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私が生きる「世界」 ~世界とは何だろう~

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私が生きる「世界」 ~世界とは何だろう~

和田徹也

目次

1.問題提起   2.「世界」の二つの意味  

3.拡がりの対象としての世界と拡がりそれ自体としての世界  

4.背景となる対象の世界性と「世間」   5.私が生きる「世界」

文献紹介:ハイデッガー「存在と時間」の世界=内=存在

参考文献

 

1.問題提起

「あなたはどこにいるの?」このように聞かれた場合、皆さんはどのように答えるでしょうか。

「この世界に私はいるのだ」と答える人が多いのではないかと思います。私は世界で生きている、人間は皆世界の中で生きている、このように考えるのはごく自然なことだと思います。

言うまでもなく、私達は世界の中で様々な物に出会っています。そして、世界の中で出会った様々な物を、住居とし、あるいは、食物とし、道具として、様々に利用しながら私達は生きています。

また、私達は世界の中で様々な人に出会います。愛情の対象である家族、親しい友人、同じ職場で働く人、仕事の取引の相手、学校で一緒に学ぶ仲間、等々、この世界の中で様々な人に出会い、様々な関係を結んでいます。

このように、世界とは自分が生活する場、生きる場を表現する言葉であり、人間の活動全ての出発点でもあり、全てを包摂するものでもあるのです。世界は、自分の外界の全てを意味するのであり、自分自身もこの世界の中に存在しているのです。

ところが、その一方で、世界という言葉は、自分の内心を意味する場合もあります。誰もが自分の世界を持っています。心の中の世界、こういった使い方も「世界」という言葉にはあるのです。個々の人間はそれぞれ自分の世界に生きているとも言えるのです。

このように考えると、世界という言葉は意外と複雑な意味を持つ言葉であることが分かります。外界の全てを表すこともあれば、心の奥を表すこともあるのです。

それでは、この世界とはどのようなものなのでしょうか。「世界とは何か」と聞かれた場合、どのように答えればよいのでしょうか。

今回は、世界とは何か、世界の本質といったことを考えて行きたいと思います。

 

2.「世界」の二つの意味

さて、「世界」を表現する場合には、二つのやり方があると私は思うのです。一つは、例えば、世界とは事物の総体であると表現するような、客観的な手法です。もう一つは、世界とは私の意識の対象であると言うような、主観的な手法のことです。

このことは、世界という言葉には二つの意味があることを推測させるのではないでしょうか。一つは、外界に存在する事物を根拠とする客観的意味であり、もう一つは、内心の自由に基づく主観的意味です。

このように考えて行くと、世界という言葉は、主観的な意味と客観的な意味の二つを併せ持った概念だということになるのです。意味とは言葉に対する主体の把握の仕方のことです。世界という言葉は、包括的な意味を有する言葉ですが、そこでは主観性と客観性が渾然一体となっているのです。ここに世界という言葉を理解することの困難があるのだと私は思います。

そこで、この両義性を持つ世界という言葉を、さらに詳しく検討することによって、世界とは何かを追究してみましょう。

 

3.拡がりの対象としての世界と拡がりそれ自体としての世界

それでは、主観的側面と客観的側面といった二つを併せ持つ世界の構造を分析してみたいと思います。

さて、主体的な人間、これを私は「拡がる自我」と表現しました。主体それ自体を表現することは論理的に極めて困難です。そこで、主体それ自体を、「拡がり」という言葉を出発点として表現したわけです(「拡がる自我」参照)。

拡がる自我は、まず、外界の対象である物に対して拡がりを確証します。外界の食べ物を食し、道具として利用することはまさに、外界の物に意味を見出したことであり、これが「拡がりの確証」なのです。この場合、拡がりの対象は外界の事物であり、拡がりを意識させ、拡がりを確証させるのです。

そして、拡がる自我は他者への拡がりを確証しようとします。この場合、拡がりの確証は他者と言葉の意味を共有することにより実現します。先程申し上げた通り、意味とは言葉に対する主体の把握の仕方のことです。拡がる自我は、他者に言葉を投げかけ、自分の内心の自由に基づく言葉の意味を他者と共有し、自分自身を相手の中に見出すことにより、他者に対する拡がりを確証するのです。

実は、この際、他者に投げかける拡がりの確証の論理の構造には、二つの側面が認められるのです。

一つは他者に注目されるための論拠としての側面です。すなわち、他者が否定できないもの、他者とその意味を確実に共有できるもの、このような言葉を出発点に他者と意味を共有しようとするのです。その代表が「存在」という言葉です。存在を出発点として、さらに具体的な意味を他者と共有するのです。

もう一つは、内心の自由により作り上げた自分独自の意味という側面です。誰からも制限されない無制約的な自由に基づく意味です。この自分独自の意味を他者に見出そうとするのです。その意味を他者と共有することが他者に対する拡がりの確証となるのです。

他者に投げかける言葉と論理には、常に、この二つの側面が見出せると私は考えます。すなわち、外界の客観的な意味と内心の自由に基づく主観的な意味の二つが認められるわけです。

実は、先程申し上げた「世界」という言葉の両義性も、今申しあげた他者に対する拡がりの確証の有する二面性と同じように考えることができるのではないか、このように私は考えているのです。

世界という言葉の客観性は、まさに存在という言葉が意味するものです。世界は存在者が集合したものであり、したがって、世界それ自体も存在しなければならないのです。このことは、私に言わせれば、拡がりの対象としての性格を持つ世界なのです。

一方、世界の主観的側面は、まさに「拡がり」それ自体なのです。無限の可能性のことなのです。自由そのものなのです。世界は無限の拡がりを意味しているのです。

この主観的側面としての世界は、様々な世界が考えられます。個々の拡がる自我が打ち立てる拡がりの確証の論理が意味する内容によって、無数の世界が出現してくるのです。例えば、物理学者の世界、宗教家の世界、もちろん私達の日常の世界もその内の一つです。

個々の拡がる自我は、内心の対象と外界の対象を結び付けることによって、拡がりを確証しています。世界の客観的側面と、世界の主観的側面、この二つが融合した世界の中で、個々の拡がる自我は生きているのです。

 

4.背景となる対象の世界性と「世間」

世界はこのように、外界の客観的な側面と内心の自由に基づく主観的な側面があります。私達はこの世界で生きているわけです。

では、この二つの側面がある世界の中で、私達はどのように生きているのかをさらに詳しく見ていきましょう。

世界は事物の総体でもありました。これは、先程申し上げた通り、私に言わせれば、拡がりの対象です。拡がりの対象となる事物は、拡がりを意識させ、拡がりを確証させるものです。拡がりの確証は、拡がりの対象に意味を見出すことにより実現します。

では、この事物の総体としての世界で、拡がる自我はどのように拡がりを確証させるのでしょうか。

拡がる自我が注目する対象は、まずは、これも先程申し上げたとおり、生きるための手段、道具として役立つ物でしょう。対象たる物を食し、道具として利用する、これにより拡がる自我は拡がりを確証します。食料、道具という意味を対象である物に見出したわけです。これは物に対する拡がりの確証と表現できます。物を取り入れ、利用して人間は生きているのです。

この場合、手段・道具として注目した物の背景にある物の存在も否定することはできません。背景の物は無限に、無数に存在しているでしょう。そして、それらは次から次へと新たな拡がりの確証のための対象になっていく可能性があるのです。

実は、この背景が「世界」を形作っていると言えるのです。背景を形成する物は拡がりの対象となり得ます。ただし、それは無限に存在するものなのです。注目した物との対比としての性格が強いのです。背景となる無数の物は世界性を形成することになるのです。

さらに、私達は他者に対しても拡がりの確証を求めています。先程申し上げた通り、この世界で私達は様々な人と出会い、様々な関係を結んでいるのです。

この、他者に対する拡がりの確証についても、物と同様なことが言い得ます。親しい人の背後にいる人々の存在、これから出会うかもしれない無数の他者の存在、これが「世間」と呼ばれるものではないでしょうか。世間は新たな拡がりの対象となる無数の他者を意味するのです。拡がりの確証を求める潜在的な対象であるがゆえに、世間は誰もが気になるものなのです。

実は、この世間は、世界という言葉で表現することもできるのです。世間という言葉は世界性を有しているのです。これは個々具体の手段道具としての物の背景が世界を形作るのと同じことなのです。

 

5.私が生きる「世界」

このように、拡がりの対象は、現に拡がりを確証する対象そのものと、その背後のものとが連続的に認められ、さらに言うならば、目立っているものとそうでないもの、注目したものとそうでないその背景をなしているもの、こういったものが連続的にあるわけです。そしてその背後、背景にあるものは、無限にあるわけであり、新たな拡がりの確証を得る対象としての可能性がその本質なのです。

ところで、他者に対する拡がりの確証は、内心の自由にその根拠を置きます。内心の自由は、無制約性をその本質とします。それは、意志意欲といった言葉で表現されるもので、内心の対象を形作るものです。その内心の対象は、先程申し上げた通り、外界の対象と結びつくことにより、他者に対する拡がりを確証するのが基本です。

この場合、3で申し上げたとおり、この自分独自の意味を他者に見出そうとするのです。その意味を他者と共有することが他者に対する拡がりの確証となるのです。

実は、先程2で申し上げた、主観的な意味と客観的な意味の二つを併せもつ、世界の二面性の根源はここに認められるのです。

まず、外界の拡がりの確証の対象があり、その背後の対象の無限性、そこに拡がりの確証の論理の無限の可能性が認められるのです。外界の拡がりの対象は無限にあるのであって、その対象全体が世界を形作っているのです。言うまでもなく、この対象は客観的なものでなければなりません。これが「世界」の第一の意味です。

そして、内心の自由に基づく無制約性が、他者への拡がりの確証の必要によって生まれます。言うまでもなく、個々の人間の内心は主観的なものです。この内心の自由の無制約性が、外界の拡がりの対象の背後の無限性と結びつくことにより、世界という言葉を形作っているのです。これが第二の「世界」の意味なのです。人それぞれの世界といったものはここに成立するわけです。

外界の対象の全てを包摂する客観性、そして、内心の自由の無制約性に基づいた主観性、この二つの意味を併せ持ったものが「世界」です。私が生きるのはこの「世界」なのです。

 

文献紹介:ハイデッガー「存在と時間」の世界=内=存在

今回は、拡がりの確証を取り上げたこの講座第3回でも紹介したハイデッガーの「存在と時間」を再び取り上げたいと思います。哲学好きにとってこの本は宝の山なのですが、以前紹介した際は、不安という概念から関心という概念が生じることを論じたくらいで、内容についてはあまり触れませんでした。

今回は「世界」が主題なので、この本の第1篇(前半部分)を構成する世界=内=存在といったものについて、私なりに理解した内容をできるだけ分かりやすくお話ししたいと思います。もちろん、今回、世界について先程までお話ししてきたことは、この本に大きく影響されて理論構築したものであることは言うまでもありません。

ハイデッガーが「存在と時間」でまず狙うのは、存在とは何かということ、存在者ではなく存在それ自体の意味を追究することだと思います(20頁)。

そこで、ハイデッガーは、現存在という性格を持つ存在者を出発点として考え始めます(79頁)。

現存在は実存という名称で表現できますが、実存は客体的存在ではなく、自らの存在において関わらされている存在で、まさに、私の存在であり、各自性という性格が伴っているのです(81頁)。現存在は常におのれの可能性を存在していて、本来性と非本来性の二つの存在様態からなっているとされています(82頁)。

この現存在という存在者の本質は、それのかかわりあう存在にあります。かかわりあうとは、世界=内=存在という存在構造で行われ、ある統一的な現象を意味し、それは①世界の内にということ、②世界=内=存在というありさまで存在している存在者、③内=存在そのもの、この三つの契機からなるとハイデッガーは言います( (98頁)。

この内、内=存在とは空間的な意味での一方が他方の中にいるといったことではなく、そこに慣れ親しんでいるといった関係のことを意味し(100頁)、配慮といった様相を示し、関心として露呈してくるものです(104頁)。

次にハイデッガーは、世界を現象学的に記述するとします。世界を現象として扱うというのです。この場合、出会う存在者を描写しても、世界という現象には行き合わないと言います。実は世界一般の世界性こそが目指すものなのです(116頁)。

では世界性とは何でしょうか。

そこでハイデッガーは、世界という言葉の使用法を、①世界の内部で存在し得る存在者の総体(これは私に言わせれば、先程の拡がりの対象たる客観的な事物の総体です)、②それぞれ多様な存在者を包容する領域の名称(これは私に言わせれば先程の内心の自由に基づく主観的側面を意味します)、③事実的な現存在が現存在としてその内で生活している“ところ”、④世界性一般という存在論的=実存論的概念を表す、この4つに分類し、ハイデッガー自身は③の意味で用いると言います(117頁)。

このハイデッガーの考え方は、私に言わせれば、先程申し上げた上げた通り、世界には主観と客観の二つの側面があり、これをハイデッガーは一つに混じり合ったものとしたのではないか、では、その渾然一体となった世界をどう表現するか、その場合は日常性を出発点とするしかない、こういうことだと思うのです。まずは、平均的な日常性の地平で世界をとらえようとしたと考えられるわけです。

ハイデッガーによれば、従来の存在論は先程申し上げた世界性の現象を飛び越えてしまい、世界の中の対象は、まずは、客体として存在する自然と呼ばれるものとされてきました。ハイデッガーは、自然という認識は存在者の極限の在り方であって、世界の非世界化という性格を持っていると言うのです(118頁)。自然によっては、世界性は理解できないということです。

ところで、日常的現存在の最も身近な世界は、環境世界ですが(119頁)、そこでの配慮の中で出会うのは、道具立て全体の中での道具という存在者です。そして、道具がそれ自身として現れてくるような道具の存在様相をハイデッガーは用具性と呼びます(124頁)。何々するためにあるといった関係に服しているわけです。

用具的存在者は世界の内部で出会いますが、その存在性格は趣向性、そこに趣かされるといったものです(147頁)。何々のためにあるといった用具性は、趣向全体性によって輪郭づけられます。この究極的な「何々のため」という存在それ自身が世界性を構成しているというのです(148頁)。

私流に言わせれば、これは主体性を意味する拡がりの意欲的側面を表すものであり、意欲の究極目的、拡がりの確証の根本基盤といったものであると理解できるわけです。拡がる自我はこの趣向全体性といった根本基盤、言い換えればこの拡がる世界において拡がりの対象を求め、出会うわけです。

さらには、空間性といったものも世界の世界性に基づくとハイデッガーは言います(175頁)。現存在自身から用具的存在者の隔たりをハイデッガーは開離と呼びますが、これは布置するということでもあり、現存在の空間性でもあるわけです(189頁)。

次に、ハイデッガーは、誰が現存在なのかといった問いを投げかけます。

誰かとは、行動や体験の交替を通じて同一のものとして持続しつつ、これら多様な行動や体験に関係するもの、すなわち基体であり、自己という性格を備えたものであるとされます(195頁)。

今までの分析は、世界の中の道具とか自然とかの現存在的でない存在者に限定してきたわけです(201頁)。しかし環境世界の中の道具連関の中で出会うほかの人々は用具性とは異なります。それは私以外の残りの人々といったものではないとハイデッガーは言います。自分と区別された人々なのではなく実存論的に考えるべきであり、その中に自分も加わっている人々、共同の世界=内=存在、すなわち共同現存在だと言うのです(202頁)。

この点、ハイデッガーの共同現存在は、私が言う拡がる自我、個々独立の人間を出発点とする発想とは大きく異なるように思えるかもしれません。しかしそうではありません。物に対する拡がりの確証と他者に対する拡がりの確証が大きく異なる、他者に対する拡がりの確証は他者との言葉の意味の共有によって実現される、このことは他者が共同現存在だからこそ言えることなのです(206頁)。

そしてハイデッガーは、この場合、ほかの人々は特に誰ということもない中性的なもので、世間(das Man)と呼ぶべきと言います(215頁)。そして、日常的現存在の自己は、世間的=自己であり、自ら選び取られた本来的=自己から区別されると言います。私というのは差し当たってこの世間から与えられるものだと言うのです(219頁)。

現存在はおのれの現(そこ)をはじめから帯同していて、現存在はおのれの開示態を存在するとハイデッガーは言います(224頁)。そこで、この実存論的な存在の構成を析出することが次の課題となります(225頁)。

ごくありふれた、気分・気持ちといったものをハイデッガーは心境と呼び(227頁)、ともかくあるし、ないわけにいかないという事実を被投性と名付けます(229頁)。心境は現存在をその被投性において開示し、それは回避して気にかけないありさまで起きますが、ふさぎといった気分(231頁)、怖れといった様態で示されます(236頁)。

心境と同じように存在を構成するのが了解です。現存在がその主旨のうちに存在し、それが開示され、その開示態が了解であり、主旨と有意義性との開示態として、世界=内=存在の全容にかかわります(241頁)。現存在は可能的存在であり、被投的な可能性で、このような存在可能を存在することが了解するということです(243頁)。了解は投企と名付ける実存論的構造を備えているのです(245頁)。すでに了解されていることがらについて、了解の中で投企されている様々な可能性を開発するのが解意と名付けられるものです(250頁)。

ハイデッガーは、この後、話、言語の検討を経て(269頁)、世界=内=存在の日常的な現存在の在り方を描写します。世間話、好奇心、曖昧さ、これらが日常的な現存在だというのです。この日常性の存在の根本様相をハイデッガーは現存在の頽落と名付けます(291頁)。頽落は何ら否定的な評価を表明するものではありません。それは、非本来性にあり、世間におけるほかの人々の共同現存在によって全く気を奪われている世界=内=存在なのです(292頁)。

さて、このような日常的な世界=内=存在での現存在は、不安という根本的な心境にあります。世間への頽落は現存在からの逃亡であり、それは怖れによるものですが、何か怖ろしいものがあるわけでなく、ただ不安に基づくのであるとハイデッガーは言います。不安の対象は全く無規定でおびやかすものはどこにもないのであり(309頁)、不安を覚えるのは世界=内=存在そのものなのです(310頁)。

この不安は現存在のうちに、他人事でない自己の存在可能へ向かう存在を、自己自身を選びこれを掌握する自由へ向かって開かれているという自由存在をあらわにします(311頁)。この不安は世界=内=存在の根本様相なのです(312頁)。

私に言わせれば、この不安というものは、拡がる自我が拡がりの確証を求めざるを得ない状況を表している、湧き出る主体性、生の奔流に後押しされている、だから心境としては不安として現れる、こういうことになるわけです。そして、他者への拡がりの確証の困難性が、先程の頽落を帰結している、このように思うわけです。

ハイデッガーは、現存在は、ひとごとでない自己の存在可能へ向かって自己投企的に存在するのであるとします(317頁)。そして、現存在の存在とは、世界の内部で出会う存在者のもとでの存在として、世界の内に既におのれに先立って存在するということであると言います。この存在が関心(Sorge)という名称の意味であり、世界=内=存在は、本質的に関心である、こう言えるのです(319頁)。この、おのれに先立って存在するとは、まさに、自由そのものではないかと私は思います。

では、結局、存在とは何でしょうか。

存在を存在者からは説明できないとハイデッガーは言います(341頁)。現存在が存在している限りで存在が与えられているのであり(348頁)、現存在という存在様式を持つ存在者は実在性や実体性を基にしては理解され得ないのです(349頁)。

そして、古代ギリシャ以来の哲学の探究の目的である真理とは何かについて(350頁)、真であることないし真理性とは発見的であること、このようにハイデッガーは言います(359頁)。発見することは世界=内=存在の一つの存在様相であり、内世界的存在者の被発見体は世界の開示態に基づいています。開示態とは現存在がそれに応じておのれの現を存在することであり、おのれに先立って世界の中に存在するといった関心の構造は、現存在の開示態をそのうちに含んでいるのです(361頁)。

発見するということが真理としての在り方であり、真理が発見的であるからこそ、存在は真理がある限りでのみ与えられ、そして、真理は現存在が存在する限りかつその間だけ存在します。存在と真理性は、同根源的に存在するのです(375頁)。

今まで申し上げたことをまとめるに、生きる人間、この湧き出るような生といったものをいかに表現するか、その答えの一つが、ハイデッガーの言う趣向性であり、不安であり、関心というものだったわけです。この、関心といった実存としての現存在、これを出発点に存在とは何かをハイデッガーはこの「存在と時間」で理論構築したわけです。

このことを私なりに言い換えれば次のようになります。

私は、人間の生、すなわち、ハイデッガーの言う、趣向性、不安、関心、これらを拡がりという言葉でまず表明したわけです。そして、拡がりの確証は、これら趣向性とか不安とか関心とかが表出してきて誰もが求めざるを得ない生の証、誰もが生きる確証を求めざるを得ないということを意味しているのです。

以前「存在とは何だろう」で、拡がる自我の他者に対する拡がりの確証のための論拠としての機能が「存在」の意味だと申し上げました。他者への拡がりの確証は、他者との意味の共有であり、それは真理の追究でもあるのです。

他者への拡がりの確証のために言明する以上、真理が前提されるのは、私に言わせれば当然だということになるのです。なぜなら、他者に注目されなければならないからです。真理は、他者との新たな意味の共有のためにあるのです。そして、存在とは、他者との意味の共有のための論拠、出発点としての意味を持っているのです。

とにかく、拡がる自我の拡がりの確証、この講座でいつも申し上げているこの理論は、この「存在と時間」に大きく影響されて作り上げられたものなのです。

存在と時間の前半、世界=内=存在についての解説は以上です。

ハイデッガーは存在と時間第2編で現存在と時間性について論じていますが、こちらについては後日、同様の解説を試みたいと思います。

 

参考文献

M.ハイデッガー(細谷貞雄訳)「存在と時間」理想社

渡辺二郎「ハイデッガーの実存思想」勁草書房

マルクス・ガブリエル(清水一浩訳)「世界はなぜ存在しないのか」講談社

加藤新平「法哲学概論」有斐閣

和辻哲郎「人間の学としての倫理学」「倫理学」岩波書店

時枝誠記「国語学原論」岩波書店

 

(2021年12月公表)

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