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努力と運、時間の境目 ~J.ロック「労働に基づく所有」から考える~

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努力と運、時間の境目 ~J.ロック「労働に基づく所有」から考える~

和田徹也

目次

1.問題提起  2.努力と労働価値説  3.努力の普遍的性格  4.拡がりの確証における分割の論理と創造の論理  5.近代社会における努力の特殊性  6.労働に基づく所有の実質・具体的内容  7.時間の本質から考える努力と運の差異  8.将来へ向かう努力、過去を振り返る運  9.努力と運における矛盾

 

1.問題提起

最初から自分の思い出話になって恐縮ですが、50年以上昔の私の子供の頃はいわゆるスポ根といったものが流行ってまして、私も例えば「巨人の星」といったアニメに夢中になっていました。思い込んだら試練の道も根性で乗り越えられる、端的に言えば、努力すれば栄光がつかめる、こういった内容です。

その後、私は中学校に入学するとバスケット部に入部し、土日も休まないで練習に明け暮れました。しかし私は不器用で、いくら練習しても上手にはならず、常に補欠でベンチを温めていて試合にはほとんど出られませんでした。人間には能力の差があり、その差は努力しても報われないと、その時思ったわけです。

それでもまだ努力という言葉が嫌いになったわけではなく、高校に入った時点では、人間は、結果ではなく、その人がいかに努力したかで評価すべきだ、このように思っていました。

しかし、その後、世の中で成功したと言われている人達が、自分は努力したから成功したのだ、こう話しているのを聞くと、努力という言葉がだんだん嫌いになっていきました。努力というのは、成功した人が、他の人々に自慢するための手段として役立つ言葉に過ぎないのではないか、こう思ったわけです。

そして、大学に入って哲学の勉強を始めた頃は、努力という言葉を使う人間を少々軽蔑するようになっていました。人間には能力の差があり、能力があることは単なる偶然に過ぎない。運が良かったからその人に結果を出す能力が備わっていただけであり、その結果を自分の努力に基づくとする主張は、自分が多くの他者から称賛を得たいがための論理のすり替えではないか、こう思ったわけです。そして、そのような考えに対し強い不快感を覚えていたのです。

運とは、個々の人間にはどうすることもできないことです。もって生まれたその人の能力は、天命であっていかんともしがたい、このように考えたわけです。

しかしながら、その後、就職して何十年もサラリーマン生活を経験する中で、職を転々としたりして散々苦労し、また、社会保険労務士事務所を開業して、飯を食うことの厳しさを心底経験した現在は、努力という言葉が再び好きになったような気がします。

子供の頃大好きだったにもかかわらず、若い頃の一時期に嫌いになった努力という言葉、年を重ねた現在なぜ再び好きになったのでしょうか。今回はこのことを自問自答したいと思ったのです。

これは、一見、個人の些細な問題で、つまらない問題のようにも思えます。しかしながら、実は、哲学上の大問題に直結した問題だと私は思うのです。以前検討した、天と人間、絶対者と個人、自由と必然、こういったことに深くかかわっているのです。

今回は、努力と運との関連について、その根源から考えてみたいと思います。個々の人間の可能性は、天命とどのようにかかわっているのか、このようなことを考えてみたいと思います。

 

2.努力と労働価値説

以前、「価値とは何か」で商品の価値に関する労働価値説の本質を論じた際、商品の生産に伴う様々な苦労や困難を乗り越えて商品を創造した、ここに商品の価値の根本があると申し上げました。様々な困難を乗り越えることを可能にする理念、言い換えれば、努力するという理念、これこそが価値を形作る正体だと私は考えたのです。

ではこの労働価値説は歴史上どのように形成されてきたのでしょうか。

この点についても、以前、私は、西洋近世のホッブズの思想とロックの思想を対比することにより、労働価値説の成立を論じました(「純粋人間関係とは何か」)。

ホッブズは、それまでの、中世のキリスト教の絶対的な権威に基づく政治権力ではなく、人間各個人が平等である自然状態を出発点として、絶対的な政治権力を基礎づけました。平等な個人は同じものを獲得しようとすると相争わずにはいられないので戦争状態になってしまいます。そこで、安全のために絶対権力を持つ国家が必要だとされたわけです。この国家は、絶対的な権力を持っていて、所有権もこの国家が分け与える結果となります。国家という政治体が成立して初めて所有権が与えられるのです。

一方、ロックは、同じ自然状態から出発しても、ホッブズのように戦争状態になるとはしませんでした。自然状態でも秩序が存在するとしたのです。そしてこの秩序は、労働に基づく所有という正当性に基づいているのです。所有権が労働に基づくのであれば、絶対権力を前提とすることなく所有権が認められるということなのです。

この、労働に基づく所有という理念により個々の目的社会の秩序が維持され、それが全体社会全般に広まり、所有権の目的物である商品の価値が労働に基づくとされ、実際の取引において、アダム・スミスが言うとおり、商品の価値は労苦骨折りであると誰もが思念するに至った時、労働価値説が確立されたわけです。

私は、労働に基づく所有という正当性によって基礎づけられた労働価値説こそ近代社会を形成する思想を表明するものであり、それ以前の封建主義的な身分に基づく所有権秩序に対立する思想だと考えたのでした。“身分から契約へ”という標語を、所有権秩序を維持する正当性を軸にして、“身分から労働へ”、さらに“身分から努力へ”と言い換えたわけです。

 

3.努力の普遍的性格

このように労働価値説を検討すると、努力なる概念は近代社会以降の歴史的な概念のように思えてきます。その考えの一例が、マックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」で論じられた禁欲主義に基づく勤勉、努力です。

しかしながら、私は、努力という概念は、歴史貫通的であり、なおかつ、世界の至るところでも見られるのではないかと思うのです。

人間が社会の中で活動する際、様々な困難を乗り越える必要があります。この事実はどのような歴史的・地理的位置にあっても同様です。この、個々の人間の生活における苦労、困難を乗り越えて生きていくこと、これらを表現するのには、努力といった言葉が一番適しているのではないか、このように思うわけです。

前回「信頼の理念と主張の論拠」で、私は、孔子の「論語」の「己に克ちて礼に復るを仁と為す」(顔淵)という章を取り上げました。

己に克ちて礼にかえるとは、短絡的な発想で自己の主張する論理を相手に認めさせるのではなく、より広い長期的視点から、他者に礼を尽くすことにより、他者が訴える他者の論理の意味を十分理解した上で、自己の論理を主張するべきであるということです。それは単なる自己主張であってはだめだということです。相手との信頼関係の創造が必要なのであって、ここに仁の本質があると申し上げたわけです。

この相手との信頼関係の創造の困難性、ここにはまさに努力という言葉が当てはまるのではないかと思うのです。人間関係の創造にも努力が必要なのです。先程申し上げた、個々の人間の生活における苦労、困難を乗り越えて生きていくことなのです。このことは人類普遍の真理ではないかと私は思うのです。

では、先程の近代社会成立期の労働価値説における努力は、それ以外の時代の努力とどのように異なっているのでしょうか。以下、このことを考えて行きたいと思います。

 

4.拡がりの確証における分割の論理と創造の論理

人間は他者に言葉を投げかけ続ける存在です。他者に言葉をかけたくてしょうがないのが私達人間なのです。言葉と論理の意味を常に他者と共有しようとするのが私達生きている人間です。

この他者へ言葉をかけ続ける主体的な人間、それを私は「拡がる自我」と呼びました。主体性という表現困難な事象を「拡がり」を出発点として表現したわけです(「拡がる自我」)。

拡がる自我は拡がりを確証しようとします。物質代謝は「物への拡がりの確証」です。そして、投げかけた言葉と論理の意味を他者と共有しようとすること、これを私は、「他者への拡がりの確証」と表現しました(「拡がりの確証と組織文化の本質」)。

人間が生きる存在である以上、拡がりの確証は、絶対命令です。生きる事は拡がりを確証することだと言い換えることができるのです。

そして、私は、他者への拡がりの確証のための論理の設定に関して、分割の論理と創造の論理という二つの対立する概念を提案しました(「分割の論理と創造の論理」)。

「分割の論理」とは、社会の全体から出発する論理で、その社会の組織の中のどの地位にあるかにより他者の注目を得るものです。出発点である社会全体それ自体に大きな価値を置き、その全体の中で自分がどの位置にあるか、その位置の価値の高低によって他者の注目を得る論理です。

これに対し、「創造の論理」とは、個から出発する論理で、何を行ったか、何を作り上げたかによって他者の注目を得る論理です。個々の行為に価値を置き、その行為の成果である作り上げたものの価値を評価する立場です。行為以前の出発点の価値はゼロです。いかに活動したか、どのような成果を上げたかを他者の注目を得るための価値の評価基準とします。

価値とは、誰もが求めるものであって比較がその本質をなすものです。分割の論理と創造の論理は、この価値の配分の方法に大きな違いがあるわけです。

前者は、まず社会全体に大きな価値を置き、その中での地位や身分というものに価値を置くわけです。既存の全体の価値の分割こそ問題なわけです。

これに対し、後者は個々の人間を出発点とし、個々の人間の行為と結果に価値を置くわけです。価値の創造が問題となるわけです。

 

5.近代社会における努力の特殊性

では近代社会における努力はそれ以外の時代の努力とどのように違うのでしょうか。

それは出発点の個々の人間が平等であるということなのです。要するに今申し上げた創造の論理の主体であるということです。創造した成果を評価するには出発点である個々の人間が平等でなければならないのです。

そして重要なのは、創造の論理の成果といったものが社会的地位に結びつくということ、すなわち分割の論理の根拠となる全体の価値に創造の論理が結びつくということなのです。この状況をより現実的に表現すれば、その当時は、全体社会の変動期にある、こういうことになるわけです。

全体社会の変動期とは、全体社会を構成する個々の目的社会が生成消滅する時代だと言うことができます。この、社会の変動期は、旧来の制度を維持する身分的秩序が崩壊し、個々の人間が同等の個人であるという考えが蔓延します。これは、以前検討した中国古代の周王朝末期、春秋戦国時代の墨子の思想を見ても明らかだと思うのです(「天と人間、天道と人道」)。

墨子は、宗族や家族の世襲制、閉鎖性に拘束されないで、尚賢使能を行うべきとしました。徳や賢を内容とする能力に応じて公平に人材を官に登用し、労力や功績によって賞や禄を定めて私なく、士と庶(農工商)との世襲的な別を排し、官と民や貴と賤の別の固定化を無くそうとするものです。士庶の別の世襲制は、周の封建制のもとでの基本的な秩序であったわけですが、この墨子の尚賢説は、周の封建制度、族的体制から庶民を解放しようとするものだったわけです。

尚賢使能は、先程申し上げた創造の論理を、組織全体に価値を置く分割の論理に結び付けようとするものである、このことは明らかだと思うのです。

実は、私は、ホッブズが言うところの、人間各個人が平等である自然状態こそ、まさに既存の社会秩序が崩壊した当時の社会そのものを表現するものである、このように思うのです。ホッブズが生きた当時は、宗教改革によって世の中が大きく変動する時代であり、宗教戦争や清教徒革命の内乱が勃発して社会の秩序が乱れていた、まさに全体社会の変動期だったのではないかと思うのです。

この全体社会の変動期で、ホッブズは社会の秩序を維持するために絶対王政の確立を主張しました。ただ、その王権の絶対性は、旧来のキリスト教を基礎とする中世の君主制ではなく、独立した個々の人間が自らの必要によって、契約によって設立する絶対権力だったわけです。

この絶対権力があってこそ、個々の人間の権利、所有権が生じるとホッブズは考えたわけです。所有は絶対権力が分け与えるものだったわけです。

しかしながら、ロックは、その絶対権力を必要とせず、まずは個々の人間の労働によって社会秩序が成立すると考えました。それが先程申し上げた努力に基づく所有の理念、労働価値説の根拠としての努力なのです。これこそが近代社会における努力の特殊性だと考えられるのです。

 

6.労働に基づく所有の実質・具体的内容

さて、ロックの労働に基づく所有ですが、これは具体的にはどのような社会的状態の中から形成されたのでしょうか。

それは、当時の混乱した社会状況の中で新たに台頭してきた中産的生産者層、新たな事業主たちの生産組織を、理念的に支えたものである、このように言えると思うのです。彼らは、労働すなわち努力によって社会の指導的地位にある、経営者として存在している、こういった考え方です。

このことは、社会の変動期であれば、ある意味、極めて自然なことではないかと私は思います。要は、身分的束縛のない実力主義ということです。

しかしながら戦乱が終了して年月が経って、様々な生産組織が活動をすることとなると、そこにはすでに上下の指揮命令関係が生じているわけです。したがって、その既存の上下関係の正当性が必要とされてきます。ロックの思想はまさにこの正当性を形成するものであったのではないか、このように私は思うのです。

ロックは、労働と勤勉によって始まった所有権は契約と合意によって確定されることになったと言っています。それは一部の地域で人の増加によって土地が僅少になったことにもよりますが、貨幣の使用によって私的な個人の所有権が変化したことにもよるとします。貨幣はたくさん生産したものを無駄にせず、蓄蔵することを可能にするのです。

そしてロックは、勤労の度合いが異なるにつれて人はそれぞれ異なった割合の所有物を持つとし、それが貨幣によってさらに拡大されると言うわけです。結局、私有財産の不平等は、人々が貨幣の使用に暗黙の裡に同意していることの結果として、実現されているということになるわけです。

このようにしてロックは、当時の現実社会の財産的不平等を正当化しました。当時の新たな経営者層の社会的地位の正当性を労働に基づく所有として確立させたわけです。努力こそ近代社会における上下の社会秩序の正当性だったわけです。

ただ、これは社会の変動期だったからこそ実現可能だったのではないか、このように思います。少なくとも社会変動の余韻が残っているからこそ、人々はこの労働に基づく所有の理念を受け入れたのではないかと思います。

これに対して、中世の上下の社会秩序は、予め絶対者である神が定めたもの、こういうことだったのではないでしょうか。このことは、その人の身分はあらかじめ神によって定められていて、どの身分として生まれるかは運による、こういうことになるわけです。まさに、運が上下の社会秩序の正当性だったわけです。

このように、努力と運は、大きく対立する概念であることが、以上の検討から明らかとなってきたわけです。以下、努力と運の違いをさらに考えて行きましょう。

 

7.時間の本質から考える努力と運の差異

ハイデッガーは「存在と時間」で、時間性といったものがいかに生じるのかを論じています。それを私流に解釈して、時間の本質に遡って努力と運について考えてみたいと思います(「自分本来の生き方」)。

拡がる自我は、投げかけた言葉と論理の意味を他者と共有し、拡がりの確証を得ようとします。この時、不安の中で行わざるを得ません。なぜなら、世間に埋没して生活している拡がる自我が、自分の内心の自由によって形成した新たな意味を他者と共有することは、全くの未知であり、拡がりの確証が絶対命令である以上、不安に陥らざるを得ないからです。

拡がりの確証は、既存の事情を論拠として、新たな論理を打ち立て、その意味を他者と共有することにより実現します。ここには既と新の時間の流れがあるわけです。

ハイデッガーは、時間性は根源的な脱自であると言い、将来・既往性・現在の諸現象を時間性の脱自態と名付けています。

これも私流に言わせれば、拡がりを意識するのが時間性の根源であり、拡がりの確証それ自体が時間性そのものなのです。このように、時間性は拡がりの確証を得ることそれ自体を意味していると私は考えます。

既存の論理を根拠に新たな拡がりの確証の論理を他者に投げかける、これが時間の本質です。個々の拡がる自我にとって、拡がりの確証は絶対命令です。拡がる自我は過去に形成された、結果としての論理を絶対的な論拠とし、未来へ向けて新たな論理を創造しなければなりません。それが絶対命令の意味するところであり、それこそが時間の流れなのです。

この時間概念を前提に、努力と運という言葉を再度考えてみましょう。

私が主張したいことは、端的に言えば、時間の流れの中で、努力は将来へ向けられるべき言葉であり、運は過去へ向けられるべき言葉であるということです。

ここには時間の境目があります。時間の流れの中に、過去と将来の時間の境目があるのです。

 

8.将来へ向かう努力、過去を振り返る運

先程申し上げたとおり、ロックが打ち立てた努力に基づく所有は、当時の新たな目的社会、すなわち生産活動を行う組織の上下関係を正当化するものでした。近代社会成立期における努力は、支配の正当性としての機能を果たすものだったわけです。

この場合、支配の正当性としての努力は、過去に向けたものではないかと私は思うのです。過去に努力したものが支配者になるといった理屈です。要するに既存の支配関係の事実を根拠づけるものだったわけです。

しかしながら、努力という言葉の本質は、先程申し上げたとおり、将来に向けてという点にあると思うのです。過去は、事実はすでに定まっていますが、将来の事実は全くの未知です。努力は将来の事実を自由に形成することを目指す主体的な言葉なのです。

何度も申し上げた通り、個々の拡がる自我にとって、他者への拡がりの確証は絶対命令なのです。拡がりの確証は未知なる将来へ向けたものであり、他者への拡がりの確証は困難を伴わざるを得ません。そこで、どうしてもそれを乗り越える意欲、力といったものが必要とされてきます。

この、意欲、力、これらを主体的に表現する言葉が努力という言葉なのです。努力という言葉は人間の生命力を告白する言葉なのです。将来へ向ける言葉であり、生きる人間にとって必要不可欠な言葉であるわけです。

それでは、運という言葉はどのような性格を有すしているのでしょうか。

自分の過去の人生を振り返ってみると、本当に様々なことがあったと、誰もが思うはずです。その時、自分が決断してあのようにしたからこういう結果になったのだ、自分が意図した通りの事実となった、こういうことももちろんあるでしょう。

しかしながら、多くは偶然、たまたま、そういう結果になった、こういうことが多いのではないかと思うのです。その典型が人との出会いです。自分の人生を左右するような人との出会い、これはまさに運、運命と言うものでしょう。

さらに言えば、自分が世の中に存在していることこそ、運に基づくものなのです。自分がこの国、この家族に生れ落ちること、これは運としか言いようがありません。

このように運は、本来、過去に向けられるべき言葉だと私は思うのです。運とはめぐりあわせを意味します。出会うということです。めぐりあいは、その瞬間に既存の事実となります。その瞬間に、運は、過去を振り返る言葉になるのです。

さらに言うならば、過去の事実は必然でもあります。既に生じたことは必然的に起こったと後から説明することができるのです。運は必然性といった側面をも有するのです。

では、運試しや占いなど、将来へ向けられる運という言葉の使用はどういうことなのでしょうか。思うに、それはあくまでも未来の事実の予想に過ぎません。未来における、自分では如何ともしがたい既存の事実についての予想でしかないのです。

この点、努力は運と大きく異なります。運は既存の事実を受け入れるだけなのに対し、努力は自ら事実を形成する言葉だったわけです。努力には、既存の事実は本来含まれ得ないのです。

時間の流れの境目において、運は過去を形成し、努力は未来を形成します。過去は天命則ち必然性が支配し、未来は主体性則ち自由が支配しているのです。

 

9.努力と運における矛盾

以上のように考えを進めていくと、冒頭で申し上げた、努力という言葉に対する不快感がなぜ生じるのかということも明らかになってきます。

その答えは、努力という言葉を過去に向けて使うところにあります。努力は本来将来へ向けての拡がる自我の意欲それ自体を表す言葉だったわけです。それを過去に向けての結果としての事実を意味する言葉として使うところに、不快感を覚える根源があるのです。

結果としての事実はあくまでも運だったわけです。したがって、過去へ向けては、運という言葉を使うべきところ、努力といった将来へ向けた生きる意欲を表す言葉を使うところに矛盾が生じているのです。

なぜ矛盾を感じてしまうのでしょうか。それは、努力という言葉が、生きていく上で必要な意欲、希望を意味するものであり、誰にとっても不可欠な自由を意味するものであるにもかかわらず、運といった絶対的な必然性を有する過去の事実にこの言葉を用いるため、自由と必然との間の矛盾が露出してしまうからです。

もちろん、言葉は曖昧なものであり、人それぞれが勝手に意味を付与するものです。したがって、努力を過去の事実に使おうが、それはその人の勝手であり、どうこう言うつもりは私にはありません。また、未来の事実の全てはもう定まっていると考えて、将来に対して、運という言葉を使う人がいたとしても、それはその人の自由なわけです。

しかしながら、少なくとも私は、努力という言葉は、極力将来へ向けて使おうと思っています。なぜなら、努力という言葉は、生きるために、日々日常の困難を乗り越えるために不可欠の言葉だからです。人間は生きている以上努力せざるを得ません。私は、自分が生きている以上、努力という言葉を未来へ向けて用いようと思っています。

そして、それに対して、私は、運という言葉は過去に向けて使おうと考えています。なぜなら、運は、人間にはどうすることもできない絶対性を意味していて、まさに、絶対取り戻せない過去を表現する言葉であり、受容せざるを得ない必然性を持っている言葉だからです。

運は、誰もがそれを引き受けざるを得ないものなのです。それを受け入れた上で、将来へ向けて努力するのが、私達生きている人間なのです。

 

参考文献

J.ロック(宮川透訳)「統治論」中央公論社

ホッブズ(永井道夫他訳)「リヴァイアサン」中央公論社

アダム・スミス(大河内一男訳)「国富論」中央公論社

K.マルクス(岡崎次郎訳)「資本論」大月書店

C.B.マクファーソン(藤野渉他訳)「所有的個人主義の政治理論」合同出版

M.ウェーバー(大塚久雄訳)「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」岩波書店

M.ハイデッガー(細谷貞雄訳)「存在と時間」理想社

マイケル.サンデル(鬼澤忍訳)「実力も運のうち 能力主義は正義か?」早川書房

孔子(貝塚茂樹訳)・(吉川幸次郎訳)「論語」中央公論社・朝日新聞社

水田洋「近代人の形成」東京大学出版会

田中正司「ジョン・ロック研究」未来社

大塚久雄「宗教改革と近代社会」みすず書房  「欧州経済史」岩波書店

板野長八「中国古代における人間観の展開」岩波書店

時枝誠記「国語学原論」岩波書店

2022年12月公開

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