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公共性の本質 ~日常の不平不満を向ける相手の論理的性格~

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公共性の本質 ~日常の不平不満を向ける相手の論理的性格~

和田徹也

目次

1.問題提起  2.公と私の対立と公の場  3.主体的人間と公共の場  4.公共主体としての国家の構造  5.目的社会における分割の論理と創造の論理  6.商品交換社会における公共性の性格  7.団体の組織内の不平不満と公共性  8.公共の場における創造の論理としての公論の形成 

 

1.問題提起

公共という言葉はよく聞きます。公共広場、公共施設、公共財、公共機関、等々、日常生活でとても馴染みのある言葉です。

公という字は、おおやけ、すなわち入り口を開いて公開するといった意味があるそうです(学研漢和大字典111頁)。共という字は、ともに、一緒にといった意味です(学研漢和大字典115頁)。誰にも開かれた共同の場という性質が、公共性の意味だとまずは推測されます。

ところで、国家、地方自治体等のいわゆる公共機関は、様々な施策を行っています。その施策は、特定の私人の利益のためだけに行っているのではありません。それは全ての人を対象にした、公共性を有する施策でなければならないわけです。この場合、公共性は、単に開かれているといった意味だけでなく、利益を付与するといった積極的な意味が強くなってきます。

このことを逆に考えれば、公共性という言葉には、何かを要求するための、主張の相手といった性格が出てくることになります。日常生活における様々な問題、人と人との争い、生きる上での不安や不平不満、これらを誰かに訴えたい、この誰か、その相手となる主体は、公共性を有することになるということです。

そして、その相手となった公共主体は、ただ単に不平不満を聴くだけではありません。人と人との争いの場合は、第三者の立場から是非を判断しなければならなくなるでしょう。さらには、人々の不平不満の解消のために何らかの施策を行う必要も出てくるでしょう。その時は、一部の人の利益を優遇するのではなく、皆の利益を平等に考慮した上で、施策を実施しなければなりません。その判断基準こそ公共性なのではないか、このように考えられるのです。

以上のように考えて行くと、ある事象が公共性を有するか否かというのは極めて重要な問題となってきます。個々具体の社会問題を解決する際の判断の基準となるのが公共性だからです。

そこで今回は、公共性について、その根幹から哲学的に考えてみたいと思います。公共性の本質といったものを追究していきたいと思います。

 

2.公と私の対立と公の場

公共性は、私生活の場と対立する概念であることは否定できません。公と私の対立です。ではこの場合「公」と「私」とはどのような違い、差異があるのでしょうか。

まず「私」とは自分自身のことだと考えられるでしょう。独立した物理的個人である自分自身、こういったことです。この場合、自分の周りの、他者が存在している場所的空間が、とりあえず「公」ということになると思います。

さらに、「私」は、自分の家族も含むと考えられます。家族は血縁という絶対的な事実によって維持され愛情に支配されている場です。したがって、家族の外の空間が「公」となるのです。私生活である家族の中には通常公共性はありません。公共性は家族の外の概念なのです。

ただ、家族は独立した個人とはやはり異なります。複数の個人の集合体でもあるわけです。したがって、「公」が家族内に出現することも稀にあるとは思います。

では、家族以外の独立した個人の集合体はどうでしょうか。企業をはじめとする様々な集団は、「私」となる場合は無いのでしょうか。

実は、個々の集団は、他の集団と対面するときに「私」となるのです。集団と集団との交渉の場では、それぞれが「私」となり私と私の対立が生じるのです。そしてその交渉の場となるのが「公」です。

例えば、企業と企業が取引をする場合を考えてみましょう。独立した主体である企業が、交渉して契約が成立する、この場合、取引には民法その他様々なルールがあります。そのルールを犯すことは許されません。このルールが適用される場が「公」であり、この公の場で企業と企業が「私」と「私」として取引するのです。

この公の場が公共性を有することは間違いないでしょう。個々の主体と主体が交わる公の場は、公共の場と言い換えることができるのです。

 

3.主体的人間と公共の場

公共の場で行動するのは、まずは、個々の人間という主体、そして、今申しあげた、企業を始めとする様々な団体としての主体です。この公共の場における公共性はどのような性格を有するのでしょうか。

言うまでもなく、この場合、公共性とは誰にでも開かれているということを意味します。そして、誰もが平等であること、このことも重要だと思います。なぜなら、公共の場は、主体的な人間が、「創造の論理」を構築する場であると考えることができるからです。以下、このことを詳しく説明していきましょう。

人間は、他者に対して様々な働きかけを行って生きる、主体的な存在です。この主体性を表現することは、表現された途端に客体となってしまうので極めて困難です。そこで私は、自分に湧き上がる「生」を表現する「拡がり」という概念を出発点として主体性を理論化しました。主体的な個人を「拡がる自我」と表現したわけです(「拡がる自我」)。

拡がる自我は、まず生命体として物質代謝が不可欠です。この物質代謝は「物に対する拡がりの確証」と表現することができます。

そして、拡がる自我は他者に対しても生きる証を求めようとします。それは、他者に対して投げかけた言葉と論理の意味を他者と共有することによって実現します。これを私は「他者に対する拡がりの確証」と表現しました。 (「拡がりの確証と組織文化の本質」)。

ところで、他者に対する拡がりの確証を実現するには、自分の投げかけた論理が他者に注目されなければなりません。その場合、注目される要因は大きく二つの論理に分類できるのではないかと私は思うのです。分割の論理と創造の論理です(「分割の論理と創造の論理」)。

「分割の論理」とは、自分が所属する社会全体から出発する論理です。出発点である社会の全体それ自体に大きな価値を置き、その社会全体の価値の序列の中で自分がどの位置にあるか、その地位の高さによって他者の注目を得る論理です。

これに対し、「創造の論理」とは、個から出発する論理で、何を行ったか、何を作り上げたかによって他者の注目を得る論理です。個々の行為に意味を認め、行為に大きな価値を置き、その行為の成果である作り上げたものを評価する立場です。行為以前の出発点の価値はゼロです。いかに努力したか、どのような成果を上げたかを他者の注目を得るための価値の評価基準とします。

拡がる自我の他者への拡がりの確証は、他者と意味あるいは価値を共有することにより成立します。意味とは、言葉に対する主体の把握の仕方のことです。価値とは、誰もが求めるものであって、高低あるいは大小が生じた可測的で比較可能な意味のことです。ここで重要なことは、個々の拡がる自我はより高い価値に注目するということです。したがって、より多くの他者に注目されるには、より高い価値が必要となります。

分割の論理と創造の論理は、この価値の配分の方法に大きな違いがあるわけです。前者は出発点の全体の中での地位や身分により高い価値を置き、後者は個々人の行為とその結果により高い価値を置くわけです。

公共の場は、主体的な人間すなわち個々の拡がる自我が、創造の論理を他者に投げかける場であると考えられるのです。なぜなら、公共の場は個々の主体が積極的に活動し、他者と交渉する場であり、それは出発点の静的な構造に基づく分割の論理ではなく、まさに動的な創造の論理を構築する場だと言えるからです。

したがって、公共の場では、原則、誰もが平等でなければなりません。なぜなら、創造の論理は価値の創造を評価するものであり、出発点である個々の主体が平等でなければ、創造した価値の大きさが正確に計測できないからです。

 

4.公共主体としての国家の構造

では、冒頭で申し上げた公共機関の性格、言い換えれば、積極的に給付を行う公共主体はどのような構造なのでしょうか。次にこのことを考えてみましょう。

給付を行うということは、給付を必要とする人々がいるということです。給付を必要とするとは、日常生活において人々が何らかの不満、例えば、経済的な必要性を抱えているということを意味しています。

誰もがこの不満を解消してもらいたいと思うでしょう。しかしながら、社会の中で生きている個々の人間に対して、どこかの他人が一方的にその不満を解消してくれるはずはありません。なぜなら、他人もこちらと同様不満を持っているからです。

実は、人間の経済活動、言い換えれば、商品交換経済は、大局的に考えれば、この不満の解消を図るサービスの交換である、このように考えることができるのです。サービスは商品であり、人間社会はこの商品交換により皆が不満を解消して成立している、こういうことが言えると思うのです。

このように、一般的な経済的必要性は、商品交換によって充足され、人間社会は成り立っています。この商品交換の場は、まさに、公共の場であると考えられます。

しかしながら、商品交換によっては解消することができない不満もあるのです。

まず考えられるのが、個人と個人、企業と企業といった私的主体相互に争いが生じた場合の解決です。商品交換がうまくいかず争いが生じた場合、商品交換以外の方法によって解決しなければならないのは当然のことです。

現代社会において、この問題を解決するのは、具体的には言えば、司法です。裁判によってどちらの主張が正しいか決するわけです。そして、さらに必要とされるのは、裁判の決定を実現する物理的強制機構、言い換えれば、公的権力です。

ここに、まず、公共性を帯びた権力機構、言い換えれば国家というものが必要とされてくる根拠の一つがあります。司法は国家の一機関です。

しかしながら、現実の人間社会では、司法の場に出てこない争いや不平不満、こちらの方が断然多いのです。そして、争いを未然に防ぐ施策、人々の不平不満を緩和する施策、こういったものも強く要請されてきます。

さらには、対価の徴収が不可能なサービスの提供、例えば道路の設置等も人々から求められています。要するに、商品交換経済に適さない様々なサービスの提供も必要とされているのです。

これらの施策を担うのが行政です。行政も公的権力を有しているのであり、国家の一機関であると言えます。

この行政権は、恣意的な施策を行うことはできず、公共性を持たねばなりません。人々皆平等に扱わなければならないのです。そこで、法律に基づく行政権の行使といったことが要請されてきます。これが、いわゆる法の支配です。

法律は、国民の代表から構成される国会が定めます。国会も国家の一機関です。この国会が公共性を帯びていることは疑いようがありません。なぜなら、国民の代表が決定するということは、人々に開かれた公の機関だということになるからです。

 

5.目的社会における分割の論理と創造の論理

公共主体である国家の構造の概要は大体分かりましたが、この公共主体に対して人々はどのような思いを抱くのでしょうか。権力の行使が必要とされるのであれば、誰もが納得する正当性が求められます。この正当性こそ人々の思いを反映する理念だと考えられるのです。

日常の不平不満を向ける相手が公共主体であるとまずは考えることができます。日常の不平不満は、個々の人間、すなわち個々の拡がる自我が活動する際に生じます。

個々の拡がる自我は生まれてから様々な団体に所属します。例えば、まず血縁関係に基づく家族に所属し、さらには生産活動を行う団体、例えば営利企業に所属し、その他諸々の団体に所属して生きているわけです。

これらの団体はある目的を達成するための社会であり、社会の類型上、目的社会と分類できます。これに対し、一定の地域を基盤とし、様々な目的社会を包摂する社会が全体社会という類型です。

実は、個々の拡がる自我がこれらの団体、すなわち目的社会に所属するのは、他者への拡がりの確証のためだと私は主張したいのです。先程申し上げたとおり、他者への拡がりの確証は、他者に言葉と論理を投げかけて他者とその意味を共有することにより実現します。個々の拡がる自我は、所属した団体の規範、理念、こういったものを他者への拡がりの確証のための論拠として用いるわけです。

先程申し上げた、商品交換の主体としての団体も目的社会であり、その団体の活動は、個々の拡がる自我の拡がりの確証の実現という事実に分析することができるのです。

ところで、個々の拡がる自我が所属する目的社会は、先程申し上げた、分割の論理と創造の論理といった理念に支配されています。分割の論理は、社会全体の価値を前提とし、身分的な上下の秩序を基に他者の注目を集めるものです。創造の論理は、対等な個人を前提とし、その者の行為と結果を重視するものです。

実は、公共主体を正当化する理念は、この、分割の論理と創造の論理とに応じて大きく異なってくるのではないかと私は考えるのです。以下そのことをさらに詳しく考えて行きましょう。

 

6.商品交換社会における公共性の性格

まず、創造の論理を構築する場である、商品交換の世界から見てみましょう。

商品交換の世界は誰もが平等の取引主体です。この商品交換社会で争いが生じた場合、お互い対等な立場から超越した権威が必要となります。先程申し上げたとおり、これが公共性を有する国家機関であり、その典型が司法です。

この権威ある公的主体は、理念的には、当事者から手が届かない超越的立場になければなりません。なぜなら、完全に超越して当事者双方から中立的でなければ、双方が納得しないからであり、紛争の解決ができないからです。

ではどのように超越するのか、これが問題となります。この場合、歴史的にみると、身分的超越と合意による超越の二つに分かれると私は考えます。

身分的超越は、主に、個々の団体が身分的秩序により構成されている場合に認められるものです。これは、歴史的には、社会の安定期に多く見られるものです。団体の組織が身分的上下関係にある場合、その団体の構成員は、身分的な全体の価値を重視するでしょう。したがって、紛争を解決する公共機関も身分的価値を纏わざるを得ないのです。個々の団体を超越した絶大な身分的権威が、公共性を構成するのです。

合意による超越は、団体が対等の独立した個人によって構成されている場合に認められるものだと考えられるのです。これは社会の変動期に多く認められるものです。団体が結成間もない場合は、団体の構成員は独立した平等な意識を持つでしょう。歴史的な例としては、戦争状態の混乱した社会であり、ホッブズの思想がその典型です。ホッブズは、人間は機械であるとし、皆均一平等であるとしました(「管理と支配の間にあるもの」)。これは社会契約説の根拠となる考え方です。

以上申し上げた二つの分類に対しては、身分的超越は近代より前の社会であり、近現代社会は合意による超越に限られると主張する人もいるかもしれません。しかし、この二つは明確に割り切れるものではなく、近代あるいは現代社会においても身分的超越は存在すると私は思います。

例えば、身分的権威は、ヘーゲルの「法の哲学」で論じられている君主がその典型であると思います。ヘーゲルは「法の哲学」で、近代市民社会を商品経済社会として詳細に分析しているのですが、ヘーゲルの市民社会での職業団体は有機的存在であり、団体に所属する各人の誇りによって維持されていると言うのです(420頁)。ヘーゲルの考えた市民社会では、個々の経済主体は平等ですが、個々の経済主体内部の組織はある意味上下の身分制だと解されるのです。

そして、国家は市民社会と混同されてはならず、国家は客観精神であるがゆえに、個人自身はただ国家の一員であるときにのみ、客観性、真理、人倫を持つことになるとヘーゲルは言います(427頁)。職業団体と同様に国家も有機的組織なのです(447頁)。君主は精神としての国家を個として実在化させるものです(481頁)。ヘーゲルは、国家は契約ではないとし、社会契約説に反対しています。

そこで次に、商品交換社会に登場する主体、個々の団体の内部について検討していきましょう。

 

7.団体の組織内の不平不満と公共性

商品交換の主体の内部、すなわち個々の目的社会の組織は、組織の全体の価値を前提とする分割の論理によって維持されています。組織は指揮命令系統が不可欠であり、個々の人間の上下関係が不可避なのです。

この団体の組織内における不平不満は、身分的上下関係を前提とした、他者との関係から生じます。組織では指揮命令系統が存在する以上、誰もが同じように組織の中で他者への拡がりの確証を実現できるわけではありません。組織の上位にある人間は分割の論理によって拡がりの確証を得ることができるかもしれませんが、下位の人間はそれが満足にはできません。

ここに大きな不平不満が発生する根源があります。その不平不満は組織の中だけでは解消させることが困難なのです。

そこで人々は組織の外部に不平不満を向ける対象を求めるわけです。実は、その外部の対象の有する性質が公共性になるのではないかと考えられるのです。なぜなら、公共性とは、誰にでも開かれている理念であるからです。

この場合、最初に考えられるのは、既存の上下関係に対する不平不満を吸収するための、対等な人間を前提とする公共性という理念です。なぜなら、上下関係の不平不満は、対等な個人を前提とする思考からこそ生じるのであって、その不平不満の裏には、対等な個人の理念が存在しているからです。組織の中では実現できない対等な個人と個人の関係、それを組織の外に求めるわけです。

しかしながら、組織の外部に求めるのは、このような対等な人間といった理念だけではありません。組織の外部に身分的上下関係を求める場合もあるのです。どういうことかと言うと、身近な人間関係における身分的な上下関係を超越する、より大きな権威、こういった権威を求める場合もあるのではないかと思うのです。この場合、組織の外部に、身分に基づく絶対的な上下関係を見出すことになります。

先程6で申し上げたとおり、創造の論理構築のための商品交換社会において、紛争の解決のために必要とされた超越的権威、そこには身分的超越と合意による超越がありました。実は、組織内部における上下関係の不平不満の解消でも、外部に絶対的な上下関係が求められ、それはまさに、この身分的超越でもあるわけです。団体内部における身近な上下関係を超越する権威を、その団体の組織の内部の人間が団体の外に求めているということなのです。近代国家における独裁権力、ファシズム等は、ここにその出現の理由の一つがあるのではないかと私は思っています。

それでは、最初に申し上げた、組織の外に対等な人間を求める場合はどうなるのでしょうか。この場合は合意による超越、すなわち、皆の合意、言論の自由に基づく公論の形成が重要となってくるのです。公論とは公共性を有する意見、すなわち多数の者が納得している意見であり、まさに大きな権威を有するものなのです。この公論が公共性を形作る基盤となるのです。

 

8.公共の場における創造の論理としての公論の形成

それでは、公論について検討してみましょう。

現在は様々なメディアによって、様々な公論が形作られています。公共性を有する国家は、この公論を無視するわけにはいきません。選挙も公論によって大きく左右され、様々な公共サービスもそれに大きく影響を受けています。

実は、公論の形成は、先程申し上げた、個々の拡がる自我にとっての、創造の論理の形成だと私は思っているのです。皆が納得する論理は創造するものです。個々の拡がる自我は、他者への拡がりの確証を実現せざるを得ない存在ですが、その拡がりの確証の論理は、より多くの他者と意味を共有しようとするものであり、まさに公論となるべきものなのです。

そして、さらに言えることは、現代社会の公論の形成は、インターネットの普及により革命的に変化発展しているということです。

以前は公論の形成は新聞・テレビその他一定のメディアを有する団体が独占的に行っていました。したがって、意見を公共の場に提供することができるのは、一部の人間だけであったわけで、誰もが公共の場に意見を投げかけるわけにはいかなかったのです。

それに対し、現在は、誰もが個人として、自由に公共の場に意見を発表することができることになったことが革命的なのです。以前は、意見を表明できる人間は、特権的立場にある者に選別された一部の人間に限られていたのに対し、現在はその身分的制約が無くなったということなのです。選別するのは、特権階級ではなく受け手である一般大衆なのです。

もちろん、これが良いか悪いかは別問題です。メディアを独占する立場にある団体は長年の歴史があり、その団体に所属する人々は様々な知的ノウハウを有しているでしょう。ただ、少なくとも、私のようなメディアに無縁な人間にとっては、多くの人に自分の考えを発表できることは物凄く素晴らしいことなのです。

公共の場で行う個々の経済主体の商品交換は、個々の拡がる自我の他者に対する拡がりの確証の実現における創造の論理の典型です。各人の創造の論理の構築により人間社会は維持されているわけです。

同様に、公論の形成も創造の論理の典型です。個々の拡がる自我が、公共の場に投げかける自分独自の理論、これはまさに創造の論理の構築です。それが人々に認められる、多くの他者との意味の共有が実現する、まさに拡がる自我の他者に対する拡がりの確証の実現なのです。

社会の秩序を維持するための理念、それは今回検討した日常の不平不満をいかに吸収し、その解消を図るか、このことにかかっているのです。その理念の創造こそ公論のめざすところであり、それこそが公共性の本質であるわけです。

 

参考文献

ヘーゲル(上妻精他訳)「法の哲学」(松村一人訳)「小論理学」岩波書店

J.ハーバーマス(細谷貞雄訳)「公共性の構造転換」未来社

ハンナ・アレント(志水速雄訳)「人間の条件」筑摩書房

J.ロック(宮川透訳)「統治論」中央公論社

ホッブズ(永井道夫他訳)「リヴァイアサン」中央公論社

K.マルクス(岡崎次郎訳)「資本論」大月書店

M.ハイデッガー(細谷貞雄訳)「存在と時間」理想社

T.パーソンス・E.A.シルス「行為の総合理論をめざして」(作田啓一他訳)日本評論社

C・I・バーナード(山本安次郎他訳)「新訳経営者の役割」ダイヤモンド社

藤堂明保「学研漢和大字典」学習研究社

高山岩男「哲学的人間学」多摩川大学出版部

齋藤純一「公共性」岩波書店

加藤新平「法哲学概論」有斐閣

時枝誠記「国語学原論」岩波書店

 

(2023年4月公表)

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