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独立した個人と人間存在の全体性 ~人間の考察を個人から始める理由の探究~
和田徹也
目次
1. 問題提起 2.物理的存在と主体的存在 3.個人を否定する考えの淵源
4.団体の規範・理念の形成 5.団体の共同意思を維持する理念
6.独立した個人と人間存在の全体性 文献紹介:和辻哲郎「倫理学」
1. 問題提起
私は人間社会の認識の出発点として独立した個人といった概念を掲げました。この独立した個人から、様々な社会的・文化的事象を理論的に説明しようとしたわけです。純粋人間関係論はこういった考えに基づくものです。
しかしながら、このような考えに対しては、近世の個人主義的な考えにとらわれており、社会と個人を正確に認識することはできないとの批判があります(和辻「倫理学」11頁)。
また、血縁関係こそ他の全ての規定に先立つ最も原始的根源的な人間の規定であるとし、人間は個人として結合関係に入るに先立って自然運命的に親子の血縁関係の中にある、こういう主張もあります(高山「哲学的人間学」27頁)。このように考えれば独立した個人を出発点とすることは否定されてしまうかもしれません。
これらの批判や否定的な考えに対して、人間の認識にあたって、独立した個人から出発する必要性を改めて主張したいと思ったのが、今回の論文の意図です。そして、独立した個人を出発点とした上で、独立した個人を否定するような団体主義的な発想がなぜ生まれてくるのか、そして団体の全体の意思といったものはどのように形成されるのか、こういうことを検討したいと思います。
それを踏まえた上で、人間存在とは何かということ、独立した個人と人間存在の全体性について考えてみたいと思います。
2.物理的存在と主体的存在
人間は物理的存在です。まずここで他者と自分が別々の存在であることが明らかとなります。個人といったものは、この人間の物理的存在といった性質からまずは導かれるのです。個々の人間の物理的存在を否定することは絶対にできません。独立した個人といった概念の根拠はまさにここにあるのです。
さらに言えることは、この独立した物理的存在である人間は、生きているということです。湧き上がってくる生の奔流なのです。これが人間の主体性というものです。人間は物理的存在であり、かつ、主体的存在なのです。
ところで、この主体性といったものを他者に向けて表現することは困難です。表現した途端に主体ではなく客体になってしまうからです。そこで私は誰もが感じる「拡がり」を考察の原点として主体性を表現しました。自分が目を開けるとまずは拡がりがあり、対象が飛び込んできて拡がりが意識され、意志を持った自分も意識される、この主体的な自分を「拡がる自我」と呼んだわけです。
拡がりは常に起点が求められます。これこそかけがえのない自分自身、自我と表現されるべきものです。もちろん自我の形成には、拡がりの対象としての他者が関係します。他者と出会うからこそ自我が形成されるのです。しかしながら拡がりの起点自体は明らかに他者から独立しています。ここに独立した個人という概念が成立するもう一つの根拠があると私は思うのです。
人間が物理的存在であること、そして人間として自分は生の発現すなわち拡がりであること、この否定できない二つの確信から、人間はまず独立した個人、言い換えれば、個々の拡がる自我としてとらえることができるのです。
3.個人を否定する考えの淵源
今申し上げた通り、人間は個々の独立した物理的存在であり主体的存在であることは明らかだと私は思うのです。それでは、この独立した個人といった発想を否定しようとする考えはどこから生まれてくるのでしょうか。
ここでよく聞くのが、例えば、このような個人主義的世界観は西欧近代の個人主義が成立して初めて認められたのだといった主張です。それより昔は個人という概念自体無かったというような極端なことを言う人もいるようです。
しかしこれは明らかに浅はかな思想でしょう。中世古代は個人という発想は本当に無かったのでしょうか。西欧以外の世界では個人といった発想は無いのでしょうか。古典文献を読めば一目瞭然、この発想は明らかに誤りだということが分かります。
例えば、古代インド思想にはアートマンという概念がありました。アートマンは個人の本体を表す術語です。これに対する概念がブラフマンであり宇宙の根本原理、絶対者を表す言葉です(インド思想史22頁)。
また、中国思想を振り返ってみても、たとえば孟子の性善説などは、人には先天的に仁義礼智の四徳が備わっていると説くもので、個人といった概念を当然に前提としていると考えられるのです(武内中国思想史62頁)。
このように古代から個人といった概念は存在しているのは間違いありません。では、なぜ歴史貫通的な個人なる概念を否定するような主張、個人は近代特有の思想だといったような主張がなされてしまうのでしょうか。
それは、自分の主張する理論を相手に認めてもらうための論拠として、過去の人間を利用しようとするからです。それは論拠としての仮説と言い換えてもよいでしょう。論拠は他者に注目されなければなりません。そこで誰もが当然と思っていることとは反対の仮説を打ち立てて、それを前提に理論構築しようとするわけです。
人間が物理的存在である以上、個人の概念は否定できません。それを個人主義と呼んで批判の対象とするのは、他者の注目を浴びるための極めて有効な手段となるのです。
実は、個人主義という言葉は、今まで申し上げてきた個人という言葉とは異なり、様々な意味を含んでいるのです。利己主義とか、商品経済の担い手とか、国家権力に対抗する人権の享有とか、様々な意味を含んでいるわけです。個人とこれらの概念が結合すると、それら様々な意味に関心を持つ人々はどうしても注目せざるを得ないことになるわけです。
4.団体の規範・理念の形成
それでは、独立した個人の集合である団体は、どのように個人を超越した団体意思を獲得するに至るのか、次にこのことを考えてみましょう。
個々の物理的存在である主体的な人間、拡がる自我は、拡がりの対象に着目し、生きているということを実感・確認しようとします。これを私は拡がる自我の「拡がりの確証」と呼びました。
外界との物質代謝はもちろん外界の物への拡がりの確証となります。より重要なのは、個々の拡がる自我は、外界で出会う他者と投げかけた言葉の意味を共有することにより、他者に対しても自分が主体的に生きていることを実感・確認するということなのです。これが他者への拡がりの確証です。
さて、独立した個人を出発点として人間を考えて行くわけですが、当然のことながら人間は一人で生きているわけではありません。生まれてから様々な団体に所属します。例えば、まず冒頭で申し上げた血縁関係に基づく団体、例えば家族に所属し、さらには生産活動を行う団体、例えば営利企業に所属し、その他諸々の団体に所属して生きているわけです。
これらの団体はある目的を達成するための社会であり、社会の類型上、目的社会と分類できます。これに対し、一定の地域を基盤とし、様々な目的社会を包摂する社会が全体社会という類型です。
実は、個々の拡がる自我がこれらの団体、すなわち目的社会に所属するのは、他者への拡がりの確証のためだと私は主張したいのです。他者への拡がりの確証は、他者に言葉と論理を投げかけて他者とその意味を共有することにより実現します。個々の拡がる自我は、所属した団体の規範、理念、こういったものを他者への拡がりの確証のための論拠として用いるわけです。
では、団体の規範、理念はどのように形成されるのでしょうか。ここには大きく分けて二つの要素があると思います。
一つはこれら目的社会の目的を実現するための理念です。
団体は何らかの目的を実現するために個々の人間が集合して成立する目的社会です。その目的を実現するために皆が協力するための理念がそれです。
例えば、営利企業は、売れる商品を生産するための様々な理念が形成されます。世の中の需要に答える使用価値を有する商品を生産するといった理念の下、様々な技術が開発され、様々な工夫がなされるわけです。ここでは生産する商品の使用価値が団体の理念の形成に大きな働きをするわけです。
このことは、血縁関係である家族も同じです。男女が出会って子供を産み育てる、これが家族という目的社会の理念です。この理念はある意味誰もが求めるものであり、誰もが家族を大事にすること必然となるわけです。
もう一つの要素は、組織を維持するための正当性としての理念です。
組織とは二人以上の人々の意識的に調整された活動や諸力の体系です(バーナード「経営者の役割」)。
目的社会の組織が個々の拡がる自我の拡がりの確証の実現のためにある以上、どうしても社会を構成する個々の拡がる自我の間で争いが発生します。なぜなら、拡がりの確証は、他者との言葉の意味の共有であり、自分の投げかけた言葉の意味を他者と共有することへの期待から成るわけで、その期待に反する場合はどうしても意味の共有の強制といった事態が生じ、争いが生じてしまうからです。こうなると、社会の秩序が乱れ、場合によっては社会が崩壊してしまうでしょう。争いを解決するための正当性がここでは求められてくるわけです。
また、目的社会である団体がその目的の達成を目指す際、団体は組織化され、上下の指揮命令系統が必然的に発生します。この場合下位の人間が反感を持つと上下関係が支配関係に転化してしまいます。支配関係は潜在的に争いが存在している状態なのです。そこで組織の上下関係を正当化する理念が強く求められてくるのです。
正当性として考えられるのが、例えば、営利企業における所有権です。所有権を有する者が上位の地位にあるから下位の者は納得するわけです。そして、以前論じたとおり(所有権の本質)、この所有権という制度を支える理念は、労働の成果としての所有と身分に基づく所有の二つの理念に分類されると私は考えています。
以上申し上げた目的社会を維持する正当性、これを私は目的社会の「全体の価値」と呼びました(「価値とは何か」)。全体の価値があるからこそ、目的社会の構成員は社会・組織から離脱することなく、社会に所属し続けるのです。
5.団体の共同意思を維持する理念
以上のとおり二つの要素から成立した団体の規範・理念は、次第に確固たる団体の理念、誰もが認め尊重する団体の共同意思が成立することになります。その過程を分析してみたいと思います。
制度を維持する個々の人間の理念は、個々の人の生きるための理念であると言えます。生きるための理念とは、常に他者への拡がりの確証のための論拠となる論理を意味します。
ところが、先程申し上げたとおり、拡がりの確証のための論理は常に争いを発生させてしまうのです。そこでこの争いを収拾する理念が強く求められてきます。
この理念は、まず、誰もが納得する論理を基にして形成されます。では誰もが納得する論理とは何でしょうか。
その代表的な例が、冒頭で申し上げた血縁だと考えられるわけです。血のつながりは否定できません。ここに、親と子の関係、兄弟の関係、さらには親族の関係といったものが成立するのです。そして、子は親を敬い、兄弟は長幼の序列があるといった理念が生じるわけです。
もちろんこれは絶対的な理念ではありません。しかしながら、現在の日本でも多くの地域で重要視される理念として存在していることは明らかでしょう。もちろん、逆に、全ての人間は平等だとする理念がこの血縁に対抗する理念として、様々な地域で生じていることも間違いないでしょう。
ここで強調したいのは、これら血縁を重んじる団体主義的発想も、個々の独立した個人の存在が前提となるということなのです。個々の独立した個人、すなわち個々の拡がる自我が、他者への拡がりの確証のための論理の設定において、この血縁といった理念を求めるということなのです。
先程、営利企業の上下関係を維持する正当性は所有権であり、それは労働の成果としての所有と身分に基づく所有の二つの理念に分かれると申し上げました。ここに言う身分は、血縁に基づく親子の関係の類推として考えることが可能なのです。また兄弟の関係の類推も考えられるでしょう。さらには企業のまとまりも、血縁を根拠とした家制度になぞられることもあるでしょう。
制度を維持する個々の人間の理念は、個々の人の生きるための理念であると言えます。生きるための理念とは、他者への拡がりの確証のための論拠となる論理を意味します。そして個々の拡がる自我は他者への拡がりの確証のために集合し団体を結成します。その結果として、団体主義的発想、団体の共同意思といったものが形成されるのです。
6.独立した個人と人間存在の全体性
以上申し上げてきたとおり、団体の共同意思は団体を構成する個々の独立した個人が形成したものであり、基本はあくまで独立した個人だということです。
もちろん、血縁関係の存在は絶対に否定することはできません。しかしながらそれをどう活用するかは個々の人間であって、予めどのように活用されるかが定まっているわけではありません。世界中には様々な家族制度、血縁制度があり、普遍的な制度といったものはありません。このことは、人類学の研究の成果からも明らかだと私は思うのです。
では、人間存在の全体性といったものはどのように理解すればよいのでしょうか。
人間存在の全体性が意味するのは、まずは目的社会の組織の全体の価値だと私は考えます。それは、個々の拡がる自我の拡がりの確証の論理の出発点となる理念であり、組織に所属する意味を与える価値なのです。全体の価値が存在するからこそ組織の秩序が維持されているのです。
目的社会の秩序の中で個々の拡がる自我は、全体の価値からなる理念を根拠に新たな拡がりの確証の論理を他者に向けて設定するわけです。誰もがこの拡がりの確証のための論拠を求めているからこそ、個々の拡がる自我共有の全体の理念が存在するわけです。
そして次に、個々の拡がる自我が設定する他者へ向けた拡がりの確証の論理の設定において、その投げかけることができる可能性がある範囲が、人間存在の全体性を構成すると考えます。所属する目的社会を越え出た、組織の外部の他者への拡がりの確証の可能性、その可能性に画された範囲、これも人間存在の全体性を構成すると考えるわけです。
これは以前検討した「全体社会」を意味します(「拡がりの確証と組織文化の本質」「価値とは何か」)。様々な目的社会を包摂する一定地域が全体社会で、社会学者のマッキーバーが言うコミュニティがこれに該当するものでした。この全体社会は、個々の拡がる自我の拡がりの確証の論理の設定の可能性がある社会です。全体社会は、それを構成する拡がる自我が、他者への拡がりの確証の論理を投げかけることが可能な範囲なのです。だから様々な地域社会の核があり、それを中心とした一定の範囲が生じてくるのです。
これに対し、目的社会は拡がりの確証の論理を他者に投げかけ、他者と意味を共有するために意図的に作った社会です。明確な目的を持った組織です。目的社会に参加することによって、個々の拡がる自我は他者と意味を共有し、他者への拡がりの確証を実現するのです。
人間社会の全体性はこの二つの社会、目的社会と全体社会から構成されると考えられるのです。そして、その根底には個々の独立した個人が存在しているのです。
文献紹介:和辻哲郎「倫理学」
今回紹介するのは和辻哲郎先生の「倫理学」です。私が持っているのは全集版の上下2冊本です。今回は上巻の人間存在の根本構造、人間存在の空間的時間的構造、人倫的組織の3章について論じたいと思います。
和辻先生は有名な学者で誰もがその名前を聞いたことがあると思います。風土とか、古寺巡礼とか多くの本をお書きになっています。ただちょっと文学的なので私はあまり読んでいないのです。例えば、風土も読んだのですが、今は海外旅行が自由に行ける時代なので自分で行って体験したほうが良いと思ってしまいました。印象に残っているのは、本にエジプトのニル川と書いてあったのが、実際エジプトに行ってみるとナイル川のことをエジプト人はニールと言うんですね。
しかし、この倫理学はとても面白いと思いました。論理的・体系的で、どんどん引きずり込まれました。ただ、先生が主張する理論は私の考えとは全く異なるものだったわけです。
冒頭で申し上げたとおり、和辻先生は近世の個人主義的人間観を批判し、私のように独立した個人を出発点とすることは絶対避けなければならないと考えているようなのです。
先生は、まず倫理学について検討します。倫とはなかまであり、理とはことわりであるとし(13頁)、倫理学は人間存在の学として人間の学であるとします(25頁)。ここに人間とは先生によれば世の中、世間であるとされます(16頁)。そして人間の日常は間柄という言葉によって表され、間柄は個々の人々の間において形成され、個々の成員は間柄において限定される、矛盾的統一関係にあると言います(61頁)。意識は単に志向するものではなく、間柄において自他双方から規制されているというのです(73頁)。
そして先生は、心身のいずれの側からも個人の本質的独立性は消滅してしまい、個人を間柄に先立つ個別者として立てることはできないと言うのです(88頁)。こうなると、私が主張する、個を前提とする拡がりなどといった概念は、全く許されなくなるはずです。
ところが、先生は主体的なひろがりという概念を取り上げているのです(152頁)。
まず先生は人間存在の空間性を検討します。
人間存在の空間性は人の間であり、主体的空間性は人間存在の本質規定であるとします(164頁)。それは公共性の空間的ひろがりであり交通、そして通信報道といった心的関係により連絡せられたものです(165頁)。これは、デカルトの意識する者と広がれる物とを峻別した客体的空間とは異なり、主体的ひろがりであって、根源的空間であり、自他の人間関係の基盤だと言うのです(174頁)。
さらに先生はドイツ観念論を検討して、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルによって空間は常に主体の客体化あるいは外在化の仕方として取り扱われ、空間の主体性が明らかに把握せられたと言います(178頁)。
そしてハイデッガーの世界内存在についても明白に空間性を主体の存在構造としたと言っているのです(183頁)。しかしながら、現存在の空間性は我と道具との交渉関係に帰着するのであり人と人との交通関係ではないと批判します。ハイデッガーの関心は人と人との実践的関係ではなかったというのです(183頁)。
先生は、主体は人間として個人的・社会的な二重性格を持つとし、主体の空間性は人間の主体的な間柄だと言います(185頁)。人間の主体的空間は主体的な張りであり、主体が多化しつつ一となるに従い常にその強弱広狭を変え、それは通信交通といった現象によって表現されるとします(187頁)。
次に先生は人間存在の時間性について論じます(189頁)。
主体的空間性を示した交通通信等の現象を介して、主体的なひろがりは時間的構造であることが分かります(195頁)。
先生によれば、人間存在の根本構造は、何らか共同的なものから分離し出ることにより個別的となり、個別性を否定して何らか共同性を実現することによりその本来性に還り行くという不断の運動であるわけですが、それは既存の間柄から可能的な間柄への不断の動きとして規定されます(195頁)。
ここに既存の間柄とは自他不二の絶対的全体性であり、可能的間柄もその自他不二の絶対的全体性であるとされます(195頁)。これは本来から出て本来へ帰るということであり、ここに人間存在の根源的統一があるわけで(197頁)、それが時間性であるというのです(199頁)。
先生の主体的ひろがりは、私の拡がりととても似ているように最初は思えます。しかしここまでくると全く異なることが分かってくるのです。
自他不二の絶対的全体性というのは何を意味しているのでしょうか、先生の言う本来性とは何なのでしょうか。
この点については、この本で詳細に検討されているハイデッガーの存在と時間の分析を見ると理解できるような気がします。この本はハイデッガーの「存在と時間」に大きな影響を受けたことが、実際読んでみると非常によくわかるのですが、先生はハイデッガーを厳しく批判しているのです。
ハイデッガーの死へ臨む存在を取り上げ、それは個人存在の全有可能性を重視するものですが、その人間存在は人間存在の空間性を無視するものであり、人間存在の全有可能性は絶対的全体性として自他不二性において認められるとするわけです(236頁)。要するに主体的空間性を無視して、ただ時間性のみとらえようとしたものだと言うのです(240頁)。個人のみ検討し社会全体を見ていないということです。
私は前回の講座でハイデッガーの存在と時間の後半を取り上げ、現存在の不安は、他者への拡がりの確証の困難性にあると考えました。それは、非本来的な世間の論理を基に新たな拡がりの確証を求めることを意味するものでした。人間の湧き上がってくる生に基づくものであり、生そのものが拡がりであり、他者への拡がりの確証を求めざるを得ない主体的なものだったわけです。
このことは全体性の否定でしょうか。私にはそうは思われないのです。全体性を求めているのです。全体性を根拠に新たな生を生きる、新たな生の発現だと思うのです。生きるとはこういうことではないでしょうか。まさに先生の言う主体的空間性をハイデッガーも考えているのではないかと思ったのです。
結局のところ、私には個人と社会全体のどちらを出発点とするかの違いにしか見えないのです。この点、私は個々の人間、ハイデッガーの言う現存在を出発点とすべきだと思うのです。なぜなら、生きている人間であれば、最初はやはり個々の人間の意識、たとえそれが他者に影響されて成立したにせよ、変化するときは個々の人間の意識として考えるべきだと思ったからです。
さて、先生は、ヘーゲルやカント、シェーラーなどの検討を経て、人間の真実、人間存在の真相を次のように明らかにします。
人間存在は、あくまで個人的・社会的なる二重性において、すなわち空間的・時間的に無数の自他へ分裂することを通じて本来の全体性に還帰するところの否定の運動において見出されるとします。人は主体的なる空間・時間において否定的に個人となり、否定的に人倫的合一を実現すると言うのです。ここに人間の真理があるのであって、それは「まこと」とであるというのです(286頁)。
このように全体を出発点とし全体に帰来するのであれば、先生の言うとおり、まことが真理となると思います。信頼関係のないところにはまことは無く、全体というまとまりは信頼関係なくしてはあり得ないと考えられるからです。
しかしながら個を出発点としても、まことすなわち信頼関係は成立すると私は思うのです。私流に言えば、個々の拡がる自我は他者へ拡がりの確証のための言葉と論理を投げかけ、他者とその意味を共有することにより拡がりを確証します。この場合うそをついたら他者と意味を共有できません。拡がりの確証には信頼関係が不可欠なのです。
以上申し上げたとおり、私は先生の主張に賛成することができません。先生のように全体から出発することは私とは真逆の発想なのです。
しかしながら、この本には学ぶべき様々な先生独自のお考えがちりばめられているのです。例えば今回検討した主体的ひろがりという概念です。
このことは、先生の大きな才能だと思うのです。先生の頭の中では、次から次へと新たな斬新な発想が湧き上がっているのではないでしょうか。こういうことをこの本を読んで強く感じました。
参考文献
和辻哲郎「倫理学」「人間の学としての倫理学」岩波書店
高山岩男「哲学的人間学」玉川大学出版部
岩崎武雄「倫理学」「西洋哲学史」有斐閣
加藤新平「法哲学概論」有斐閣
高崎直道他「インド思想史」東京大学出版会
武内義雄「中国思想史」岩波書店
吉田禎吾他「社会人類学」有斐閣
宇都宮芳明「人間の間と倫理」以文社
M.ハイデッガー(細谷貞雄訳)「存在と時間」理想社
C・I・バーナード(山本安次郎他訳)「新訳経営者の役割」ダイヤモンド社
R.M.マッキーバー(中久郎他訳)「コミュニティ」ミネルヴァ書房
(2022年8月公表)