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本質とは何だろう ~言葉の曖昧性と論理実証主義~
和田徹也
目次
1.問題提起 2.厳密な意味を有する言葉の存在可能性 3.厳密な意味を有する言葉の必要性 4.言葉と論理、拡がりの確証 5.哲学と本質 6.本質概念を否定する発想の根源にあるもの 7.本質と人間の主体性 文献紹介:ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」
1.問題提起
以前、私は「言葉とは何だろう」で、人間は他者に言葉をかけたくてしょうがない存在であり、個々の人間にとって、言葉を発することは、生きるための手段だけではなく、生きる目的でもあると申し上げました。そして、生きる目的としての言葉は、ある一つの言葉に人々が群がって自分勝手に意味を付与するのであって、基本的に言葉は曖昧な性格のものとならざるを得ないと申し上げました。
また、「真理とは何だろう」で、人間は生きる証を他者に求める存在であり、それは自分が投げかけた言葉と論理の意味を他者と共有することにより実現するのであって、その際、最終的に誰もが求める究極の論拠こそが真理であると申し上げました。個々の人間は、誰もが真理を求めているからこそ、他者との議論、言い換えれば言葉のやり取りを継続させているのです。
このように、他者に対して、自分自身の言葉の意味を認めさせようとするのが人間です。そのため、互いに真理の獲得を目指すことを前提に、誰もが認めるであろう確実な論拠を探求し、その論拠を基にして他者に言葉と論理を投げかけ、自分が意図する内容を他者に主張してその意味を共有しようとしている、これが人間なのです。
ところで、このように自分の意図する言葉の意味を共有するため、他者と議論となった場合、本質という言葉が使用されることがよくあります。物事の本質を把握してこそ真理が得られるという発想です。とりわけ哲学では本質という言葉がよく使われています。実は、私も、この講座で本質という言葉を何度も使っているのです。
ところが、この本質という言葉は極めて曖昧な性格を有することも否定できません。哲学上の議論でも、人によっては、このような極端に曖昧な言葉は使うべきではないとの主張もなされているようなのです(碧海純一「法哲学概論」)。もともと曖昧な言葉で議論しても時間の無駄だというわけです。
果たして、本質という言葉を使うのは避けるべきことなのでしょうか。私はそのようには思えないのですが、それでは、この問題はどのように考えていけばよいのでしょうか。逆に、本質という言葉にはどのような意味があるのでしょうか。
そこで今回は、本質とは何か、といったことを深く追究してみたいと思います。
2.厳密な意味を有する言葉の存在可能性
冒頭で申し上げたとおり、言葉が曖昧な性格を持つことは否定できないと思うのです。日常生活における言葉の誤解に基づく仲間との軋轢、政治的論議における同一の言葉に関する真っ向からの意見の対立、これらを思い出せばそれは明らかだと思うのです。
そうなると、曖昧な言葉では議論が噛み合わないから言葉を厳密な意味を持ったものにするべきだとの意見が出てきます。以下、この意見について、国語政策の観点ではなく、哲学の問題として考えていきたいと思います。
哲学理論において、言葉の意味を厳密なものとすべきとの発想は、主に分析哲学と呼ばれている立場、あるいは論理実証主義と呼ばれている立場の人々から主張されているように思えます。要するに、哲学史上における様々な議論、これらは曖昧な言葉を用いた議論であり、そもそも、そのような曖昧な言葉同士の議論では問題の解決が図られるはずが無く、厳密な論理に基づく議論が必要だと主張しているものと推察されるわけです。
例えば、ウィトゲンシュタインは、「論理哲学論考」で、「語り得ること以外は何も語らぬこと。自然科学の命題以外は ~それゆえ哲学とは関係のないこと以外は~ 何も語らぬこと。」、このように言っているのです。
分析哲学とは、言語の分析を重視するもので、事実の認識は科学に任せるといった立場の哲学理論だと私は思います。この点、論理実証主義も同様の立場だと思います。事実認識が科学の対象となる以上、哲学は科学の認識が必要とする言語の正確さを担保するための言語の分析に限定すべきであり、事実認識に哲学は口出しすべきではないと主張していると思われるのです。そして、この立場の人達は、従来の哲学の議論は、本質といった言葉をその典型とする、抽象的かつ曖昧な言葉と言葉の議論であり、理論的解決はそもそも不可能であるにもかかわらず敢えて議論が続けられてきた、このように断定していると推測されるのです。
では、そもそも、厳密な意味を有する言葉とはどのような言葉なのでしょうか。
それは、誰もが自由勝手に意味を付与できない言葉ではないかと思うのです。誰もが勝手に意味を付与するからこそ言葉は曖昧になるわけです。このように考えると、言葉の意味はこういうものだと予めはっきり決めておけば自由勝手に意味を付与することも不可能になり、厳密な意味を有する言葉が出来上がると思うのです。
以上のことを踏まえると、言葉の意味は規則に則るべきだ、こういうことになります。予め規則によって言葉の意味を明確に定めておけば、曖昧な言葉などあり得ず、不毛な議論など考えられないというわけです。
しかしながら、予め、全ての言葉の意味を規則で決めておくなどということはできるのでしょうか。
言うまでもなく、日常会話を思い出せばすぐ分かるとおり、そのようなことは絶対に不可能なことです。そこでこの立場の人たちは、一部の言葉を厳密化し、規則によって言葉の意味が成立していると主張したわけです。
例えば、数学や記号論理学がその代表です。数学はある定義からある定理が生まれ、それに基づく論理であり、それらは全て規則に則ったもので、厳密な意味の言葉と言い得るわけです。また、記号論理学は、記号を通常の言葉で厳密に定義した上で、その記号と記号を組み合わせることにより意味を創造することによって、厳密な意味の言葉を実現したものと考えられるのです。
このように、全ての言葉の意味を予め定めておくことは不可能ですが、数学や記号論理学のように、一部の言葉の意味を予め定めてそれを活用することは可能であると言えるわけです。
3.厳密な意味を有する言葉の必要性
以上申し上げたとおり、一部であれば言葉の意味を予め定めておくことは可能ですが、ここで、改めて、言葉の意味を厳密に定めることの必要性について考えてみたいと思います。どのような場合に厳密な言葉が必要とされているのかを確認してみようと思うのです。
まず、挙げられるのは、自然現象を説明するための数学の必要性でしょう。数学は、数すなわち量を対象とした学問だと私は思います。現実の外界の様々な経験内容は、数学によって量的に規定されるわけです。質が量に還元されるわけです(山本信「形而上学の可能性」230頁)。
数学によって、複雑な自然現象の一部が、数値や記号によって厳格な意味として表現され、誰もが認める客観的真理となるわけです。数学の数字や記号も言葉の一種ですから、数学は厳密な意味を有する言葉の典型となるわけです。
自然科学は数学と結び付くことにより、飛躍的な発展を遂げ、様々な福利を人類にもたらしたことは誰の目からも明らかでしょう。様々な生産技術、建築土木技術、電車や飛行機等の交通手段、さらにはテレビやインターネットを始めとする通信技術、これらは数学の発展・利用無しにはあり得なかったことでしょう。
次に、記号論理学の必要性はどうでしょうか。これはあくまでも私の個人的考えですが、思考の効率性の実現がその必要性のほとんどを占めているのではないかと思うのです。
記号論理学は、命題や推理を徹底的に記号化することによって、命題や推理の構造、推理の法則を明確にかつ体系的に論じるものです(近藤他「論理学概論」5頁)。これは、アリストテレスに始まる伝統的論理学に対立するものでもあります。伝統的論理学は、日常の普通の言葉で論理を説明しているわけです。
記号論理学は、厳密に定義された記号を用いて、演算により新たな意味を求める手法を用いた論理学だと思います。日常の言葉だとどうしても文が長くなり、効率的に結論を導くことができなかったので、それを改善しようということではないかと思うのです。
4.言葉と論理、拡がりの確証
さて、本質とは何かといったことを検討したいわけなのですが、その前に、言葉と論理の関係について、私なりの理論的な整理・確認をしておきたいと思います。
冒頭で申し上げたとおり、人間は他者に言葉をかけたくてしょうがない主体的な存在です。この主体的人間を、私は「拡がる自我」と表現しました。主体性を表現することは実は極めて困難です。そこで、生の奔流を意味する「拡がり」を出発点として主体性を表現したわけです(「拡がる自我」参照)。
生命体である拡がる自我は、外界に対して拡がり、物質代謝を行い、生命を維持しています。これは物に対する拡がりの確証と表現できます。
そして、生きている拡がる自我は、他者に拡がる存在でもあって、他者と言葉の意味を共有することによって他者に対する拡がりを確証します(「拡がりの確証と組織文化の本質」参照)。ここに意味とは、言葉に対する主体の把握の仕方のことです。個々の人間すなわち拡がる自我は、拡がりの確証、言い換えれば、生きる証を他者に求めようとする存在なのです。
実は、ここで、個々の拡がる自我が互いに有する言葉の意味に、齟齬が生じてきてしまうのです。なぜなら、拡がりの確証のために言葉の意味を共有しようとする、共有しようとすることそれ自体が、言葉の意味に先行しているからです。
他者に対する拡がりの確証は、個々の拡がる自我の内心の自由を前提とします。個々の拡がる自我は、それぞれ自由に創造した独自の意味を言葉に付与し、その意味を他者と共有して、他者に自分を見出すことによって、他者に対する拡がりを確証します(「自由とは何か」参照)。したがって、個々の拡がる自我それぞれの、その言葉に対する把握の仕方に、どうしても“ずれ”が生じてしまうのです。
そして、言葉と言葉が組み合わされると、この言葉のずれが顕在化してきます。そこで、この言葉に対する各人の思い入れの差異を明確にし、つじつまを合わせ、整理し調整して、理論立てて説明する、これを果たすのが論理なのです。この論理の原理の代表が矛盾律です。論理は、言葉の意味の差異を調整してより具体的な意味への筋道を形成するものなのです(「論理とは何か」参照)。
5.哲学と本質
それでは以上のことを前提に、本質という言葉を考えてみましょう。
冒頭でも申し上げたとおり、本質という言葉は哲学でよく使われます。そこで、哲学とは何かということから検討してみたいと思います。
私は哲学を「前提となっている思考を乗り越えて根本理論を追究する学問」と定義することにより、他の学問と区別したいと考えました(哲学社労士の「純粋人間関係論」講座 第1回「哲学とは何か」参照)。では、「前提となっている思考を乗り越える」とはどういうことなのでしょうか。
私たちの日常生活は、様々な常識や思考法を前提として成り立っています。通常であればその前提に則って活動すれば問題は生じません。しかしながら、何か新しいことをやろうとした場合や実行困難な難しい状況に遭遇した場合、今までの常識や思考では解決できない難しい問題に直面します。その時、普段の実務や生活で前提となっている思考を吟味し、果たしてそれが本当に正しいのかどうか、それが本来どのような意味を持っていたのか、こういったことを検討する必要に迫られます。その時に、その前提となっている思考を乗り越えるということが必要とされてくるのです。
このような、前提となっている既存の思考を乗り越えようとする発想は、既存の考えに対して疑いを抱くことであり、既存の考えに対する否定でもあります。この否定性こそ哲学的な本能であるとも言えるわけです(山本信「形而上学の可能性」241頁)。
このように、既存の考えを乗り越えて、新たな根本理論を打ち立てるのが哲学です。根本理論とは、普段実際に考えている様々な具体的な事を、演繹的に導き出すことを可能にする究極的な理論のことです。ここに演繹的とは、一般的・普遍的な言葉から個々具体・特殊的なものを導き出す思考法のことです。
さて、本質とは、対象となる事物を成り立たしている根本であり、事物の本性を意味していると私は考えます。実は、本質という概念は、先程申し上げた、前提となっている既存の思考を乗り越える際に、目標としての機能を果たしていると私は思うのです。問題解決の対象となっている事物、その事物の本性、事物を成り立たしている根本のもの、これらを把握してこそ前提となっている思考を乗り越えることができるのであり、新たな根本理論を構築することが可能になるわけです。
アリストテレスは、そのものが何であるかといった問いに対応するものを、その物事の本質であると言いました(アリストテレス「形而上学」12頁)。すなわち、「何」といったものが本質であり、本質は、人間の知的活動の淵源でもあるのです。
アリストテレスによれば、すべての人間は生まれつき知ることを欲するのであり、それは経験、技術、学(認識)として確立されてきます。経験より技術の方が知恵に優れ(同書4頁)、学(認識)も優れた知恵でなければなりません(同書7頁)。知恵としての学は、始原的な第一の原因や原理についての認識を獲得する必要があり、その物事の原因の一つが実体すなわち本質であるとされているのです(同書12頁)。
論理は曖昧な言葉を整理し、言葉の意味を一定の方向に導くものです。論理の原理は矛盾律がその代表であり、矛盾律に反しないように言葉と言葉が結びつき、論理が形成され、特定の意味が確立していくわけです。本質は、この論理を形成する活動の淵源です。本質の把握を目指して、各人すなわち拡がる自我は他者に対する拡がりの確証の論理を構成しているのです。
6.本質概念を否定する発想の根源にあるもの
本質という概念が、個々の人間すなわち拡がる自我の、他者に対する拡がりの確証の論理を構成するための起動因であることはよくわかりました。それでは、本質といった言葉は使うべきではないといった意見、本質概念を否定するような発想はどこから生じてくるのでしょうか。
真理を目指す個々の拡がる自我は、互いに意見を主張し、議論がなされます。言うまでもなく、真理の獲得には議論が不可欠でしょう。
実は、この議論には二つの側面があります。一つは、曖昧な言葉を明確にして自身の認識を深め人生を豊かにする側面です。もう一つは、他者との闘争に勝利するといった側面です。前者は、弁証法的な認識の進歩を意味しているのであり(「弁証法とは何か」参照)、後者は、勝者と敗者の区分を明確にして人間の上下の格差の創出を意味しているのです。
私は、本質という言葉は使うべきではない、さらに言うならば、曖昧な言葉は使うべきではなく予め言葉の意味を規則で定めておくべきだといった発想は、後者の側面から生じているのではないかと思うのです。論理実証主義が言語の規範性を重んじるのも、言語を論争の道具と考えているからではないかと私は思うのです。
以前私は「論理の明暗」で、道徳はあくまで社会規範であり、言語の規範性とはその性格が異なり、社会規範はそれを維持・正当化するための客観性が求められていると申し上げました。なぜなら、社会規範は対立する個々の主体の調整原理だからです。
言語の規範を重視する論理実証主義は、個々の人間の対立を前提とした発想に基づくのではないかと思います。そして、その対立は、個々人の頭の良し悪しを競う競争原理を基盤として成立していると思うのです。そのため記憶力が必要とされる記号を重んじ、記号から成る問題が解けたか否かが重視されているのではないかと私は思うのです。もちろん、その結果が人間社会にどれだけ貢献したかは別問題です。数学が人類に与えた福利の大きさは先程申し上げたとおりです。
これに対し、本質という概念は、個々の様々な人の意見を吸収する性格を有するのであり、一つの基準で人間の上下を決するものではありません。人間には様々な能力があるのです。本質という概念は、様々な人間の能力を引き出す機能があるのです。
もちろん、真理を把握するには、真か偽かをはっきりさせる必要があることは当然の事です。また、実務上の具体的事案においては、常に意思決定することを迫られ、白黒の決断をしなければなりません。しかし、それらと人間の優劣は別の次元の話なのです。
個々具体の問題解決の結論は、本質を出発点として考えても十分可能です。なぜなら、具体的事案の判断は具体的なものとならざるを得ないからです。逆に、本質から出発したほうが、各人各様の意見が出てきて、決断するのに有益な視点が提供されるのではないかと私は思うのです。
7.本質と人間の主体性
以前、私は「言葉とは何だろう」で、言葉はどのように他者に通じるのかを論じました。言葉は、各人が音声や文字といった記号に対し有する習慣に基づく主体的な過程であり、言葉の意味の伝達は、聴き手である各人の言葉という記号に対する反応に基づいて実現するのであって、この場合伝達されるのは音声や文字といった物理的存在だけであり(時枝誠記「国語学原論」77頁)、意味は各人の言葉に対する把握の仕方であって、音声や文字を材料として自ら喚起するものなのです。
これに対し、論理実証主義は、言葉を伝達の道具としてのみ考えているように思うのです。そうなると、何らかの外界の対象を言葉によって他者に伝える、この際、意味は言葉に客観的に備わっている必要が出てくるわけです。どういうことかというと、対象である事実の写像が言葉に表明されていなければならず、その写像を他者が理解することにより伝達が完了するということです。この場合意味は言葉に付随していることになります。
しかし、意味は各人が喚起するものだと私は思うのです。このように考えると、曖昧な言葉による議論も大いに意味があるわけです。なぜなら、それによって人生上の多くの問題に様々な観点から考察を加え、より深い人生を過ごすことができるからです。実は、その時、この曖昧な言葉をまとめる機能を有するのが「本質」という言葉だと思うのです。
ある対象の本質とは、拡がりの確証の論理の設定において、その根拠・論拠となる象徴的概念です。したがって様々な言葉で表現されることもあるし、一言で表現されることもあるわけです。それはその対象に対する個々の拡がる自我の思い入れでもあります。この思い入れの意味を他者と共有することにより、他者に対する拡がりの確証が実現するのであり、その思い入れを端的に表現する言葉が「本質」なのです。誰もが他者への拡がりの確証を求めている以上、本質という言葉は、本来、誰もが受け入れるべき言葉なのです。
今回のテーマは以上です。
文献紹介:ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」
今回紹介するのは、ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」です。この本は1922年に出版されました。私が読んだのは野矢茂樹先生の訳です。
とても変わった書き方をしている本で、1から7までの番号とその枝分かれした番号、例えば3・334というように整理された、短い論証文の羅列といった構成となっています。
この本は、今回のテーマである本質といった概念に否定的な発想を有する、論理実証主義に多大な影響を与えたとされているので取り上げたわけです。
先程本論でも触れましたが、ウィトゲンシュタインは、「自然科学の命題以外は ~それゆえ哲学とは関係のないこと以外は~ 何も語らぬこと」と言い、「語り得ぬものについては沈黙せねばならない」といった有名な文言でこの本は終わっています。実は、今回初めてこの本を最初から最後まできちんと読んだのですが、なぜそんなことを言うのだろうとの思いで読み進めたわけです。
ウィトゲンシュタインは、世界は成立していることがらの総体であり、事実の総体であってものの総体ではなく、論理空間の中にある諸事実、それが世界だと言います(13頁)。事実とは現実に起こっているもので(訳注182頁)、単なるものと違って性質を含む概念です(野矢茂樹「論理哲学論考を読む」33頁)。そして、あることがらが現実に起こり得るか、その論理的可能性の総体が論理空間というもので(訳注182頁)、世界は論理空間の一部となり、論理空間は世界より大きいと理解されるわけです(読む29頁)。事態とは、起こりうることがらであり現実に起きていることに限られず(訳注182頁)、論理は全ての可能性を扱うのであり、論理においては、事態は事実となります(14頁)。
また、対象が世界の実体を形づくるのであり(16頁)、対象とは不変なもの、存在し続けるものであり、対象の配列が、変化するもの・移ろうものだとされます(18頁)。対象の配列が事態を構成し、諸事態の成立不成立が現実で(18頁)、現実の全体が世界であるとされているのです(19頁)。
そして、私達は事実の像を作るのであり、像は論理空間において状況すなわち諸事態の成立・不成立を表します(19頁)。像は写像形式によって現実を写し取り(20頁)、写像形式が論理形式であるときその像は論理像と呼ばれます(21頁)。像が描写するものが像の意味であり、像の真偽は像の意味と現実との一致不一致です(22頁)。
事実の論理像が思考であり、ある事態が思考可能であるとは、我々がその事態の像を作り得るということです(22頁)。非論理的なものなど考えることはできず、論理に反することを言語で描写することはできません(23頁)。思考は命題において知覚可能な形で表され、私達が思考を表現するのに用いる音声や文字等の記号を命題記号と呼び、命題とは世界と射影関係にある命題記号のことをいうのです(24頁)。
思考は命題で表現され、命題記号の諸要素である単純記号は名と呼ばれます(26頁)。名は対象を指示し、名は命題において対象の代わりをします(27頁)。複合的なものは記述によってのみ与えられ(27頁)、複合的なものの表現を一つの単純な表現にまとめるとき、それが定義です。名は原始記号で、定義を用いてさらに分解することはできません(28頁)。命題のみが意味を持ち、名は命題の脈絡の中で指示対象をもつのみです(29頁)。
命題の意味を特徴づける命題の各部分を表現(シンボル)と呼び、表現は形式と内容から成り、命題は定項と変項とから成ります。ここに表現は変項を用いて関数として表されることになるのです(30頁)。命題は諸表現の関数としてとらえることができ、記号はシンボルの知覚可能な側面であり、記号の使用は恣意的で二つの異なる対象に対して二つの異なる記号を選ぶことが許されます(32頁)。
これに対し日常言語は、同じ語が異なった表現をよくするのであり、基本的な混同が特に哲学理論ではよく生じます。こうした誤謬を避けるために、異なるシンボルに同じ記号が使用されたり、表現の仕方の異なる記号が同じ仕方で使用されたりすることのない、誤謬を排した記号言語、論理的文法(論理的構文論)を忠実に反映した記号言語を用いなければならず、論理的構文論に従った使用をまってはじめて記号の論理形式が定まるとウィトゲンシュタインは主張するのです(33頁)。
この後、ウィトゲンシュタインは、日常言語の曖昧性を強調し、記号論理学の手法を使って、厳密な意味の命題を確立しようとし、真理関数を使用し、命題の真偽といったことを詳細に検討していきます。真理関数とは、真偽を入力して真偽を値として出力する関数のことで、例えば、「Aではない」という文で、Aに真の命題を代入すると偽になり、偽の命題を入れると真になるので、この文は真理関数となるというものです。この記号論理の細かな検討の部分はかなりの分量なのですが、これについては野矢先生の訳文と訳注と併せて実際に読んでいただければ理解できると思いますので、紹介は省略します。
以下、このウィトゲンシュタインの主張を私なりに理解した上での、この本を読んだ私の感想のようなものを申し上げたいと思います。
ウィトゲンシュタインは、世界は現実の事実の総体であり、その世界はより大きな論理空間にあるのであって、各人は論理の命題によってそれを写し取り認識することができる、このようなことを前提にしていると思うのです。要するに外界の事実と内心の論理は元来一致するものとの前提に立っていると思います。
今までの哲学論議で、外界の対象と内心の論理が一致できなかった原因は日常言語が極めて複雑で理解不能であったからだとウィトゲンシュタインは言うのです(39頁)。したがって、記号で論理を厳格に構成すれば、事実とその写像である命題は、当然に、真理に行き着くと主張されていると考えられるのです。そして、真理関数を用いることによりそれを記述して人間の知識の限界を確定しようとしたのではないかと私は思ったのです。
ウィトゲンシュタインは、命題は現実の像だと言います(40頁)。そして命題は現実をすべて描写し得ると言い、しかし、現実を描写するために命題が現実と共有しなければならない論理形式自体は描写することはできないと言います(52頁)。ウィトゲンシュタインによれば世界は論理空間に含まれるわけですから、ある意味これは当然かもしれません。私が主張している拡がる自我における、主体性が表現困難だという事実と同じではないかと思うのです。実際、ウィトゲンシュタインは、主体は世界に属さない、それは世界の限界だと言っています(116頁)。
しかしながら、論理と事実が一致するというのはどういうことなのでしょうか。私は、本論で論じたとおり、論理は言葉を整理する概念だと思うのですが、言葉は各人が自由に発してこそ意味があると思っています。したがって、言葉の論理が本来的に客観的な事実と一致しているというのは、私には理解することができません。ウィトゲンシュタインの言うところの論理は、言葉と異なるこの世の摂理、言うなれば神といった絶対者を前提とする概念なのではないかと思ってしまうのです。それはまさに形而上学なのではないでしょうか。
結局、論理をこのように考えると、論理の中身ではなく、論理学の、肯定・否定、全称命題・特称命題といった形式論理が検討の対象となります。それを記号化して複雑に組み合わせて絶対否定できない論理の枠組みを設定し、言葉の限界といったものを定めたということが、この本の結論となっているのではないかと思いました。
ただ、ウィトゲンシュタインは、何年か後、この「哲学探究」という本で、日常言語に注目して全く異なる見解を論じています。この点については、機会があれば後日論じてみたいと思います。
参考文献
アリストテレス「形而上学」(出隆訳)岩波書店
I.カント「純粋理性批判」(宇都宮芳明他訳)以文社
M.ハイデッガー「存在と時間」(細谷貞雄訳)理想社
ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」(野矢茂樹訳)岩波書店
山本信「形而上学の可能性」東京大学出版会
市井三郎「哲学的分析」岩波書店
碧海純一「法哲学概論(全訂第一版)」弘文堂
時枝誠記「国語学原論」岩波書店
大森荘蔵「言語・知覚・世界」岩波書店
岩崎武雄「カント」勁草書房 「真理論」新地書房 「西洋哲学史」有斐閣
近藤洋逸・好並英司「論理学概論」岩波書店
野矢茂樹「論理哲学論考を読む」筑摩書房
永井均「ウィトゲンシュタイン入門」筑摩書房
(2024年1月公表)