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弁証法とは何か ~「矛盾」の魅力~
和田徹也
目次
1.問題提起 2.矛盾の意味 3.弁証法と矛盾~認識の弁証法~
4.マルクス主義の唯物論的弁証法 5.ヘーゲルの弁証法
6.西田幾多郎の個と全体の弁証法 7.経営実務上での矛盾と弁証法
8.弁証法と「矛盾」の魅力
参考文献
1.問題提起
私は以前、言葉とは曖昧なものであり、ある言葉に確固たる一つの意味だけが存することはありえない、このように申し上げました。そして、言葉は、その曖昧性のゆえに、人々がある言葉に勝手に群がって好き放題の意味を与える性格があるとも申し上げました(「言葉とは何だろう」)。実は、この曖昧な、人々が群がってくる言葉、その典型の一つが弁証法という言葉ではないかと思うのです。
実際、弁証法という言葉はよく使われます。日常生活でも時々耳にしますが、とにかく、学術用語、特に哲学用語として頻繁に用いられているのです。社会をどのように認識するか、歴史をどのように理解するか、この世界とはどのような構造をしているのか、こういった問題意識に対しての回答として、この言葉は大きな役割を果たしているのです。
ところが、弁証法という言葉は、人によって大きくその意味・内容が異なる気が私にはするのです。認識の方法と考える人もいれば、現実の世の中の進展を意味すると考える人もいます。また、弁証法は、何か深遠な真理を獲得するものであり、弁証法なる方法を獲得すれば、自動的に真理を獲得できるというような実践的手法であるとも言われているのです。
ここで、私が問題ではないかと思うのは、弁証法という曖昧な言葉を単に事実に当てはめることをもって真理を把握したと満足してしまう発想、何事も弁証法という言葉を用いれば理解できてしまうといった発想、こういうことなのです。このような学問的態度は真理を把握することを困難にしてしまうのではないか、このような気が私はするのです。
もちろん、弁証法という言葉をどのように使おうが、そもそも言葉は曖昧なもので人それぞれ勝手に意味を付与するものである以上、とやかく言うつもりはありません。弁証法という言葉をあてはめたことをもって真理を把握したと満足するのもその人の勝手です。それは各人の自由なわけです。ただ、少なくとも、私は弁証法という言葉は滅多に用いません。それにより真理を獲得したとは自分には思えないからです。
しかしながら、この弁証法という言葉の意味をはっきりさせることは、哲学にとって有益であることは間違いないとも思うのです。特に、哲学と言えば弁証法、こういったイメージが弁証法という言葉にはあるので、この言葉を検討することはとても大きな意味があるような気がしたのです。
そこで今回は、私なりに、弁証法とは何かといったことを考えてみたいと思います。
2.矛盾の意味
弁証法は矛盾の論理であるとよく言われます。では、そもそも、矛盾とは何でしょうか。
矛盾の定義としてはアリストテレスの定義が有名です。「同じものが同時に、そしてまた同じ事情の下で、同じものに属しかつ属しないということは不可能である」(「形而上学」101頁)、アリストテレスはこのように言いました。
矛盾を許容しない矛盾律は、やはり論理の大原則だと私は思います。なぜなら、矛盾している言動は、そのことを理解することが不可能だからです。人に言葉を発するということは、投げかける相手にその意味を理解してもらうことを目的とするものです。矛盾している場合は、理解することが不可能であり、言葉を発することが無意味となるわけですから、誰もが矛盾を避けること必然だからです(「論理とは何か」)。
言葉を発した場合、その内容が矛盾律に反した場合は、その言明は誤り、すなわち“偽”となります。ある言葉にそれぞれの思いを入れ込み、それを他者と共有しようとしても、矛盾した場合は、他者と意味を共有することにはなりません。矛盾する以上、意味を理解する、あるいは信じることが不可能であるため、他者が納得しないので意味の共有にならないからです。
以上のことを私なりに言い換えれば、主体的な個人を意味する拡がる自我は、他者に言葉と論理を投げかけて他者と言葉の意味を共有することによって、拡がりを確証するのですが、矛盾律に反した場合は、当然のことながら、他者に対する拡がりの確証は満たされません。拡がりの確証が他者と意味を共有するものである以上、自分が意図する意味の共有に失敗した場合は、拡がりの確証が得られないことになるのです。
3.弁証法と矛盾 ~認識の弁証法~
では、弁証法はこの矛盾をどのように扱うのでしょうか。
まず考えられるのは、今申し上げたとおり、矛盾が理解できない言動を意味するのであれば、理解するという思考の過程で、すなわち認識の上で矛盾が扱われるということになるのではないかと思うのです。物の認識の中で、ある命題とある命題が両立不可能な場合、それを矛盾と呼び、その矛盾を解決していく営み、これが弁証法だということです。
これは、「認識の弁証法」と呼ぶことができると思います(岩崎武雄「弁証法」)。この意味の弁証法は人間の営みにとって極めて重要な働きをするのではないかと思うのです。どういうことかというと、人間の知識、認識を発展させる機能があるということです。
例えば、自然科学の発展もこれに即して考えることができるのではないでしょうか。ある仮説が事実によって証明され、一つの理論として打ち立てられ、一般的命題となった、ところがその命題に矛盾する事態が生じ、その矛盾を解消するためにまた新たな仮説が打ち立てられ、それが事実によって証明され、さらなる新しい一般的理論が打ち立てられる、この認識の進歩、発展こそ、弁証法的思考であり、認識の弁証法だということです。
また、この認識の弁証法は、もっと身近な関係でも行われていると思います。日常生活において、互いに相手と議論してその矛盾を指摘し、それを是正することによって真理に近づくといったことです。例えば、会社の仕事における会議は、まさに、このように複数の人が意見を出し合い、互いに相手の矛盾を指摘し合い、その矛盾を解消しながら正しい方向を見定めていく、このような機能があることは私たちの経験を思い出してみても明らかだと思うのです。
このように、矛盾を指摘し、それを乗り越え新たな理論を打ち立てる、このような、物事の認識についての営みは、典型的な弁証法だと言えると思うのです。弁証法という文字を漢和辞典で引いてみると、「弁」理屈を分けて述べ、「証」あかしを立てる、こういう意味であり、弁証法を意味するギリシャ語の「ディアレクティケー」も、問答法・問答術という意味だったとされているのです(「現代哲学事典」)。
4.マルクス主義の唯物論的弁証法
ところが、以上申し上げた認識の弁証法に対して、それとは大きく異なる弁証法も存在するのです。その代表がマルクス主義の唯物論的弁証法です。
これは、事物が絶えず生成発展していく時、そこに絶えず矛盾が生じ、この矛盾が解決されていくといった過程をたどっていくのであり、事物をその発展においてとらえるときは、矛盾の論理としての弁証法が必然的に要求されるというものです(岩崎武雄「弁証法」223頁)。
有名な唯物史観の公式、人間は物質的生産諸力の一定の発展段階に対応する生産諸関係を取り結ぶ、この生産諸関係の総体は社会の経済機構を形作っており、それを土台として法律的・政治的上部構造がそびえ立つ、そして、物質的生産諸力はその発展がある段階に達すると既存の生産諸関係・所有関係と矛盾するようになり、巨大な上部構造全体が覆ってしまう、こういうものですが(マルクス「経済学批判」)、これは、存在している社会的事実そのものに矛盾が生じるということだと理解されるのです。
このように事実そのものに矛盾が存在するという発想は、先程の認識の弁証法とは大きく異なること間違いありません。認識の弁証法は、矛盾はあくまでも認識主観での話だったわけです。矛盾していると理解できないからこそその矛盾を解消しようとするのが弁証法だったわけです。
ところが、私には、このように事実そのものの矛盾を認めるのは、理論的にはおかしいような気がするのです。事実は事実であって、そこに主観が関われば矛盾も生じるでしょうが、事実それ自体には矛盾はありえないからです。主観が事実を理解して命題を打ち立て、その複数の命題が矛盾することはいくらでもありますが、事実だけでは理解できるか否かは問題になり得ず、矛盾もあり得ないからです。事実はあくまで事実であって、そこに矛盾を見出すのはあくまで主観的な認識であるわけです。
例えば、古典的な例で考えれば、飛んでいる矢は矛盾しているといったゼノンの説があります。ある瞬間にそこに有りかつ無いからそれこそ矛盾だと言うのです。私から言えば、これは運動というものに対する特殊な主観的な見方ではないかということです。運動は分割してとらえることは本来できないのです。運動を分割するから矛盾が生じるのであって、運動は運動としてとらえればよいのです。まさに主観的な認識が生んだ矛盾です。
もっとも、唯物論の立場とされるマルクス主義では、人間の意識も物質によって規定されると考えているのでしょうから、認識の矛盾も物質の矛盾に還元されると理解することも可能かもしれません。このように考えれば、存在する事実の弁証法といった概念も成立することになるでしょう。
ただ、以前「存在とはなんだろう~存在論の本質~」で申し上げましたが、人間の意識の全てが物質から生じるという唯物論は、私は賛成することができません。人間すなわち拡がる自我は、内心の自由が不可欠であり、個々の人間の内心で形成される論理の意味の全てを外界の存在者に委ねることはできないからです。
ところで、その一方で、ある人が事実を認識した際に、ある視点からの事実認識と別の視点からの事実認識との間に矛盾を見出した際、それをもって存在する事実の矛盾とし、それを克服していくことを弁証法と考えることもできるかもしれません。
例えば、先程の唯物史観の公式の経済構造についても、これはあくまで私の勝手な推測ですが、労働者の立場からの認識と資本家の立場からの認識に矛盾が生じることと理解することも可能ではないかと思うのです。現実に経済活動を行う主体相互の間に認識上の矛盾が生じれば争いも避けられません。その両者の認識の差異を弁証法的に解消していくというわけです。このように考えると、事実である経済構造の弁証法的展開といった表現も可能かもしれません。
5.ヘーゲルの弁証法
さて、マルクス主義の弁証法は、観念的なヘーゲルの弁証法を逆転させたものだとよく言われます。観念論から唯物論へ転換したものだというのです。そして、弁証法と言えば、やはりヘーゲルがその代表です。そこで、ヘーゲルの弁証法について考えてみたいと思います。
ヘーゲルの弁証法は、概念の自己展開の運動として理解されることが多いと思います。それは概念が自己自身の運動によって新しい矛盾的概念を自己の内から産出し、さらにそこから相矛盾する二つの概念を総合止揚する第三の概念が生じてくる過程であるとするものです(岩崎武雄「弁証法」284頁)。これを端的に表す言葉としてよく聞くのが“正・反・合”の三段階といったものです。
マルクス主義の弁証法は、このヘーゲルの“概念”を“物質”に置き換えたもの、このように理解することが可能だと私は思うのです。
しかしながら、概念といったものはこのように自己展開していくものなのでしょうか。概念とは、通常、人間の主観に生じるものであり、そうだとすれば、それは先程論じた認識の弁証法のことと言い得るのではないでしょうか。
認識の弁証法であれば、このような自己展開などと言うことはできません。なぜなら、認識の弁証法は、個々の主体である人間の主体的な行為、認識行為の試行錯誤に基づくものであり、客観的存在として自己展開するなど到底あり得ないからです。
ヘーゲルはなぜこのような概念の自己展開などという、あたかも概念それ自体が存在しているようなことを考えたのでしょうか。
それは、哲学者のカントが人間の認識には限界があり、「物自体」を認識することはできないと論じたことに対し、ヘーゲルはすべてを包摂する絶対者を認識すること、言い換えれば物自体を認識することは可能であるということを主張するためではないかと思うのです。
以前「認識について」でも申し上げましたが、カントは、認識の対象が私たちの主観から独立にそれ自体において存在しているのではなく、私たちの主観の先天的形式によって構成されたものだと考えました。したがって対象そのもの、「物自体」は不可知になってしまうのです。人間の認識能力は有限なのです。これに対しヘーゲルは、有限者の変化を通じて発展的に自己同一性を保つ絶対者を考えたのです(岩崎武雄「西洋哲学史」)。
したがって、概念の自己展開ということも、あたかも概念といったものが存在しているというような事ではなく、絶対者の認識を目指す主体的な営みであり、ヘーゲルの弁証法も、3で論じた、認識の弁証法に分類されると言えるわけです。そして、先程申し上げた、正・反・合といった三段階も、認識の発展と理解することが可能だと思うのです。
ヘーゲルの弁証法が表明されているとされる「小論理学」では、有、本質、概念の三段階で発展・論述されています。これは、有の領域が感性に、本質の領域が悟性に、概念の段階が理性に対応するものと考えられるのです(岩崎武雄「弁証法」299頁)。
これを私なりに申し上げるならば、感性は外界の否定できない存在、すなわち有であり、悟性は否定できない存在を組み立てる形、すなわち本質であり、理性は内心の自由を形にあてはめるもの、すなわち概念である、このように理解することができると思うのです。
6.西田幾多郎の個と全体の弁証法
西田哲学は、主著である「善の研究」後の論文以降、弁証法といった概念が多く用いられています。例えば、個々の人間は一般者の限定であり、一般者は個々の人間が限定するものだとされ、この両者は弁証法的関係にある、このように論じられているのです。そこで、西田哲学における弁証法について、検討してみたいと思います。
この頃の西田哲学は極めて抽象的な内容で理解するのが極めて困難なのですが、私なりに理解すると、次のようなことを言っているのではないかと思います。
人間は自己の行為を自己の決断で行う自由な存在ですが、それは、一般者が個物を限定すると同時に個物が一般者を限定するという在り方をしていると考えられます。この時、一般者が自分自身を限定するのは個物が個物自身を限定するといったことでもあり、全てあるものは一般が個物を限定し個物が一般を限定するという仕方においてあるのです(「哲学の根本問題」13頁)。
この、一般が個物を限定し個物が一般を限定するというのは、逆限定の意味もあり、一般者の一般者という意味を持っていなければならず、それは結局、無の一般者の限定という意味となり、絶対否定を媒介として自己自身を限定するものでなければなりません(同書17頁)。そして、この限定の底には、合理的な人格的自己の自己限定といったものがあるとされるのです(同書19頁)。
以前「存在とは何だろう」で論じた通り、西田幾多郎は初期の著作「善の研究」で、統一的な絶対者といったものを基本にして、哲学体系を築いているものと考えられたわけです。その絶対者が、絶対無の自己限定という形で個物を表現している、このようになったのではないでしょうか。これが、個と全体すなわち絶対者との弁証法的な表現ではないかと考えられるのです。個と絶対者の関係を弁証法により表現しているわけです。
ここで、私の理論である、拡がる自我の拡がりの確証に則して考えてみたいと思います。主体性を意味する「拡がり」は、外界の何らかの対象と出会うことによって拡がりが意識され、対象である身体を通じて拡がる自我となります。この、拡がる自我は、常に、外界の対象一般に、拡がりの確証を求めようとしているわけです。
このことは、西田哲学に言わせれば、まさに、矛盾の自己同一といったことなのではないかと思うのです。個物的限定の方向に全てを統一する唯一の個物というものを考えることもできず、一般的限定の方向に全てを包む一般者というものを考えることもできない、このような矛盾の統一ということではないか(「哲学論文集Ⅰ」11頁)、そしてそれが弁証法である、このように理解されるのです。
ただ、私はここでは、矛盾という言葉を使う気にはなれないのです。個の拡がる自我と外界一般について、より深く考えを進めているのは両者とも同じですが、個物と一般が矛盾しているとは私には思えないからです。個と一般すなわち全体は矛盾するのではなく、単に、生としての個が全体に向かって拡がっていく、このように考えたいのです。
矛盾を強調する西田哲学は、敢えて言うならば、矛盾は、生としての思考行為の端緒、思考の力の源、こういった意味を持っているのではないかと思います。
7.経営実務上での矛盾と弁証法
ところで、以前、私は、企業の経営上の問題は矛盾と表現できると申し上げました(「分割の論理と創造の論理」)。
企業という組織は目標がなければ成立しません。そして組織内のそれぞれの立場にはそれに応じた目標が存在します。それぞれの目標とそれに対応する現状に差がある場合は解決しなければなりません。これが経営上の問題です。
この場合、目標と現状の差は矛盾であると言ってもよいと思うのです。もちろん、矛盾という言葉は、上述のとおり、本来は論理の原則です。ただ、経営目標としてのあるべき状態と現状が異なっている場合は、目標と現状をそれぞれ意味する言語表現が同時に成り立ち得ないということに変わりはなく、矛盾と表現することが可能だと思うのです。
このように矛盾は、純然たる論理だけではなく、現実の事物の状態を認識する場合にも生じてくるものなのです。状態を認識することは、それを論理的に言葉で表現することでもあり、論理の原則である矛盾が適用されるのです。
ところで、私は、経営上の問題解決の場面では、弁証法という言葉を使わなくてもよい、さらには、使うべきではない、このように思うのです。なぜなら、弁証法という言葉は、第三者の立場からの表現といった要素が強いからです。どういうことかと言うと、弁証法は認識の弁証法としての性格が強いわけですが、認識はどうしても第三者の立場から客観的に観るといった要素を拒否できないということです。なぜなら認識は普遍性を常に求めざるを得ないからです。
経営上の実務での問題解決は、第三者的立場からのものではありません。主体的な実務上の真剣勝負なのです。第三者的立場の認識はあくまでその問題解決のための材料、知識に過ぎないわけです。
先程3で、認識の弁証法の身近な例として、会社の会議を取り上げました。それは、あくまでも、弁証法の論理の進め方の例として挙げただけなのです。問題解決の前提となる材料、すなわち正しい知識を獲得するには議論という弁証法的なやり方が有効であることは間違いありません。ただそれをもって、経営実務の問題解決自体を指して弁証法と呼ぶのは、存在する事実の進展を弁証法と呼ぶのと同様、避けるべきだと私は考えるわけです。
8.弁証法と「矛盾」の魅力
さて、以上、弁証法と矛盾について論じてきました。弁証法は原則、認識のものであり、存在する事物それ自体に矛盾を認め、その展開をもって弁証法とすることは基本的におかしいのではないかと申し上げてきました。事実と主観が結びついて初めて矛盾が生じるわけですから、厳密にいえば、事実それ自体を矛盾と表現するのはおかしい、こう思ったわけです。
この考えに対しては、そもそも主観を離れた事実はありえない、したがって、存在する事実の弁証法も認めるべきだ、このような反論が来ると思います。
もちろんその反論は正しい側面があります。私も主観を離れた事実はありえない、こう思います。問題は弁証法という言葉にあるのです。
弁証法という曖昧な言葉を単に事実に当てはめることをもって真理を把握したと満足してしまう発想、何事も弁証法という言葉を用いれば理解できてしまうといった発想、このような学問的態度は真理を把握することを困難にしてしまうわけです。弁証法という言葉は、どうしても、何でも解決できるといった神秘的な性格を持ってしまう傾向が強いのです。
では、弁証法を、このように、神秘的にしてしまう理由、原因はどこにあるのでしょうか。
私は、その答えが、まさに、「矛盾」の魅力だと思うわけです。
矛盾を解決することは、個々の主体的な人間、すなわち拡がる自我にとって、極めて魅力的であることは間違いありません。なぜなら、他者と言葉の意味を共有しようとするのが拡がる自我であり、意味の共有はその言葉の意味を理解すること無しには成し遂げられないからです。
矛盾は理解不能な事態であり、意味の共有を不可能にするものです。したがって、その解決は、それぞれの拡がる自我にとって、必要不可欠なものとなるわけです。他者へ向けた自分の論理に矛盾がないようにするのは当然のこと、他者や組織の論理に矛盾を見出し、その矛盾を解消することを個々の拡がる自我は熱心に求めることとなるわけです。
このことは、拡がる自我が他者に投げかける論理に非常に大きな影響を与えることになります。矛盾の解決がどの拡がる自我にとっても魅力がある以上、矛盾を解決する論理が他者に対する拡がりの確証のための極めて有効な手段になる、矛盾の解決は他者への拡がりの確証のための最も有効な論理の設定となる、こういうことです。その結果、拡がる自我は、他者への拡がりの確証のために、矛盾を探し求めるようになるのです。
外界の対象の確固たる存在を論拠に拡がりの確証の論理を打ち立てるのが拡がる自我でした。その際は、外界の対象に内心の自由に基づく自分独自の意味を与えることになります。したがって、矛盾するような意味を与えることも自由にできてしまうことになってくるわけです。
矛盾は誰もが拡がりの確証のための論拠とするわけですから、敢えて矛盾した意味を外界の対象に見出し、それを出発点として他者の注目を浴び、拡がりの確証の論理を投げかけようとするのが個々の拡がる自我なのです。誰もが矛盾を求める以上、現実社会に対しある視点からある部分を切り取り、その上でまた別の視点から現実社会の別の部分を切り取り、その二つを勝手に矛盾と認定して他者の注目を得ようとするわけです。この場合、誤った事実認識が生じる事態となってしまう可能性は否定できないのです。
実は、「弁証法」という言葉は、この真理を見失った事態を覆い隠してしまう、こういう危険がある、このように私は思うのです。正確な事実分析が無く、不十分な認識であるにもかかわらず、弁証法という言葉を使うことにより間違った方向を提案してしまう、このような危険を私は感じてしまうのです。
矛盾は、誰もが他者への拡がりの確証のために求めるものであり、矛盾の魅力は決して否定できません。したがって、私達には、正しい認識に基づく正しい矛盾の解決が常に求められているのです。弁証法はそのための手段として役立つ思考法であるべきなのです。
参考文献
岩崎武雄「弁証法(著作集1巻)」「カントとドイツ観念論(著作集2巻)」新地書房
岩崎武雄「西洋哲学史」有斐閣
西田幾多郎「哲学の根本問題」「哲学論文集第一・第二」岩波書店
西田幾多郎「善の研究」岩波書店
長尾訓孝「西田哲学の解釈」理想社
大澤正人「西田幾多郎」現代書館
近藤洋逸・好並英司「論理学概論」岩波書店
城塚登「弁証法(岩波講座哲学Ⅹ論理)」岩波書店
三浦つとむ「弁証法とはどういう科学か」講談社
山崎正一他「現代哲学事典」講談社
伊丹隆之・加護野忠男「ゼミナール経営学入門(第3版)」日本経済新聞出版社
アリストテレス(出隆訳)「形而上学」岩波書店
G.H.F.ヘーゲル(金子武蔵訳)「精神の現象学」岩波書店
G.H.F.ヘーゲル(松村一人訳)「小論理学」岩波書店
I.カント(宇都宮芳明他訳)「純粋理性批判」以文社
K.マルクス(武田隆夫他訳)「経済学批判」岩波書店
ルカーチ(城塚登他訳)「歴史と階級意識」白水社
A.コジューヴ(上妻精他訳)「ヘーゲル読解入門」国文社
(2022年1月公表)