投げかけた言葉の意味を他者と共有することによって実現します。ここに意味とは、言葉に対する主体の把握の仕方のことです。
他者への拡がりの確証の原点となるのは内心の自由です。それは、自分独自の意味を創出するのであり、何かに制約されることがあってはなりません。制約されない自由こそ拡がりそれ自体であり、生として拡がる自我の根源であるわけです。
制約されない自由、この純粋の自由のキャンバスに、個々の拡がる自我がそれこそ自由に書き込むのが拡がりの確証の論理の意味であり、それを他者と共有することが他者に対する拡がりの確証となるのです。そのためには経験の束縛から解き放たれている必要があるのです。
さて、この他者への拡がりの確証は、投げかけた論理が他者に受け入れられねばなりません。これは生命体である拡がる自我にとっては絶対命令なわけです。したがって、拡がりの確証の論理にあっては、他者は目的であって手段とはなりません。なぜなら、意味の共有とは拡がる自我の自発性、意思の自由を前提とするからです。意味とは、言葉に対する主体の把握の仕方であり、それは、自分の内心の自由を前提とすることはもとより、相手の内心の自由をも前提とするのです。相手の自由を尊重することは、相手を手段としてではなく目的として扱うことに違いありません。
そして、自分の格率が普遍的立法に妥当するということは、自分と同じ格率を誰もが有していることを意味し、自分が投げかけた拡がりの確証の論理を誰もが受け入れるべきことを意味しているのです。これこそ道徳的な意味での理想の世界であり、個々の拡がる自我誰もが望むものです。したがって、この道徳法則は絶対的に存在しなければなりません。
道徳法則は自分を含めた万人に向けられた規範ですが、その規範性は他者への拡がりの確証の実現のためにあります。なぜなら、他者への拡がりの確証のための論理は他者とその意味を共有する必要がある以上、自分自身もその論理に束縛されるからです。したがって、カントの主張する道徳法則は、経験に基づく規範では断じてありません。道徳法則は経験以前の規範なのです。
さらには、既存の、他者への拡がりの確証のための論理も、世の中には無数に存在しています。これら既存の論理に、個々の拡がる自我は自発的かつ必然的に拘束されるわけです。この拘束も経験に基づくものではありません。未来の拡がりの確証へ向けて自ら従う規範なのです。
このように、一定の論理に互いに拘束される、ここには秩序が存在します。この秩序の拘束力こそ道徳法則なのです。他者への拡がりの確証が絶対命令である以上、道徳法則も経験に基づくことなく絶対的に存在するのであり、経験を超越する形而上学の対象となるわけです。
6.問題解決における経験的判断の性質
ここで次のような疑問が生じるかもしれません。
なるほど、経験に依存しない道徳法則の存在はある程度理解できた、しかしながら、個々人が実生活において具体的な道徳的判断を行う際、言うならば人生上の様々な問題解決を行う場面では、経験に基づき判断するのが通常ではないか、したがって経験に基づかない形而上学など必要とされないのではないか、こういった疑問です。
日常生活を思い出せば明らかなとおり、例えば、私達の様々な仕事上における問題解決では、誰もが経験に基づいて様々な判断していると言えるでしょう。このことは決して否定することはできません。しかし経験に基づいて行うのはどのような判断なのでしょうか。
ここで言う問題とは、簡単に言えば、目標と現状との差のことです。社会の中で生きている人間は、常に現状を超え出て目標を達成させようとしています。私流に言えば、個々の拡がる自我は常に他者に対する拡がりの確証を目標とし、新たな論理を他者に投げかけ自分の意図した結果の実現を目指しているのです。
経験に基づくとは、以前も同じことがあった、したがって今回も同じようにやれば大丈夫だ、簡単に言うとこういう判断だと思います。しかしながら、ここで、もっと物事の根本に遡って考えてみる必要があると私は思うのです。
実は、問題を解決しようという判断の方が、経験に基づく判断より根源的なのです。現状を乗り越えるといった意欲の発現こそ問題解決の源です。まずは、“拡がり”であり、新たな拡がりの確証の論理の意味の共有なのです。この問題解決を目指すことも判断であり、経験が活用されるのは、あくまでもこの当初の判断を前提とするものなのです。
経験が活用されるのは問題解決の実行の時です。過去の否定できない事実を前提とするのが経験です。無数の過去の経験の中から問題解決に必要な経験を切り出し、そこに普遍性を見出して、過去の実例ではない今回の事例の行動の基準とする、これが経験に基づく問題解決です。
ではどのように過去の経験を切り出すのでしょうか。それはまさに、現に新たに設定した拡がりの確証の論理に基づくわけです。未来へ向けて設定した拡がりの確証の論理に基づいて過去の無数の経験の中から、普遍性を持った事例を切り出すのです。
実は、ここで重要となってくるのが、自分の設定した拡がりの確証の論理を客観的に見るということなのです。ここに形而上学的な超越性が生じてくるのです。超越的な観点から問題解決に向けての適合性を判断する必要があるのです。
7.科学と形而上学
それでは、以上の検討を踏まえ、科学と形而上学の関係について考えてみましょう。
冒頭で論じた科学は、まさに経験を重んじる学問であり、経験された事実を理論構築の論拠とし、形成されていると考えられます。
実は、科学も、先程論じた人生上の問題解決における経験と同様に、無数の経験の一部を切り取って、仮説としての理論を実証的に説明して、拡がりの確証のための論理の意味を確固たるものとして構築する、こういった理論構成だと私は思うのです。
それでは、科学においては、過去の無数の経験の一部をどのように切り取るのでしょうか。
それもまさに、先程論じた、人生上の経験における過去の切り取りと原理的には同じなのです。個々の拡がる自我の構築した拡がりの確証の論理に従って切り取るのです。ただ、科学の場合は、その構築された理論は、多くの人に認められてきた普遍性、すなわち自然といった概念を前提にしているところが異なるのです。そしてこの科学における自然概念は、極めて歴史的相対的な性格を持っているのです。
外界の対象をどのように把握するかといった自然学はアリストテレスの時代からありました。簡単に言えば、形相と質料の二つの概念により自然を全体として認識する方法、自然の本性といったものから自然現象を説明する方法です(山本信「形而上学の可能性」198頁)。すなわち、これも、先程申し上げた、自然の切り取り方の一例なのです。自然の本性の発現として自然の一部を認識するのです。そして、この発想が西洋中世における神学的見地を貫いてきたと考えられるのです。
その西洋中世の神学的見地に対抗する形で近代自然科学は登場しました。近代自然科学は感覚的に経験できるものの中に普遍性を求め、それを数学と結び付けることにより経験科学として確立させました(同書199頁)。自然現象のごく一部を切り取り、質を量に転換する数学の手法を用いて量的変化といった普遍性を有する仮説を打ち立て、それを感覚的な経験によって実証することにより、普遍的な理論を構築したわけです。
実は、この近代自然科学を基礎付けた理念の一つがデカルトの形而上学なのです。
以前「身体と精神」で検討したとおり、デカルトは、「私は考える、ゆえに私はある」という真理を哲学の第一原理としました(「方法序説」188頁)。疑えるものは全て疑った上で、疑っている自分自身は否定できないとして、私は一つの実体であり、その本質は、ただ考えるということだけであり、したがってこの私は精神であり、物体から分かたれているものである、と主張したのです(「方法序説」188頁)。
デカルトは、精神の実在を認め、物体の本性は長さ・幅・深さなどの延長(「哲学の原理」371頁)、すなわち広がりであるとしました。この広がりは、この純粋人間関係論で用いている「拡がり」とは異なり、意志意欲を全く含まない物理的な空間です(「省察」246頁)。意志意欲はあくまで精神に含まれるわけです。したがって、身体も全く物理的なもので、意志意欲を持たない単なる物体となります。意志意欲はあくまでも精神から発するものなのです。
精神と物体、精神と身体の二元論、これにより、主観としての精神は自然界から超越し、自然界は客観的対象となります。客観的対象としての自然は、それが切り取られたごく一部のものであれ、主観から独立した存在として客観的法則に支配され、数学と結び付くことにより普遍的な真理として認知されることになったわけです。
このような考えは、現実の事物を超越する性格を有するものであり、一つの世界観であって、形而上学であることは明らかです。したがって、現代の経験科学もある一つの形而上学に基づいていることは否定できないわけです。
このように考えていくと、形而上学の特徴の一つである世界観・人生観がなぜ必要なのかも明らかになってきます。前提となっている思考を乗り越える際に世界観・人生観は必要とされるのです。それは、その理由は何かという問いに対する解答の作成のためのものなのです。
他者に対する拡がりの確証の論理の設定は、他者との言葉の意味の共有を目的とするものです。個々の拡がる自我はある特定の社会で生きている以上、その共有する意味には一定の方向が生じています。それが既存の社会の秩序の論理の体系であり、その論理を活用することが拡がりの確証に結びつくのです。その際、拡がりの確証の論理の設定のため、この一定の方向を見定める必要が生じます。この場合、所属する現実社会を超越した見地から方向を見定める必要があります。その尺度こそ世界観であり人生観であるわけです。
そして既存の社会を支配していた論理体系が変化する際、新たな世界観・人生観を確立させる必要が生じます。この場合、前提となっている既存の思考を乗り越えなければならず、ここでも世界観・人生観といった見地、現実を超越する発想が不可欠なのです。
先程論じた近代科学の確立の歴史は、まさにこうした経緯を実証するものです。中世の神学的世界観を乗り越えて、新たな形而上学を基にして新たな世界観、すなわち経験科学を基礎付ける新たな世界観、人生観が構築されてきたのです。
以上、要するに、科学にとっても形而上学は必要不可欠だったわけです。
今回のテーマは以上です。
文献紹介:カント「実践理性批判」
今回紹介するのはカントの「実践理性批判」です。本論で論じたとおり、カントは実践理性においてこそ真の形而上学が確立されると主張したので、この本を取り上げました。宇都宮芳明先生の訳で、この本は解り易い訳文の他に注解も付いていて内容を理解するのにとても助かりました。併せて、波多野精一先生他訳の岩波文庫も参考にしました。
以前講座第11回「善と正義」で「道徳形而上学の基礎付け」を紹介しましたが、こちらは善とは何かといった問いから始まり、分かりやすく取っ付き易い記述だったのに対し、実践理性批判は、いきなり定義や定理から始まり、極めて難解な記述という印象を持たざるを得ません。しかしながら、それを乗り越えて読み進んでいくと、純粋人間関係論を基礎付ける記述の宝庫で、自分にとって大変得るものが多い内容だったわけです。
この本の主張については本論でも論じましたが、私なりに理解したことを、以下、簡単に申し上げたいと思います。
快や幸福といった概念は感官に属するもので(54頁)、経験に基づくのであり、未来へ向けての主体的な実践的法則たり得ません。実践法則は意志の規定根拠であり(67頁)、それは道徳法則であって(74頁)、「汝の意志の格率が常に同時に普遍的立法の原理として妥当することができるように行為せよ」(77頁)といった純粋実践理性の根本法則から導き出されるのです。
カントによれば、道徳法則は絶対的に存在します。それは人間の自律すなわち自由に他ならないのであり、自律こそが一切の格率(意欲や行為の主観的な原理)の形式的条件です(84頁)。純粋理性はそれだけで一切の経験的なものから独立に意志を規定でき、自律を通じて意志を行為へと規定するのです(106頁)。
このことを私流に理解するならば、自由は拡がりそれ自体であり、人間の生を前提とする以上、拡がりの確証も絶対命令であり、そのためには道徳法則は絶対的に存在する必要があるのです。なぜなら、内心の自由に基づき形成した意味を他者と共有しなければならない以上、共通の理念に基づく社会の秩序が不可欠であり、それを実現するのが道徳法則だからです。
カントによれば、善や悪の概念は、感性ではなく純粋な理性によって判断されるものであり(158頁)、道徳法則に先立って存在するのではなく、道徳法則を通じて規定されます(161頁)。これに対し、快・不快は理性ではなく感覚の対象であり(160頁)、経験によってのみ決着されます(162頁)。
このことも私流に理解するならば、理性は、拡がる自我の他者に対する拡がりの確証の論理を形成するのであり、理性によって他者への拡がりの確証も確認されるわけです。一方、快・不快は感性的なもので、生命体である拡がる自我の物質代謝がその典型であり、物に対する拡がりの確証の実現を主に意味しているわけです。
この本を読むと、未来へ向けての人間の自発性、言い換えれば主体的な人間の自由、これが思考の中心にあるといった印象を受けます。そしてカントは認識における人間の能力の有限性と自由における無限性の対比を強調しているのです。私達個々の人間は感性界に属すと同時に英知界に属しており、実践理性こそ英知界すなわち物自体界へ導くものであり、それは道徳法則によるのです(263頁)。
さらに、カントは最高善という概念を持ち出します(270頁)。最高善は徳と幸福とから成り、英知界の道徳法則と感性的な快を根拠とする幸福とに分析できます。理性は最高善を目指し、徳と幸福の双方を獲得しようとしますが、徳は英知界の道徳法則であり幸福は感性界の快に基づくので、二律背反的関係になります(284頁)。この点、純粋理性批判では自由と必然の二律背反になりましたが、実践理性においてもそれは同様です。この場合、幸福の追求が有徳を産み出すというのは端的に虚偽ですが、徳の心術が幸福を産み出すというのは、徳が感性界における原因性の形式とみなされる限りにおいて虚偽なのです(287頁)。この意味で最高善は実践理性の真なる客観であり、最高善に関する意志の格率は客観的実在性を有するのです(288頁)。
最高善へ向けた意志は、道徳性において心の不死を要請し(305頁)、幸福に関連して神の存在をも要請します(310頁)。こうして道徳法則は、純粋実践理性の客観であり究極目的である最高善の概念を通じて宗教へと至ります。あらゆる義務を制裁としてではなく神の命令と認識するのです(321頁)。
このことも私流に理解するならば、最高善は個々の拡がる自我の究極目的であり、それは、拡がりの確証が絶対命令であることを意味しているのです。カントの言う神は、この絶対命令を発するものとして理解されるわけです。
今回は以上です。
参考文献
カント「実践理性批判」(宇都宮芳明訳)以文社 (波多野精一他訳)岩波書店
カント「純粋理性批判」(宇都宮芳明他訳)以文社
カント「道徳形而上学の基礎づけ」(宇都宮芳明訳)以文社
J.ロック「人間知性論」(大槻春彦訳)中央公論社
D.ヒューム「人性論」(土岐邦夫訳)中央公論社 (大槻春彦訳)岩波書店
デカルト「方法序説」(野田又夫訳)「省察」「哲学の原理」(井上庄七他訳)中央公論社
アリストテレス「形而上学」(出隆訳)岩波書店
M.ハイデッガー「存在と時間」(細谷貞雄訳)理想社
山本信「形而上学の可能性」(岩波講座哲学6「存在と知識」所収)岩波書店
大槻春彦「経験の哲学」(岩波講座哲学17「哲学の歴史Ⅱ」所収)岩波書店
岩崎武雄「カント」勁草書房 「カントとドイツ観念論」新地書房 「西洋哲学史」有斐閣
高坂正顕「カント」理想社
桂壽一「デカルト哲学とその発展」東京大学出版会
時枝誠記「国語学原論」岩波書店
近藤洋逸・好並英司「論理学概論」岩波書店