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論理の明暗 ~生きるための論理の構築に向けて~
和田徹也
目次
1.問題提起 2.言葉と論理 3.論理の明るさとは何か 4.言葉の意味の本質から考える論理の明暗 5.明るい論理と暗い論理の区別の基準 6.暗い論理の性格 7.他者への拡がりの確証と明るい論理 8.生きるための論理の構築
文献紹介:時枝言語学の再検討
1.問題提起
人間は他者へ言葉を投げかけ続けていますが、その言葉の論理の内容を見ると大きく二つに分類できる気がします。
一つは明るい論理で、他者はその論理を受け入れると心が明るくなるものです。
もう一つは、暗い論理で、他者はその論理を受け入れると心が暗くなるものです。
この区分を見ると、一見、誰もが明るい論理を求める気がします。何か、楽しくなるような、気持ちが明るくなるような、こういった論理を誰もが求めているとまずは考えられるのです。
しかしながら、世の中に流布されている様々な言論を見ていると暗い論理の方が多い気がします。様々な悲しい事件の報道がなされ、将来の不安を煽る言説が多く流されているのです。その事実だけ見ると、明るい論理よりも暗い論理の方を人々は求めているということになってしまいます。
なぜ世の中には暗い論理が氾濫しているのでしょうか。世の中はなぜ明るい論理で満たされていないのでしょうか。明るい論理は現実社会のどこにあるのでしょうか。
今回は、明るい論理とは何か、暗い論理とは何か、言葉と論理の本質に遡って考えてみたいと思います。そして、それを踏まえた上で、誰もが自分の人生で必要とする生きるための論理といったもの、生きるための論理の構築に向けての基礎理論を皆様に提供できればと思います。
2.言葉と論理
人間は他者に言葉を投げかけ続ける存在です。他者に言葉をかけたくてしょうがないのが私達人間なのです。言葉と論理の意味を常に他者と共有しようとするのが私達生きている人間です。
この、他者へ言葉を投げかける主体的な人間、それを私は「拡がる自我」と呼びました。主体性を表現することは論理的に極めて困難です。そこで私は、拡がりを出発点として、主体性を表現したわけです(「拡がる自我」)。
そして、拡がる自我は、投げかけた言葉と論理の意味を他者と共有しようとします。この時、拡がる自我は、言葉に思い思いの意味を含ませます。そしてこの意味を他者と共有しようとします。これを私は、他者への「拡がりの確証」と表現しました(「拡がりの確証と組織文化の本質」)。ここに意味とは、言葉に対する主体の把握の仕方のことです。
実は、ここで、言葉と言葉の意味の間に齟齬が生じる可能性が出てきてしまうのです。なぜなら、拡がりの確証のために言葉を共有しようとする、共有しようとすることそれ自体が、言葉の意味に先行しているからです。個々の拡がる自我は言葉にそれぞれ思い思いの意味を自由に付与しようとします。したがって、意味を共有しようとする同じ言葉に対するそれぞれの拡がる自我の把握の仕方に“ずれ”が生じるのです。
言葉と言葉が組み合わされると、この言葉のずれが顕在化してきます。この言葉に対する各人の思い入れの差異を明確にし、つじつまを合わせ、整理し調整して、理論立てて説明する、これが論理です。論理は、複数から成る言葉の意味の差異を調整して意味の筋道を形成するものなのです(「論理とは何か」)。
3.論理の明るさとは何か
では、そもそも明るい論理とは何でしょうか。
それはうれしい話のことだと誰もが思うかもしれません。では、うれしい話とはどういうことなのでしょうか。
個々具体の人間の生活では、うれしいことはいくらでもあるでしょう。学校に入学した、試験に合格した、仕事がうまくいった、お金がもうかった、結婚した、子供が生まれた、等々、個人の生活では様々なうれしい経験があります。
このうれしい経験は明るい論理を構成することは明らかでしょう。ただ、それはあくまでもその人だけの話だと思うのです。もちろん親しい親族、例えば親子であれば、本人同様明るい話と思うでしょう。しかし、個人のうれしい経験が、果たして、他者一般へ向けた普遍的な明るい論理であると言えるのか、こういったことを考えてみたいと思います。
このうれしい経験は、別の表現で言い換えれば、欲求が充足された、こういうことではないかと思います。自分の欲求が充足されたことを言葉で表現することは、その人にとっては明るい論理であることは間違いないと思います。
では、私の何々の欲求は充足されました、このように他者に訴えたとき、他者は誰もが明るい論理だと思うのでしょうか。多くの人が「よかったね」と思うかもしれません。それが明るい論理と感じることもあるかも知れません。
しかし、私は、論理の明るさは、必ずしもここには存在しないように思うのです。論理自体の明るさは他者が論理それ自体から感じるものです。例えば、自分の子供の欲求が充足されたという話は、自分にとって明るい論理となるでしょう。なぜなら自分と子供を同一視しているからです。しかし赤の他人の場合はどうでしょうか。逆に羨ましいなどという不快な思いが湧いてくる可能性もあるのではないでしょうか。
このように考えると、他者の欲求が満足したという話は、必ず明るいとは言えなくなってきます。欲求が充足したという論理の意味は必ずしも明るいものとは言えないのです。
では、論理自体の明るさとは何でしょうか。このことを、言葉の意味の本質を検討することによってより深く考えて行きたいと思います。
4.言葉の意味の本質から考える論理の明暗
まず、言葉の意味とは、言葉に対する主体の把握の仕方である、このように定義できると私は考えます。このことをさらに詳しく見ていきましょう。
言葉は、まず、話し手が一定の意味を付与して、一定の型の音声として発せられます。その音声に対して、聴き手は自分自ら意味を喚起します。伝達されるのは音声のみです。
要するに言葉は個々の主体の行為であり、意味と音声の一致した言葉とは個々の主体が自ら形成するものであるわけです。このことは、言葉と言葉の結合である論理の意味でも原則同じです。
このように考えて行くと、論理の明るさ暗さは、論理を受け取る者の立場で判断することとなるわけです。受け取る立場の個々の主体が形成した意味が明るいか否かの判断の対象となるわけです。
では、どのような場合に論理が明るくなるのでしょうか。拡がる自我の拡がりの確証の観点から考えてみましょう。
まず言えることは、個々の拡がる自我が自らの論理を打ち立てるのに制限がない論理が明るい論理ではないかということです。
先程申し上げたとおり、拡がる自我は、投げかけた言葉と論理の意味を他者と共有しようとします。この時、拡がる自我は、拡がりの確証のために、内心の自由に基づく思い思いの意味を含ませるわけです。
ここで重要となるのは、新たな意味の論拠となる既存の論理なのです。論理の明暗は、この既存の論理の有する性質だと考えられるのです。
世の中には様々な言葉と論理が溢れています。個々の拡がる自我は、その中から論理を選択し、それを論拠に新たな拡がりの確証の論理を構築しています。
また、相手から言葉を投げかけられた者は、その言葉を論拠に相手に言葉を発する場合もあります。その言葉が新たな拡がりの確証の論拠となるわけです。
ここに論理の明るさの根拠があるのではないかと思います。新たな拡がりの確証の論理を形成し易い論理こそ明るい論理なのではないか、このようにまずは考えられるのです。
これに対し、暗い論理とは、明るい論理とは逆に、個々の拡がる自我の拡がりの確証の実現を阻害する論理である、こういうことになると思います。拡がりの確証の困難性を意味する論理が暗い論理なのです。
5.明るい論理と暗い論理の区別の基準
通常、論理が明るいとか暗いとかはその人の主観、内心の自由な発想に基づくと考えられます。このように考えれば、論理の明暗も個々の人間によって異なり、普遍的な区別の基準などあり得ないのではないかといった疑問が湧いてきます。
また、単に他者の注目を浴びるということだけでは、明るい論理も暗い論理も同様です。新たな拡がりの確証の論理には、明るい論理も暗い論理もあるのです。先程申し上げたような、新たな拡がりの確証の論理の形成のし易さだけでは両者の区別はできないのではないか、こういったより大きな疑問も湧いてきます。
では、明るい論理と暗い論理は、どこにその違いを見出すべきなのでしょうか。以下この問題を検討したいと思います。
さて、社会の中で生きる個々の拡がる自我の、他者に対する拡がりの確証の論理は、大きく二つの論理に分類できます。分割の論理と創造の論理です。
分割の論理とは、社会の全体から出発する論理で、その社会の中のどの地位にあるかにより他者の注目を得るものです。出発点である社会全体それ自体に大きな価値を置き、その全体の中で自分がどの位置にあるか、その位置の価値の高低によって他者の注目を得る論理です。
これに対し、創造の論理とは、個から出発する論理で、何を行ったか、何を作り上げたかによって他者の注目を得る論理です。個々の行為に価値を置き、その行為の成果である作り上げたものの価値を評価する立場です。行為以前の出発点の価値はゼロです。いかに活動したか、どのような成果を上げたかを他者の注目を得るための価値の評価基準とします。
価値とは、誰もが求めるものであって比較がその本質をなすものです。分割の論理は出発点に価値を置き、創造の論理は行為と結果に価値を置くわけです。
実は、私は、誰もが明るく感じる論理、それは創造の論理に関係するのではないかと思うのです。分割の論理は出発点において大きな価値を前提とするのに対し、創造の論理は出発点の価値はゼロです。したがって新たな価値の創造であり、そこに明るさが見えるのではないか、このように考えるのです。論理の明るさは未来に向けられたものなのです。
これに対し、創造の論理の構築を阻害する論理、これが暗い論理だと思うのです。創造しようとする価値が否定される、ここに論理の暗さがあるのです。論理の暗さも未来に向けたものなのです。
一方、分割の論理のように出発点に価値を認めるのは、個々の主観の既存の判断を前提とするものであり、論理の明暗の客観的基準とはなり得ないと考えられるわけです。明るい暗いの区別は、あくまで将来への見込みであり、出発点の価値は誰もがそれを認めているものであって、そこには明暗は存在しないのではないかと思うのです。
この考えに対しては、出発点の全体の価値に基づく分割の論理には価値の上下があり、身分の差異、能力の差異といったものは暗い論理ではないか、こういう疑問が出るかもしれません。しかしながら、出発点の価値に明暗を認めるのは、あくまでも創造の論理と結び付いてのことであると考えられるのです。その暗さは創造の論理の設定が制限されるところにあるのです。
6.暗い論理の性格
冒頭で申し上げたとおり、世の中には暗い論理が蔓延しています。テレビを見るといつも暗い事件が報道されています。また、インターネットの情報でも、例えば、定年後の貧乏生活とか、人々の不安を煽る情報が溢れています。
このように考えると、暗い論理とは、人々の不安を掻き立てる論理であるとまずは言えるのではないかと思います。不安感が暗い性格を有することは否定できないと思うのです。
先程申し上げたとおり、暗い論理は、個々の拡がる自我の拡がりの確証の実現を阻害する論理です。他者への拡がりの確証は困難を伴い、また、拡がる自我自身の生命の危険も確率は低いですが常に存在しています。拡がりの確証を阻害する論理は必然的に人々に不安をもたらし、人々は暗さを感じざるを得ないのです。
実は、ここで重大な事実が判明します。個々の拡がる自我は他者へ拡がりの確証のための論理を投げかけ続けるわけですが、その時他者に注目されなければなりません。実は、不安の原因となる、暗い論理は、他者の注目を浴びるための格好の材料なのです。なぜなら誰もが不安を抱いているのでその論理に注目せざるを得ないからです。
これを狙って、人々の不安を煽る論理が横行する、これが現実社会の姿の一面ではないかと思うのです。実は、世の中に暗い論理が蔓延する理由はここにあるのです。
ただ、私は、このように人々に注目されんがために人々の不安を煽る暗い論理を投げかけるのは、浅はかな発想であり、避けるべきだと思うのです。もちろん人々に注意を呼び掛けるためであれば、人々にとっても利益があるので良いことだと思います。しかしながら、単に他者の注目を浴びるために暗い論理を投げかけるのは、人々の創造の論理の構築を妨げ、社会経済を低迷させるものであり、決して望ましいことではないのです。
7.他者への拡がりの確証と明るい論理
言うまでもなく私達は一人で生きているのではなく、社会の中で、他者と様々な関係を取り結んで生きています。家族、企業、地域社会、その他様々な社会の中で私達は生きているわけです。
この場合、他者との関係は言葉と論理を取り交わすことにより成立しています。逆に言えば、他者に対し言葉と論理を投げかけ、他者とその意味を共有することにより、関係を結んでいるわけです。これこそが他者への拡がりの確証です。
生きていくためには他者との関係の構築が必須ですが、必ずしも個々人の思い通りの関係が成立するとは限りません。なぜなら、先程申し上げたとおり、言葉に個々の人間が自由に意味を付与するため、言葉の意味の間に齟齬が生じ、意味の共有が困難になってしまうからです。
そこで、他者に対して説得する必要が生じてきます。説得とは、既存の論理を基に、主張したい新たな論理を相手に認めさせることを意味します。
実は、ここで明るい論理が絶大な効果を生むのです。
明るい論理は誰もが求めます。なぜなら、先程申し上げたとおり、他者への拡がりの確証のための創造の論理にとっては必須の論理だからです。
では、現実的には、どのような論理が明るい論理なのでしょうか。
それは、端的に言えば、他者の拡がりの確証のための創造の論理の構築を助ける論理です。具体的やり方としては、まずは他者の主張を聞くことです。そしてそこに他者の言いたいことを読み取って、それを踏まえた上で、他者が論拠として活用するであろう論理を投げかけるわけです。これが明るい論理です。
他者はこちらが投げかけた論理を基に新たな創造の論理を構築するでしょう。そしてそれをこちらに投げかけるでしょう。重要なのは、他者の論理の意味をきちんと受容するということです。これにより相手は拡がりを確証します。
以上申し上げた、他者に向けた明るい論理の構築は、この後申し上げるとおり、個々の人間の人生にとって極めて大きな意味を持つのではないかと私は思うのです。
8.生きるための論理の構築
人生においては、誰もが働いて飯を食っていかねばなりません。以前論じたとおり、それは他者との協働によってなされます。言い換えれば、個々の人間が社会に所属することにおいて実現します。そしてその際は、他者と交渉していかねばなりません。
具体的に言うならば、営業して新たな顧客を見つけ、あるいは、人を説得して組織の意思をまとめ、その他様々な他者に対する働きかけをしていかなければならないのです。その時はまさに、相手に言葉と論理を投げかけ、相手を納得させなければなりません。
実は、この時、明るい論理が大きく役立つわけです。明るい論理は人々の気持ちを良くさせるのです。なぜなら、相手である拡がる自我の、拡がりの確証のための創造の論理を構築する基盤を形成するものだからです。
それが意味するのは、相手の心が開くということ、相手の本音が聞けるということです。相手の本音が聞ければ交渉は進展していくことが多いのです。互いに腹を割って話し合うということです。これは、以前論じた信頼の理念が構築されたことを意味するのです。
相手と共通の目的を有することによって、物事、生産活動は順調に行われます。創造の論理を実現するための、生産活動における分業が効率よく行われ、結果として社会が豊かになるのです。このことは生きるために不可欠のことです。
このように、明るい論理は、生きるための論理の基礎理論として大きく機能することは間違いないと私は考えます。したがって、より良く生きるためには、常に、明るい論理を構築する必要があるのです。その論理の構築の具体的、実践的手法については、また別の機会に改めて論じたいと思います。
文献紹介:時枝言語学の再検討 ~ 時枝誠記「国語学原論」・三浦つとむ「日本語はどういう言語か」~
時枝先生の「国語学原論」は「言葉とは何だろう」でも取り上げましたが、純粋人間関係論の基本概念である拡がる自我は、その発想の多くをこの本に負っているわけです。
今回論じた、言葉の意味とは言葉に対する主体の把握の仕方であるという定義、そして、言葉は、話し手が一定の意味を付与して一定の型の音声として発せられ、その音声に対して、聴き手は自分自ら意味を喚起するということ、要するに、伝達されるのは音声のみであるという理論、これらもこの時枝先生の「国語学原論」での論述に依拠しています。
しかしながら、このような主体的な言葉や意味の把握といった理論に対しては、言語の実在性あるいは普遍性が欠けているとの批判があるようです。
そこで今回の文献紹介では、時枝言語学再考ということで、三浦つとむ先生の書籍を取り上げて、深く掘り下げて考えてみたいと思います。なお、ソシュールと時枝言語学の対比については「言葉とは何だろう」で論じていますのでぜひご覧ください。
三浦先生は「日本語はどういう言語か」で、時枝先生の言語過程説をとても素晴らしいものとして、天文学でのコペルニクスの出現にも例えているのですが、理論の欠陥をも指摘しています(109頁~)。
三浦先生によれば、時枝理論の優れた点は、①言語を過程的構造においてとり上げたこと、②語の根本的な分類として客体的表現と主体的表現の区別を採用したこと、③言語における二つの立場(主体的立場と客体的立場)の差別を問題としたこと、だとしています。
一方、欠陥としては、①言語の本質を主体の概念作用にあると考えたこと、②言語の意味を主体の把握の仕方すなわち客体に対する意味作用そのものと考えたこと、③言語表現に伴う社会的な約束の認識とそれによる媒介過程が無視されていること、④認識を反映とみる立場が正しく貫かれていない、与えられた現実についての表現と想像についての表現との区別及びその相互の関係が取り上げられていないこと、が挙げられています。
三浦先生は言語と言語活動は同一ではないとし、音声や文字も言語としての資格は失わないとしています。そして、意味は機能としてではなく関係としてとらえるべきであり、音声や文字の表現形式は表現内容との統一として理解すべきであるとし、ある音声から個々の人間が同じ概念を想起する事実を、社会的習慣ではなく表現上の社会的約束に求めています。それを時枝先生のように個人的能力に基礎づけるのは間違いだったと言うのです(113頁)。
では、この三浦先生の指摘はどのように考えて行くべきなのでしょうか。
まず、音声や文字といった物的対象も言語としての資格は失わないと私も思います。時枝先生は、言語は人間の表現行為そのものであり、理解行為そのものであるとし(続編7頁)、音声文字は表現者の思想を理解者に伝達する媒介者としての位置を持つとしていますが(同10頁)、この媒材も言語という概念に含めても問題無いと思うのです。
やはり、最も重要な論点は、言語の規範性だと思います。時枝先生の理論は、主体性を重んじたものであり、言語の規範性を重んじていないことは明らかだと思うのです。
大野晋先生は、岩波講座日本語第1巻の「日本語研究の歴史(2)」で、時枝先生の言う主体性を推し進めていくと言語の社会的制約は薄れていき、言語は表現主体の叫びのような形になると言って、言語は本質的に通じないものであるということになると論じています(273頁)。実際、時枝先生は「国語学原論続編」で、一言で言えば言語は通じないものである、と書いています(28頁)。
大野先生によれば、言語学の世界では、普通は、言葉が通じないとか誤解が起こるということを特殊な事態とみているらしいのですが、時枝理論が誤解とか不通とかを言語の常態としていることを、大野先生は高く評価するとも言っています(273頁)。
以上のことを、私なりに言わせれば、言葉は本来曖昧なものだということなのです(「言葉とは何だろう」)。私は、人間は、言語といった物的対象に拘束されるのではなく、言語という物的対象を活用するのである、このように考えたいのです。どういうことかというと、人間を主体的存在、拡がる自我を出発点として考えるということです。他者への拡がりの確証のためには、言語といった物的対象を活用する必要があるのです。
個々の拡がる自我の言葉を活用した他者への拡がりの確証、これを結果から客観的にみると、言語の規範性が認められるかもしれません。しかしその規範性はどこにあるのでしょうか。物的対象である言語が持っているものなのでしょうか。
私はそのようには考えません。あくまで拡がりの確証のために物的対象である言語を活用していると考えたいのです。規範はあくまで主体の側、拡がる自我の側にあるのです。物的対象である言語の規範性はあくまで結果だと思うのです。規範とは、通常、「べき」といった当為であると定義されます。言語の規範は、あくまで、主体の内にあるのではないかと思うのです。
もちろん、同じ規範であっても法律は、外部にある規範だと思います。制定された物的対象として存在しており、その規範性は人々の内心に存在する「べき」ですが、この「べき」は主体の外部に存する法律に基づくと言えるのです。なぜなら法律は強制力を前提とする社会規範であり、誰もが認める外面性をその本質とするものだからです。
さらに検討するならば、道徳は、内面性をその本質とする社会規範であり、法律と異なり、言語の規範性に近いかもしれません。しかし、道徳はあくまで社会規範であり、言語の規範性とはその性格が異なる気がします。社会規範はそれを維持・正当化するための客観性が求められてくるのです。なぜなら、社会規範は対立する個々の主体の調整原理だからです。
これに対し、言語は、自然発生的なものであり、その規範性はあくまで個々の主体の内心にあります。では、その規範性の根拠はどこにあるのでしょうか。それは、拡がる自我の他者への拡がりの確証にある、このように私は考えるのです。
拡がる自我は他者と意味を共有して拡がりを確証するため、常に他者に言葉と論理を投げかけています。意味とは言葉に対する主体の把握の仕方のことです。この投げかけた論理は、他者と論理の意味を共有することが最終目的なので、自分自身もこの投げかけた論理に拘束されざるを得ません。ここに規範の端緒があるのです。
さらに、既存の他者の言葉と論理を利用して拡がりの確証を得ようとする場合もあります。他者の言葉を根拠に新たな言葉を他者に投げかけるのです。この場合、他者の論理に自分も自ら拘束されることになります。既存の他者の論理を、拡がりの確証のために自ら選択したわけなので、当然、その論理に自ら従うことになるのです。ここにも規範が存在することになります。
言語の規範性を外部に求める考えは、結果から主体性をとらえる発想ではないかと思います。規範はあくまで当為であって未来へ向けたもので、他者との意味の共有の実現は結果でしかありません。個々の拡がる自我は、他者との意味の共有を目指して自発的に言葉を発し、自発的に言葉の意味に従う、言い換えれば、言葉に対する自分の把握の仕方を維持する必要があるのです。その個々人の言語行為の結果の集積が、人々の習慣であり、言語が通じる根拠となるわけです。
ところで、三浦先生のように意味を関係としてとらえるのは、関係という概念の曖昧性を考えると、私は賛成することができません。以前論じたとおり(「純粋人間関係とは何か」)、関係という概念は主観性と客観性を併せ持つ両義的な概念です。人間の言語活動といった複雑な過程を認識するのに、関係という概念を用いることは、観念と物質を混同するもので、曖昧な認識をもたらす恐れがあり、あまり望ましいものではないと思うのです。
私は、時枝先生のように、主体性に純化した発想の方が、言語の本質をよりよく把握することができるのではないかと思ったわけです。
参考文献
時枝誠記「国語学原論」「国語学原論続篇」岩波書店
三浦つとむ「日本語はどういう言語か」講談社
三浦つとむ「認識と言語の理論」「言語学と記号学」勁草書房
大野晋「日本語研究の歴史(2)」岩波講座日本語第1巻所収 岩波書店
小川文昭「主体的言語学の意義」言語過程説の探究第1巻所収 明石書店
加藤新平「法哲学概論」有斐閣
恒藤恭「法の基本問題」岩波書店
F.ソシュール(小林英夫訳)「一般言語学講義」岩波書店
M.ハイデッガー(細谷貞雄訳)「存在と時間」理想社
2023年1月公表