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経験の本質 ~確実な論拠と経験の不確実性について~

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経験の本質 ~確実な論拠と経験の不確実性について~

和田徹也

目次

1.問題提起  2.経験の内容  3.ロックの経験論  4.ヒュームの経験論  5.確実な論拠が求められる理由  6.合理論の根拠と経験の不確実性の理由   文献紹介)J.ロック「人間知性論」 D.ヒューム「人性論」   参考文献

 

1.問題提起

哲学を勉強していると、経験論と合理論という言葉をよく聞きます。経験論は、人間の経験を重んじ、合理論は合理的な思考を重んじることだとまずは推測できます。

経験も合理的思考も人間にとって不可欠であることは言うまでもありません。感覚がある以上、生きていれば必ず何らかの経験をするわけですし、経験を踏まえて行動することによって毎日無事に生きているとも言えるでしょう。また、日々従事する仕事は誰もが合理的に行っているわけで、極端なことを言えば、合理的に頭を使わなければ飯を食っていくこともできず、生きていくことすらできないでしょう。

このように、経験すること、合理的に思考すること、この両者は普通の人にとって当たり前に行っていることであり、日常生活においては、いかに経験を活かすか、いかに合理的に考えるか、こういったことは常に問題となりますが、経験や合理的思考それ自体の意義が問われることはあまりありません。

しかしながら、哲学を勉強すると、経験論と合理論の対立といったことが大きな問題として意識せざるを得なくなってくるのです。特に西洋哲学で、イギリス経験論と大陸合理論の対比はよく論じられています。イギリスでは経験を重んじる哲学理論が主流で、フランスやドイツなど大陸では理性に基づく生得的な論理を重んじる合理論が主流になったという議論です。

なぜそのような対立が生まれるのでしょうか。両者はどのような関係にあるのでしょうか。歴史的地理的要因に由来すると言うだけでよいのでしょうか。

そこで、経験論と合理論の対立から、まずは、経験について、人間の本質に遡って考えてみたいと思ったのです。そもそも経験とは何か、経験はどのようになされるのか、経験と論理、さらには経験と合理論の言うところの人間の理性との関係、今回は、経験の本質について探究してみたいと思います。

 

2.経験の内容

生命体である人間は外界と物質代謝を行って生きています。この場合、誰もが有する感覚によって、具体的には見たり聞いたりして外界を感知し、外界の対象に働きかけ、生きるために必要な食べ物や住居を得て生命を維持しているのです。

また、人間は一人で生きているわけではなく、他者との協働によって生活しています。この場合も、まずは感覚によって他者を認知し、意志疎通を行い、生産活動を行っているわけです。

これら個々人の感覚による外界の感知や他者の認知、それらは経験としてその人に記憶され、蓄積されます。外界に対する知識や技能、他者との意思疎通、これは人間の基本的能力です。これらの経験は、感覚と記憶によって成立しているとまずは考えられるわけです(アリストテレス「形而上学」4頁)。

そして、心の中のことも経験できるということも重要です。経験は外界に関するものとされることが多いかもしれませんが、心の中の出来事、例えば、うれしい思いとか悲しい思い、自分の将来の姿の想像、こういったことも経験であると考えることができるのです。

さらには、大陸合理論の代表でもあるデカルトの、我思うゆえに我あり、これも経験なしにはあり得ないと思うのです(岩崎武雄「存在論」371頁)。以前論じたとおり(「身体と精神、自我と他者」)、デカルトは全てのものを疑い、私が全ては偽であると考えている間も、そう考えている私は必然的に何者かでなければならないと結論づけたわけです(デカルト「方法序説」188頁)。この判断は論理的なものですが、疑って考えていること自体は、経験であることを否定できないのではないかと思うのです。

このように、経験は人間の思考の根源であり、経験無くしてはどのような思考もあり得ない、いかなる知識もあり得ない、このように考えられるわけです。

経験が無ければいかなる知識もあり得ない、これは、生来的な知識は存在しないということを意味するとも理解できます。ある意味、これは至極当然の事のようにも思えます。人間が生まれて外界と接し、親に育てられて知識を得て成長していく、こう考えると、生まれ落ちた瞬間、この出発点では何の知識もないのは当然だと思うのです。

しかしながら、逆に、経験のみが知識の源とするのも少々無理があるように思えます。なぜなら、経験も論理によって表現せざるを得ないと思うからです。論理の原理はいかなる証明にも前提されるので、それを経験から証明することは不可能ではないかとも思われるのです(ラッセル「哲学入門」92頁)。

それでは、経験と論理はどのような関係にあるのでしょうか。経験論は論理をどのように理解しているのでしょうか。

そこで、大陸合理論と対立するとされている、18世紀イギリス経験論における経験とは何か、こういったことを深く考えてみたいと思います。このイギリス経験論はロックから始まり、ヒュームによって一定の完成を見たと一般的に評されています。そこで、ロックとヒュームの思想を検討してみたいと思います。

 

3.ロックの経験論

ロックは「人間知性論」で知性とは何かと問い、まず、知性には生得の原理は無いと主張します(70頁)。同一律と矛盾律といった論理の原則もそこに生得性は存在しないと言い(71頁)、神も生得的概念ではないとするのです(79頁)。

さて、およそ人間は全て思考すると自ら意識しますが、ロックは、それは心にある観念によるのだとし、観念がどのように得られるかを考え始めます。そしてロックは、生まれた時点の人間の心を、文字を全く欠いた白紙(タブラ・ラサ)で、観念は少しもないと想定します。その上で、どのようにして心は観念を備えるようになるかと問い、それは経験であり、経験に全ての知識は由来するとしたわけです(81頁)。

では、ロックはどのように経験が成立すると論じたのでしょうか。

感官で得た個々の物事の知覚を心の知性に伝える感覚が経験の出発点となるとロックは言います(81頁)。私達は感覚によって物事の観念を得ることができるのです。

さらにロックは、経験が理性に観念を備える別の源として、知性がすでに得てある観念について働くときに得る私達の心の中のいろいろな作用についての知覚を挙げます。これは私達の様々な心の働きで、この源泉は外的事物と少しも関係が無く、これが内省というものだと言うのです(82頁)。

感覚の対象としての外なる物質的な事物と、内省の対象としての内なる私たち自身の心の作用、これだけが私達の一切の観念の始まる起原だとロックは言います(82頁)。いつ人間が観念を持ち始めるかと言えば、それは初めて感覚するときであり、感官が観念を伝え入れないうちは心に観念はないので、知性にある観念は感覚と同時だというわけです(83頁)。

そしてロックは、観念を単純なものと複雑なものに分類します。

物自体が有する感官を感触する性質は、物自体においては混じり合って合一したものですが、感官にはそれが単純な混じりけないものとして入ってきて、それが単純観念を形成するというのです(84頁)。この単純観念は、感覚と内省だけによって心に示唆され、知性はそれを貯えます(85頁)。心の主要な活動は、知覚言い換えれば思考すること、そして、有意すなわち意志することの二つです。思考する力能は知性と呼ばれ、有意の力能は意志と呼ばれます(88頁)。力能とは、何かをしろとかするなとか命じる心の働きのことです(111頁)。

ただ受動的に心が受け取るのが単純観念ですが、心は心自身の働きを発動させて、単純観念以外の観念を、その材料であり根底である単純観念から形成します。それが複雑観念です(99頁)。複雑観念は、単純観念が複合・再複合を繰り返され、多種多様で、その数は無限ですが、様相、実体、関係の三項目に整理できるとロックは言います(99頁)。

このように、心は日々外の事物に観察される単純観念の変更を感官によって告げ知らされ、ある観念が無くなりある観念が生じることを覚知します。心には、変化させることができる能動的力能と、変化を受けることができる受動的力能があるのです(110頁)。

以上のとおり、ロックの経験論は、観念といった対象化された意識内容、すなわち観察者の経験を自己の心的経験として内観するところに成立していると言えるわけです(大槻春彦「経験の哲学」136頁)。観念において一切の心的事象は対象化され、心的作用も感情情緒も対象化され(同書137頁)、知識論、認識論が創成されたとされているのです(同書138頁)。

ただ、ロックは、この内観する主体の実在は疑いを持っていません。私たち自身の存在については、私達はこれを極めて平明で絶対確実に知るので、何の立証も必要でないし、できもしないと言うのです(170頁)。これは明らかにデカルトの考えをロックが引き継いでいることを意味していると考えられるのです。

 

4.ヒュームの経験論

では次に、ロックと共に経験論の代表的哲学者であるヒュームの理論を見て行きましょう。ヒュームはイギリス経験論を究極にまで推し進めた人だと言われています。

ヒュームは「人性論」で、人間の心に現れる全ての知覚は、印象と観念の二つに分かれると論じています。

印象は、心に初めて現れるときの感覚、情念、感動の全てを包括するもので、極めて勢いよく、激しく入り込む知覚のことです。そして、思考や推論の際の勢いのない心象を表すのが観念です。例えば、論文を読んで引き起こされる知覚が観念だとヒュームは言います(411頁)。要するに、印象と観念は、感じることと思考することとの違いに基づいているとヒュームは言うのです(411頁)。

さらにヒュームは、知覚には、部分に区別したり分離したりが全くできない単純な知覚と、部分に区別できる複雑な知覚があると言います(411頁)。そして、初めて現れるときの単純観念は全て印象と対応し、正確に再現する単純印象に起因するとします(413頁)。

さらに印象には、知られない原因から直接に心に起こる感覚の印象と、観念に起因する反省の印象があるとします。印象が感覚機能を刺激して我々に熱さや冷たさなどある種の快や苦を感じさせ、この印象が心に写し取られ印象が消えた後も残ったのが観念です(414頁)。さらに、この快や苦の観念が再び心に現れると、欲望や嫌悪、希望や恐れといった新たな印象を生み、この印象は反省に起因するものであり反省の印象と呼ばれることになります(414頁)。

印象は観念として再び心に現れることがあり、それは、最初の活気をかなりの程度保持していて印象と観念の中間とも言える記憶と、すっかり活気を失った完全な観念である想像に分類されます(415頁)。想像は単純観念を自由に連合します。この連合はある観念を別の観念へと移らせますが、その関係の性質には、類似、時間的場所的近接、原因と結果、この三つがあります(416頁)。

この内、類似と近接については、印象を受動的に受け容れるだけであり、推論ではないため問題はありません。しかし因果性は、一つの対象の存在・活動から、何か別の存在・活動が起こったと推論するものであり、検討が必要となるとヒュームは言います(429頁)。

そこで原因と結果についての観念について検討すると、まず言えることは、原因と結果として考えられるどんな対象も近接していて、原因が結果よりも時間的に先行するということです(430頁)。この近接と継起に必然的結合が結びつくことが因果性となると考えられるのです(431頁)。ところが、この必然性なるものは論証不可能であるとヒュームは言うのです(432頁)。

まず、感覚機能から生じる印象は、その究極の原因は人間の理性によっては全く解明できないものであり、知覚が真か偽かについては知覚の整合性から推論できるとヒュームは考えます(435頁)。そして記憶と想像との区別は、記憶の方が勢いと活気の点で勝っている点にあり(435頁)、信じることは、感覚機能による直接の印象であり、判断において、原因と結果の関係をたどる際に推論がおかれる基礎となるのは、知覚の勢いと生気をおいて他にないとするのです(436頁)。

さらに、一つの対象の存在から他の対象の存在を推理できるのは経験によってだけであり、経験の本性は、ある一つの種類の対象が存在した実例に、かつてしばしば出会ったことを思い出すことで、対象の他の種類に属する個物がそれらに伴い、近接と継起の一定の在り方を保って存在していたことを思い出すことだと言うのです(436頁)。

要するに、ヒュームによれば、因果性は対象の近接に過ぎず、蓋然的なものに過ぎないのであって、絶対的なものではありません。観念に対して信念は勢いと活気とを付け加えるだけであり、信念は現在の印象と関係・連合を持つ生き生きとした観念と定義され(441頁)、新たに推論や断定を交えずに過去の繰り返しから生じるものが習慣と呼ばれるものであり、この信念はこの習慣に起因するというわけです(444頁)。

さらにヒュームは必然性なる観念は何かといったことについて検討し、それは原因と結果に帰せられる二つの対象が近接と継起の関係にあることから、心が習慣によって規定されて生じる観念とするのです(452頁)。

ヒュームは、ロックのような力能と言う概念は認めません(453頁)。なぜなら、理性だけではどんな初めての概念も生じさせることは決してできないし、経験から区別されたものである理性は、原因が全ての存在の始まりに絶対に必要だと断定させることができないからです。したがって、理性は決して効力の観念を生じさせ得ないのであるから、この観念は経験に、この効力のいくつかの個々の事例に起因しなければならないのです(453頁)。

ヒュームに言わせると、この効力を生成する原因の不思議な力を多くの哲学者が考えてきたわけです。例えば、デカルト学派の人々は生得観念の原理によって議論を進め(455頁)、物質の本質は延長にあるとして活動を含まなかったのでこの運動を生じさせる力を神に求めたのです(454頁)。また、先程申し上げたとおり、ロックはこれを自分自身の心の中に感じる力能にそれを求めたわけです(455頁)。

ヒュームはさらに、外界の物体の持続的な存在は、感覚機能からは生じないのであり、想像に過ぎないと言います(463頁)。物体はしばらく見なくても整合性を有することにより、因果性の推論から、持続的な存在という所信を生んでいるに過ぎないのです(464頁)。

さらに自己というものも同様だとヒュームは言うのです。恒常的で普遍な印象などどこにも無いのであって、人間とは、思いもつかぬ速さで次々と継起し、絶えず変化し、動き続ける様々な知覚の束あるいは集合に過ぎないと言うのです(471頁)。私なりに解釈すれば、万物は流転するということであり、主体としての人間も当然それに含まれるわけです。

そして、これらの継起する知覚に同一性を与え、自分自身が一生変わらない存在だと想定させるのは何かとヒュームは問い、人格の同一性について検討を始めます(471頁)。

私達は、時間がおそらく推移したと思われる中で変動せず中断しないままでいるような対象のはっきりした観念である同一性の観念を持っています。また、継起して存在し密接な関係によって結合されているいくつかの異なった対象についてもはっきりした観念を持っています(472頁)。中断せず変化しない対象を考える想像、関係しあう対象の継起を考える想像、この二つの考えはまったく別個であるにもかかわらずその類似から、想像によってあたかも一つの持続する対象を見つめているとさせてしまうのです (472頁)。

人間の心を構成する要素となる別々の知覚は、それぞれ別々の存在であり、判別分離されるのが事実ですが、同一性によって一つに結ばれています。この同一性は、知覚の間に実在するものではなく、知覚について形作られる観念の連合に過ぎないのです。知覚の観念が想像において結び付くところから、知覚を思い起こす際に我々が知覚に帰する性質に過ぎないのです(475頁)。その原因は記憶にあり、記憶とは過去の知覚の心象を呼び起こす機能で (475頁)、記憶が人格の同一性の源でもあるのです(476頁)。

 

5.確実な論拠が求められる理由

ロックからヒュームに至るイギリス経験論は、結果としてヒュームのような懐疑論的発想を帰結しました。自我は知覚の束に過ぎないといった標語にそれは端的に現れています。また、因果性による推論は絶対的な必然性はあり得ず、蓋然的なものに過ぎないとされたわけです。

先程2で申し上げたとおり、経験は人間の思考の根源であり、経験無くしてはどのような思考もいかなる知識もあり得ないとまずは言えると私は思います。しかしながら、経験だけでは、万人共通の絶対確実な知識とはなり得ないことも明らかとなりました。

ヒュームによれば、知覚は印象と観念とに分かれ、印象は外界から直接受容するものですが、観念はそれと異なり想像であって、習慣により蓋然性が認められるに過ぎないのです。蓋然性とは、確からしいということ、確実ではないが普通はそうだと言うことを意味します。もちろん、日常生活においては、蓋然性だけで十分生活可能で、大きな問題はありません。

では、日常生活では問題ないにもかかわらず、なぜ、確実な論理、論拠といったものが求められてくるのでしょうか。

それは、言うまでもなく、他者と議論になった時でしょう。他者と議論となった場合、他者を納得させる確実な論理がどうしても必要となるのです。誰もが確実な論理を論拠として自分の主張を他者に認めさせようとするからです。

それでは、そもそも、他者との議論はどのように起こるのでしょうか。このことを人間の本質に遡りながら考えてみましょう。

人間が生きるとは、先程2の冒頭でも申し上げましたが、物質代謝を行ってエネルギーを摂取・消費することだとまずは言えます。しかし、それだけではありません。生きるとは他者に向けた主体的な行為でもあるのです。私達人間は、日常生活において、他者に言葉を投げかけ続けています。他者に言葉をかけたくて仕様がないのが人間なのです。他者に言葉をかけその言葉の意味を他者と共有することにより生きていることを実感しようとする、この主体性を有するのが人間です。

実は、人間の主体性を表現することは困難です。表現された途端に客体になってしまうからです。そこで、私は、自分に湧き上がる生の奔流を意味する「拡がり」という概念を出発点として主体性を理論立てました。主体的な個人を「拡がる自我」と表現したわけです(「拡がる自我」)。

拡がる自我は、まず、生命体として物へ拡がってその物を摂取する物質代謝が不可欠です。この物質代謝は「物に対する拡がりの確証」と表現することができると私は考えます。

そして、拡がる自我は他者に対して生きる証を求めようとします。それは、投げかけた言葉の意味を他者と共有することによって実現します。ここに意味とは言葉に対する主体の把握の仕方のことです。これを私は「他者に対する拡がりの確証」と表現しました (「拡がりの確証と組織文化の本質」)。言葉を発することは、単なる手段だけではなく生きる目的でもあるわけです。

ところで、人々は言葉に各人の思いを自由に付与します。内心の自由に基づく自分独自意味を他者と共有することは、他者に自分自身を見出すことであり、他者への拡がりの確証の実現となるからです。したがって、言葉の意味は曖昧なものとならざるを得ません。

一つの言葉に人々が群がって自由に意味を付与し、勝手なことを言い合う、これが人間社会での言葉の真実です。その原動力は他者に対する拡がりの確証の実現にあります。この場合、言葉が曖昧である以上、議論は避けることができません。曖昧な言葉と言葉を調整し、一定の意味を確立させるのが論理です。したがって、誰もが、他者に対して主張する言葉と論理のための確実な論拠を求めることになるわけです。

 

6.合理論の根拠と経験の不確実性の理由

経験は絶対的な真理ではあり得ず、不確実なものであったわけです。今回、イギリス経験論の検討からこの経験の不確実性を帰結したわけですが、実は、大陸合理論が生得的な理性に基づく論理を重んじているのは、まさにこの経験の不確実性がその原因ではないかと考えられるのです。

不確実な論理を、自己が主張する論理の根拠とすることは、普通は誰も行おうとはしないでしょう。誰もが同意している、絶対的確実な論拠を出発点としてこそ相手を納得させることができるからです。確実な論理の根拠によって当事者それぞれの判断の是非が論理的に明確に表明されるからです。

では、大陸合理論は、この絶対的確実な論拠をどのように構築したのでしょうか。ここで、デカルトを例に考えてみましょう。

デカルトは、「私は考える、ゆえに私はある」という真理を、懐疑論者のどのような法外な想定によっても揺り動かし得ない確実なものとして哲学の第一原理としました(「方法序説」188頁)。疑えるものは全て疑った上で、疑っている自分自身は否定できないとして、私は一つの実体であり、その本質は、ただ考えるということだけであり、したがってこの私は精神であり、物体から分かたれているものであると主張したのです(「方法序説」188頁)。

先程2でも申し上げたとおり、ここでも出発点は経験です。私は考えるといったことは経験以外の何ものでもありません。ただ、デカルトは、ヒュームのように蓋然的なものとはせず、誰もが否定できない実体として論理的に確立させたのです。

このように、デカルトは、精神の実在を認め、物体の本性は長さ・幅・深さなどの延長、すなわち広がりであるとしました(「哲学の原理」371頁)。精神の実在こそ絶対的確実な論拠であり、この論拠を基にデカルトは神の存在を証明し、様々な外界の対象を理論的に説明していったわけです。

では、先程詳細に検討した、ロックやヒュームのイギリス経験論の論理はどのように理解すればよいのでしょうか。

何度も申し上げたとおり、経験は人間の思考の根源であり、経験無くしてはどのような思考もいかなる知識もあり得ません。それにもかかわらず、なぜ、経験だけでは、万人共通の絶対確実な知識とはなり得ないこととなってしまうのでしょうか。人によって経験の内容に差があることがその原因なのでしょうか。

実は、今申し上げた、人による経験の差異、ここにこそ問題解決の鍵があると私は思うのです。これが意味するのは、自分の経験に対しては、人により様々な解釈を行なわざるを得ないという事実です。

どういうことかと言うと、このようにしないと他者に対する拡がりの確証の論理が構築できないということなのです。

個々の拡がる自我の他者に対する拡がりの確証の論理は、外界の否定できない何らかの対象を感覚によって知覚することから始まります。したがって、知覚こそが議論の出発点となります。これはヒュームの言うとおりです。ところが、知覚から議論が始まった以上、個々人の知覚の内容自体を絶対的に信頼することは論理的にできなくなってしまうのではないかと思うのです。なぜなら、知覚を出発点として議論が始まる以上、知覚の絶対的な正しさを前提とすると議論が始まらないからです。

ヒュームが言うとおり、人間の心に現れる全ての知覚は、印象と観念の二つに分かれます。印象は、心に初めて現れるときの感覚、情念、感動の全てを包括するもので、極めて勢いよく、激しく入り込む知覚のことです。そして、思考や推論の際の心象を表すのが観念です。印象に対して、内心の自由により構築した自分独自の観念を付け加えて主張してこそ、他者への拡がりの確証の論理となるのです。

アリストテレスも言うとおり、感覚的に知ることは全ての者に共通の事で、容易の事であって、知恵ありとは言えません(アリストテレス「形而上学」8頁)。誰もが有する感覚から出発して各人の知恵を競い合うのが個々の拡がる自我なのです。

他者への拡がりの確証は、個々の拡がる自我の内心の自由により構築した言葉の意味を、他者と共有するところに実現します。経験は、ヒュームの言うとおり、印象と観念から成るとすれば、外界の対象から成る印象に、内心の自由に基づく個々の拡がる自我独自の意味を付与する、それが観念であり、その観念を他者と共有することになるのです。

経験の不確実性の理由はまさにここにあるのです。そこで絶対否定できない論理を考えて他者を説得する必要が生じる、その論理は経験に基づかないといった性格を持たざるを得なくなってくるわけです。それを追究したのが大陸合理論です。

ところが、その一方で、経験は不確実でも構わない、こういった信念も成立すると思うのです。蓋然性が高くなれば良いといった発想です。高い蓋然性を持つ理論も真理と呼んでも構わないのです。この方向に進むのが経験論です。実は、現在の経験科学はこの発想のもとに成り立っているのではないかと私は思っているのです。

現代の経験論については、後日、改めて論じたいと思います。

今回のテーマは取り敢えず以上です。

 

文献紹介)J.ロック「人間知性論」 D.ヒューム「人性論」

今回紹介するのは、哲学史においてイギリス経験論と言われている時代の、ジョン・ロックの「人間知性論」と、デヴィッド・ヒュームの「人性論」です。本の内容については本論である程度詳しく申し上げましたので、文献紹介ではこの本の意義や自分の感想などを中心にお話ししたいと思います。

ロックの「人間知性論」は1690年に出版されました。「努力と運、時間の境目」で検討した「統治論」の出版と同じ年です。

また思い出話になって大変恐縮なのですが、若い頃はロックと言えば近代市民社会の基礎を築いた思想家と言うことで、労働に基づく所有を論じた「統治論」の方は学生時代から熱心に読んでいたのですが、この「人間知性論」は直接読んだことがあまり無く、ロックの思想は哲学史の教科書、例えば岩崎武雄先生の「西洋哲学史」で理解していただけでした。今回は経験論を検討するということで、世界の名著の大槻春彦先生の訳で初めて通読したわけです。

実際読んでみると、内容は岩崎先生の解説のとおりなのですが、やはりロックの思考の道筋をたどることができ、自分の拡がる自我の拡がりの確証の理論を基礎付ける内容も結構あってとても勉強になりました。

ロックの哲学史上の意義はイギリス経験論を確立させたことで、その象徴が「タブラ・ラサ(拭われた書板)」という言葉です。ただ、私が疑問に思うのが、なぜロックに至って初めて経験論が確立されたと言われているのかということなのです。経験は全ての始まりであることはアリストテレスの時代から意識されていたのです。それなのになぜ経験を出発点とした哲学体系が無かったのかという素朴な疑問です。

岩崎武雄先生の「真理論」では、哲学者は伝統的に感覚に信頼をおいていなかったということが論じられています(62頁)。本論でも申し上げましたが、感覚は経験論の出発点です。なぜ感覚に信頼をおけないのか? 今回の講座の狙いは、この問題に対する私なりの回答を構築するところにあったのです。

この点については、先程本論で申し上げたとおり、経験が議論の出発点だからこそ、というのが私なりの答えなのですが、実は、それは次に紹介するヒュームの「人性論」を参考に考えたことなのです。

ヒュームの「人性論」は、1739年に出版された本です。この本も今回の経験論の講座のために初めて通読しました。ロールズの「正義論」でこの本が引用されているため以前からこの本には興味があったのですが、この本の内容も岩崎先生の「西洋哲学史」で理解していただけで、なかなか直接読む機会がありませんでした。今回は、世界の名著のロックと同じ巻の土岐邦夫先生の訳を基本に、大槻春彦先生の訳の岩波文庫も参考にして読みました。

こちらも内容は先程本論で論じたとおりですが、実際読んでみると、やはりかなり刺激的な内容だと実感しました。因果関係における原因結果の関係は、習慣によって私達が考える主観的な信念に過ぎないとヒュームは言い、さらには、人間は様々な知覚の束あるいは集合に過ぎないなどと言うのは、やはり常識に反する発想ではないかと思うのです。しかし、この本を読みながら理論的に突き詰めるとヒュームの言ってることも一理あると思わざるを得ないのです。

岩崎武雄先生は「西洋哲学史」で、ヒュームは非物質的な精神や霊魂という実体が考えられないことを主張し、形而上学の可能性はヒュームによって完全に否定されたと論じています(183頁)。形而上学は経験を超越した神や世界の本質を追究する学問ですが、経験科学とは相いれない性格を持っていると私は思います。これはあくまで私の個人的な感想ですが、印象と観念を分けるヒュームの理論は、刺激と反応を扱う経験科学としての心理学に近いのではないかとこの本を読んで思いました。

そして、知覚を、印象と観念に分けるヒュームは、理性に基づく道徳理論を攻撃します。理性は真または偽という一致不一致を見出すものであるのに対し、道徳は実践的なものであって、それは情念や意志に基づくのであり、一致不一致を入れる余地は無いと言うのです(520頁)。道徳は“感じ”であり、“快”の内に見出されるものだというわけです(521頁)。

前回の論文「快楽と論理」で申し上げたことですが、快楽を重視して快・不快といった心情を共感することにより相手と同じ意味を共有することができると考えるのが経験論であり、理性があるから相手と同じ論理の意味を共有できると考えるのが合理主義である、このこともこの本を読んで確信しました。

ヒュームによれば、知性は、論証を基に判断するか、蓋然性を基に判断するかの二つの異なった仕方で機能を発揮するのであり、それは言い換えれば、観念の抽象的な関係を考察するか、経験のみが知らせる対象の関係を考察するかです(513頁)。理性は情念の奴隷であり、情念こそが原初的存在であって、理性だけではいかなる行為も生み出さないのです(514頁)。

ヒュームは、倫理について、共感がきわめて強力な原理であり、道徳的な区別の主な源であると言っています(529頁)。

以上のことを、純粋人間関係論の視点から、すなわち拡がる自我の拡がりの確証の論理を踏まえて、私なりに理解するならば、次のようなことが言えるのではないかと思います。

経験論の言うところの、心情の共感は過去の事実に基づく論理であり、合理論の言うところの、理性により相手と同じ意味を共有できると考えるのは未来へ向けての論理であると考えられ、経験論と合理論の対立は、過去と未来の対立でもあると言えるのではないでしょうか。

他者に対する拡がりの確証の論理の設定は、未来へ向けてといった性格があります。拡がりは、生きる意欲であり希望なのです。未来へ向けての論理の設定はどうしても必然性を前面に出さざるを得ません。なぜなら規範を中心にしなければならないからです。したがって、合理論においては、道徳も義務論とならざるを得ません。

これに対し、経験論においては、過去の経験が重視され、その規範の普遍性は、快・不快といった功利主義の原理となってくるわけです。規範の本質も、良心の呵責といった心情に頼ることになるわけです。経験論は、未来を規制する規範ではなく、過去の経験を重視するからこそ、逆に、人間の自由を尊重する理念が、拡がりの確証の論理、言い換えれば、倫理の論理の中心となっているのではないかと思ったのです。

今回は以上です。

 

参考文献

J.ロック「人間知性論」(大槻春彦訳)中央公論社

D.ヒューム「人性論」(土岐邦夫訳)中央公論社 (大槻春彦訳)岩波書店

J.S.ミル「功利主義論」(伊原吉之助訳)中央公論社

デカルト「方法序説」(野田又夫訳)「省察」「哲学の原理」(井上庄七他訳)中央公論社

B.ラッセル「哲学入門」(髙村夏輝訳)筑摩書房

アリストテレス「形而上学」(出隆訳)岩波書店

I.カント「純粋理性批判」(宇都宮芳明他訳)以文社

J.ロールズ「正義論」(川本隆他訳) 紀伊國屋書店

G.H.ミード「西欧近代思想史」(魚津郁夫他訳)講談社

M.ハイデッガー(細谷貞雄訳)「存在と時間」理想社

岩崎武雄「西洋哲学史」有斐閣 「カント」勁草書房「真理論」「存在論」新地書房

大槻春彦「経験の哲学」岩波書店 「イギリス古典経験論と近代思想」中央公論社

城塚登編「西洋哲学史」有斐閣

時枝誠記「国語学原論」岩波書店

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